第八回 府中市 武蔵の国府、ここにあり

 前回(小金井市)、多磨霊園は府中市の散策のときに寄ろう......というようなことを書いたので、府中市はこちら東の方からアプローチしようと思う。
 中央線の武蔵境から西武の多摩川線に乗り継いだ。多摩川原から砂利を運ぶ目的で大正時代に敷かれた、いかにもローカル鉄道気分の路線だが、駅間が長いので単線の割にけっこう速い。風光明媚な野川の緑地を過ぎて多摩駅で降りる。この駅、20世紀の頃まで多磨墓地前と称していたのに、不動産的に墓地のイメージがよろしくないとかの理由で、ただの多磨になったのだ。尤もこの辺のタマのマは下に「石」が入る方で、どことなく墓石を連想させる。
 駅前から人見街道にそって、墓地の門前町らしい石屋が並んでいるけれど、とくに正門の前道には右先読みの古めかしい看板を掲げた店が見受けられる。東京市営の多磨霊園が開設されたのは大正12年、震災前の4月のこと。正門から入っていくと、中央の道は「名誉霊域」と名づけられ、名士の立派な墓石が並んでいる。左手に山本五十六、東郷平八郎、その先の右手には先日小金井公園(江戸東京たてもの園)で旧居を眺めた高橋是清、と日本史に名を残した偉人の墓が集まっている。


DSCN2292.JPG 多磨霊園の門前には古めかしい石屋が建ち並ぶ。
DSCN2297.JPG 多磨霊園の「名誉霊域」内に建つ山本五十六の墓。


 コピーしてきた地図には北原白秋、菊池寛、田山花袋、与謝野寛(鉄寛)......文人系の墓も表示されているが、派手な看板や矢印などは出ていないから、見つけるのはけっこう難しい。ちなみに、当日は晴れた師走の平日、午前9時台でほとんど人はいないから、武蔵野の厳そなか聖域のムードが伝わってくる。園内の西方を南北に走る壁墓地通り(途中に小さな壁型の墓石が集められた一角がある)というのに入ると、前方に小高い浅間山(せんげんやま)が見えてきた。
 目当てにしていた文人の墓の大方は見落としてしまったが、浅間山の方へ行く草深い山径の入り口に、平井家の本姓を大きく刻んだ江戸川乱歩の墓を発見した。乱歩の旧邸は池袋の立教裏に保存されているから、お墓も雑司ヶ谷あたりをイメージしていたのだが、こんな所にあったのだ......。

DSCN2310.JPG 本姓「平井」の名を刻む江戸川乱歩の墓。


 標高80メートルほどの浅間山の一帯は、新田義興・義宗軍が足利尊氏軍と戦った人見ヶ原の古戦場としても知られる地だが、人見とはこのあたりの豪族の名で、鎌倉時代末期に活躍した人見四郎の墓というのも山上に置かれているらしい。僕は麓の人見稲荷の脇をぬけて、南方の人見街道に出た。そう、わが家に近い浜田山の井の頭通りから枝分れする人見街道は、この辺が起点の道なのだ。
 そして、この道を「ちゅうバス」という府中のコミュニティーバスが通っているようなので、これに乗って府中の駅まで移動することにしよう。小金井でも乗ったけれど、こういう未知の土地を走るコミュニティーバスというのは楽しい。目の前に武蔵野らしい農家が見える浅間山公園入口の停留所で待っていると、やがて緑色の可愛らしいバスがやってきた。
 満員のバスは東府中の駅の方へ南下した後、航空自衛隊のに基地隣接した府中の森芸術劇場や美術館の方を回って、府中駅の北口に到着。僕は駅のコンコースを通りぬけて、大國魂神社へと続く、けやき並木の参道へ入った。

DSCN2318.JPG 緑色が鮮やかな「ちゅうバス」。ピンクのねずみがキャラクターとなっている。


 沿道にショッピングビルが並ぶ、原宿の表参道にあたるような門前通りだが、ここのけやき並木は東京の歴史にしばしば登場する源頼義・義家の親子が1062年の前九年の役の戦勝祈願で植えこんだのが発端らしい。前方を横断する甲州街道の旧道に門を開いた大國魂神社も、当然のごとく歴史は古い。創建は神話レベルの景行天皇41年、そして645年の大化の改新時に武蔵国の国府がここに置かれ、先の源親子のけやき伝説なども残るように、源頼朝の鎌倉時代に大いに発展する。徳川時代に海寄りの江戸がにぎわうまで、関東の政治の拠点はここだったのだ。
 入り口に〈主な年間行事〉として様々な祭事が記されている。節分祭、くらやみ祭、すもも祭、くり祭、酉の市――このなかでとりわけ有名なのが「くらやみ祭」、5月3、4、5日の日付が表示されているけれど、4月30日に宮司が品川沖の海水で身体を清め、そこで汲みとった海水を神社に持ち帰る(祭の期間、これをお清めの水として使う)というところから始まる長い祭事なのだ。当初、山場の5日の夜更け、町全体の灯りを消して、暗闇のなかで神輿の渡御が行われたことからこの名が付いたらしい。いまはさすがに町規模の消灯は無理だが、暗い参道を提灯の灯りを頼りに神輿がする行進する様は幽玄な風情があって、府中や小金井のケーブルTVから発展したジェイコムのチャンネルではひと頃まで延々と祭の生中継をやっていた。
 ま、そういう祭の日はともかく、直線の参道の正面に本殿、左右に小さな神社や神楽殿などがきちんと対称的に配置された境内はあまり散歩していて面白くない。西側の参道から府中本町駅の方へぬけたが、この辺も古い建物は乏しい。もう少し昔の町並を大切に残しておけば、多摩の鎌倉的な観光地になったろうに。どうも残念な古都である。

DSCN2319.JPGけやき並木が続く、大國魂神社の門前通り。
DSCN2323.JPGきれいに整備された大國魂神社の長い境内。


 府中本町の駅上を渡る道は鎌倉街道。道幅の広い新道だが、南方の関戸橋で多摩川を渡って、ずっと鎌倉方面まで続く街道だ。この沿道に新田義貞(人見ヶ原の兄弟の親)と幕府側の北条泰家勢との戦で知られる分倍河原古戦場がある。そして、途中のサミットなんかが収容された巨大ショッピングモールの横を入った所に分倍河原駅があって、この駅前広場に馬上の新田義貞像が建立されている。
 ところで分倍河原という地名、子供の頃に京王線で多摩動物園に遊びに行った当時から耳に残っていた。町名は分梅と綴り、梅伝説なんかも絡んでいるのかもしれないが、ブバイとカタカナにすると中近東やインドっぽいイメージも浮かぶ。中央高速の下をくぐった先に古戦場にまつわる石碑が置かれていたが、すぐ脇を小川が枝分れするように流れ、あたりが多摩川沿岸の低湿地だったことが想像される。新田の戦の時代は広大な多摩川原だったのだろう。

DSCN2330.JPG 分倍河原駅前に建つ新田義貞像。
DSCN2337.JPG かつて分倍河原が古戦場だったことを示す石碑。


 と、鎌倉時代の話が中心になったけれど、府中というと僕の世代は鎌倉時代よりずっと後、およそ50年前の事件がまず思い浮かぶ。昭和43年、1968年の12月に起こった三億円事件である。あの事件の発生現場は北府中駅から近い府中刑務所の脇だった。府中本町から武蔵野線に乗って北府中で降りる。駅のすぐ左手には奪われた三億円のボーナス支給先だった東芝の大工場がいまも広がっている。
 ちなみに正確な事件発生日は12月10日、この取材日は2016年の12月12日だから、ほぼ48年前の出来事ってことになる。
 武蔵野線と並走する府中街道をちょっと北上、いま学園通りと名づけられた横道を少し入ったあたりで、現金輸送車のセドリックは白バイのニセ警官に車ごと奪われた。行ってみると、片側に刑務所の塀が延々と続く構図は当時と同じだが、黒灰色のコンクリート塀は白い新建材風の塀に変わって、なんだか随分カジュアルな感じになった。澄みきった青空が広がる快晴の天候も明るい雰囲気に拍車をかけているのかもしれない。繰り返しニュースで報道された、事件発生時の現場は冬の雨が寒々と降りしきっていたはずだ。

DSCN2281.JPG 昭和の怪事件・三億円事件の現場となった府中刑務所の脇。

 

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人