春を告げる声

2019/04/05
 毎年、三月の半ばを過ぎた頃か、終わりに近い頃、森や野原にはまだ、凍りついた雪がぶあつく積もっているものの、真昼の陽射しには明らかに、春の気配が漂い始める。少しずつ、陽が長くなってくる。太陽の光をできるだけ有効に使いましょう、という目的によって、「デイライト・セイビング・タイム」──いわゆるサマータイム──が始まるのもこの頃。サマータイムの開始日には、時計を一時間、前に進める。日本との時差は、十四時間から十三時間に縮まる。
 私のランニングの格好も、レッグウォーマーなし、帽子や手袋や下着や上着もそれぞれ一枚ずつ減って、足取りも心も軽くなってくる。
 それでも、朝晩はまだまだ冷え込みがきつい。日中はあたたかくても、夜間の気温は零下まで下がる日が多いし、雪が舞ったり、吹雪になったり、雨がみぞれに変わったり、あられがバラバラ落ちてくることだってある。昼間に溶けた雪が夜には凍結してしまうので、車の運転は、雪道よりもかえって危険が増す。
 春もまだやってきていないというのに、スプリングを飛ばして「サマータイム」だなんて......。「夏」という言葉が恨めしくなって、窓の外に立っている寒そうな裸木たちを眺めながら、私はついぼやいてしまう。
 春よ、おまえはどこからやってくるの?

 答えは「空から」である。
 ある日、ある朝、空のかなたから、声が降ってくる。
 降ってくる、というよりも、湧いてくる、というべきか。
 グワグワグワとも聞こえるし、オワオワオワ、あるいは、アワアワアワとも、ワオワオワオとも、ウォーウォーウォーとも聞こえる。いや、グエーグエーグエーか。
 こうして文字にしてしまうと、あの力強さ、あの生命力、あの湧き出てくる命の泉、みたいな雰囲気がまったく言い表せていない気もするのだけれど、何はともあれ、ランニングの足を止めて、私は棒立ちになったまま空を見上げる。
 どこにいるの? どこから来たの? どこまで行くの?
 整然と縦一列に並んで、一糸乱れることなく突き進んでいく隊列。アルファベットのVやXやYやZを形づくっていることもあるし、よく見れば「女」という漢字に、見えないこともない(私は太宰治の『人間失格』を思い出している)。
 声を出しているのは先頭を飛んでいるリーダーで、それに応えるかのように鳴いているのは、最後尾を守りながら飛んでいるサブリーダーなのではないか。私の目には、そのように映っている。
 声の主は、空を渡ってゆくカナダグースたちである。
 カナダグース、というからには、カナダ生まれの鳥なのだろうか。

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 白鳥よりもひとまわりほど大柄な水鳥で、全体的には薄茶色に見える。長い首と頭の一部が黒くて、頰のあたりが白い。人間で言えば「おしゃれな人」という感じ。スタイリッシュな鳥である。日本の雀や烏と同じように、このあたりでは、池、湖、川など、水のあるところならだいたいどこでも見かけられる、おなじみの鳥でもある。
 毎年二回、春と秋の初めに、空を渡ってゆく。
 春になるとカナダへもどっていき、秋になるとカナダから渡ってくる。
 私は長年、そう思い込んでいたのだけれど、どうもそうではないらしい。確かに、春から夏にかけて子育てをしている姿をよく見かける。ということは、子育てをするために、寒いカナダから渡ってきて、秋になるとカナダへもどっていくのか。そういえば「遠いところへは渡らず、ただこのあたりの空をみんなで揃って飛んでるだけだよ」なんて言っていた知人もいたっけ。
 真偽のほどは定かではない。私には、そんなことはどうでもいい。
 カナダグースの声は「もうじき春が来るよ」と、私に教えてくれる。
 それだけでいいのである。

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 ほどなく四月がやってくる。
 カナダグースのあとを追うようにして、しかし今度は空からではなくて大地から、別の声が湧き出てくる。グースに勝るとも劣らない、切なくも激しい命の鼓動。地面から湧き出た声は、まさに天まで届くかのように、そこら中に響き渡る。
 グエグエグエ、グワグワグワ、ゲロゲロゲロ......
 なんだか、グースに似ていると言えば似ている、きわめて原始的な声に、ピーピーピー、ヒーヒーヒーというような、優しげな儚げな声が混じっている。
 前庭の奥にある池──雨水と湧き水によって自然にできた池──の氷は、まだ半分ほどしか溶けていない。池のまわりの枯れ草の上にも、ところどころ、雪の塊が残っている。その雪の塊に向かって、空から突き刺すように降ってくるのは、まぶしい光の雨である。あたかも「土砂降りの光」と呼びたくなるような。
 光の束を受け止めながら、声の主たちは懸命に「春が来たよ」と告げている。
 過去の日記帳をめくってみると、最初の「お告げ」は、なぜか、お釈迦様の誕生日、四月八日であることが多い。たいへんに不思議だ。「あの子たち」には、仏性が宿っているのだろうか。そうに違いない。
 私にとってはすでに「あの子たち」としか思えないほど愛しく、親しくなってしまった蛙たちの声。春の季語にもなっている「初蛙(はつかわず)」である。

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 ひとくちに「蛙」と言っても、人間と同じように、さまざまな顔があり姿形があり、違った鳴き声があり、異なった性格があり、豊富な種類がある。
 真夏になってから、「モーッ、モーッ」と、牛のような唸り声を上げているのは牛蛙。ほっぺたのところに五円玉みたいな丸いものがくっついているのは銭蛙(これは私の命名)。雨降りの日に姿を現す緑色の小さな蛙は雨蛙。夏の夕暮れ時に可愛らしい声で鳴いているのは河鹿蛙。
 まあ、それくらいなら、私にも区別がつくのだけれど、図鑑を見てみると、そんなヤワなものではない。何十種類、いや、何百種類もの蛙がいて、それぞれにちゃんと名前がついているではないか。
 たとえば、先に「優しげな儚げな声が混じっている」と書いたのは、スプリング・ピーパーという名の蛙である。この蛙の場合、めすはうすいピンク色をしていて、めすの背中に、灰色のおすが乗っかって生殖活動をする。大きなめすが、背中に小さなおすを乗っけたまま、ゆらゆら泳いでいる姿は実にユーモラスで、見かけると、失礼ながら笑いを禁じ得ない。
 それまで池のほとりで冬眠していた蛙たちがいっせいに目を覚まして、いちばんにすることはこの活動であり、その成就のために、あのような鳴き声を上げているというわけだ。先に「切なくも激しい命の鼓動」と書いた理由は、ここにある。蛙たちの鳴き声は、おすがめすを求める切実なラブコールなのである。
 やるべきことを済ませた蛙たちはその後、いったん静かになる。静かになった池を訪ねてみれば、そこには蛙の卵がぎっしり。無数の卵は、池に落ちて沈んでいる枯れ枝に産みつけられている。枯れ枝一本にも存在意義があるのだなと、私は感心してしまう。森には無駄なものなど何ひとつないのだ、と。
 フロッグ(frog)のほかにも、トウド(toad)という種類の蛙がいて、いぼがえる、ひきがえる、がま、などがこれに当たるようである。
 それにしても、四十歳を過ぎてから、自分が蛙に興味を抱いて、『北米両生類図鑑』を買い求めることになろうとは、渡米前には想像もつかなかった。池には、蛙のほかにも、小さなとかげに似たサラマンダーや、亀が棲んでいるし、池のまわりには、オレンジ色をした可愛いいもりや、大小さまざまな蛇もひそんでいる。そのような生き物たちがみんな「あの子たち」になろうとは。

 おすがめす(の背中?)を求めて、切なげな声をふりしぼって鳴いている、四月の初めの夜。
「今年もやってきたなぁ、初かわずが」
「古池や、かわず飛び込む、水の音だね」
「痩せ蛙、負けるな一茶、ここにありだよ」
「ねえ、知ってた? 蛙の夫婦ってね、いったん夫婦になると、片方が死んだあともずっと相手のことを思いつづけて、一生独身を貫くんだって」
「え? ほんと? それって、鳥の話じゃないの。鴨とか、グースとかは、確かにそうだと聞いてたけど、蛙もそうだったんだ?」
「そうなのよ。蛙って、律儀で健気で愛が深いのよ」
「知らなかった......奥が深いんだな、蛙の世界も」
 無垢な夫に、まっ赤な嘘を教えるのもまた楽しからずや。
「街や車の騒音はうるさくて安眠妨害になるけど、蛙の大合唱はどんなにうるさくても、安眠できるよね」
「愛の歌だからね、あれは」
 これからしばらくのあいだ、蛙たちの声が、私たちの子守唄になってくれるだろう。

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写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。