どんぐりを握りしめて

2019/01/21
 上半身には、アンダーシャツ二枚と、毛布みたいな生地でできているトレーナー一枚、首にはマフラーをぐるぐる巻きにして、その上から、防水加工のしてあるウィンドブレーカー(フード付き)を着込む。下半身には、五本指のソックスの上からパンティストッキングとタイツとレギンスを履いて、膝から下にダウン製のレッグウォーマーを装着する。足もとにもう一足、ぶあつい靴下を。頭には耳まで隠れる毛糸の帽子を二枚、手には手袋を二枚。さあ、これで、靴を履いて、顔の三分の一ほどが隠れるサングラスをかけ、毛糸の帽子の上からフードをかぶれば、装備は完了。
 着ぶくれした雪だるまのような格好になって、いったいどこへ出かけるのか?
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけて」

ドライブウェイ(冬).jpg

 時は一月の半ば過ぎ。大寒と夫の誕生日(一月二十一日)が近い。気温はこのところ、毎日のように零度から一桁台をさまよっている。アメリカでは華氏が採用されているので、摂氏に換算すると、マイナス十二度から十七度。外へ出ると、吸う息も吐く息もすぐさま凍って、鼻と口のまわりがシャリシャリしてくる、と書けば、どれくらい寒いか、わかっていただけるだろうか。
 それでも私は走りに行く。
 酷寒にも負けず、零下の気温をものともせず、雨の日も風の日も、もちろん雪の日も重装備で、軽快に走る。
 週に五日(残りの二日は長い散歩または山登り)。時間にして、一時間ほど。時間帯は、午後一番のことが多い。夏の午後は暑くて蒸すので、夏場だけは午前中に走る。冬場は当然のことながら、積雪や凍結によって、道路の状態が悪くなる。しかし、悪天候など、どこ吹く風。走り始めると、雨も風も雪もみぞれもあられも気にならなくなるから不思議だ。

カントリーロード2.jpg

 コースは「ここからここまで」と、自分で決めている道路が何本かあって、いずれも、スタート地点までは車で行く。仕事が忙しい日は、自宅から車でわずか一、二分だけ坂を下ったところに駐車し、森の中にのびている小道を走る。ここは未舗装の土の道なので、豪雨や積雪や凍結に見舞われると、走りにくくなる。ほかには、湖の畔を走るコースや、近所のカントリーロードを走るコース。これらはアルファルトで舗装されているので、悪天候の日でも走れる。
「行ってきます」
「え、行くの? こんな日に?」
「うん、行ってくる」
 走ることが、自分に課した義務から習慣になり、いい意味での癖になり、苦行から楽しみに変わり、走っているだけで喜びを感じるようになり、今では、何があっても走らないではいられない、体がランニングを求めている、ランニングが切れたら禁断症状に陥る、つまり、非常にいい意味でのランニング中毒になっている。着替えの手間を省くために、朝、起きたときから、ランニング用の上下を着て原稿を書いている(今も)。
 少し風邪気味かなと思っていても、一時間ほど走り終えたあとには、すっきり治っていたりする。心配ごと、悩みごと、嫌なこと、気になっていること、未解決の問題、心に何かもやもやすることがあるとき、私の場合、ランニングほど効く薬は、ほかにはない。走り終えたあと、心には雲ひとつない青空が広がっている。
 こうなるまでにはしかし、長い年月がかかった。

近所の道路2.jpg

 ランニングを始めたのは、ちょうどウッドストックに引っ越してきた年だったから、今から二十年あまり前のことである。
 渡米後、車社会で暮らすようになり、運動不足がたたって、あっというまに肥満状態になってしまった。これは、意識してなんらかの運動をしなくては大変なことになる、と思い至ったものの、何しろそれまでの三十六年間の人生の中で、運動らしい運動など、一度もしたことがない。スポーツは大の苦手で、どんなスポーツにも興味がない。
 そんな私がまず始めた運動は、散歩だった。これなら、気軽に手軽にできるだろうと思った。ウッドストックの前に住んでいた学園町イサカで、家のまわりをうろうろ歩き回ることから始めた。
「走ってみたら? 楽しいよ。散歩より運動効果もあるし」
 ランニングがすでに習慣となっていた夫から、何度かすすめられたが、そのたびに「できない」と言いつづけていた。
 事実、できなかった。ちょっと走っただけで、息は切れるし、苦しいし。
 それでも走ってみようかなと思うようになったのは、その頃、書く仕事がなかなか軌道に乗らず、「このままではいけない」と焦りながら、鬱々とした毎日を送っていたから。運動をしなくては、体を鍛えなくては、というよりもむしろ、この弱い精神をなんとかしたい、という思いが強かった。
「まず、家の敷地内を走ることから始めてみれば? それから外へ出ていけばいい」
 夫のアドバイスに従って、敷地の入り口からガレージまでつづいている車寄せの道──英語では「ドライブウェイ」と呼ばれている──を走ってみることにした。
 うちのドライブウェイの距離は片道、約百六十メートル。これはおよそ0・1マイルに相当する。つまり、ドライブウェイを五往復すれば、一マイル(約1・6キロ)を完走したことになる。
 ガレージの前から走り始めて、郵便ポストのある表通りの手前で引き返す。最初のうちは、片道を走り終えて折り返するたびに「1、2、3......」と数をかぞえていた。が、「5」を超えたあたりから、息が苦しくなり、頭の中で数字が混乱し始める。
 あれ? さっきのは6だったっけ? 7だったっけ?
 たとえ一マイル以下であっても、先週は何マイルまで、今週は何マイルまで、走れるようになったかをきちんと把握しておきたい。走れる距離がのびていることが、大きな励みになるから。
 そのために私は、ある画期的な方法を思いついた。名づけて「どんぐり走法」。
 三個ずつから始めた、という記憶がある。
 走り始める前に、どんぐりを右手に三個、左手に三個、合計六個、握りしめておく。どんぐりはそのへんに無尽蔵に落ちているから、ただそれを拾えばいい。
 握りしめて、走り始める。片道を走り終えたとき一個、どんぐりを森にぽーんと放り投げる。折り返すたびに一個ずつ、放り投げる。どんぐりは着実に減っていく。そして、両方の手のひらが空になったときには、0・6マイルが走れているというわけだ。
 このようにすれば、頭の中で数を確認しなくていいので、走ることに集中できる。

ドライブウェイ(春).jpg

 毎月、握りしめて放り投げるどんぐりの数を増やしていった。走れる距離はしだいにのびていき、ついにどんぐり十個、一マイルが完走できるようになった。
 ここまで到達するのに、どれくらいかかっただろうか。おそらく、半年はかかったと思う。
 半年後、夫の予言していた通りのことが起こった。
 私は敷地内から外へ出て、無限にのびる一般道路を走ってみたくなった。まるで巣から飛び立った小鳥のように。全身で風を切って走った。気分は、離陸した飛行機である。折り返すのは一回だけ。もうどんぐりは握っていない。
 それからは、一マイルを二マイルに、二マイルを三マイルに、少しずつ少しずつ、距離をのばしていった。最初に車で走って、車内の計器で距離を確認しておき、ある目標地点から目標地点までを走るようにした。
 ランニングが「楽しい!」と思えるようになったのは、どんぐり走法から数年後、四マイル以上、キロに換算すると七キロくらい走れるようになった頃からだった。楽しいと思うと同時に「心が強くなっている」ということも実感できた。くよくよしたり、うじうじしたり、そういうことが大の得意だった私が、いつのまにか「細かいことはあんまり気にしない」ようになっていた。
 どんぐりには、感謝あるのみである。

 忘れもしない、あれは二〇〇一年、九月十一日のことだった。
 空はまっ青に晴れていた。まさにパーフェクトなランニング日和である。
 いつものように朝、二階の仕事部屋で小説を書いていると、一階から、夫が上がってきた。午前中は、互いの仕事の邪魔をしない、という取り決めがあるのに、どうしたんだろうと訝しく思っていると、
「いっしょにテレビを見よう」
 と言うではないか。
 テレビは当時、私の仕事部屋に置かれていた。
「朝っぱらからテレビ?」
 眉をひそめている私に、ぽつりとひとこと。
「マンハッタンで大変なことが起こっている」
 テレビを点けたとたん、私たちの目に飛び込んできた映像は、白煙を巻き上げながら崩れ落ちていく世界貿易センタービルだった。
「走りに行ってくるわ」
 ニュースの途中で私は立ち上がり、ランニングに出かけた。私としては、気持ちを落ち着けるために、走らずにはいられなかった。
 走り始めて五分くらいが経ったとき、一台の車がうしろから近づいてきて、私の真横で停まった。運転者はするすると窓をあけると、私に向かって言った。
「ねえ、きみ。のんきに走っている場合じゃないぞ。すぐに家に帰って、ラジオかテレビを点けてみろ。世界がどうなっているか、きみは知らないのか」
 ランニング中、そんなふうに知らない人から声をかけられたのは、あとにも先にも、あの日だけである。

走る人その3(私コスタリカ).jpg

写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。