I Shall Be Released

2019/02/05
 世界でいちばん小さくて、世界でいちばん有名な町
 ウッドストックの町の観光案内パンフレットには、そんなキャッチフレーズが掲げられている。世界でいちばん、かどうかはわからないけれど、確かに有名だし、確かに小さい。町というよりも村、 もしくは里というべきか。
「グリーン」と呼ばれている広場──ここがバス停にもなっている──を中心にして、すみからすみまでゆっくり歩いても、せいぜい二十分ほどしかかからない。
 通りに沿って、レストラン、カフェなどが数軒、パン屋さんと本屋さんが一軒ずつ。そのほか、アートギャラリー、帽子屋さん、靴屋さん、蝋燭屋さん、Tシャツ屋さん、健康食品店、刺青屋さん、カップケーキ屋さん、各種ギフトショップなどがちまちまと並んでいる。お店はすべて一軒家。町の美観を守るために「いかなるビルも建てさせない」「ファストフード店はお断り」「看板は規定のサイズ以下」という厳しい決まりがあるからだ。自称アーティストがたくさん暮らしている。週末になると、主にマンハッタンからの観光客で、町は大層にぎわっている。

Tシャツ屋さん.jpg

 日本人の知人に「ウッドストックに住んでいます」と私が話すと、返ってくる答えはたいてい「えっ! ウッドストックって、あの、ウッドストック?」である。「あの」の意味は「伝説のロックコンサートの」あるいは「ロックの聖地の」。五十代以上の人は「なつかしいなぁ」と遠い目になっているし、若い人はあこがれのあまりか、瞳をキラキラさせている。
 ウッドストックは、本当にロックの聖地なのか?
 私の答えは、イエスでもないし、ノーでもない。
 なぜ、こういう答えになるのか。
 長くなるけれど、順番に書いてみよう。
 伝説のロックコンサートが開催されたのは、今からさかのぼること五十年前、一九六九年の八月だった。正式名称は「ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバル」。
 主催者は当初、一万人から二万人程度の集客を予想していたが、ふたをあけてみると、なんと全米から四十万人もの人々が押し寄せてきたという。
 それもそのはず、十五日の午後から始まって、途中、大雨などにより何度か中止を余儀なくされながらも、十八日の朝までつづいたこの野外ロックフェスに登場したのは、ジョーン・バエズ、サンタナ、グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ザ・バンド、クロスビー・スティルス&ナッシュなどなど......で、トリを務めたのはジミ・ヘンドリックスという、そうそうたる顔ぶれ。
 このニュースは、当時、地球の反対側で田舎の中学生をやっていた私の耳にも届いた。「アメリカで、若者たちが大集結して、何かすごいことが起こっているらしい」と。
 近年、ウッドストックで暮らすようになってから観たドミュメンタリー映画『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』からも、その熱気はむんむんと伝わってくる。
 何しろ会場では赤ん坊まで──しかも複数──生まれたというから驚きだ。結果的に、このコンサートは、アメリカの文化と政治を揺り動かした。若者たちのパワーは、従来の価値観や既成概念を壊そうとする運動、いわゆるカウンター・カルチャーの原動力になり、出演者と聴衆たちの謳い上げた反戦運動は、アメリカ全土に、世界中に広がっていき、ついにヴェトナム戦争を終結させるに至ったのである。
 ここまでが、歴史のお勉強。
 ここからが「ウッドストックは、果たしてロックの聖地なのか?」の答えになる。

平和のドラムその3.jpg

 結論から書こう。
 ウッドストックという町は決して聖地ではない。
 なぜなら、伝説のコンサートの開催された場所は、ウッドストックから約六十七マイル(一〇八キロ以上)も離れた、ウッドストックとは縁もゆかりもない、べセルという村にある農場だったのだから。
 主催者たちはもともと、ボブ・ディラン(なぜか、コンサートには出演していない)や、ザ・バンドのメンバーたちの暮らすウッドストックに、レコーディングスタジオを設立しようと目論んで、その資金集めにフェスティバルを企画したという。つまり、ウッドストックとは、コンサートの名称に過ぎず、実質上の聖地はヤスガー農場だったというわけなのである。

ザ・バンドの写真.JPG

the_band_second.jpg ザ・バンドのセカンドアルバム

 それにしても、名前とは、不思議な力を持っているものだと思う。
 もしもコンサートの名称が「ヤスガー農場ミュージック・フェスティバル」であったなら、果たしてそこが「伝説の地」になったかどうか。
 ウッドストックという名前の町で暮らしているからには、一度はヤスガー農場をこの目で見ておかねばなるまいと思って、十数年ほど前だったか、聖地を訪問したことがある。 なるほど、ここなら、軽く四十万人の人たちが集まれるだろうと思えるような、だだっ広い農場だった。土地にはゆるやかな起伏があって、丘の下から見上げると、緑の草原が空のかなたまでつづいているように見えた。

青空市(ヤスガー農場に注目を).jpg

 夏草や兵どもが夢の跡──。
「なぁんだ、こんなところか。見事なまでに、何もないところだねえ」
 夫も私も啞然として、口をぽかんとあけていた。なんだか拍子抜けしてしまった。そこには、本当に何もなかった。天晴れと言いたくなるような、あっけらかんとした広さである。
 入り口付近にぽつんと、星条旗が立っていた。真昼の星たちが風に揺れている。見るべきものと言えば、国旗掲揚台の台座の部分に刻まれている出演者の名前だけ。
 人っ子ひとりいない草原のまんなかに立ったとき、私の脳裏にふっと浮かんできたフレーズがあった。
 ──そこにはただ、風が吹いているだけ。
 はしだのりひことシューベルツの『風』のサビである。

広場で毎年開かれている平和のドラム.jpg

 このエッセイを書くに当たって、かつてボブ・ディランとザ・バンドのメンバーたちがいっしょに暮らしていたという家を見に行ってきた。
 六〇年代当時は大きな家だったからだろうか、「ビッグ・ピンク」と呼ばれている家は、ウッドストックの中心地から、車で十五分ほど走ったところにあった。現在は宿泊施設になっているらしい。
「なぁんだ、こんなところにあったのか。ここって、いつも僕がランニングしているエリアだよ」
「私道には立ち入り禁止って書いてあるけど、どうする?」
「歩いて入れば問題ないだろう。奥にはほかにも家があるようだし」
「近所の人から何か言われたら、『日本人の友人にザ・バンドの大ファンの人がいて、ぜひ見てきてほしいって頼まれたんです』って言うわ」
 実はこの言い訳、嘘ではない。彼は中学時代からザ・バンドの「スルメのような味わいのある」音楽に魅了されつづけてきたという。
 表通りに車を停めて、林の中に分け入るようにのびている長い私道を歩いていくと、突き当たりに、ピンクとは言えないような、くすんだベージュの外壁の家が見えてきた。決してきれいとは言えない、豪華とも言えない、貧相な家である。

ビッグピンク1-1.jpg

 あたりは鬱蒼とした森。かなたにはキャッツキルの山々がそびえている。
 まさに、自然のふところに抱かれたようなこの家の中で、若かりし頃のボブ・ディランと、ザ・バンドの五人のメンバーたちが、ギターをかき鳴らし、ドラムを叩きながら、歌い、叫び、吠え、語り合っている姿を想像してみた。
「うん、なんかいい味、出してるよね、この家。あの頃の雰囲気、あるよね」
「あるある。貧しくても、夢だけはあったんだよね」
 気分はたちまち、七〇年代、高校生だった私にもどっていく。
 何を隠そう、この私も、おこづかいを貯めて買ったギターをかかえて歌う、フォーク少女だった。吉田拓郎、南こうせつとかぐや姫、泉谷しげる、五つの赤い風船、ザ・フォーク・クルセダーズ、北山修、加藤和彦、ジローズ、赤い鳥、加川良、岡林信康(以上、年代不順。思い浮かんできた順です)......
 岡山県内でも指折りの受験校として知られる高校に通っていた私は、一刻も早く、大学受験を突破して、自由になりたいと思っていた。厳しい校則からも受験戦争からも、両親からも岡山からも、劣等感からも自己嫌悪からも、何もかもから解放されたいと。
 大学を卒業し、社会人になってからは、勤めていた会社から、日本社会から、女性であることから、自由になりたいと。
 あれから四十年あまりが過ぎて、今、ザ・バンドとボブ・ディランの歌う『I Shall Be Released』を聴きながら、この文章を書きながら、私は思っている。
 生きづらかったのは、時代のせいではない。社会のせいでもない。
 息苦しかったのは、自分で自分を締めつけていたからなのだ。支配されていたのではなくて、私は私を支配しようとしていた。六十代になって私はやっと、自己支配から解放されようとしている。「ウッドストック」と名づけられた空間──空と大地のあいだ──に集結した若者たちの古い歌声が、新しい風になって、私の胸に染み通っていく。
 私は、私の内面で、輝き始める光を見ている。

看板.jpg

写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。