結婚の追求と私的追求

能町みね子

第15回

ヤングマガジン

「え!? あぁ、いいよ、いいですよ」
 驚きの「え」と、承諾の「あぁ」までの間は思ったよりも短かった。
 えっ......、いいんだ。
 いくらなんでも急すぎる提案だから、もう少し驚くとか動揺するとか、あるいは難色を示す可能性も高いと思っていました。いきなりのお家訪問、意外にもあっさりOK。私のほうがあわててしまいます。
 しかし言い出したのは私だから、もちろんこちらも当然のような顔をしていなければならない。大胆な女、ということにしておいていただきたい。
 エクセシオールを出て、外はまだ日が傾いてもいない昼間です。こんな明るい時間に私は初めて会った男の人の家に行くのだ。ペデストリアンデッキを歩いて、京浜東北線の線路沿いに駅の北側へ。線路をまたいで東西を結ぶにぎやかな通りを渡ると、道は車が通れないほどに極端に狭くなります。この道の左側は崖となって落ち窪んでいて、眼下には大河のようにたくさんの線路が走っており眺めがよい。右側には小さな飲み屋がぎゅうぎゅうに並んでいます。
「大井町ってけっこう下町というか、こんな味のある街だったんですね」
 話題に困っていた私でしたが、路地散歩好きの血が騒いで、ついこんなふつうの話題を口にしてしまいました。しかし、相磯さんはあまりそれには応えず、
「ん? ま、そうですかね。いやあしかし部屋が片づいてないからなあ。いや、どうしようかな。ちょっと散らかってるんだよなあ」
 と、ずっと独り言のように繰り返しています。
 私たちは、だんだん閑静になる小道を横に並びながら歩く。細い道だけど人通りはとぎれない。私たちはカップルのように見えているだろうか。坂をくだり、狭隘な路地をぬけてやや広い通りに出て、駅から徒歩10分ちょっと。だいぶ築年の古そうなマンションにたどりつきました。古めかしい灰色の外階段を上り、2階の奥が彼の部屋とのことでした。
「いやあ本当に散らかってるんですよねえ」
 さっきから繰り返しているフレーズをまた言って彼が重そうな鉄製のドアを開けると、室内からむっとした臭気とも湿気ともつかないものがやんわりと流れ出てきました。
 彼の肩越しに薄暗い室内をのぞき見ると、奥の部屋まで、草むらを踏みしめてできた小道のようなものが見えてしまった。草むらにあたるものは、ペットボトル、雑誌類、ビニール袋、何やら分からない紙切れの類......。
 まごうことなきゴミ部屋。今まで見たどんな友人の部屋よりも汚い部屋。
 彼は玄関に脱ぎ散らかされたたくさんの薄汚れたスニーカーを足で寄せてスペースを作り、自分の靴を脱いでまたそれを厚い靴下をはいた足で寄せ、額に汗を滲ませながら、どうぞどうぞと私を招き入れました。
 なるべく表情を変えずにすばやく室内を見回してみる。玄関を入ってすぐに広がる空間はおそらくダイニングで、玄関の上がり口のすぐ左横にキッチン。一応使っている様子はあり、シンクの中に洗いものはありますが、きわめて汚い部屋の中では比較的マシな場所のようです。キッチンの奥には風呂場らしき折り戸があり、その右にトイレと思われる戸が半開きになっています。開きっぱなしのガラス戸の向こうがおそらく寝室。ダイニングの中央には本来食事の時に使われるはずのテーブルがありますが、醤油などの調味料、酒類、中身の分からない小箱などがびっしりと並べられており、皿一つ載せるスペースもない。視界の右側にはテーブルとの境目も分からなくなるほどに段ボールが積み上げられ、背の高さくらいになっている。段ボールの奥には棚のようなものが垣間見えているけれど、そこにたどりつく手段はない。あの中はどうなっているのか。
 そして、このダイニングルームには、玄関、風呂、トイレに向かって、生活動線のとおりの「小道」ができてしまっています。道になっていない部分はすべてゴミ。
 しかし、私はこの人と初対面であり、無理を言って押しかけたのであるから、失礼のないようにしなければいけません。
「確かに汚いですね......」と、まず一応言っておきました。私はこれを異常だと思うくらいの衛生観念の持ち主ですよ、と主張しておかなければ、むしろ不自然になる。でも、冗談っぽく言う程度にとどめます。
 彼はそれに苦笑いで応え、ためらいなく奥の部屋に向かいました。私もそれを追って一歩一歩「小道」を進みますが、そのたびに靴下ごしの足の裏に、何か粒っぽいものを踏んでいるのを感じます。これはこたえる。
 寝室は和室、とはいえ似たようなゴミ部屋なので、あまり畳の部分は見えません。湿気やら何やらで曲がったヤングマガジンと、食べ終わったポテトチップスの袋、いつ使ったのか分からず底に残ったわずかな飲みものが干上がってしまったコップ、大量の紙きれや部屋着らしきものなどが、こたつテーブルの上や畳の上に均等に広がっています。ただ、毎日使っているせいか、ダイニングのテーブルと違って多少スペースに余裕があります。さすがにこたつ布団は片づけられています。
 入って左にはまるで開かずの扉のようにまがまがしく構える押し入れ、こたつから見えやすい正面の位置にテレビ、その奥はベランダに通じるすりガラスの窓。右奥に寄せられているのは、シンプルなパイプのフレームのロフトベッド。その下の薄暗い部分にはパソコンが載った机がありますが、ふだんからよく使っているだろうに、そこに向かうための動線らしい動線は見えません。
 こたつテーブルの脇にある座椅子の上だけスペースが空いており、彼はそこに一旦腰掛けました。そして、テーブルの角を挟んで右隣の畳の上に散らかっていた紙切れや郵便物などをガサガサと脇に寄せ、壁際に立てかけてあった座布団をパンパン叩いてからそこに置き、私が座るスペースを作ってくれました。
 私がいろいろなものをまたいでそこにたどりつき、どうにか腰掛けると、彼は間を埋めるためにさっさとテレビをつけます。しかし、はっと気づいたようにまた立ち上がりながら、
「お茶でいいかな」
 とことわって、またグシャグシャといろんなものを踏んだり蹴散らしたりしながら台所に戻り、一応きれいそうなグラスに市販のお茶をついで持ってきてくれました。
「えっと、あのー、ここ、虫は出ないんですか?」
 汚い部屋に立ち向かうにあたっては、気になることを当然先に聞いておかなければいけない。婉曲表現ですが、当然ゴキブリのことです。
「それが意外とね、見たことないんですよ!」
 私の意図を察した彼は、妙に誇らしげに言います。うーん、そっか、よかった。
 その発言は、極端な話、別に噓でもいいんです。出ないんだと言ってもらえれば、まずはほっと腰を落ち着けることができます。
 ただ、この湿気と、そのせいかうっすら漂うにおいだけはどうも慣れず不快。ちょっと空気がこもってるから窓開けてもいいですか、と言いながら私はさっと立ち上がり、テレビの後ろにある窓を開けました。
 すると、一人暮らしにしては広いベランダに、大小さまざまな鉢やプランターが並んでいました。ベランダ全体の三分の一を埋めるほどの数があって配置も雑なので、隅に設置された洗濯機に到達するのは大変そう。しかし、丁寧に支柱を取りつけた蔓植物もいくつかあって、青々と植物が育っています。ここにはずいぶん愛情をかけている様子。意外な癒し要素を発見し、この部屋への抵抗感が一段階ゆるむ。
「植物もねえ、増え過ぎちゃって。でも、けっこう採れて楽しいんですよ」
 プチトマトやきゅうりから始めて、今年は朝顔もということで、今とても楽しんでいるらしい。
 玄関に入ったときのあまりに強烈なインパクトで拒否感は最初にピークを迎えてしまったため、一度この和室でお茶なんか飲み、元気な夏の植物なんか見ると、私は妙に落ち着いてしまいました。そして、部屋中をぐるりと見回して、人間性の見える細部に興味が持ててきてしまいました。
 私は、いろんなところ見てもいいですか?とことわり、ゴミの間を歩ける範囲で部屋の中を見て回りました。エレクターのラックには、多少の漫画雑誌と、かつて大学院に通っていた時に使っていたであろう学術書が並べられていますが、それ以外に本はあまりない。CDもテレビ台の下にごくわずかしかなく、意図的に集めているのはDo As Infinityのようです。聞いたことないな。
 カビだらけという最悪の状況を予想しつつもお風呂の折り戸を開けてみると、窓があるおかげか、不衛生度はそこまでひどいものではない。古いマンション特有の、正方形の浴槽とバランス釜で、洗い場にはまるで見たこともないシャンプーとリンスが置いてあります。気になって裏の製造者名を見たら、アムウェイと書いてある。
 トイレをのぞくと、こちらもダイニングや和室ほどに物が散乱しているということはなく、なぜか床に直接、型の古そうなCDラジカセが置いてあります。
 ひととおり室内を見て、またゴミをかき分けてできたさっきのスペースに戻ってきました。彼は昼間のテレビをぼんやり見ながら、どこにあったのか、食べかけの板チョコをつまんでいます。
「シャンプー、アムウェイなんですね......」
「いやいや、あれは、母親が買ってくるのをもらってきてるだけですけどね。僕は別に興味はないんだけど。モノはいいんですよ、あれは」
「トイレのラジカセは何なんですか?」
「いや、まあ、あれは......うん、別に大した......」
「ドゥーアズ、好きなんですね」
「あ、いや、はい。伴ちゃん、ねえ、かわいいじゃないですか、ははは」
 今までネット上でやりとりしていた平凡かつ優しすぎて何のおもしろみもないメッセージに比べ、男・一人暮らしのこの生活の生々しすぎる具体性、全然かみあわない趣味、意外性。こっちのほうがはるかにおもしろい。これだよこれ。少なくともこの時点で「好き」になったとは思えないけど、やっぱりつきあえるんじゃないかな。たぶん。
 いやちょっと待ってよ、この部屋の汚さは異常でしょ、いいのかこんなの。
 でも、「彼女」って、こういうのを片づけてあげたり、家事をやってあげたり、するもんなんでしょう。そうして女として鍛えられるべきだよ、私は。私が耐えきれない部分は、私が改善してあげればいいだけの話なんじゃないの、こういうのを、世の「彼女」はみんなやっているわけでしょ。初めてのおつきあいなんだから当然そういうことにも慣れていかなきゃいけないし、いいんじゃない。
 いやしかし、アムウェイ、ドゥーアズ......。
 いや、別にいいじゃないそれは、個人の勝手なんだから、私が押しつけられてるわけでもないんだから。
 慎重な私がいくら冷静になろうとしても、もう一人のお節介な私はぐいぐいとおつきあいを私自身に勧めてきます。
 その日の午後は、部屋に散らばるヒントからなんとなく二人の会話も続くようになり、日が暮れるころにはもう私は妙に冷静で肯定的な気持ちになっていました。つまり、とんでもないイケメンとかめちゃくちゃセンスがいい人とつきあいたいわけでもないし、そもそも私がつきあえるわけがないんだし、おためしでつきあうにはこういう人で十分じゃない、まあいいよね、と。
 その日は夜が深まる前においとまし、翌週の土曜にまた私は彼の家を訪問しました。歯ブラシやコンタクトレンズのケースなどを持って。
 このときは行く前に何か欲しいものがあるか聞いて、大井町駅前のイトーヨーカドーで食品類やお酒をいくつか買って直接彼の家に行き、特に前回と変わらず散らかりまくった部屋のなか、彼は缶ビールを二缶開け、私はチューハイを一缶開け。寝る場所はロフトベッドの上しかないですから、そこで二人で寝て、すると彼が少しずつ体を寄せてきて手を握ってきたりして、なるほど、そういう感じで距離を詰めながら進めてくるものなのね、いえこちらは全く問題ありませんが、何せやり方がよく分かっておりませんので、どうぞ、うまいように進めていただけませんでしょうか。とりあえず現時点でこちらには大きな抵抗感はありませんし、お任せいたしますので、セックスのほうよろしくおねがいします。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。