結婚の追求と私的追求

能町みね子

第14回

エクセシオール

 梅雨時でじっとりと暑いけれど雨は降っていない土曜日。私たちは大井町駅で待ち合わせることになりました。
 私が住んでいる牛込界隈で会うという選択肢はありません。万が一その場の流れで家に来るなどということになっては困るのです。
 おつきあいをするつもりでいるとはいえ、私の家にいきなり呼ぶほど心を許す気はありません。仮につきあった後でも、当面呼ぶつもりはありません。そもそも、私は誰であっても極力他人を家に呼びたくない。
 整理できていなくて部屋の中が汚いのを見られたくないとか、下に住んでいる大家さんにうっかり目撃されて何か言われたら嫌だとか、そういう理由もあるけれど、なにより私は牛込に建つ築40年近いこの古物件を気に入りすぎていて、誰かを部屋に上げること自体「侵入」だと感じて不愉快になってしまうのです。もしその人が建物のボロさについてからかいでもしようものなら、冗談だとしても腹が立ってしまいます。
 ということで、大井町。私にも私の友人にもまったく縁がないから、知り合いに会う可能性も皆無です。

 大井町という場所は、名前以外なにも知りませんでした。
 上京直後、私は23区外の調布市内に住んでいて、行き慣れた街といえば京王線で行ける下北沢、渋谷、新宿あたりがせいいっぱい。たまに吉祥寺まで自転車を飛ばして行く程度。
 その後、牛込界隈に引っ越してからも、買いものに行くのは大学時代に行っていたのと似たような街ばかり。東西線が乗り入れる中央線沿いの中野や高円寺に行くことがちょっと多くなったという程度でした。私が知ってるのは東京の西側。東京の南側を歩いたことはほとんどありません。
 大井町の駅は思ったよりも大きく、ホームから階段をのぼると大きな駅ビル「アトレ」があり、にぎわっていて驚きました。駅の東側には丸井もあるし、西には8階建てのイトーヨーカドー、それに阪急まである。思ったよりもはるかに発展していて、一大都市です。23区内なのに、まったく知らない地方都市に来たような感覚でした。
 私はふだんとさほど変わらない格好。髪の毛は女の子でいうならショートカットで、まだ一応男性として暮らしていることもあってほとんど化粧らしい化粧はしておらず、ユニセックスな細身のグレーのパンツに、大きめの襟がサテン地になった、古着屋で買った紺色のシャツです。どちらも体にぴったりしていて、この格好をしていればまず男性だと思われることはありません。いつも使っていたトランスコンチネンツのクリーム色のメッセンジャーバッグを提げ、改札の向かい側に突っ立って「ルカ」を待ちます。
 待ち合わせの午後2時よりも20分も前に着いてしまいました。緊張で口内に唾液がじるじるとうごめきはじめます。ネットを介して誰かに会うのはいつも緊張するものだけれど、今回の場合はまた特別です。最初からつきあうつもりなんだから。
 メールのやりとりで確かめた「ルカ」のプロフィールは、33歳(そのときの私より9歳年上)、大井町から徒歩数分のマンションに一人暮らしで、仕事は塾講師のアルバイト。今回会ってみるにあたり目的はお互い特に明示しておらず、「お茶でもしませんか」という程度です。それ以外、何も決めていません。
 目印はあらかじめ伝え合っておいたお互いのバッグ。彼のバッグは黒い肩掛けかばんだと聞いています。
 長々と時間を持て余しながら東西の入り口をきょろきょろ見ていると、しばらくして、東側のペデストリアンデッキから歩いてくる人が目が合ったように思えました。
 その人は初めやや不安げな顔をしながらずんずん私に向かって近づいてきて、近づくとともに、服装がややくたびれた白シャツとベージュ色のパンツ、黒い肩掛けかばんであることが分かってくる。
 完全に顔を視認できる距離になって、表情や顔つきよりも彼の額が汗だか脂だかでてらてら光っていることに目が行った瞬間、彼の口が開いてそこから当たり前の言葉が飛び出しました。
「あー、あの、どうも、こんにちは。『曇り』さんですか?」
 第一声ではためらいつつも、息をやや切らせながら妙に高く抑揚のある声で話しかけてきたその人は、33歳というにはだいぶ年上に見えました。背は私より明らかに低く、太っているとまでは言えないけれどむっちりとしていて、せり出した広い額の上にある縮れた髪の間からだいぶ頭皮が見えます。人の良さそうな四角い顔。
「あ......、はい、曇り、です。『ルカ』さんですか」
「そうです、はい、はい」
 本当に33歳なのか。年齢が違うとなると、ほかにもいろいろ偽っている可能性だってあるけれど、大丈夫か。
 彼の素性が疑わしいと一瞬思ってしまったうえ、このあとどうするかを私は何も決めていません。この街のことも知らないし、もともとすべて任せようと思っていたのです。数秒動けず、次の言葉を継げずにいると、「ルカ」は、ま、ま、じゃあ、などと間投詞をやたら挟みながら、とりあえず喫茶店でも行きましょうと言い、アトレの上階にあるエクセシオールカフェに連れだって行くことになりました。
 エクセシオールで、「ルカ」はすんなりと自分の素性を細かく語ってくれました。昭和44年生まれの33歳、実家は静岡。慶應義塾大学文学部から大学院に進み、心理学を専攻。しかし大学院に在籍中、体を壊して故郷の大きな病院に長いこと入院、その後、実家に少し戻っており、迷ったすえ結局大学院は中退。大井町のマンションは借りたままだったため、体調が快復してから再上京、アルバイトを見つけて今に至るとのこと。本名は相磯充倫という。姓も名も難解。「相手の相に、磯って書いて『あいそ』って読むんですよ、『い』がひとつないんです」と言いながら、わざわざパンパンの折りたたみ財布を取り出し、免許証や学生証を引っぱり出して見せてくれました。アドレスのm-aisoはやはり本名そのものでした。
 テーブルに各種身分証明を並べられ、会って数分でいきなりこんなものまで見せなくても......と私が少々面食らっていたら、彼はそれを察したのか「いや、ま、こういう出会いって怪しいから警戒しちゃいますよね、ちゃんと身分とか明かした方がいいかと思って」と額に汗をかきながら早口で説明してきます。
 さすがにこんなものまで丁寧に偽造して誰かに会うとまでは考えられないし、三田キャンパスに通っていたのなら大井町在住なのは納得。さっきは年齢から素性まで疑ってしまったけれど、単に老け顔だというだけで、噓はついていないのだろうと私は判断しました。なぜ「ルカ」という名前を名乗ったのかを聞くと、なにやらファンタジー小説に出てきた人物が好きだったからだとかなんとか言っていましたが、よくわからない固有名詞がたくさん出てきて興味がなかったので覚えられませんでした。
 それにしても、かつて「性を探究」するために人と会っていたときは、会っていきなり本当に女に見えますねとか、きれいですねとか、容姿について過剰に言われていたものですが、今回はそういう言葉は特にない。そのせいでむしろ初めからちゃんと女として見てもらえていることを感じます。
 相磯さん(本名を聞いて、早々に「ルカさん」と呼ぶのはやめてしまった)がこれだけさらけ出してくれたので、私もそれなりに自分の素性を語りました。さすがに免許証までは見せなかったけれど、私をだましたり、なにかいかがわしいことに誘ったりする目的ではなさそうだし、一応私はつきあうつもりでここに来たんだから、距離はなるべく早めに詰めたほうがいいはず。
 しかし......、改めて目の前にいる、汗に湿った相磯さんの頭部から胸部までを眺めながら思う。この人とつきあうのか。いくら「とりあえず誰かとつきあう」が目標とはいえ、これでいいのか。話していて不快な印象は少なくとも、ない。それなのに、私はなぜこんなにためらっているのか。容姿か。
 容姿だった。
 まさか自分が、ネットの中から抜け出して実際の人間の男性とおつきあいしたりセックスしたりする目的で会ってみて、容姿でこんなにも抵抗を感じるとは思いませんでした。イケメンが好きだとか、ジャニーズ系がかっこいいとか、世間で言われるような典型的な好みにはまったく共感したことはなかったというのに、自分より背が小さいこととか、実年齢よりだいぶ上に見えることとかーーいやそれ以前に、実際におつきあいをするという前提で見てみると、男性という生きものの首から上の毛の生え方だとか、毛穴から脂や何かがにじみ出ていることによって光る肌とか、細部の生々しさがそれぞれ鈍く主張して迫ってくる。こういった要素に私がこんなに抵抗を感じるとは思いませんでした。
 しかし、これはいわば通過儀礼にちがいない。
 田舎に住んでいた10代の頃、私は「洋楽が好きな人」になりたくて、雑誌の新譜レビューを立ち読みしていかにも私が好きになりそうなミュージシャンを見つけ、視聴もせずにそのCDを買ってみたことがあった。しかし、期待して家で聴いてみても最初はまったくピンと来ず、英語だから歌詞の意味も分からない。全然好みではない。しかし私は、これが好きなはずなんだ、絶対にこれを好きになるはずだ、と繰り返し繰り返しそのCDを聴きつづけた。そして、それは今では大好きなアルバムとなっている。
 だから私はこの男の人のことも好きになるはずです。つきあうために、好きにならなきゃいけない。これは義務です。
 喫茶店で互いに自分の話をしていてもさほど間はもたず、共通の話題もほとんどないので、私は少し落ちつかなくなってきました。こうして会うことになったのは、私が何かにもやもやと悩んでいて話し相手がほしいというのが名目上の理由だったけど、現時点でこの人に何か打ち明けたいような秘密などあるわけがありません。相磯さんもやや話題に困っている様子です。高い声でやや早口で話す彼ですが、話がうまいとはとても言えず、サービスのつもりか時々冗談のようなものを挟み込んでくるのが逆に笑えなくて反応に困るし、会話のリズムがどうにも合わない。
 私はじれてしまいました。
「家とか、行ってもいいですか?」

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。