第二十四回 青梅市(その1) 映画看板の街道と東京炭鉱

 多摩の北西部の中心地・青梅は石灰岩の採掘や織物業で栄えた歴史の深い町だ。五日市線と較べて中央線の直通運転も多いので、都心部からも割と行きやすい。
 僕はこれまで何度か訪ねているけれど、だいたい青梅の一つ手前の東青梅からアプローチする。駅の北口に出て旧青梅街道に入ると、さっそく旧街道らしい古い建物が目にとまる。「引菓子 酒まんじゅう 松乃屋」なんて素朴なトタン看板を出した和菓子屋、そのちょっと先に三菱のマークを掲げた、古めかしいコンクリートの廃屋が残されていた(なんでも戦前の三菱石油系のガソリンスタンドらしい)はずだが、おや?壊されてしまったか......と、あたりをよく見たら、ネットの覆いが被せられていた(撤去も間近なのかも)。


DSCN4429.JPG 味わい深い雰囲気を残していたコンクリートの廃屋だが、ネットで覆われていた。ネットの上には、三菱のマークの頭が出ているのが見える。


 踏切を越えた先にも〈明治10年創業〉と謳った洋館づくりのパン屋がある。「火打屋本店」という屋号がおもしろい。看板を眺めていたら、店の女性が出てきて「最初は火打石の鍛冶屋をやっていた......」と教えてくれた。「こういうパン屋になって70年」というから、戦後鞍替えしたのだ。どうやら彼女は僕の本などを読んでくれているらしく、一緒に記念写真を撮ったら、名物のコッペパンを1つおみやげにくれた(オヤツに食べたが、ピーナッツクリームが程良く挟まれていて実にウマかった)。


DSCN4353.JPG 火打屋本店。もともとは火打鍛冶屋で、団子屋を経てパン屋になった。「屋号の『火打屋』は団子屋を開いた当時、周囲の方々により名づけられました」(公式HPより)。


 西分町のあたりから、青梅名物の映画看板がぽつぽつと見受けられるようになってくる。貼り出されてからもう20年余りになるのだろうが、昭和30、40年代の町角によく見られた、なつかしい画風の映画看板が店の屋根や側壁......を飾っている。かつて、この町の映画館の宣伝看板を実際に手掛けていた、久保板観という画家に依頼したのが発端と聞いたことがある。
 さらに、赤塚不二夫や昭和レトロをテーマにした博物館......と、映画看板による装飾を皮切りにノスタルジックな町づくりがすっかり定着した。


DSCN4368.JPG 古い映画看板が目立つ青梅市街。住吉神社前のバス停待合室に飾られているのは、ずばり「バス停留所」と、「荒野の決闘」の看板。


 そして、背の低い町並に、いいアクセントをつけているのが神社の鳥居。東青梅の方から歩いてくると、道の右側に所々鳥居が立っていて、その奥の青梅線を渡った丘上に神社が置かれている。川(多摩川)と山に挟まれた細長い所に、青梅街道と青梅線が敷かれて町ができあがった。「帯の長宿」という青梅の愛称が実感できる。
 青梅の駅前を過ぎて、仲町、上町と町の西端へ進む。森下町に旧稲葉家住宅という、材木問屋や青梅縞(じま)の仲買いを営んできた古屋敷が保存されているが、やってきた本日は月曜日で、資料館の類いはことごとく休館なのだった。ま、この町はミュージアムに入らなくとも見所は多い。


DSCN4360.JPG 西分神社の鳥居が両側の商店にまでせり出しているのがおもしろい。
DSCN4361.JPG 低い軒の商店が連なる旧青梅街道。古い街道の雰囲気を伝えている。


 裏宿町というのが、青梅市街地の西端にあたる。青梅の裏宿といえば、裏宿七兵衛。中里介山の『大菩薩峠』によってポピュラーなキャラクターとなった江戸中期の義賊である。彼の生誕地とされる一角は公園(七兵衛公園)化されて、その超人的身体能力がプレートに記されている。
「彼はまれに見る健脚の持ち主だったそうで、その自慢の健脚を生かして、はるかな遠方で盗みを働き、一夜のうちに帰ってきては朝から何食わぬ顔で畑仕事に精を出したので、周りの人は誰ひとりとして気づくことはなかったという」
 こういうヒーローのキャラ付けは海の向こうのスーパーマンなんかと一緒なのだ。


DSCN4378.JPG 義賊・裏宿七兵衛の供養塔。青梅駅から七兵衛公園までの道も「七兵衛通り」と名づけられ、今も青梅市民の記憶に残る存在。


 この裏宿という町は、昭和30年代当時まで「青梅傘」という和傘(番傘)の生産で知られていた。もはや傘屋は1軒きり残っていないが、以前界隈の古い家で傘作りをしていた頃の写真を見せてもらったことがあった。
「腐らせた渋柿の汁で色付けをするので、ものすごいニオイがたちこめていた......」なんて話が印象に残っている。
 青梅の駅の方に戻って、贔屓のカフェに立ち寄ることにする。青梅線の上をまたぐ東寄りの橋の際にある「夏への扉」という店。ここは以前この平凡社のウェブで連載していた「東京ふつうの喫茶店」の取材で訪ねて以来、青梅に来るたび覗く店。一見、ジブリのアニメに出てくるような木造洋館は、戦前に眼科と耳鼻科をやっていた医院の建物らしい。コーヒーはもちろん、僕はここの野菜カレーのファンなので、まだ11時前だが早めにランチを食べてしまおう。開いた窓から、秋の蝶・イチモンジセセリが入りこんできた。


DSCN4387.JPG レトロな建物も味わい深いカフェ「夏への扉」。かつては病院だったという。
DSCN4388.JPG 「夏への扉」で野菜カレーをいただく。店名はもちろん、ロバート・A・ハインラインのあの名作ネコSF小説から。


 橋の南方、住江町の仲通りはひと昔前まで遊郭が集まっていた界隈で、いまもぽつぽつと面影を残す建物が見られる。旧青梅街道に出て、すぐそばの住吉神社前の停留所(待合小屋がある)で成木の方へ行くバスを待った。が、ふと思いたって、1つ先の西分2丁目バス停の方へ歩き始めた。前に橋本屋旅館という明治時代から続く宿に泊まったことがあったが、さっき歩いてきたとき見当たらなかった。もう1度在り処を確認すべく、そちらへ歩いていったら、「あら、泉さん......」見憶えのあるご婦人に声を掛けられた。
 僕と同年代、いやちょっと上くらいの彼女は紛れもなく旅館の女主人、正確には若おかみだった方である。
──旅館、閉めちゃったんですよ、3年前
──あー、そこでしたよね?
 すぐ横の「そこ」のあたりは、小さな駐車スペースを設けた一般民家に変貌していた。僕が紀行取材で宿泊したのはもう15年も前のこと。90を過ぎた先代のおじいちゃんが昔話をしながら、手に持った電気シェーバーをウィーンウィーンと意味なく作動させてしまうのが愉快だった。
 北方の山間部・成木や小曽木地区を循環するバスに乗る。この辺は西東京バスではなく、なぜか都バス(飯能方面へ行く西武バスも)のテリトリーなのだ。乗車したバスは東青梅駅の手前で成木街道へ曲がり、柳川の先から新吹上トンネルをくぐって成木の集落に入った。青梅街道はそもそもこの成木の山から、江戸城の白壁用の石灰を運搬する目的で敷設された道、とされている。落合橋が架かる成木5丁目の交差点から北西方の上成木へ行く路線もあるけれど、このバスは成木川に沿うように東の飯能市の方面へ進んでいく。
 成木2丁目自治会館前で降車して、左手の滝坂橋の方へ入る。スマホでこの辺の川べりがホタルの名所......と検索されたが、ピークは7月上旬というからもう季節は過ぎている。坂を上った所に〈安楽寺通り〉の表示が出ていたが、山里の古道風の道をちょっと行くと、実に見事な杉(ヤドリスギ)の老木が門前に聳える安楽寺がある。ここ、室町時代あたりから"成木の軍荼利(ぐんだり)さん"と呼ばれた軍荼利明王を祀った古刹で、茅葺きの長屋門などもなかなか趣きがある。


DSCN4402.JPG 青梅の古刹・安楽寺の長屋門。古木のヤドリスギは東京都の天然記念物に指定されている。


 東方の参道口にある仁王門の脇を通って坂を下ると、再び先のバス道へ出た。すぐ横の停留所は成木1丁目自治会館前。自治会館とは昔でいう公会堂だが、広い成木地区は往年の字(あざ)単位で小さな公会堂が置かれているのが特徴だ。
 ここからバスに乗って、南方の山の向こう側に位置する岩蔵温泉へ寄っていこうと思っているのだが、1時間近く便がないので歩いていくことにしよう。
 成木1丁目の交差点を右折、日影林通りという循環バスのルートの少し内側を進むルートをとる。途中、右手の崖上に垣間見えた西東京病院──昔風の白いペンキ塗りの立て看板とその向こうのクラシックな赤屋根の洋館が、どことなくサスペンスじみた雰囲気を漂わせていた。
 小曽木街道に出て、ちょっと西へ行くと岩蔵温泉の入り口がある。黒沢川に架かる湯場橋というのを渡った先から、弓なりの道づたいに2軒3軒の旅館が見えるが、一見して寂れている。下調べしたところでは、日帰り入浴は食事付きの高いコースしかなかったので、すーっと外から眺めるだけのつもりで来たら、「司翠館」というのが"入浴のみ700円"の看板を出していたので、チャポンと浸っていくことにした。浴槽は1つだけで、「つるつる温泉」や「瀬音の湯」のようなヴァリエーションはなかったが、平日の日中、入浴客は僕ひとり、それなりに満足した。


DSCN4407.JPG クラシックな趣きもある西東京病院の看板。奥には赤い屋根の病院の建物がある。
DSCN4415.JPG 岩蔵温泉の入口。ヤマトタケルノミコトが訪れたという伝説がある。


 さて、ここまで来たら、1つ先のバス停(青梅駅寄り)を目に留めておきたい。新岩蔵大橋交差点の所のバス停、東京炭鉱前というのだ。西武バスと都バスが停まるここ、都バスの方は「東京炭坑前」と表記していたり、また西武停留所の車道側の大きなプレートには「前」を取っ払った「東京炭鉱」と出ていたり、ディティールがバラバラなのもおもしろい。
 炭鉱でも炭坑でも、そんなもんがこの辺に存在したのか......以前から不思議に思っていたのだが、どうやら泥炭や亜炭を採掘する坑道が新岩蔵大橋の奥の小山の一角に存在したらしい。道の反対側の神社の傍らに見つけた、古そうな畳屋の戸を叩いたところ、80代見当の老夫婦が出てきて、いろいろと貴重な昔話をしてくれた。見せてもらった資料によると、炭坑が開いていたのは昭和35年まで。
「ウチの畑のすぐ脇に竪坑(たてこう)があったんだよぉ」と、畳屋のご主人は向こうに見える森の方をなつかしそうに指さした。
 しかし、昭和35年とは......もはや消え失せて半世紀以上。炭鉱と炭坑、表記が不統一なのもなんとなく頷ける。トウキョウタンコウという呼び名だけが、一種の地名として古い住人に認められているのだろう。


DSCN4422.JPG かつて都内唯一の炭鉱だったという「東京炭鉱」。半世紀前に閉鎖されたが、今も周辺地域の「地名」としてその名を残す。


 

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人