第二十二回 日の出町 塔婆を作る集落

 多摩地区には市町村レベルでいうところの「町」が3つある。瑞穂町、奥多摩町、そして今回の日の出町。地図で見ると、あきる野市と青梅市の間に"膵臓"のような感じでひっそり存在している。
 五日市線の武蔵増戸に近い東部には、平井という割と大きな集落があるけれど、今回まず歩こうと思ってきたのは武蔵五日市の駅からちょっと北へ上った大久野のあたり。この付近には、幸神神社のシダレアカシデの老木をはじめ、渋い史跡が多い。
 前回やってきた武蔵五日市の駅前から「つるつる温泉」行のバス(西東京バス)に乗る。そう、この"つるつる温泉"ってところも日の出町西端の山間部にあるので、散策の最後に浸っていこうと考えている。
 さて、乗車したバスは秋川街道を北上、前回歩いた三内の山道の入り口を右に見て、日の出町の領域に入る。幸神と書いてサヂカミと方言調に読ませるバス停で降車、道をちょっと後戻りして、東方の羽生集落へ行く横道に折れた。羽生はハブと読むのだが、ここはお墓に備えるあの塔婆の名産地、と昔の東京案内書(東京風土図)に書かれている。
「ここの上羽生、中羽生、下羽生には、構えのりっぱな資産家が多くある。中羽生では塔婆の製造をしている。この大久野付近の山地は、塔婆の材料であるモミの成育に適しているので良質のモミ材が生産される。モミは材質がもろく腐食しやすいため建築用材としては向かないが、地膚が白く墨の吸い込みがよいので文字を書くのに適している。それで古くから葬具や墓に立てる塔婆などに用いられている。」
 もう50年も前の話だから、どうかな......と思いつつ、道端に小川が流れる素朴な田舎道を奥へと行くと、左手に大きな蔵を置いた、なんとも立派なお屋敷が見えてきた。向かい側がお寺なので、一瞬こちらも寺の建物......と思ったが、表札をよく見ると「羽生」とある。そして、その先にも「羽生」の表札を掲げた、手前の家と引けをとらない大屋敷が並んでいた。


DSCN4119.JPG 小川沿いの道を進んでいくと、立派な玉石垣の家が見えてきた。


 

DSCN4110.JPG 羽生家の蔵。繁栄と歴史を今に伝える。
DSCN4112.JPG 蔵のある大きな家を通り過ぎると、これまた立派な門構えの家が。どちらも表札は「羽生」さんだ。


 長屋門の傍らの庭径のようなところを入っていくと、突きあたりに工場があって、どうやら塔婆の材木を製造しているようだ。そうか、まだこのあたり、塔婆生産は続いていたのだ。もう一軒先の工場では、六十代と三十代見当の父子と思しき2人の男が塔婆の板に経文をスクリーンで刷りこむ作業をしていた。
「昔は筆でいちいち書いてたんだけどね。それで、この辺の畑に並べて天日干ししてた。材料のモミの木も少なくなって、いまはほとんど輸入してんですよ、中国とかドイツとか」
 中国はともかく、ドイツのモミが日本の塔婆に使われているとは知らなかった。


DSCN4120.JPG かつては一枚一枚筆で書いていたという塔婆。技術の進んだ今では、スクリーン印刷でつくられているという。


 この辺の塔婆作りは江戸の元禄の頃から始まったという説もあるが、主に活況を呈しはじめたのは明治時代。地名と同じ羽生家がその代表一族で、明治15年の大火後に建てられた家屋や蔵もいくつか残されている。僕があたりを歩いたのは、8月のお盆前のまさに書き入れ時だったようだ。
 塔婆屋の羽生家の奥にはもう1軒、羽生人形店というのがあった。ひな人形、五月人形、羽子板、弓はま、と看板に記されているが、残念ながらシャッターが閉まっている。
「いまはオフの時期なんだよ。羽子板や弓はまを売る暮れの11月頃から、ひな人形、五月人形の季節までは開いてますよ」
 向かいで草刈りをするおじさんが教えてくれた。山間の塔婆と人形店の集落......なんとなく角川ミステリーの舞台を思わせる。こんどは羽子板や人形のシーズンに訪れたい。


DSCN4114.JPG シーズンオフのため休業中の羽生人形店。考えてみれば、ひな人形や羽子板は「季節もの」だ。


 幸神神社へ行こうと、先の秋川街道まで戻ってきたとき、道端に出たとある看板が目にとまった。多摩の地酒を揃えた酒屋の看板と並んで〈昭和三年創業 藤太軒理容所〉というのがある。男女の従業員を描いたイラストはイマ風のタッチだが、昭和3年の創業で藤太軒――の屋号というのは興味をそそる。看板の指示どおりに脇道を進んでいくと、酒屋の隣りのちょっと奥まった場所にクラシックな洋館の趣きを漂わせて藤太軒理容所は建っていた。
 年季の入った木のドアを押して、なかを覗きこむと看板イラストのモデルと思しき男女(ご夫婦か?)が仕事をしていた。板床の上に配置された2つのイスに、いずれも小学生くらいの男の子が腰かけて散髪されている。うーん、いいねぇ......僕の子供時代の床屋にタイムスリップした気分だ。とはいえ、たまたまラジオで流れていた星野源の曲について、子供が店主に説明しているのは紛れもなくイマドキだ。


DSCN4128.JPG レトロな外観がたまらなくすばらしい「藤太軒理容所」。
DSCN4129.JPG 内装も、木を主体としていて、往時の雰囲気を残している。


 店主の手が空いたのを見計らって、何より気になる「藤太軒」の名の由来を尋ねる。創業者の名前あたり......と踏んでいたら、隣りの酒屋の脇にかつて藤太橋というのがあった、というのがもとらしい。その場所には、往時の石橋の残骸が保存されて、謂れ書きも出ていた。
「この橋は今から去る一千有餘年前の天慶の乱の史蹟である――」と始まって、藤原秀郷と平将門の戦の模様が書かれているが、橋の名はどうやら、「田原藤太」という秀郷の別称に由来するようだ。しかし、そういう古い伝説よりも、昭和初めの理髪店開店時に「藤太橋」の地名がかなり浸透していたということだろう。ちなみに、この藤太橋跡のすぐ裏方に武蔵岩井まで行っていた五日市線支線の大久野駅があった。
 そんな支線跡に沿うように古道を進んでいくと、幸神神社がある。境内のちょっと低い所にあるシダレアカシデは、無数の枝がクネクネとヘビのように屈曲した、確かにユニークな佇まいの古木だが、さほど高さもないので、うっかりしていると見過ごしてしまう。


DSCN4142.JPG 1335年創建と伝えられる幸神神社。
DSCN4138.JPG 国の天然記念物にも指定されている幸神神社のシダレアカシデ。一説では神社創建当初からの古木とされるが、実際の樹齢は200年ほどと推定されている。近年、樹勢の衰えから回復調査が行われた。


 この道をずっと進んでいくと、岩井橋の手前で「つるつる温泉」の方へ行くバス通りに合流する。岩井橋の向こうには、現在「太平洋マテリアル」の社名となった、昔の日本セメント、さらに遡ると浅野セメントの広大な工場が存在するが、先の五日市線支線の終点・武蔵岩井駅はここの門前にあった。つまり、セメント工場の資材運搬を目的にした貨物線であり、前身の五日市鉄道時代の運営には浅野セメントが大いに関与していた。
 ほんの2、3年前まで朽ちたホームが残されていたというが、いまはまっさらの駐車場になっている。
 実は、当初あの中曽根総理がレーガン大統領を招いた日の出山荘へも立ち寄ろうか......と思っていたのだが、公共交通のルートがない。この辺から北方の山を越えた向こう側、と聞いたが、1時間近く山道を歩かなくてはならないという。雲行きも怪しくなってきたので、いつかまた車で訪ねてみよう。
 岩井橋の停留所で、ほぼ1時間に1本のつるつる温泉行きのバスを待って乗車。左側に平井川の流れが見える崖際の道を山の奥へと入っていく。この辺の車窓越しにも時折、塔婆らしき格好の材木を並べた工場が見えるが、どこも羽生の家と同じく、寺のような門構えの立派な日本屋敷を備えている。塔婆屋はそれほどもうかるのか? そういう荘厳な家構えにするのも、塔婆を扱う家の一つの流儀なのかもしれない。
 肝要、なんていう重要そうな名前のバス停を通りすぎて、終点のつるつる温泉に到着した。
 「つるつる温泉」の名称の前に、"生涯青春の湯"なる、生命保険みたいなキャッチフレーズが付いている。実は前回のあきる野の締めにも「瀬音の湯」という温泉施設に立ち寄ったのだが、最近はこういう日帰り型温泉というか、郊外型スーパー銭湯みたいなスポットがちょっとしたハヤリのようだ。ここは3時間820円で、それほどヴァラエティーに富んだ風呂はないけれど、レストランには「秋川牛の朴葉焼定食」なんて、なかなか凝った地場モノも用意されていた。
 そして、驚いたのは帰路のバス。昔のトレーラーバスの型式の"機関車バス 青春号"なんてのがバス停で待ち構えていた。男性車掌が乗務していて、沿線のちょっとしたガイドなんぞもしてくれるのだが、乗っているのは僕1人。ま、休日にはけっこう混み合うのかもしれないが、なんとも贅沢な締めくくりとなった。


DSCN4151.JPG 武蔵五日市駅とつるつる温泉を結ぶバス「青春号」。機関車を模した車体が愛らしい。


 

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人