第三十回 清瀬市 ケヤキの旧街道とBCG

 東久留米、東村山、東大和、と"東名義"の市を続けて散策したところで、ちょっと後戻りして清瀬を訪ねよう。位置的には東久留米と東村山の間だが、北方は小さな能登半島のように埼玉県へ入りこんでいる。
 清瀬駅で降りて、まずは南口へ。南西の方へと延びていく、にぎやかな商店通りには〈南口ふれあいど~り〉の看板が出ている。~の表記は、いかにも80年代くらいにネーミングされた郊外の商店街っぽい。フォーク好きの中年夫婦が営むパン屋なんかが多そうなイメージだけど、案外目につくのはヤキトリ屋。それと、整体やマッサージの店。ま、最近の私鉄沿線の町にはだいたい整体系の店が何軒かあるものだが、清瀬の南西部は療養所の密集地だから、なんとなく効きそうな感じがする。
 南口ふれあいど~りから〈清富士通り〉に入る。富士山のマークが刻まれた看板は、先の"ふれあいど~り"より年季が感じられる。古くから富士詣での人々が歩いた道、というが、方角的にみて、前方に富士が眺められたのかもしれない。
 富士山ではなく、前方に竹丘の都営アパートが差し迫ってきた頃、手前に残された畑の向こうに古びた煙突が見えた。当初、団地の焼却炉か......と思ったのだが、〈峰の湯 サウナ〉などと記されたそれは銭湯の煙突に違いない。回りこんでみると、そこだけ取り残されたような狭い筋に、神殿造りの銭湯をはじめ、洋品店に理髪店など、個人商店が10軒ばかり固まっていた。この辺の団地の誕生は1970年前後だろうが、おそらくその時期に発生した商店筋だろう。


DSCN4938.JPG 古くからの店と新しい店が混在する〈南口ふれあいど~り〉。
DSCN4945.JPG 峰の湯。唐破風屋根の入り口がいかにも銭湯という雰囲気をかもしだす。


 道を西進すると、特別支援学校の先に〈日本BCG研究所〉というのが現われた。BCG(ビーシージー)とは、なつかしい。僕の世代は小学校低学年の時代に接種を受けた、結核予防のワクチンのことである。針が何本か収まった、小型のスタンプみたいなのを肩や上腕あたりにカシャッと押される。ものすごく痛いわけでもなかったが、その部分がしばらく赤く腫れてカユくなったりしたので、よく憶えている。20代の頃まで、複数の注射針の跡が、まんじゅうの焼印みたく残っていたはずだ。
 しかし、BCGなんて、もはやこの世から消え去ったと思っていたら、こういう研究施設は継続しているのだ。


DSCN4947.JPG 日本BCG研究所の看板。下の「日本凍結乾燥研究所」というのも気になるが、冷凍食品を作っているわけではなく、ワクチンの乾燥冷凍技術をさまざまな医薬品に活かす会社のようだ。


 松林に取り囲まれたこの一帯は〈結核研究所〉などの施設も備えた複十字病院の敷地。昭和の初め、道の向かい側(現・国立看護大学校)に設立された府立清瀬病院を皮切りに、周辺部は結核療養と研究所の一大地帯となっていったのだ。古い地図には〈清瀬小児病院〉というのも記載されているが、確か小学生の頃、小児ぜんそくを患った友だちがここに入院した......とかの噂を聞いたことがあった。
 東村山市の回で行った多磨全生園のハンセン病資料館の前から続くこの道は、西武池袋線の踏切を渡って、そのまま北口の志木街道に合流する。
 ケヤキ並木が延々と続く志木街道──清瀬の散歩というと、やはりこの道がハイライトだろう。上清戸1丁目の交差点で、駅の方からくる道にもケヤキが植えこまれているけれど、歴史深いのは志木街道の方で、こちらは沿道にも古蔵を備えた農屋敷が並んでいる。11月下旬のこの時期は、ちょうどケヤキも黄褐色に色づいている。
 いまどきこれほど武蔵野らしい街道風景が楽しめる場所も、他にあまりない、と思うけれど、ひと頃までお屋敷の裏方に広がっていた畑や雑木林は随分減った感がある。僕がはじめて車でこのあたりを走った80年代はじめの頃は、もっと遠方まで見渡せる農地があったはずだ。


DSCN4955.JPG 志木街道のケヤキ並木。写真左には蔵も見える。


 それよりずっと以前、昆虫少年だった僕は豊島園(現・としまえん)内の昆虫博物館によく行った。西武線沿線の採集地地図のようなのが掲示されていて、清瀬のあたりが国蝶のオオムラサキの採集地に指定されていたのをよく憶えている。結局、当時訪れることはなかったが、清瀬に来るたびにオオムラサキはどの辺にいたのか......と想像する。
 上清戸を過ぎると中清戸。水天宮と日枝神社が隣り合っているが、日枝神社の柊(ヒイラギ)の老木の傍らに倭建命(ヤマトタケル)にまつわる由緒が解説されていた。なんでもヤマトタケルがこの柊のたもとで休憩しながら、「清々(すがすが)しい土地」と評したのが清土→清戸の発端......なんていう、言ったもん勝ち的なことが書かれているが、この門前の駐在所の脇から練馬方面へ向かう道(途中、多少途切れたりもする)を俗に清戸道と呼ぶようだから、このあたりが清戸の中心地なのだろう。


DSCN4958.JPG 水天宮と日枝神社が隣り合う。こちらは水天宮。子育てのご利益で知られる神社の11月らしく、「祝七五三詣」の旗がはためいていた。


 日枝神社を過ぎて、少し行った右手に「るぽ」という目を引く喫茶店がある。青い三角屋根の洋館、というか教会のような建物。2階席につくと、高い天井の下にシーリングファンが回り、柵越しに1階を見下ろすことができる。この感じ、武蔵境の五日市街道ぞいにある「くすの樹」という店に似ているが、関係はないらしい。
 しかし、各種の豆を揃えた珈琲から、ハンバーグ、焼肉ピラフ、フレンチトースト、アイドルセットなんて人気洋食のセットまで......メニューは充実している。そろそろお昼も近いので、サツマイモを使った「おいものグラタン」(セット)というのを注文した。この辺から所沢や川越にかけては、イモ掘り遠足で知られたサツマイモの産地だったところだから、ふと"地場モノ"を期待したのだが、これは別の土地のイモらしい。


DSCN4966.JPG アルプスあたりの教会を思わせる外観の喫茶店「るぽ」。


 志木街道は長命寺(立派な観音像や鐘が目を引く)の前で新小金井街道と合流する。新道に合わせて道幅も広がって、ファミレス調の物件が増えてきた。下清戸の信号のところで左折、ずんずんと直進していくと、やがて右方の林の向こうにピンク色の団地が見えてくる。市の北端に広がる清瀬旭が丘団地だ。
 80年代当時、この団地に住む知人宅を訪ねたことがある。その頃にして、けっこう年季を感じる団地だったが、敷地の一角に見つけた"定礎"のプレートに〈北多摩郡清瀬町〉と刻まれているから、これは古い。市制の施行が70年、この団地の誕生はその3年前の67年なのだ。外壁のピンク塗装が当初からだとすると、郊外志向のちょっとナウな若夫婦あたりをターゲットにした公団住宅だったのかもしれない。
 団地横の道を下っていくと、やがて柳瀬川に差しかかる。清瀬の"瀬"にあたるのはこの川の流れだろう。清瀬市の領域はこの川の手前までだが、対岸の山の上に重要な歴史史跡がある。橋の名称も"城前橋"と付いているけれど、滝の城という城が存在したのだ。
 埼玉県所沢市の領域だが、ここまで来たら立ち寄ってみたい。橋を渡ると、向こう側は荒れ果てた未開発地帯が広がっている。もとは湿田や沼だったような感じだが、立て看板を見ると、一帯は山上の城山神社の管理地のようだ。


DSCN4981.JPG ピンク色の外観が特徴的な清瀬旭が丘団地。1階だけピンク色が濃いのはどういう意図なのだろうか。
DSCN4987.JPG 柳瀬川を渡って滝の城跡へ。川の向こう側は埼玉県所沢市だ。


 武蔵野線の高架の下をくぐって、湾曲した急坂を上っていくと、滝の城跡の遺構を保存した城山神社の入り口に差しかかった。
 ここに最初に城が置かれたのは源頼朝の鎌倉時代ともいわれているが、戦国時代は北条氏の城として機能した。滝の城──の名は、滝山城(八王子の回で訪ねた)の支城だった時期に由来するらしい。豊臣秀吉の小田原攻めの折に落城、やがて廃れたという。上ってきた柳瀬川寄りの崖際に立つと、清瀬から新座にかけての一帯が見渡せて、なるほど、これはお城を置きたくなる。
 帰路、清瀬の方に戻るのも難儀なので、反対側の通りに出ると、所沢と志木を結ぶバスが走っている。すぐそこの西武バスの停留所の名は、城。「滝の城跡」などとつけず、ただ「城」ってのが潔い。尤も、周辺の町名が「城」と名づけられているのである。


DSCN4994.JPG 滝の城本丸跡の碑。奥には城山神社の建物が見える。
DSCN5002.JPG 潔くバス停名は「城」。


 

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人