合言葉は「また会えたね」

2019/03/20
 三月四日に『エンキョリレンアイ』(河出文庫)が出た。
 単行本の出版から十三年後、新潮文庫の出版から九年後の、再文庫化である。
 同じ作品が二度、違った会社から文庫になって出るという経験は初めてだった。うれしかった。今もとてもうれしい。
 これは、今までに味わったことのない喜びだった。たとえば、昔ヒットした曲が、十年後にまたヒットして大喜びしている歌手の心境を、私も味わわせてもらっている、と書けば、どういう喜びか、なんとなく察していただけることと思う。
 あるいは、再会の喜び、とも言えるだろうか。十三年以上も前に書いた作品に、私はふたたび会えた、ということなのだから。

 単行本が出たのは、二〇〇六年の三月。
 私は五十歳になったばかりだった。
 その前年に『欲しいのは、あなただけ』が島清恋愛文学賞を受賞していたので、『エンキョリレンアイ』は受賞後の第一作ということになる。
「この作品が売れなかったら、小手鞠さんの作家生命も終わりだよ」
「そう覚悟して、出した方がいい」
「その作品は本当に、今、出すべきものなの?」
 ベテランの文芸編集者たちから、さんざん釘を刺された。みんな、私の行く末を心配して、苦言を呈してくれているのだとわかっていた。
 なぜなら私は、新人賞受賞後、十年あまりの長きにわたって、小説家としてまともな仕事が何ひとつ、できていなかったから。

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 だからせっかくの受賞作『欲しいのは、あなただけ』のあとに、売れない作品、つまり失敗作を出す、ということは、確かに致命的な失敗を意味している。私にはもう「あとがない」。私がしがみついているのは、それくらい厳しい世界なのだということも、鳴かず飛ばずだった十年のあいだに、いやというほど理解していた。
 私の心に、迷いはいっさいなかった、と言えば、それは嘘になる。
 もしも『エンキョリレンアイ』が読者に受け入れられなかったら──
「まあ、その場合には、コンビニエンスストアを店ごと買って、きみはそこの店番をしてくれたらいいから」
 と、夫は、私の転職先まで考えてくれていた。
 私も本気で「転職するしかないな」と思っていた。これ以上、夫の稼ぎだけに頼って生活していくのは申し訳ないし、情けない。実際に、ウッドストックの隣にあるベアーズビルという村のコンビニ物件を、ふたりで見に行ったくらいだ。
 このようにして、『エンキョリレンアイ』は大海原に出航した。作者自身からも信頼されていない、なんとも心細い船出である。
 それまでの私は無神論者だったし、運命なんてちっとも信じていなかったし、ましてや奇跡なんて、自分とはまったく関係ないできごとだと思っていた。
 しかし、奇跡は起こったのである。
 あれよあれよというまに、『エンキョリレンアイ』は売れ始めた。
 読者層で言うと、地方在住の女子中高生、地域では京都と仙台を中心にして火が点いて、その火がどんどん広がっていき、夏にはついに、ベストセラーリストにも顔を出すほどになった。
 ファンレターも、大きな段ボール箱がいっぱいになるくらいいただいた。今でも心に残っている一通は、小学生の男の子からの手紙で、そこには、
「この本は、ぼくが生まれて初めて読んだ活字の本です。それまでは、まんがとゲームばかりでした。本とはおもしろいものだとわかりました。ぼくはこれから、本をたくさん読みたいです」
 というようなことが書かれていた。
『エンキョリレンアイ』は、東京とニューヨーク州に離れ離れになったふたりが心を通い合わせる物語なのだが、小学生の男子にまで読んでもらえるとは、思ってもみなかった。 結果的には十万部を超えるヒット作になり、この作品のおかげで、私はやっと小説家として生計を立てていけるようになった。

 私には、恩師と呼べる人が何人かいる。その筆頭に、やなせたかし先生がいる。
 中学時代から、先生の詩集を愛読する熱心なファンだった私は、やなせ先生が編集長をつとめていた「詩とメルヘン」という雑誌に、二十代の頃から詩を投稿していた。
 無名の投稿詩人だった私に、先生は「詩とメルヘン賞」という栄えある賞を与えて下さり、その後、私が東京で暮らすようになってからは、パーティなどでときどき、お目にかかる機会をいただいていた。
 渡米前、先生のお宅にお邪魔したあと、先生といっしょに、犬の散歩に出かけたときのことだった。
「今のままじゃ、だめだよ。今のきみは、イマイチだ。イマイチのままではいつまで経っても本物の作家にはなれない」
 私が小説家志望だということを知っていた先生は、そう言って、厳しく私を励ましてくれた。先生はいつも厳しかった。言葉を飾らずストレートに、辛口の意見をずばずば口にした。その厳しさが先生の優しさだった。
「あのね。才能、努力、運。その三つがそろっていても、作家にはなれないんだよ。本物の作家になるためには、才能、努力、運のほかに『華』が必要なんだ」
 華というのはつまり、
「脚光を浴びなくちゃならない。たった一度でいいんだ。一度だけでいいから、スポットライトを浴びる。どういう形でもいいんだ。でも、それが一度もない人は、本物の作家にはなれない。たとえなれたとしてもイマイチの作家、二流の作家のままなんだ。僕はそういう人をたくさん知っている」
 そのあとに、先生はつづけた。先生自身も、七十代になってやっと「アンパンマン」によって「華」を得たのだと。
『エンキョリレンアイ』のヒットを、誰よりも喜んで下さったのは、やなせたかし先生だった。そして『エンキョリレンアイ』の再文庫化のニュースを、誰よりも知らせたい人は、やなせ先生である。

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 十三年前、東京と京都で開いた『エンキョリレンアイ』のサイン会には、たくさんの人たちが駆けつけて下さった。
 サインに私が添えたメッセージは「また会えたね」だった。
 もちろん、サイン会で実際に再会した人もいたけれど、大半は、初対面の人たちである。それでも「また会えたね」と書いたのは、その人が私の作品を読んでくれたとき、私はその人に「会っていた」と思えるから。ページの中で会ったあなたと、私はサイン会の会場で「また会えた」のだと。
 今もそう思っている。このエッセイを読んでくれているあなたと、書いている私は、きっと、どこかで「また会える」のだと。
 奇跡は起こる。私はそう信じている。
 けれども、大きな奇跡が起こったとき、人はそれと引き替えに、何か大きなものを失ってしまう、というのも、人生の真実ではないかと思っている。
『エンキョリレンアイ』が売れ始めるのと時期を同じくして、わが子のように可愛がっていた猫の具合が悪くなってきた。渡米後、動物保護施設から引き取らせてもらって、家族として喜怒哀楽を共にしてきた猫である。増刷と猫の病状は反比例をしつづけて、ついに、その年の秋、私の膝の上から天国へと旅立っていった。
 神様は私に、とびきり大きな奇跡をもたらしてくれたけれど、かわりにうちの猫を連れていってしまった。
 いや、そうではない。
 奇跡をもたらしてくれたのは神様なんかではなくて、うちの猫だったのだ。

 三月。日本では梅の季節も終わって、そろそろ桜のつぼみがつき始める頃だろうか。
 ウッドストックの森にはまだ、雪が積もっている。
 再文庫化のニュースを知らせたい「あの子」は、天国の森で暮らしている。あの世とこの世に分かれて、私はうちの猫と十三年以上、エンキョリレンアイをしている。
 プーちゃんに、また会いたい。
 いつか、そっちへ行くからね。
 ずっと、ずっと、好きだよ。
 そこできみにまた会えるのだと思うと、私はあの世へ行くのが怖くない。

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敬愛する作家、村山由佳さんの猫エッセイ集にプーちゃんの写真を寄り添わせて。

写真:グレン・サリバン

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小手鞠るい(こでまり・るい)

1956年岡山県生まれ。同志社大学法学部卒。
1992年よりアメリカに移住。1993年、「おとぎ話」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。2005年、『欲しいのは、あなただけ』で島清恋愛文学賞を受賞。2006年刊行の『エンキョリレンアイ』がベストセラーとなる。近年は、『アップルソング』『星ちりばめたる旗』『炎の来歴』など、戦争や日米関係を題材にした重層的な作品を執筆している。