桃源郷に咲く花

2019/06/20
 日本語名はカルミア、または、アメリカシャクナゲとも呼ばれている。
 小さな花が集まって、手毬のような形になって咲く。つぼみはまるで金平糖のように可愛らしい。色は白か薄いピンク。
 家のまわりで、野生のマウンテンローレルが咲き始めると、「ああ、今年も夏がやってきたな」と感じる。

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 不動産屋のスタッフに案内されて、ウッドストックの町はずれにある森の家を見に来たのは、今から二十二年前のことだった。
 季節は秋の終わり。森の木の葉は思い思いに色づいて、黄金色の陽射しが降りそそぐなか、気まぐれな風にあおられて、はらはら、くるくる、舞い落ちていた。
 目の前には野原が広がり、その向こうには池や林があり、裏庭はそのまま深い森につながっている、ぜいたくなまでの自然に恵まれた土地と、素朴な山小屋風の家がひと目で気に入って、私たちはこの森の家を購入することにした。
 それまで住んでいた学園町から、家族の一員である猫を連れて、車で七時間ほどかけて引っ越しをし、雪にうずもれた森で新年を迎え、待ち遠しかった春が来て数ヶ月後、六月の半ばのある朝のことだった。
 いつものように起きて、二階の寝室の窓辺に立ったとき、
「うわあっ」
 と、思わず声を上げてしまった。
 最初に思ったことは「白くなっている」だった。
 森の底が白くなっている。そこら中、白く染まっている。白い花が咲いている。いっぱい咲いている。あれはいったい、なんの花なのだろう。
 そこまで思ったとき、私は思い出した。
 これがマウンテンローレルなのか。

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 家を買ったとき、不動産屋さんから手渡された説明書には、家の間取りやデザインや敷地の広さや周辺の環境などが事細かに記されていた。その末尾に「たくさんのマウンテンローレル」という言葉が添えられていた。そのときには特に、気にとめることもなかった。マウンテンローレルがどんな植物なのかも知らなかった。
 寝室のガラス窓をあけて、バルコニーに出た。
 今度は、感嘆のため息が漏れた。
 ロッツ・オブ・マウンテンローレル......。
 あの言葉は、こういう意味だったのか。

 引っ越してからその日までの半年ほど、私も夫もそれぞれに忙しかった。
 忙しい仕事と仕事のあいまに、生活をととのえるための雑事に追われ、森の自然を楽しむ心のゆとりもなかった。だから、家のまわりで、マウンテンローレルのつぼみが膨らんでいっていることにも気づかないままでいたのだった。
 マウンテンローレルは低木の常緑樹で、背の高い樹木と樹木のあいだを縫うようにして、森全体に広がっている。枝という枝にびっしりと花をつける。その咲きっぷりは、咲きそろう、でもなく、咲き乱れる、でもなく、まさに、咲きこぼれているという感じ。

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 呆然と見とれているとき、ふっと頭に浮かんできた言葉があった。
 桃源郷。
 それまで私は「桃源郷」という言葉は知っていても、自分の目でそれを見たり、実感したりしたことはなかった。つまり私は「桃源郷」という言葉を、真に理解してはいなかったと言える。
 たった今、理解できたと思った。
 これが桃源郷というものだったのだ、と。
 「桃源郷」の語源は、現代から遡ること千六百年以上も前に、魏普南北朝時代の中国で活躍した詩人、陶淵明の作品『桃花源記』によるものらしい。陶淵明によれば、桃源郷とは神仙郷でも理想郷でもなく、目的意識を持って追求しても、たどり着けるような現存の場所ではないという。彼は、日常の暮らしを何よりも大切なものと考え、書物を通して、神話の世界を自由に飛翔することに喜びを見出していた。その結果として、心の中に生まれいずるのが桃源郷なのである、と。桃源郷は心の外には存在しない。探そうとすればするほど、それは見つけにくくなる、と。
 その桃源郷が、今、私の目の前に広がっている!
 毎年、六月の半ばごろ、マウンテンローレルが咲き始める季節になると、私はひとり庭に出て、しばし桃源郷に心を遊ばせる。私はキリスト教徒ではないけれど、天国とは、こういうところなのではないかと思ったりする。今は亡き祖母と、私たちの可愛がっていた亡き猫が、天国で戯れている姿を想像しては、心を和ませている。

 ある年の六月、うちに遊びに来た、花の好きな友人が、マウンテンローレルの美しさに魅了され、ひと株だけでいいので持ち帰って、自分の家の庭に植えてみたいと言った。彼女はうちから車で三十分ほど離れた、町の中に住んでいる。
「こんなにたくさん生えているんだもの、いくらでもどうぞ」
 と、私はすすめた。
 私も彼女を手伝って、シャベルで地面を掘り返し、はしっこの方の若い何株かを植木鉢に収めて、持って帰ってもらった。
 数ヶ月後、彼女からメールが届いた。
 ──植えかえは成功したようです。元気に葉っぱを広げています。ふかふかの土の中に植えて、お水も肥料もたくさんあげています。
 ──来年の六月が楽しみね。
 と、私は返事を書いて送った。
 残念ながら、次の年の六月、彼女の庭に植えかえたマウンテンローレルは、花を咲かせなかった。咲かなかっただけではない。葉はしだいに茶色っぽくなり、縮んでしおれて、夏の終わりには木全体が枯れてしまったという。
 ──野生だから、強いはずなのに、どうしちゃったんでしょう。
 と、彼女は書いていた。
 あわてて調べてみると、マウンテンローレルは「痩せた土地でも、少ない水分でも、生きていける。幾重にも降り積もった枯葉が、根を保護する役目を果たしている。ただし、極端なまでの水はけの良さが必要。移植には弱い」とのことだった。
 ということは、ふかふかの土も、水も肥料も要らないということだ。それよりも、水はけの極端に良い山の斜面と、降り積もる落ち葉が必要だったのだ。
 移植に弱いのは、根のせいだろう。マウンテンローレルは、森の地面を這うようにして、四方八方に根を伸ばしている。根は縦に深く伸びているのではなくて、浅く横に伸び広がっている。このあたりの山は、ブルーストーンと呼ばれている岩山で、決して豊かな地質ではない。岩が多いから、当然、根は縦には伸ばせない。移植しようとすれば、どうしても、横に伸びている根をどこかで切ってしまうことになる。
 そういえばこの花は、切り花にして花瓶に生けて飾っても、なぜか、それほど美しくない。すぐに花が弱ってしまうし、枝はまっすぐではないし、葉っぱにも虫に食われたあとや茶色になっているところが多い。森で咲いているときには、あんなにもきれいなのに。
 こんなにも豊かに、ありあまるほど花を咲かせている木は、この森でしか生きていけない。

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 そう思うと私は、野生の強さと同時に、その儚さに胸を打たれる。
 人もそうかもしれないなと、ふと思う。
 人もまた、その人にもっともふさわしい場所で生き、自分の好きな土地に根を張ってこそ、見事な花を咲かせることができるのだろう。
 そうなのだ。花を咲かせるためには、根を張らなくてはならない。どんなに美しい桃源郷にも、地面と根が必要だ。そして、どんなに強い根を持ち、美しい花を咲かせても、その命は決して永遠ではない。
 人と同じで、植物もまた、生まれたときから死を孕んでいる。
 だから私は、その限りある「生」を精一杯、愛したいと思う。桃源郷に至るまでの道ばたに咲いている、名もない一輪の花を慈しみたいと思う。

写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。