第二十六回 奥多摩町 湖畔の珍名バス停

 あきる野、日の出、檜原、青梅、と多摩の奥の方へ進んできたけれど、いよいよ最奥の奥多摩町を散策する。休日には"ホリデー快速おくたま号"という直通快速電車が中央線から走るので、9月下旬の土曜日、これでアプローチすることにした。
 三鷹で朝7時58分のこの電車に乗ると、奥多摩へ行く車両(前の方は武蔵五日市行)は登山スタイルの乗客でいっぱいだった。青梅を過ぎると、もう次の停車駅は御嶽。ここで半分以上のお客さんがぞろぞろ降りていった。御嶽を過ぎるとまもなく奥多摩町の領域に入る。日本の山岳鉄道は川を左に見たり、右に見たり、左右の岸を行ったり来たりするケースがよくあるけれど、この線は律義にずっと左方に多摩川の渓谷を見せて進んでいく。
 川井、古里(こり)、鳩ノ巣、といった駅を快速電車はすっとばして奥多摩の駅に到着した。9時17分の着だから、これでも三鷹から1時間半近くは要るのだ。
 奥多摩の駅は僕が子供の頃は氷川といった。改称は1971年だが、壁に丸窓などを付けたモダンな山小屋風駅舎は1944年の開業当時の建物。それまで参詣客を運ぶ御嶽までだったのを延伸したのは、日原の山の石灰石(セメント)の運搬が目的というが、44年(昭和19年)は戦時真っ只中の頃だから、これは軍事利用も大いに関係していたのだろう。


DSCN4555.JPG 山小屋風の外観が特徴的な奥多摩駅。その外観にふさわしく、土曜の朝の駅は、登山客でにぎわっていた。


 古びた昭和調みやげ物屋がぽつぽつと見受けられる駅前風景、昨夏も来たので見憶えがある。別誌の紀行取材で日原の鍾乳洞へ行ったのだ。そんなわけで、今回そちらへは行かないので簡単に説明しておこう。狭い九十九折の山道を進むバスの行程もおもしろいが、鍾乳洞も東京近郊では屈指の規模。竜王の間とか女神の間とか、さいの河原とか弘法大師学問所とか、洞内の各所に名が付けられて、テーマパーク風に仕立てられている。
 さて、本日行こうと思っているのは奥多摩湖の方面。そちらへ向かう丹波(お隣りの山梨県丹波山村)の行き先を掲げたバスは、登山客が多いせいもあって2台編成になっている。バスは多摩川に沿うように青梅街道を進む。そう、都心側から来るとおや? と思うが、こっち側も青梅へ向かって青梅街道と名づけられているのだ(甲府付近から)。
 車窓に注意していると、時折右手の山斜面に高架線が垣間見えるが、これは小河内ダム建設の際に敷かれた貨物線(東京都水道局小河内線)の跡なのだ。バスは奥多摩湖の停留所手前でこの鉄道の架橋をくぐる。
 奥多摩湖バス停で降りると、湖畔のすぐ向こうにダムの堤が見える。この小河内ダムと人工湖・奥多摩湖が誕生したのは1957年。前年(56年)に生まれた僕は、小学校の社会科で「小河内ダムは東京の発展を支えた水がめ」として、崇めるように学習した。
「奥多摩湖をつくる工事は、昭和十三年からはじめられました。多摩川の谷間にダムをつくることは、大へんなしごとでした。ダムの工事をすすめるときには、この谷間にすんでいた五千人ちかくの人は、よその土地や、ダムの近くにすまいをうつしました。また、ダム工事のために七十九人の人たちが、いのちをうしないました」
 と、以前にも引用した小4時の社会科副読本「わたしたちの東京」に書かれている。


DSCN4558.JPG 小河内ダムの築堤。現在では東京都の水源の約20%を占める(残りの大半は利根川水系)にすぎないが、高度成長期の東京の重要な水がめであった。


 この日はまさに秋晴れの天候に恵まれて、逆さになった山稜が湖面に見事に映し出されている。が、その湖底に昭和20年代頃までいくつかの集落が存在したのだ。湖の北岸の街道を歩いていくと、1キロほど先に熱海というバス停がある。ここもあの有名な観光地と同じくアタミと読むのだが、もとの集落は南方の湖底にあり、温泉の湧く場所だったのだ。熱海バス停すぐ横の石段を上った所に、旧集落から遷座された温泉神社が祀られている。


DSCN4565.JPG 熱海バス停。バス停脇から続く急な階段を上った先に温泉神社がある。


 ここで再びバスに乗ると、湯場、女の湯、と温泉地めいた停留所が続く。女の湯の発音はメノユなのだが、もともと女性が集まる湯場が存在したのかもしれない。
 そう、奥多摩湖の周辺は珍名バス停の宝庫でもある。峰谷橋で降りて、橋の手前を右方の坂本集落の方へ入っていく。左側に湖の端っこが盲腸のように奥へと延びて、旧小河内小学校と中学校の下を通り過ぎると、雲風呂というバス停が立っている。
 すぐ横に〈金鳳山普門禅寺〉と石柱を立てた寺があるので、石段を上っていくと、なかなか立派な楼門をくぐりぬけた先に本堂と見晴らしのよい境内が広がっている。なるほど、ここから湖の方を見下ろすと、霧が低い雲のように溜まりそうな地形である。その様を風呂にたとえたのではなかろうか。あるいは、この辺も温泉(風呂)地の関係かもしれない(湖の南方にも金風呂というバス停がある)。


DSCN4570.JPG 普門禅寺を背景にした雲風呂のバス停。
DSCN4572.JPG 普門禅寺から雲風呂の集落を見下ろす。なるほど、雲が溜まりやすそうな地形だ。


 雲風呂橋と名づけられた吊り橋を横目に、車に潰されたヘビ(ヤマカガシか?)の死骸なんかが貼りついた道をもう少し上っていくと、次のバス停は雨降り。いまは閉めてしまったような店と民家が数軒並んだ小さな集落、バス停の脇で老婦が2人、立ち話しているので、声を掛けてみた。
 ──この辺、雨降りって地名、何か意味あるんですか?
「昔、お寺の坊さんがこの道上ってくるときに、雲風呂のあたりで雲が出て、この辺で雨が降ってきたって話があるんだけどね......」
 間も置かずに返答されたから、おそらく何度も尋ねられて馴れているのだろう。実は99年の春にバス旅の取材でこの地を初めて訪ねたとき、雑貨屋のオバチャンに地名の由来を伺ったことを自著『バスで田舎へ行く』に書いている。ほぼ同じ説がそこに載っているから、もしやあのときのオバチャン(雑貨屋はもうないが)かもしれない。


DSCN4578.JPG 雨降りのバス停。
DSCN4576.JPG 途中、ヤマカガシと思われるヘビが轢かれてぺしゃんこになっていた。


 雨降りから500メートルくらい道を上った所に、こんどは「下り」(くだり)というバス停がある。「上り」というのはないから根拠はよくわからないが、これも、雲風呂→雨降り→天気が下り坂......みたいな連句なのだろうか。
 ちなみに、この区間を走る峰谷行のバスは数時間に1本くらいの割でしかないので、また歩いて麓へ引き返す。雨降りのバス停の所では、まださっきの老婦2人が同じ立ち位置で話しこんでいた。次のバスまで1時間半くらいあるようだが、実際バス待ちをしているのだろうか?


DSCN4580.JPG こんどは「下り」のバス停。この付近の変わった名前のバス停は、某テレビ番組で特集されたことがあるほどだ。


 鮮やかな赤に塗装された峰谷橋を渡って短いトンネルをぬけると、小河内神社前のバス停がある。ここから湖の沖へ突き出した岬の一角に神社が祀られている。けっこう急勾配の坂道、60段見当の石段を上った先に鎮座する小河内神社は、湖底に沈んだ旧集落に祀られていた9つの社の11の祭神をここに集結したもの。歴史が浅いので、佇まいに趣きは感じられないが、ネットで検索すると、"パワースポット"関連の書きこみがずらずらと現われる。この日も、すぐ目の前で若い女性3人組が「パワーもらった、きたきた」なんて、わかりやすい歓声をあげながら参拝していた。


DSCN4590.JPG つくりは新しいものの、パワースポットとして人気を博す小河内神社。


 小河内神社前(前、というにはかなり距離があったが)のバス停からまた丹波(たば)方面行(小菅の湯──の行先を掲げたのもあるが、これも以前の"つるつる温泉"的なスパ施設のようだ)に乗って、向かうは留浦。こここそ奥多摩町西端の集落といっていい。ちなみにこの留浦も"とずら"という、いわれないとちょっとわからない読み方なのだ。
 この地名、甲州方面から都へ入ってくる者をチェックする口留番所(留めて面を調べる)に由来すると聞いたが、ここまで来ると傍らの奥多摩湖もだいぶ細くなって、上流は丹波川と名づけられている。
 ずっと昼飯をがまんしてきたので、バス停横の定食屋「島勝」に入って、やまめ定食を注文。湖でとれたやまめの塩焼きも旨かったが、もう1つ、ビールの当てにもらった刺身コンニャク(自家製)が格別だった。奥多摩では沢のワサビとともに、山の急斜面の畑でも作れるコンニャクが古くからの名作物なのだ。


DSCN4595.JPG 留浦の集落の定食屋「島勝」でやまめ定食をいただく。留浦では、奥多摩湖を渡ることができる「留浦浮橋」も人気だ。


 帰路、丹波の方からきた午後2時近くのバスは、すでに帰りの登山客で混み合っている。大きなリュックを背負った初老の男は、雲取山に登ってきたらしい。話をあっさり聞いていたけれど、後で地図を確認したら、雲取山頂からこのバスのルート(おそらく鴨沢バス停)までは直線距離で5キロくらいある。
 まさか、日帰りで上り下りしてきたわけではないだろうが、山男はたくましい。

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人