紅葉時計

2018/10/19
 花火のような、パッチワークのような、山が燃えているような、恋する乙女の胸の内のような、めくるめく夢の世界を見ているような......と、あれこれ呻吟した挙句の果てに「言葉では表現できないほど美しい」に行き着く。
 小説家にとって「言葉では表現できない」は禁句だと思うし、逃げの表現だとわかっている。わかってはいるものの、どんな言葉で表現しても到底かなわないのだから仕方がない。潔く、白旗を掲げよう。
 この紅葉を、言葉ではなくて、絵で表現すると、どうなるか。
 十九世紀の中ごろ、ロマン派の流れを汲む風景画家の一派として、「ハドソン・リバー派」と呼ばれる、アメリカの画家たちのグループがあった。画家たちが好んで描いたのは、私の暮らしているキャッツキル山地やハドソン川周辺の風景だった。いずれもきわめて写実的に、つまり、現実の風景を忠実に再現する、という手法で描かれている。
 彼らの発表した秋の風景画を目にした、ヨーロッパの美術批評家たちは、
「嘘だろう。こんな色彩、自然界に存在するはずがない」 と、口々に嘲笑を浴びせたという。
 つまり、画家たちが写実的に描いた紅葉は「嘘のように美しかった」ということだ。

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 十月の初旬から始まる紅葉は例年、だいたい中旬くらいにピークを迎えて、下旬になると散り始める。この季節には、キャッツキルを離れて、どこへも行きたくない。
 毎日、朝から晩まで、山々を眺めていたい。
 晴れた日よりも、曇った日の方が発色がいい。色が深く、しっとり落ち着いて見える。雨に濡れている紅葉も美しい。
 暇さえあれば、散歩に出かけて紅葉を眺める。山に登って紅葉を眺める。紅葉狩りのドライブに出かける。寝ても覚めても紅葉三昧。まぶたが紅葉で染まりそうなほど、言葉では表現できないほど、美しい日々なのである。
 マウント・トバイアスの中腹に位置する我が家まで、うねうねとつづく山道を車で上ったり、下ったりしているさいちゅうに、毎年、同じ場所で、同じ木を指さして、私は叫ぶ。ひとりで外出しているときには、ひとりごとをつぶやく。
「あ、見て見て、あの木。ほら、あの木、もう赤くなってる、端の方が」
 今はまだ八月の終わりだ。
 けれども、無数の木の中には「気の早い木」というのがあって、毎年いちばんに赤くなる。まるで紅葉の先導役を果たしているかのように。
 最初に色づくのは、華やかな赤と明るいオレンジのメイプル。そのあとを追いかけるようにして、多数派の黄色が加わる。若木や低木はピンクや薄紫に。
「メイプル」すなわち「楓」と一口に言っても、実にさまざまな種類がある。
 シルバーメイプル、レッドメイプル、ブラックメイプル、シュガーメイプル、マウンテンメイプル、ノルウェイメイプル......日本の「いろはもみじ」は、ジャパニーズメイプル。
 これらのメイプルが奏でる色の協奏曲を、常緑樹の緑が通底音となって支えている。まさに色の饗宴。ため息なしには見ることができない。秋口に雨が多く降ると、色合いはいっそう濃くなる。

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 これは私の想像に過ぎないけれど、それぞれの木は、それぞれ独自の「紅葉時計」を内包しており、その時計に従って色づいたり、葉を散らせたり、芽吹いたりしているのではないかと思う。
 紅葉時計とはすなわち、木の個性、木の「人格」なのである。
 紅葉の季節、さらに目を見張るのが、色づいた葉が散っていく姿。
 日本人は桜の散り際を愛でるが、私は──私も日本人だが──紅葉の散り際を愛でる。
 風に誘われ、風にさらわれ、風にもてあそばれて、はらはら散っていく赤、くるくる舞い落ちるオレンジ、雨のように降り注ぐ黄色や茶色の葉っぱたち。
 見上げると、まさに空から森が降ってくるかのようだ。
 葉っぱのほかにも、落ちてくるものがある。
 どんぐりや、小枝や、木の皮や、枯れて乾いた木の花や、妖精の風船みたいな小さな木の実。プロペラみたいな形をした木の実。かんざしのような木の実。
 木の実を集めるために、りすたちが走り回っている。黒くまは、大好きなヒッコリーの木に登ろうとする。野生のりんごの木は、鹿たちのために実を落とす。木の下で、鹿は落ちてくる実を待っている。私はランニング中に、野原に落ちているりんごを拾って齧ってみる。野生のりんごの味は淡くて甘い。優しい甘さである。落ちているりんごにはたいてい、小鳥に突かれたあとがある。そこに蟻が群がっている。
 森が動物たちのために、惜しげもなく恵みを降らせているのがわかる。
 落とされた葉っぱは、地面にぶあつく降り積もり、冬のあいだ、木の根を守り、朽ち果てたあとは土の栄養になる。
 葉っぱにも木の実にも、いっさいの無駄がない。
 寿命が訪れたときには倒れ、時間をかけて土に還る。土から生まれて土に還る。還るまでのあいだ、倒木の中で棲息する生物もいる。一本の木の営みの中で、どれだけの小鳥や虫や蛙が、動物たちがその恩恵にあずかっていることか。そして、太古の昔から、人々は木で道具を作り、乗り物を作り、家を建て、暖を取り、果実を得、慰めを癒しを得てきた。
 木とはなんと偉大な存在なのだろう。

木の根っこ.jpg

 今年の夏、マンハッタンへ遊びに行っていたときのことだった。
 ある大通りに立っている一本の街路樹に、こんな一文の記された貼り紙がピンで留められていた。
  Please water me, or die.
 ──私に水を下さい、さもなければ死にます。
 誰が貼り付けたのだろう。役所か管理局の人だろうか。それとも、木を愛する人?
 おそらく後者だろう。「this tree」ではなくて「me」と書かれているところに、貼り付けた人の木への思いを感じた。
 葉っぱの形から察するに、豆梨のようだった。
 大通りのすみっこで、車の排気ガス、都会の汚れた空気、騒音などに晒されながらも、すっくと立っている一本の木。与えられた土は少なく、水をやる人もいないのだろう。
 第一、こんなところで、どうやって水をやればいいのか。水源もないのに。
 かわいそうに、と思いながら、木を見上げてみると、上の方はほとんどが枯れ枝になっている。明らかに、死にそうになっている。
 次の瞬間、
「あっ!」
 と、私は声を上げた。
 枝の一部にはまだ葉っぱが茂っていて、なんとそこに、白い花がひと群れ、咲いているではないか。
 豆梨の開花時期は四月である。
 八月の暑い盛りに花を咲かせることなどない。
 もしも夫がそばにいたら、「なんだ、花が咲いているんだから、まだまだ大丈夫なんじゃない?」と、能天気に言いそうだなと思った。それに対して、私はこう返すだろう。
「違うのよ。あれはね、木がなんとかして生き残ろうとして必死になって、それで季節外れの花をつけているの。自分はもう死ぬ。だから、花を咲かせて実をつけて、その実を落とせば、生き残れるんじゃないかと考えているのよ。決死の花なのよ」
 これは、うちの近くに住んでいる、りんご園の経営者から教わったことだった。
 若くて元気なりんごの木がたくさん、豊かな実をつけるのではなくて、その逆。死にかけている老木の方が、美味しい実をたくさんつけるのだ、と。それは、木が生き残りをかけて必死で生らせている、命の実なのである、と。
 健気な豆梨に、私はそっと声をかけた。
「あしたから雨になりそうだから、もうちょっとの辛抱だよ。がんばってね」
 豆梨は黙って佇んでいる。
 都会の暮らしに疲れ果て、森へ帰りたそうに見える。
「ほら、またそうやって木を擬人化してる!」
 今にも夫の笑い声が聞こえてきそうだ。反論する気はない。
 確かに木は木に過ぎない。言葉もしゃべれないし、感情も思考も、おそらく持っていないのだろう。しかし、命は持っている。その命によって、私たちは安らぎを受け取り、木陰をつくってもらい、緑に癒され、元気にしてもらっている。防風林、防砂林などで、災害を防いでもらっていることさえある。
 木は私たちの同胞であり、友人であり、仲間である、と考えることは、馬鹿馬鹿しいことだろうか。
 死にかけている一本の木を「かわいそうだ」と思うこと、木には私たちと同じように「生命がある」と考えること、環境保護も自然保護も、ここから──擬人化から──始まるのではないかと、私には思えてならないのだけれど。

ビーバーが小枝を積み上げて築いたダム


写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。