結婚の追求と私的追求

能町みね子

第17回

ポイントタトゥ

 平凡な恋愛と結婚をして早く埋没したい、などと強く思い込んでいた裏には、堀内をはじめとした世間への復讐心に、悔しさもないまぜになっていました。というのは、もちろん「モテないから悔しい」などということではなく、恋愛というものを何の疑問もなく受け入れて楽しんでいる人たちに対する悔しさです。
 考えてみれば私は小学生の頃から、世間にあふれるヒットソングはなぜことごとく恋愛の歌なのか、という疑問を持っていました。世界には恋愛以外にも果てしなくモチーフが存在するのに、なぜ猫も杓子も恋の歌ばっかり歌って売れているのか、と。当時は自分が子供だからこういうテーマが分からないのかもしれない、と思っていたのですが、恐ろしいことにこの疑問は長じるにつれ絶望のようなものに変わっていきました。つまり、恋愛ソングなんて興味ない、と思っているのは私くらいのもので、世の中のほとんどの人間は本気で恋愛ソングが好きで、だから恋愛ソングが当然のようにヒットしているのだ、ということがうっすら悟れてきたのです。
 私の見る世界は私が生まれてから、広告もテレビも雑誌も本もネットも、永久機関にエネルギー源を保証されているのではないかと思うくらいずっと「恋愛」のネオンを発光させつづけ、巨大な拡声器で絶え間なく恋愛のすばらしさを謳っています。ふだん小難しいことを説いている人も、社会に向けて崇高な目標を掲げている人も、みんな恋愛という巨大なブラックホールの意義については特に価値判断せずに自ら突入していき、だらしない顔で楽しんでいるように見えます。彼ら彼女らはたいがい恋愛してセックスして、いずれ結婚しますし、そのうち子供まで産みます。別れたり別の人とくっついたり不倫したりという細かな波立ちはあるかもしれませんが、おおむねこの大きな流れには反しません。
 私は成人してもなおまるでそのことに共感を覚えなかったのです。
 好きな人がまったくできないわけではない。単純に「顔が好き」「声が好き」もあれば、「話が合うので好き」もあるし、「その人の仕事が好き」もある。しかし、その手の個別の好感情と、総合的ないわゆる恋愛感情というものの差が分からない。AさんよりBさんが好きだ、という量的な判断もできるけれど、好きという感情の質的な種別の中に「恋愛」が入ってこない。どうしようもなく好きで今すぐにでも会いたい、触れあいたい、抱きあいたい......と感じた経験がまったくない。好きだからその人のために何かをしてあげたい、というような気持ちもない。「独占欲」というのも、ピンとこない。
 好意を寄せる人に対して私が持つ欲望は、なるべく頻繁に会って話したい、という程度のものです。その先の、同棲したいとか家庭を持ちたいとかいう話にはつながりません。性欲となるとまた全く別立てで、そもそも弱いうえに、誰かを好きだという気持ちとは別個のものとして存在しており、極端に言えば一人でも解消できる程度のものでした。
 のっぺりした顔の友人――実際に私にはそんな友人はいないし、これは私が各所で会った関係性の薄いどうでもいい人の最小公倍数的存在のことですが、きっと私はのっぺりした顔の人から「それは、まだ本当に好きな人がいないだけだよ」なんて何度も言われた気がします。「私も最初はそうだったよ。でも心から好きな人が、いつかきっと現れるから」。そんなアドバイスをいただくたびに、私は優越感で口元をゆがませたのっぺり女の顔をもぎとって叩きつけたい気持ちになっていました。ただ、言われた言葉だけは悔しいかな、ガラス片として刺さるのです。「本当に・心から好きな人」って何かね、何か明確な数値があって、閾値を超えたぞ、ってみんなしっかり自覚できるものなのかね。「本当に・心から好きな人」など、いたことがない。これはやはり欠陥なのか。
 きっと多くの人は、おそらくその閾値の感覚が先天的に備わっているんでしょう。だから、恋愛感情~結婚という流れに大した疑問も抱かず、心底楽しそうにそれを実現している、はず。あいつらばっかりずるいじゃないか。その一連のやつ、私の想像力の範囲内ではちいとも楽しそうに感じないんだが、万が一楽しめる方法があるのだったら、ぜひ味わわせてもらいたい。
 こうして、ネットで知り合って男の人とつきあってみて、確かに最初こそその新鮮さに私もテンションが上がりました。セックスというのも初めてだったので、はじめの数回はかなり楽しく感じたのも事実です。セックスに協力してくれる「彼氏」にありがたいと思い、盛り上がってきた彼への感謝の気持ちを好意のようなものと同格に感じたこともありました。
 しかし所詮、これは目新しい体験に盛り上がっていただけにすぎず、これに関して相手は触媒程度のものでしかありませんでした。
 こんなものは「恋愛」のわけがない。いわゆる恋愛らしき行動をいろいろ試してみたところで、世間で言われるような感覚になるわけでもなく、結局焼け石に水でした。

 しかし当時の私はまだ20代前半。相磯さんによるテストに失敗したところで、「やはり恋愛ってやつはピンとこないから自分には無理だ」と決めつけるわけにはいきませんでした。往生際悪く、みんなが楽しそうに味わっている「恋愛」についての追究はつづく。
 ということで、自分の「好き」という感情はまったく信用できないので、自分の気持ちはさておき、「どうやら好かれているらしい」という場合は基本的にすべておつきあいをOKすることにしました。恋愛なるものをなるべく経験するにはそれしかない。ネットの出会いはさすがにもう気が向かないけれど、現実でそういうことがあるならいくらでもウェルカムです。
 相磯さんと別れて数か月後、かなり年下の、専門学校で声を掛けられた男の子に誘われ、つきあいはじめました。相磯さんと違って若いし、顔もいい。ポイントタトゥが入ってたりピアスだらけだったりする容姿と、ちょっと意地悪そうな性格はとても新鮮。私は当初、これこそ恋愛になるかもしれないと大いに盛り上がりました。しかし、そもそも学校ですら会う機会があまりなく、「デート」もほぼなく、「告白」されたのにまるでほったらかし。これはいわゆる「振り回されている」というパターンではないか? これにイラついている私は、やはり「恋愛」をしているのではないか? と多少ワクワクしながらも、あまりにも会えないことに電話で文句を言ってみたら、すぐに彼はじゃあ別れると言い出しました。あまりのあっけなさに腹は立ったものの、別れてみれば私もまるで未練がない。あっさりと終わってしまいました。3か月くらい。
 社会人になり、手術して身体も変えたので今度はもうちょっとまともにセックスも楽しめるぞと思った20代後半の頃、バーで知り合った同い年の男性が私のことを好きらしいと人づてに聞き、それじゃつきあえるだろうとそのつもりで接してみたらつきあうことになりました。もちろん私はその人のことを好きだとは思っていなかったのですが、穏やかな人だったしこのまま結婚まで踏み切ってしまえという勢いでした。しかし、どうやら先方には結婚する気がまるでなさそう。セックスも初めこそ何度か試してみたものの、彼はどんどん消極的になり、そのためにまるで私のほうが積極的にセックスしたがっているような構図になる。これには嫌気が差すと同時に、「まあそうだよね、私とするのが楽しいわけがないよなあ」という納得の気持ちもどこかにあり、そうなると私も日に日に自己嫌悪が強くなり、自ら切り出して別れてしまいました。1年強。
 恋愛なるものを無からどうにか引きずり出して肉眼で確認したいと思うんだけど、関係がまず続かないし、「なるほどこれが恋愛か!」という影も形もまるで見えない。こんな感じで30代半ばくらいまで何人かとつきあってみたものの、結局例の「心から好きな人が、いつかきっと現れるから」なんてことはまったくありませんでした。
 そして、やっと、結論が見えはじめました。
 どうやら、みんなが楽しんでいることになっている恋愛というやつを、そもそも楽しめない人もいるのだ。
 子供の頃から四六時中焚きつけられるから、「人にとって『恋愛』という行為はかけがえのないもので、人生の中で必ずきわめて大きな要素となる。そして、成功すれば無上の喜びを得られるから、人は極力『恋愛』を楽しむべきである」と刷り込まれてしまっただけだ。
 恋愛はとてもいいものですよというのは、恋愛にとても向いている人による言い草であって、誰にでもこんな言葉で勧めるのがそもそも間違いなのです。何とも思っていないものを「やってみたらよさが分かるから、絶対にいいからやってみよう」と押しつけられる苦痛は分かっているつもりです。だから、例えば私は趣味として大相撲が大好きだけれど、興味のない人にゼロから勧めようなんて気はさらさらない。恋愛推進派たちはそのへんが分かってないんじゃないの。
 私はただ向いてなかっただけなのだ。うっかり人生に必須のものかと思って、何回も何回も試してしまいました。まったく、不毛でした。
 ともあれ、一応ひととおり恋愛っぽい経験は得たから、恋愛話でコミュニケーションを取ろうとするタイプの人に対しての表面的な会話で困ることはなくなりました。そこだけは経験としてよかったかもね。

 しかし、こんな私でも、人生において恋愛をするということ自体には何の疑問もなく、その上で恋愛がうまくいかない、というタイプの人と案外話が合って仲良くなれるのだから不思議なもの。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。