雪の子守唄、あるいはホワイトディアー物語

2018/12/20
 暖炉の薪は二度、人をあたためる。
『森の生活』の作者、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの書いた言葉である。
 薪を割っているときと、火に当たっているとき。
 読書と旅も同じだなと思う。本を読む前や旅に出る前には、期待で胸が高鳴るし、読んでいるとき、旅しているときにはもちろん無我夢中になれる。
 ここまで書いて、ふと気づく。
 薪も読書も旅も三度、人をあたためてくれるのではないか。
 三度めは、その余韻によって。暖炉なら余熱によって、読書と旅は記憶によって、思い出によって、思い出すことによって、私たちはあたたかくなれる。
 あたたかい暖炉の前で、好きな作家の書いた本を心ゆくまで読む。これは冬の極上の楽しみであり、至福のひとときである。
 窓の外は雪。どこもかしこも雪。地上にも森にも空にも雪。
 家の中には木の香り、煙の香り、炎の香りが漂っている。ときどきパチパチと、火花の弾ける音がする。
 暖炉の前で読書をする。音楽を聴く。食事をする。お酒を飲む。何をしてもなぜだか、特別感がある。ごはんもお酒もいつもより美味しく感じられる。火に当たりながら何かをする、という行為には、どこか原始的な喜びがあるような気がしてならない。

車寄せの道と暖炉の煙突.jpg

 実のところ、暖炉は停電には歯が立たない。暖炉で家中をあたためることはできない。せいぜいひと部屋が関の山。それに、ひと晩中、火を燃やすわけにはいかない──薪がいくらあっても足りない──し、燃やすためには、煙突のてっぺんの蓋をあけておかなくてはならないから、火が弱まってくると、そこから冷たい風が吹き込んでくる。
 だから、楽しみのために暖炉に火を入れるのはたいてい、昼下がりか夕方。
 仕事を早めに切り上げて、夫婦そろって暖炉の前に集合する。
「そういえば今朝ね、ランニング中に、まっ白な鹿に出会ったのよ」
「へえ、どこで?」
「コールドブルック。林の中に、最初は山羊でもいるのかと思ったら、なんと、白い鹿! すごいでしょ」
「それはすごい。僕はまだ一度も、見たことがないよ」
 私は思わず立ち止まり、息を詰めるようにして、見た。しばし見とれた。「リューシスティック」と呼ばれている変種。私の出会った白変種は、全身の毛は白かったけれど、顔だけは茶色だった。目は黒。この世の者とは思えない、神聖な生き物のように見えた。
「あの子はね、将来はきっと、この森の王者になるのよ。この山の守り神なのかもしれない。知ってた? 白い鹿に出会えた人間にはね、ラッキーなことが起こるの」
 いつもなら、ここで何か茶々が入るはずなのだが、夫はいつになく、神妙な顔をしている。
「いつか、ホワイトディアー物語を書くわ。読んでみたい?」
「......」
「りすのジョーくんも、脇役として出してあげてもいいわよ」
「読む読む、絶対、読む!」
 暖炉の前の会話は、いつもよりも弾むのである。

くろくまレストラン.jpg

 毎年のクリスマスには、お昼前から暖炉に火を熾して、のんびり過ごすことにしている。
 生クリーム、卵、砂糖、ナツメグ、シナモン、オールスパイス。これらを混ぜ合わせたものに、ウィスキーを加えてつくったというカクテル、「エッグノッグ」のグラスを片手に、夫は長椅子の上に寝そべっている。
 私はオーブンで、自家製のピザを焼いているところ。
 焼き上がる前に、まずは乾杯する。エッグノッグは私には甘すぎるので、ジントニックで。グラスを合わせて、
「メリークリスマス!」
とは言わない。最近のアメリカでは、
「ハッピーホリデイズ!」
と言う。道で誰かとすれ違ったときの挨拶も、このフレーズが主流になっている。キリスト教以外の宗教を信仰している人たちに対して、敬意を払おうという意図から。

雪の街角.jpg

 乾杯のあと、クリスマスプレゼントの交換は、特にしない。プレゼントなどなくても、いっしょにいるだけで幸せだと思えるほど、ふたりの年月を重ねてきたのである。
 窓の外には相変わらず、雪が積もっている。珍しくもなんともない、ホワイトクリスマス。空はまっ青に晴れ上がって、ブルーと白のコントラストが目にもあざやかだ。
 雪原には点々と、鹿たちの足跡が付いている。みんな、うまく枯れ草を見つけることができただろうか。あの白い鹿は、雪原が保護色になって、ハンターの目から逃れやすくなっているはずだ。
 みんな、撃たれないでね。祈るように、そう思う。絶対に撃たれないで。人間たちにはほかに、食べる物がいっぱいあるんだから。
 暖炉の前で火に当たりながら、冬眠中の動物たちのことを思う。
 ビーバーたちは凍りついた湖の底にしつらえた穴蔵で、暖かく過ごしているだろうか? りすたちは? やまあらしは? ミンクは? ウッドチャックは? 黒熊は?
 夕暮れ時になって、ふたたび雪が降り始めた。
 群青色の空から音もなく、はらはらと舞い落ちてくる「フラリー」という名のにわか雪。雪は雨と違って、とても静かに降る。雪の降りしきる夜は、本当に静かだ。まるで世界中の音を吸収しているかのように、雪は降る。

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 けれども、音もなくというのは、正しくない。
 耳を澄ますと、かすかに聞こえてくる音がある。森全体を包み込むような優しい雪の子守唄。動物たちはそれぞれのねぐらで聞いているのだろうか。雪におおわれた森の奥で、冬のあいだ中、どんな夢を見ているのだろう。
 私の敬愛する写真家であり、作家でもある、星野道夫さんは書いている(新潮社刊『星野道夫著作集4』より)。

 きびしい冬の中に、ある者は美しさを見る。暗さではなく、光を見ようとする。キーンと張りつめた厳寒の雪の世界、月光に照らしだされた夜、天空を舞うオーロラ......そして何よりも、苛酷な季節が内包する、かすかな春への気配である。それは希望といってもよいだろう。だからこそ、人はまた冬を越してしまうのかもしれない。
 きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越した冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている。

 確かに、五ヶ月にも及ぶ長く厳しい冬を耐え抜いたあとにやってくる、春夏秋の美しさ、素晴らしさ、楽しさときたら、これはもう筆舌に尽くしがたい。輝く春、きらめく夏、歓喜の秋なのである。
 その前に、あしたの朝、起きたらいちばんにやるべきことは、雪かきだ。

雪景色.jpg

 玄関前には、除雪のためのシャベルを常設している。車寄せの道の除雪は専門業者に任せているのだが、玄関前とガレージの前は、手作業でしかできない。これは夫婦でかわりばんこにやる。
 あしたは、私の番だ。
 起き抜けに、軍手、長靴、フード付きのロングのダウンコートで外へ出る。
 降ったばかりの雪はさらさらで水分が少なく、まるで小麦粉か片栗粉を掬っているかのように軽い。軽いうちに、さっさと済ませておくのが重要なのだ。まとめてやろうなんて、思ってはいけない。放っておけばおくほど、雪は凍りついて、岩のように固くなる。労力は二倍も三倍もかかる。
 長年やっているうちに、雪かきのコツもすっかり習得できている。サクサクと雪の土手を崩して、シャベルで掬っては、放り投げる。掬い投げだ。腰の入れ方も、腕の動かし方も、我ながら堂に入ったものである。早く済ませようと思わないことが肝要だ。急げば急ぐほど、時間がかかる(ような気がする)。ゆっくりじっくりやれば案外、早く終えられる(ような気がする)。
 長い冬はまだ、始まったばかりだ。
 この冬をしっかり味わっておけば、春の喜びもしっかりと味わえる。夫婦喧嘩だって、しっかりやっておけば、夫婦の絆はさらに強くなる。
 いや、星野さんが書いているのは、もっと深いことなのだとわかっている。

写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。