第九回 国分寺市 武蔵野夫人のポーチドエッグ

 中学から高校の頃にかけてフォークソングが流行した。吉田拓郎や岡林信康、高田渡、遠藤賢司......といった、プロテスト性のある自作の曲を歌う面々が中心で、僕も安いギターを手に入れて、拓郎の曲をマネたオリジナルを何曲か作って、親が寝静まった夜更けに一人歌ったりした思い出がある。
 70年代の初め頃の話だが、当時東京のフォークシンガー勢は中央線沿線の寺の名が付く街に住む、といわれていた。吉田拓郎の高円寺(自身の曲にも「高円寺」というのがある)をはじめ、吉祥寺、そして国分寺、俗に"中央線三寺"とも呼ばれていた。ちなみにユーミンの八王子は、見てのとおり、寺ではなく子なのであった。
 三寺のなかで都心から一番遠い国分寺には、忌野清志郎らRCサクセションの面々がいたはずだが、ここは吉祥寺のように話題の喫茶店などがあるわけでもなかったので、わざわざ訪ねることはなかった(むしろ一つ先の国立の方がスポットは充実していた)。
 さて国分寺、その地名の元となった国分寺や関連史跡が存在するのは主に駅の南側だ。南口に出ると、道(多喜窪通り)のすぐ向こうに見える木立は殿ヶ谷戸庭園。随冝園の俗称もあるここは、大正時代に江口定條(三菱財閥や満鉄の役員、貴族院議員なども務めた資産家)の別荘、さらに昭和以降は岩崎一族の岩崎彦彌太が所有していた別荘で、一時期再開発で潰される話も出ていたが、環境にうるさい国分寺の住民たちの運動もあって、見事な庭園が保存されることになった。アカマツやケヤキ、コナラの林、竹林、崖地から湧き出した水が注ぎこむ谷合いの池......国分寺崖線の地形をいかした、自然豊かな庭園が広がっている。

 庭園の横の坂を下っていくと、低地に野川が流れている。見晴らしの良い崖際のあたりには、いまも別荘風のお屋敷が並び、隠れ家調のメシ屋がある。店先の白板に〈本日の特撰品〉として記された、クロマグロ、サメガレイ、マサバ、ヒレナガカンパチ、イズカサゴ......なんて魚のラインナップを一見して、舌の肥えた富裕な客種が想像されてくる。

DSCN2489.JPG 殿ヶ谷戸庭園。武蔵野らしさを残す緑あふれる庭園だ。
DSCN2496.JPG崖際の隠れ家的食堂。魚の種類も豊富だが、肉メニューもある。


 野川に架かる不動橋(一里塚のバス停がある)の所から、南西方向へ行く道に入っていくと、やがて〈お鷹の道〉の入り口に差しかかる。道端を野川の支流にあたる小川が流れているが、そうか......僕が小金井の〈はけの道〉の景観に重ね合わせていたのは、こちらの〈お鷹〉の方だったのだ。「ホタルのすむ川」と但し書きが付いているが、確かに水は澄んで美しい。ちなみに〈お鷹〉の由来は昔の鷹狩り場のことで、これは三鷹と同じ。
 お鷹の道を小川づたいに歩いていくと、いまの国分寺の門前に出るようだが、ちょっと南方に進むと、さらに古代の武蔵国分寺跡の一帯に至る。お年寄りグループが玉打ちに励むゲートボール場の向こうに、七重塔の跡地がある。
 8世紀の中頃の創建とされる当初の国分寺、その大方は前回訪ねた分倍河原の合戦時に焼失したという。シンボルでもあった七重塔(初代は9世紀に落雷で焼失)をはじめ、往年の堂宇の位置を定めた歴史公園の整備が始まりつつあるようだが、いまはまだ荒れ果てた空地が広がっている。そう、あの三億円事件で犯人に乗っ取られた現金輸送車(セドリック)が乗り捨てられていた場所がこの国分寺跡のあたり。荒れた草むらにぽつんと車が置かれた報道写真が印象に残っているが、この七重塔跡の周辺、いまもそういう三億円事件の時代の面影が感じられる。

DSCN2501.JPG 「お鷹の道」の脇を流れる小川の水は澄んで美しい。
DSCN2511.JPG 国分寺の名の元となった武蔵国分寺の七重塔の跡。


 初代国分寺跡の北側に、立派な山門(仁王門)を見せて建っているのが、いまに続く国分寺。これは江戸時代の宝暦年間に建設されたものらしい。北方の山上に向かって、本堂、薬師堂、さらにその先は公園化されているけれど、この辺で国分寺とお別れして府中街道を進んでいくと、やがて西国分寺の駅前に差しかかる。
 この駅は僕が拓郎まがいの曲を作って、気ままなフォーク野郎気分に浸っていた高校生の頃(1973年)に武蔵野線の開通に合わせて誕生した駅だから、周辺に古い木造の店屋などはない。用を足そうと入った「珈琲」の看板の店は、若い夫婦と思しき男女がカウンターに入ったいまどきのカフェで、僕の隣りのテーブルのヤンママ2人組はトーストにポーチドエッグっぽいもんをのっけたようなのを食べている。ふと目を向けたマガジンラックのメンツもカレーやコーヒー特集のブルータスにポパイ、そしてネコの本が目につくあたり、絵に描いたようである。しかし、ただの郊外のゆるいカフェではなく、注文したハンドドリップ式のブレンド(西国分寺ブレンド、という)はなかなかおいしい。
 若いマダム風の客が多かったけれど、こういうのをいまどきの武蔵野夫人、というのかもしれない。

DSCN2521.JPG こちらが現在の国分寺。武蔵野らしく敷地内には植物園もある。
DSCN2527.JPG いまどきの武蔵野夫人が集う西国分寺のカフェ。


「武蔵野夫人」とは、戦後の大岡昇平の小説で有名になったフレーズだが、その舞台が前に歩いた小金井から国分寺にかけての「はけ」の地帯で、とくに西国分寺駅の北東側に存在する姿見の池は重要なシーンとして描かれている。
 小説の刊行は昭和25年、翌26年に溝口健二の監督で映画化されているが、この映画の方はビデオやCSチャンネルの放送で何度か観た。妙齢の夫人と若い大学生の男との、いわゆる不倫モノだが、野川の流れや武蔵野の雑木林の景色が白黒ながら(白黒だからこそ、かもしれない)、実に美しい。
 散歩する大学生が畑の農夫に「この辺はなんていうの?」と尋ね、農夫が「恋ヶ窪」と答えるシーンがあったはずだが、そもそも恋ヶ窪と呼ばれたのは、いまの西武国分寺線の駅よりずっと南、姿見の池のあたりを指したようだ。
 中央線の線路端、雑木林に隠れるように姿見の池は存在しているが、謂れ書きを読むと、昭和40年頃に一旦埋められてしまったのを、その後復原したのが現在の池らしい。なぁんだ......じゃあもう武蔵野夫人の頃の池とは違うのだ、ってことになるけれど、溝口健二の映画に出てくるロケ地は実際この辺ではなく、東久留米市南沢の落合川流域と聞く(このポイントは僕も好みの所なので、後に訪ねる予定)。
 野川の水源にあたる湧水の池は、国分寺駅寄りの日立中央研究所内にも存在するが、こちらは決められた数日しか一般人は入ることができない。しかし、その研究所の脇あたりはJRの柵が低いので、中央線の写真を撮るには絶好の場所だ。
 姿見の池に来たとき、不意にあることを思い出した。生前長らく懇意にしていたイラストレーター・渡辺和博画伯のお墓はこのすぐそばだったはずだ。実は小金井市の回でも、野川近くの御自宅の前を通りがかってベルを押したのだが、家の人は不在だった。
 武蔵野線が向こうに見える台地の斜面に墓石が並ぶ。きちんとした明朝体で名前が彫られた墓石のなか、渡辺さんのは〈ワタナベ〉とメモっぽい手書きで記して簡単に街のスケッチを添えた......ような感じが、ヘタウマ絵で鳴らした人らしくていい(これは息子さんか娘さんの作、と伺った)。
 前に墓参したのは七回忌のときだったはずだが、傍らの記録を見ると亡くなられたのは2007年の2月......だから、もう10年になるのだ。

DSCN2541.JPG 日立研究所脇は絶好の撮り鉄スポット。
DSCN2537.JPG 渡辺和博画伯の墓。ポップなイラストが人柄をしのばせる。

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『僕とニュー・ミュージックの時代』(シンコーミュージック)などがある。

泉麻人