第十五回 町田市(前篇) 自由民権の森へ

 前回の終点・若葉台(稲城市)から川崎市の黒川地区を挟んだすぐ向こうは町田市。そもそも多摩全般が明治の中頃まで神奈川県に所属していたようだが、下に大きく突き出したこの町田だけは神奈川に移籍した方がスッキリするなあ......と地図を眺めるたびに思う。尤も、このノドチンコ状の出っ張り感こそ町田のアイデンティティともいえる。
 広い町田は東方の鶴川からアプローチすることにしよう。小田急の駅を降りて、バスターミナルのある北口へ出よう、と思っていたら、ホームの南方に〈鶴川文化センター〉と素朴な看板を出した渋い建物が垣間見えた。なんというか、昭和20年代くらいの田舎の公民館を思わせるような木造の2階屋で、横から見るとけっこう奥行がある。
 これは間近で眺めたい。と、寂しい南口の改札を出て、小川を渡って玉石垣が続く湾曲した路地を廻りこむように進んでいくと、建物の玄関先に着いた。こちらの玄関にも鶴川文化センターの表示があるが、何かの事務所らしき表札も出ているから、いまも文化センター的な役割を果たしているのかどうか、よくわからない。ま、こういう物件はあまり調べすぎてもおもしろくないので、そっとしておこう。


DSCN3190.JPG趣きのある建物、鶴川文化センター。


 北口に出て、今回移動に使うバスに乗る前に見ておきたい場所がある。鶴川街道の向こうにこんもりとした木立を見せるお屋敷。地図に「香山園」(かごやまえん)と表示された庭園、残念ながら現在閉園中なのだが、ここはかつて"灸院"として知られていた。小田急沿線や多摩地域を描いた昭和前期の観光絵地図なんかを見ると、だいたい鶴川の脇に"能ヶ谷の灸"と記されていたりする。
 屋敷の門前に"神蔵宗家"と刻んだ石碑が立っているが、この神蔵という家に鍼灸の名人がいたらしい。坂を上って裏の方へ廻りこんでみると、鬱蒼とした竹林が奥の山へ続いている。そう、この屋敷の角で北に折れる鶴川街道をちょっと行ったあたりに、白洲次郎と正子の夫妻が暮らした武相荘(ぶあいそう)がある。前に見学したときに眺めた、TシャツとGパンでジェームズ・ディーン調にキメた若き白洲次郎のポートレートが印象に残っている。
 北口の0番乗り場から出る野津田車庫行きのバスに乗車、芝溝街道に入ると、川島入口、綾部入口、田中入口、とこの路線は"入口名義"のバス停が多い。上に付く川島や綾部は、昔の田園集落の名称だろう。田中入口の次が終点・野津田車庫。小山を背景に黄土色の神奈中バスがずらりと駐まっている。


DSCN3194.JPG 現在でも立派な門構えを残す神蔵宗家。
DSCN3207.JPG 車庫に並ぶ神奈中バス。こんなところにも神奈川の名残を感じる。


 その南方の小山は"民権の森"と名付けられているが、町田は明治の自由民権運動が盛んな地域だったのだ。急勾配の坂道を上って民権の森へ足を運ぶと、入り口に美しい「ぼたん園」が設けられている。ちょうど花の盛りの季節、赤いぼたんの花を眺めながら歩いていると、「自由民権の碑」というのが建っていた。傍らの謂れ書きを読むと、ここに三多摩民権運動を指揮した石阪昌孝の家があり、娘の美那子と北村透谷はそこで出会って結婚したのだという。明治時代の話だから、本当にまわりは山ばかりの頃だろう。目の前の開けた坂上に立つと、丘の斜面の畑の向こうに三角屋根の洋館なんぞが見えて、文化的な田園ムードが感じられる。


DSCN3212.JPG民権の森ではぼたんが見頃の季節だ。
DSCN3223.JPG かつての鎌倉街道。往年の武蔵野の雰囲気を残している。


 神奈中バスの車庫の向かい側を北方へ行くと、広大な野津田公園の緑地帯に入る。鎌倉街道の古道の趣きを残す小径を左方へくねくねと進んでいくと、ヤブのなかに薄気味の悪い目元の写真を載せた〈不法投棄禁止〉の看板が出現、その先に〈学校用地につき関係者以外立入り禁止 農村伝道神学校〉の立て看板を見つけた。
 そう、この農村伝道神学校、随分前に地図で発見して以来、気になっていたのだ。神学校はよくあるけれど、「農村伝道」というのが興味をそそる。表示されていない地図もあるので、なんとなく隠蔽(いんぺい)された組織をイメージしていたら、〈立入り禁止〉の看板のちょっと先にきれいな校舎があって、すんなりと玄関受付まで入ることができた。


DSCN3224.JPG こんな看板に森のなかで出会ったらぎょっとする。
DSCN3229.JPG 森のなかの神学校というだけでどことなくミステリアスな興味をそそられる。


「農村伝道神学校は農村・地方教会に仕える伝道者の養成を目指しています」
「創設者アルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師は1927年、日本への宣教の使命を受け来日し、1954年に洞爺丸の沈没により52歳で亡くなられるまで27年間宣教師として働きました」
 自由にもらえるパンフレットに書かれている。ここに学校ができたのは終戦後のことのようだが、町田が充分"農村"の時代である。
「戦争責任を明確にし、神学教育を沖縄、アジアの人々と教会との対話のなかで推し進めていきます」
 と、社会思想的なテーゼも掲げられている。石阪昌孝もキリスト教信者だったし、その後継者・村野常右衛門の生家跡もこのすぐ奥にあるというから、自由民権運動の土壌が関係している施設なのかもしれない。
 ちなみに受付のパンフのなかには〈農伝グッズリスト〉と銘打って、周囲の竹林の竹で作ったコップやら携帯ストラップやらを紹介するくだけたやつもある。
 出際、どことなく蔭のある美しい女性とすれ違った。瞬間、松本清張ミステリーのキリスト教施設に出入りするナゾの女......の姿を連想した。
 町田の丘学園(特別支援学校)、都立の野津田高校の脇を歩いていたら、フェンスにサッカーJ2リーグ・FC町田ゼルビアのポスターが張り出されていた。そうか、すぐ向こうに見える陸上競技場が彼らのホームグラウンドなのだ。
 表通りの坂をとろとろ下っていくと、小野神社の先のT字路が小野路宿の入り口。最近は観光案内施設が置かれ、歩道も整備されたが、ここから2、300メートル、趣きのある黒塀などを残した昔の屋敷が並んでいる。鎌倉街道ぞいに置かれた山間宿場の名残りだ。


DSCN3235.JPG 小野路宿の町並み。左は旅籠角屋を改装した里山交流館。


 観光施設(往時の旅籠)の向かい側に表札を出した「小島資料館」は、室町時代の応永2年(1395年)からこの地に居住する小島家が開いた資料館で、江戸幕末の先代と関係が深かった土方歳三や近藤勇ら新選組の資料展示(ドクロ絵の入った稽古着など)が充実している。
 しかし、こうやってみると、自由民権運動や農村伝道神学校の源流に多摩発祥の新選組の存在が想像される。能ヶ谷の灸、白洲夫妻の武相荘、果てはあの鶴川文化センターというのも、そういう文化的郊外の土地の流れをくむものなのかもしれない。
 小野路は鎌倉時代の古道が残る小野神社裏の山歩きもおもしろいのだが、その辺は近著『東京いい道、しぶい道』でたっぷり記述したので、ここでは先を急ぐ。
 さらに西の図師の方へ移動しようと思ったのだが、この辺のバスは元の鶴川や多摩センターの方へ行く路線しかないようだ。すでに1万歩余り歩いているし、腹も減ってきたので、やってきたタクシーを停めた。並木の交差点から道幅が広がった芝溝街道に入ると、おーいろいろとファミレスが点在している。昼メシはファミレスでもいいか......と思っていると、図師大橋の先で黄色い回転看板が視界に入った。
 カカシのマークがぐるぐると回るアレは、山田うどん! へー、埼玉のシンボルがこんな所にもあるのか......。
「運転手さん、そこで」
 山田うどん町田図師店の前で、僕はタクシーを降りた。


DSCN3241.JPG ロードサイドに黄色地に赤いカカシの看板。まごうことなき「山田うどん」の印だ。

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人