第二十三回 檜原村 モノレールで行く山上の古民家

 檜原村は、伊豆南方の島嶼(とうしょ)部を除けば都内唯一の村だ。ここへ行くにも武蔵五日市が玄関口になる。
 このところ何度も来て、すっかりなじんだ感じの五日市駅前から藤倉行きのバスに乗る。檜原街道を十里木、荷田子と進んで、和田向の停留所のアナウンスが始まろうとするとき「ここから檜原村に入ります」という前置きが付いた。西東京バスは路線バスながら"観光"の性格も強いバスなので、山王前の停留所の案内に「山の王様が住んでいたという......」なんて短い解説が入ったりするのが愉しい。バスはその次の本宿役場の先のT字路を右に曲がって、僕らは払沢(ほっさわ)の滝入口で降車した。
 僕ら・・、というように、今回も山歩き好きの編集者・K君が同行している。檜原村の散策、まずは払沢の滝から始めたい。奥多摩地区にはいくつかの滝があるけれど、この滝は都内随一の本格派の滝、と誉まれ高い。そして、僕は小学生の頃、確かここに昆虫採集をしにきたのだった。
 入り口の脇の豆腐屋(ちとせ屋)で濃くてウマい豆乳を立ち飲みし(試食した豆腐もうの花ドーナッツもおいしかった)、滝への小径に入っていくと、思っていた以上にミヤゲ物屋や食堂が並んでいる。奥の方に郵便局の看板を付けた、薄緑色のシャレた木造洋館が見えたが、これは街道ぞいで檜原村郵便局として親しまれてきた旧館(昭和4年築)を移築したものらしい。


DSCN4224.JPG 払沢の滝へ向かう道の入り口にある豆腐屋「ちとせ屋」。遠方からわざわざ豆腐を買いに来る人がいるほどの人気店だ。右は乗車してきた藤倉行きのバス。
DSCN4229.JPG 払沢の滝へ向かうハイキングコースの途中には、旧檜原村郵便局が移築されている。


 本日は時折雨の降るあいにくの日和だが、滝までの小径は路面に滑り止めの木屑が敷かれているので歩きやすい。左手には澄んだ谷川が流れ、水しぶきをあげて落下する小さな段差も見受けられる。早足で20分ほど歩いて、滝の間近までやってきた。
 崖上の方から数えると、4段62メートルに達する落差だというが、ここから眺められる最下段の滝だけで落差26メートル、というから大したものだ。手前の岩場に立っても、跳ねあがった滝水のミストが漂ってきて実に涼しい。
 滝の前であたりを見渡しながら子供の頃の風景を回想する。滝のすぐ向こうの谷川が始まるあたりの景色......なんとなく見憶えがある。あれは小2か小3の夏、父に連れられて、弟と3人でやってきたのだ。谷川の上を飛ぶオニヤンマを見つけて僕が網を振り回したとき、差し込み式の継なぎ棒の部分が川に落下してしまった。オタオタしているとき、父が果敢に川のなかへ入っていって、見事継なぎ棒を回収した。いや、岩場の上から手をのばして、岸にひっかかっているのを器用につかみとった......ような気もするのだが、ともかく、父に「男を見た」一齣として脳裡に刻まれている。


DSCN4237.JPG 払沢の滝の前に立つ筆者。払沢の滝は「日本の滝百選」にも選ばれている、東京を代表する名瀑だ。


 街道を本宿の交差点の方まで引き返す。橘橋というのが渓谷に架かっているが、先の虫採りの帰りがけ、この橋の上でタカネトンボという金属光沢のあるレアなトンボを網に収めたのだ。いまの橋とは雰囲気が異なるが、橋脇の解説板に掲示された先代のコンクリート橋(昭和18年築)の佇まいはどことなく思いあたる。
 このあたりは檜原村の中心地で、村役場のイメージには程遠いビル建ての庁舎が建っている。その一角に〈武州檜原村口留番所跡〉の謂れ書きがある。江戸幕府が街道に置いた番所というのは各地に存在するが、この「口留」は"きびしく口どめされる"ということではなく、地形的な"口元"を意味するようだ。つまり、山へ行くどんづまりの番所、というわけ。
 「関守は、檜原村の里正であった吉野九郎右衛門(以後はその子孫)......」と書かれているが、向かい側の大名屋敷のような館の門に「吉野」の表札が出ているから、その後継のお宅に違いない。
 橘橋の先の渓谷際の店で地場のヤマメやアユの定食を腹に入れ、吉野邸の前の本宿役場の停留所でバスを待つ。ここには南西部の数馬へ行く路線も来るが、数馬はこれまで何度か訪ねているので、今回は北西部の藤倉をめざす。藤倉の先からモノレールで上っていく古民家の探訪が今回のハイライトなのだ。


DSCN4249.JPG 昼食に、地場のアユ(左)とヤマメをいただいた。
DSCN4244.JPG 本宿役場前のバス停のすぐ脇にある吉野家の屋敷。


 駅から朝方に1度乗った藤倉行きのバスは、払沢の滝入口を過ぎると「やすらぎの里」という施設へ立ち寄っていく。石坂浩二や加賀まりこが出ている同名(里は郷の字だが)のテレビドラマをやっているけれど、ここもあのドラマと同じく診療所や温泉付きの高齢者向け保養施設のようだ。
 しかし、そこで降りる老人客はなく、なぜかこのバスは若い女性のグループが多い。ハヤリの山ガール、ってやつだろうか? 崖下にはキャンプ場も散見できるが、過ぎゆくバス停の名称も相変わらず魅力的だ。千足(せんぞく)、神戸岩入口(かのといわいりぐち)......西東京バスは、車内のバス停案内に読み・・まで掲示されるのがありがたい。数馬へ行く路線には人里(へんぼり)、笛吹(うずしき)なんていう、強い訛りがそのまま定着したような難読バス停がある。
 3人組の女子高か女子大生くらいのグループは小和田坂という山間のバス停で降りていったが、目当てのキャンプ場でもあるのだろうか。近くに、新興宗教チックな寺があったのもちょっと気になった。小岩、竹窪......山は段々と深くなっていく。下除毛(しもよけ)という、字面からしてユーモラスな停留所を過ぎると、終点の藤倉。ここで、先の3人組より若干年上のOL風3人組がキャッキャッとはしゃぎながら降車した。


DSCN4278.JPG 檜原村には難読地名が多い。藤倉の一つ前のバス停は「下除毛(しもよけ)」という味わい深い名前だった。
DSCN4253.JPG 藤倉のバス停に到着したバス。檜原村の中でも最奥に近いこの集落までバスが来たのは昭和61年になってからだという。


 ここからおよそ30分歩いた一角に、小林家住宅という重要文化財指定の茅葺き古民家へ行くモノレールの乗り場があるという。予約制で日中1時間に1回ペースで運行するというそれを、僕らは午後1時に予約した。時刻は12時20分、さほど余裕もないので歩き始めると、OL3人組も後方からついてくるから、おそらく同じ目的なのだろう。還暦過ぎながら、にわかに胸がときめいた。が、10分も歩いた頃、セミの声に紛れるように女性たちの声は消え失せた。焦りながら、遅れてやってくるのではないか......とも思ったが、モノレール乗り場で待っていても、僕ら以外、人の気配はなかった。
 このモノレールの乗り場、一応「総角沢モノレール駅」という名が付いているそうだが、これといった看板もなく、山斜面に急勾配の軌道がヘビのように這っているだけだ。羽田へ行くモノレールのような大型の高架軌道線ではないから、一般的にはケーブルカー、といった方がわかりやすいかもしれない。


DSCN4257.JPG 小林家住宅へ向かうモノレール。奥多摩の山間には荷物運搬用や作業用のモノレールが散見されるが、旅客用になっているものはまれだ。
DSCN4259.JPG モノレールには非常用停止ボタンが設置されている。「何かあったら押してください。まあ、物を落としてもたぶん取れないと思いますが。ハハハ」とは運転手の老人の弁。


 僕よりはるかに上世代の老人が運転するモノレールは8席(補助席を入れると10席)あって、ジェットコースターのように安全ベルトをカシッと装着して、乗車する。
「最大斜度43度、あるんですよ」
 速度はゆっくりだが、この斜度はハンパじゃない。杉が繁った山斜面を、時折かなり急なカーブを切りながら、10分余りかけて上ってゆく。途中でグッと空気が冷えこんできたが、到着地の標高は約750メートル。すぐ向こうに、霧というか、雲に霞んだ茅葺きの建物が見える。


DSCN4262.JPG 霧の中の小林家住宅。昭和53年に重要文化財に指定され、平成23~27年に保存修理事業が行われた。裏手はつつじの公園になっており、春はにぎわうという。


 小林家は長らく炭焼きをやっていた家で、保存された母屋は18世紀前半くらいの建築、と推定されるらしい。僕が昔から愛読している昭和32年の刊行の『世界文化地理大系 日本Ⅱ 関東』(平凡社)に、この辺の山道を炭俵を引き歩く親子の写真を載せて、こんな解説がある。
「東京都下西多摩郡檜原村は、まだ電灯のない部落である。多摩川上流の一支流北秋川の渓谷にそったこの部落は、東京都に含まれてはいるものの〈陸の孤島〉とでもいえようか。暮しの大部分は炭焼きであとは山肌のわずかな段々畠だ。しかし、小河内ダムが完成すれば電灯もひかれ、観光道路も開通されることになっているという」
 モノレールの運転をしていた男とともに、この住宅まわりの世話をしている老人が、「昭和34年に電灯がきて、35年に電話が通じた」と教えてくれた。ちなみに、この家は平成20年まで小林家の人が生活していたが、その後解体、3、4年の歳月をかけてオリジナルの茅葺き屋に復元された。茅は阿蘇の麓や静岡の東富士演習場近くのものを使って、京都の職人が葺き替えたという。モノレールは、復元工事で資材運搬に使ったものを観光用にリニューアルしたらしい。
 陣馬尾根と呼ばれる山上の平坦地に建つ小林家住宅、さぞや晴れた日の眺望はいいのだろうが、流れこんできた雲に霞んだ景色も神秘的だ。それにしても、あのOL3人組はどこへ雲隠れしてしまったのだろう。


泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人