第十回 国立市 清志郎の歌に誘われて

 国立にやってきた。ここは北口のすぐ先は国分寺市の領域で、国立の市域は主に駅の南側に広がっている。南口に出て振りかえると、そうかあの赤い三角屋根のシャレた駅舎は高架化と同時に取り壊されてしまったのだ......。味気ない現在の駅舎を眺めつつ、落胆していたら、広場の一角に旧駅舎再生の看板が出ていた。どうやら古建材の多くは保存されているらしく、いま工事フェンスに仕切られているあたりに復原されるようだ。やはり、国立はあの三角屋根の駅がないと締まらない。
 そんな国立を僕がはじめて訪ねたのは確か高校生の時代。国分寺の回でもふれたけれど、70年代初めのフォークブームの影響といえる。国分寺を根城に70年代初めにデビューした、忌野清志郎率いるRCサクセションの曲に「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」ってのがあった。
 アルバムのなかの1曲だったが、当時の深夜放送では割とよく流れていて、途中に出てくる「坂を下って 国立に行こうよ~」というフレーズが耳に残った(最近YouTubeでチェックしたところ、正確には「国立に行こうか」と判明!)。ともかく、清志郎が鼻にかかった高い声で唄う「国立に行こうか」に魅かれて、高1くらいの僕は中央線に乗って国立をめざしたのだった。


DSCN2557.JPG国立駅の近代的な駅舎。三角屋根の旧駅舎が惜しまれる。


 そのときは大学通りかその横道あたりにあった「25時」みたいな名の喫茶店(フォーク系の音楽誌の特集に紹介されていたのだ)に入って、帰ってきてしまったのだが、RCの曲のシチュエーションと思しき場所は駅の南東方に存在する。駅を背にして斜め左へ延びる旭通りというのを進んで、多喜窪通りの方へ曲がった先に多摩蘭坂という急坂がある。RCの曲に「多摩蘭坂」というのもあるけれど、「ぼくの自転車――」に出てくる坂もおそらくここと思われる。坂上が国分寺、坂下が国立の領域だから、「坂を下って国立」の文脈にも一致する。
 ちなみにこの坂、大正時代の終わりに国立の学園都市を造成するときに出来あがったもので、勾配がきつくて「たまらん」という口語の方が先らしい。つまり、そこに多摩の地名を重ねた"逆ダジャレ系"の名前なのだ。
 多摩蘭坂からまた駅の方へ引き返す。このルート、「いまわの街道」とか「RC通り」とか名づけてもいいような気がするが、沿道の街灯には西東京(広い意味)でおなじみのFC東京の宣伝旗とともに地元の小学生が書いた習字がスローガンのように掲示されている。「自分に勝つ」なんてストレートなものあれば、「伏竜鳳雛」なんていう思わず辞書をめくりたくなる漢語もある。近頃の小学生は幅が広い。

DSCN2561.JPG 清志郎も歌った「多摩蘭坂」を歩く。上りはきついので自転車を手押しする人も。
DSCN2563.JPG「多摩蘭坂」から駅へ向かう道には小学生作のスローガンが。


 70年代フォークの時代の喫茶店は大方なくなってしまったが、大学通りの「白十字」(どちらかというとケーキ屋)と西友裏の路地にある「ロージナ茶房」は古い。クラシックな洋館仕立ての「ロージナ」は、昭和29年開店というから僕より2つ上、ゴジラの初作が上映された年からやっているのだ。
 茶房とはいえショーケースにはワインボトルが並び、食事のメニューもあるから、レストランとして使う人も多いのだろう。ウインナコーヒー(こういう店に入ると頼みたくなる)を注文して、店内を見渡すと、壁に絵画が展示され、個展のハガキが柱にいくつも張り出されている。そのうち、いかにもこの店になじんだ感じの中年女性がふらりと入ってきた。ニット帽を被り、サングラスをかけて、ぶかっとしたフォークロア調のファッションに身を包んでいる。席につくなりサングラスをメガネ(老眼鏡かもしれない)に替えて美術誌を読みふけっていたけれど、なれた所作からして御近所さんか、あるいは国立音大(いま国立にあるのは付属校だけだが)あたりで何か教えている先生かもしれない。

 店を出て、桜並木の大学通りをちょっといくと、右手に広がるのがこの町の元となった一橋大学だ。昔、講演をしにきたことがあったけれど、改めて構内を眺めると、本館、東本館、兼松講堂......三角屋根のロマネスク様式に統一された建物が美しい。そうか、元の国立駅舎の格好もこれにならったのかもしれない。
 ちなみに、「一橋」の名は、前身の商業学校があった神田の一橋(いまの共立女子大の所)に由来する。それが関東大震災で焼けて、大正末年から昭和初めにかけて郊外の国立へ移ってきたのだ。街路や周囲の住宅街まで含めて、西武の前身ともいえる堤康次郎の箱根土地がプロデュースした。箱根土地は大泉学園のように学園都市づくりに失敗したケースもけっこうあるが、ここはうまくいった例だろう。


DSCN2565.JPG 国立の喫茶「ロージナ茶房」。故山口瞳氏も通った名喫茶。
DSCN2570.JPG一橋大学の構内。広々とした敷地に美しい建物が並ぶ。


 大学通り沿道の店は、吉祥寺や三鷹とはまた違った趣がある。古めかしいパイプ屋と陶器屋が軒を並べ、一見邸宅のようなアンティーク店、フランス料理屋、薬膳系韓国料理店...と、どことなく軽井沢っぽい。路傍に主婦や学生が4、5人しゃがみこんで地面の1点にカメラを向けているので、ナニか? と思って尋ねたら、なんでも珍しい地グモの巣を発見したらしい。学生はともかく、地グモに食いつくナチュラル志向の主婦がいるのも国立らしい。その向こうに見えてきた階段状の輪郭の巨大マンションは、確か古い地元住民グループと日照権問題か何かでもめて、建物の一部をカッティングすることになったのではなかったか......。
 桐朋学園や国立高校のブロックを過ぎると町並はぐっと谷保っぽくなる。谷保は南武線の地味な駅だが、従来の町は南武線南方の谷保天満宮の門前から始まったのだ。そう、三浦友和、山口百恵夫妻の住まいも国立の谷保寄りの方と聞いたけれど、思えば三浦は忌野清志郎と高校(日野高校)の同級生で、一緒にバンドをやっていた時期もあるというから、やはりこの辺に土地カンがあるのだろう。
 谷保っぽくなった一角に「国立飯店」なんて屋号を掲げたラーメン屋を見つけた。読みはクニタチだろうが、字面的には"国営のラーメン屋"みたいで微笑ましい。


DSCN2584.JPG 字面が微笑ましい「国立飯店」。


 谷保駅横の踏切(線路端に"ヒランヤー瞑想室"なる奇妙な看板を見たが、在り処はよくわからなかった)を渡ると、甲州街道の向こうに谷保天満宮の入り口がある。多くの神社は階段上に社殿があるものだが、ここは参道を下った低い所に社殿が置かれているのが珍しい。しかし、いまの甲州街道は後から敷かれた道で、そもそも低い裏側に神社の入り口はあったらしい。
 ここは菅原道真公ゆかりの天満宮ゆえ、亀戸でもおなじみの座牛像が置かれ、また当日は1月中頃の受験シーズンということもあって、合格祈願の学生たちが目についた。
 裏門の方から出ると、甲州街道の旧道と思しき狭い道の端に小川が流れ、さらに南方へ進んでいくと休耕田や草原が広がる田舎じみた地帯に入る。地図を重ねると、国立府中ICの方にかけて、くねくねとした水路がいくつも記された、湧水の豊かな湿地帯ということがわかる。
 そんな草深い低湿地の先に、銀色をした円筒型のSF世界を想像させる建物が見える。あのヤクルトの研究所なのだ。現在の建物は新しいが、研究所の歴史は古い。ひと頃、渡辺謙のヤクルトのCMで、盛んに"シロタ株"といっていたことがあったけれど、そのシロタ株を発見した代田(しろた)稔博士の代田クロレラ研究所として昭和30年に開設されたのだ。
「金魚ばちの水を換えないで日なたにしばらく放っておくと、その水がいつの間にかほんのりと緑色がかってくる。これがクロレラやそれに似た微細藻の繁茂したものである。(中略)この研究所では培養池でクロレラの培養をするとともに、この食料あるいは飼料としての利用性について研究......」
 昭和30年代中頃に書かれた『東京風土図』に初期の頃の解説がある。培養池......の記述から想像すると、湧水が豊かな土壌というのが研究所の立地条件になったのかもしれないね。


DSCN2589.JPG 谷保天満宮の坐牛像。
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ヤクルト本社・中央研究所の立派な建物。

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)などがある。

泉麻人