第五回 三鷹市 ジブリの森と人喰い川の文士

 三鷹を歩こうと思って吉祥寺へやってきた。おや? 吉祥寺は武蔵野市ではないか......と思われるかもしれないが、南口に出て井の頭通りを渡ってマルイの横道を入っていくと、井の頭公園の敷地から向こうは三鷹市なのだ。近頃建て替えてきれいになったヤキトリの「いせや」までは「武蔵野市吉祥寺南町」なのだが、すぐ横の階段を降りて一歩井の頭公園に足を踏み入れたところからは三鷹になってしまう。ちなみにこの公園、池の西方から自然文化園にかけてはまた武蔵野市の領域でややこしい。
 最近浄化が施されてグッときれいになった池に架かる七井橋を渡って、隅っこの出島のようなところに祀られた弁財天に立ち寄る。水神の弁財天は各所に安置されているけれど、ここ井の頭は江戸へ水を供給していた神田川の水源だから、この弁財天は江戸市中から人々が参詣に訪れる筋金入りのパワースポットだった。当日も僕の前にパワスポ信仰者らしき若いカップルがお参りしていたけれど、そういえばここの池でボートに乗ると恋愛が破綻する......なんて伝説はまだ生きているのだろうか。
 僕はデートで井の頭公園へ来たことはなかったけれど、小学1、2年生の頃の遠足でやってきたとき、弁当を食べた場所に水筒を置き忘れて、泣きそうになりながら捜しまわったおぼえがある。
 水筒を捜したときの光景がぼんやりと残る森の奥の方へ進んでいくと、玉川上水の手前の小高い一角に〈松本訓導殉難の碑〉という古い石碑が建っている。
 これは僕が水筒を必死こいて捜した昭和30年代末の遠足より50年近く前の大正8年、秋の遠足で訪れた永田町小学校の児童が遊んでいるときに玉川上水に転落、助けようと水に入って急流に飲まれ命を落した、松本虎雄という若き訓導(教師)を偲んだもの。昭和戦前の頃までは、美談として広く知られていたらしい。


DSCN1888.JPG 井の頭公園へと続く道。階段を下った公園敷地内からは三鷹市になる。右手に見えるのが「いせや」。
DSCN1894.JPG井の頭池の中にある弁財天。デート中のカップルがお参りをしていた。


 松本殉難碑のあるあたりは武蔵野市の領域なのだが、玉川上水の向こう岸はまた三鷹市内で、グランドの脇の林間を進んでいくとやがてジブリ美術館が見えてくる。ご存知、宮崎駿とジブリ映画作品の資料を展示したテーマパーク型のミュージアム。21世紀(2001年)にオープンした物件だが、井の頭の森の環境に、大昔からあったように定着している。
 吉祥寺通りの万助橋の所から玉川上水南の三鷹市側の道(風の散歩道)を歩いていくと、左手に山本有三の旧邸を使った記念館が建っている。
 三角屋根、スクラッチタイルの壁、サンタさんが入ってきそうな煙突......ジブリファンにもウケそうな可愛らしい洋館は大正15年に建築されたもので、昭和10年代からGHQに接収される終戦直後まで山本有三が暮らしていた。「路傍の石」はここで書かれたもので、門前には当時山本が中野あたりで発見して運んできたという、「路傍の石」と名づけられたゴツイ石が置かれている。山本有三、個人的には「路傍の石」より、僕が小学生の頃に復刻された「日本少国民文庫」のシリーズの「心に太陽を持て」が懐かしい。


DSCN1906.JPG 宮崎作品の世界観そのままのジブリ美術館の建物。


DSCN1913.JPG万助橋の名は小田急バスのバス停名にもなっている。
DSCN1915.JPG大正築の洋館が美しい 山本有三記念館。


 さて、この館のちょっと先、むらさき橋のあたりは太宰治が入水自殺した場所だ。すると、そのとき山本有三はすぐそばにいたのか? 一瞬思ったが、太宰が死んだのは昭和23年6月13日。山本邸はGHQにぶんどられていた時期なのだ。ところで、むらさき橋の橋上から眺めても、いまの玉川上水はヤブのなかに細流が垣間見えるだけで、とても入水自殺が遂げられるような環境ではないが、先の松本訓導が"急流に飲みこまれた"ように、昭和30年代初め頃までは水量も豊かで、流れも速かったという。太宰は「乞食学生」という作品のなかで松本訓導の件にふれている。
「万助橋を過ぎ、もう、ここは井の頭公園の裏である。私は、なおも流れに沿うて、一心不乱に歩きつづける。この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。」
 これ戦前(昭和15年)の作というが、かなり意味深な内容だ。
 むらさき橋の近くに、太宰の故郷・青森県金木町(現五所川原市)産の玉鹿石がひっそりと置かれているだけで、さすがに入水地を示す派手な目印はない。そして、上水ぞいの道はまもなく三鷹駅に行きあたる。地図で確認すると、駅の中央をスパッと斜めに玉川上水が横断している。こういう構図の駅もちょっと珍しい。上水に分断された北東側は武蔵野市で、南西側が三鷹市。
 小田急バスが並ぶ南口のターミナルを過ぎて、三鷹駅前郵便局の表示が出た五差路のサンクス脇も細い道に進路をとろう。逆一通のこの道、禅林寺通りのプレートが掲げられているように、どんづまりに三鷹の名刹・禅林寺がある。マンションが林立する、地味な路地ではあるけれど、ほとんどのマンションが"禅林寺"の名を掲げているのを見ると、このお寺が土地のブランドであることがわかる。
 三鷹幼稚園という歴史を感じさせる幼稚園の先に、禅林寺の塀と小さな扉が見えてきたが、この裏戸は閉ざされていて、こちら側からは入れないようだ。右手の三鷹通りに面した八幡神社の境内を通りぬけて、南側に開いた山門から禅林寺へ入った。


DSCN1922.JPG 「禅林寺通り」を示すプレート。禅林寺は一帯のシンボル的存在。
DSCN1929.JPG三鷹の名刹・禅林寺の山門。モダンなデザイン。


 この寺の名所は、本堂裏の墓地に存在する太宰治と森林太郎(もり・りんたろう/森鴎外)の墓。太宰の墓がココにあるのは地縁として、森の墓は関東大震災の被災後に向島・弘福寺から移された。鴎外と三鷹の地の深い関係はないようだ。もう一つ、この墓地には太宰の死の翌年に起こった謎多き鉄道事件・三鷹事件の遭難者慰霊塔が建っている。
 文豪の墓ばかりでなく、この寺には一帯の下連雀や上連雀の地名との深い由緒がある。連雀の名は、いまも神田須田町の「やぶそば」や「いせ源」などが集まるグルメ地帯の俗称として残る連雀町が源。明暦の大火で焼け出された神田連雀町の人々がこのあたりに移住、その際の宗門改め(戸籍異動)の届出場所として設けられたのが禅林寺の発祥とされる。そもそも三鷹の駅も、昔の禅林寺の敷地の一画に作られたというから、よほど広大な寺だったのだ。
 寺を出て、500メートルくらい南へ歩くと人見街道に面したところに市役所が建っている。人見街道は府中の浅間山の方まで続く古い道。野崎を過ぎたあたりからは沿道に昔ながらのケヤキの並木が目につくようになって、武蔵野らしい気分が味わえる。
 この辺は、また改めて散歩することにしよう。


DSCN1933.JPG森鴎外の墓。森林太郎は鴎外の本名。
DSCN1936.JPG 太宰治の墓。命日である桜桃忌にはファンが多く集まる。

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人