結婚の追求と私的追求

能町みね子

第13回

フリーアドレス

 じゃあもう、さっさとこの人と付き合ってみよう。
 と、非常に短絡的にそう思ったのは、「ルカ」とネット上でやりとりしている裏で、現実の私が真っ黒い執念を燃やしていたから。
 憧れさえ抱いていた女友達から発せられた一言が毎日脳内のすきまを動き回っていたから。
 その発言の瞬間だけが、切り落とされた生首のようにいまだに頭の中の部屋に転がっていて、そのほかのこと、どうしてそんな状況になったのかははっきりと思い出せない。
 堀内は確かに、「私はやっぱり子供を産まないと、女じゃないと思ってるから」と言ったのです。

 そのとき、私たちは西武新宿線の沼袋駅から徒歩4分くらいの、おもしろみのない住宅街にある築年の浅いアパートの1階にいました。部屋はこざっぱりと整って生活感に欠け、私はソファーに腰かけていて、彼女は床にぺたっと座っていたように思います。確か、外の空が白みかけた早朝のことでした。
 大学のサークルで出会った堀内結のことを私はぶっきらぼうに呼び捨てにし、堀内は私のことを「お前」などと呼んでいて、私たちはそのくらいの仲でした。しかし堀内は別に粗暴な女の子というわけではなく、友人内では断然服や髪に気を遣っていてオシャレにしているほうで、その気の遣いかげんも私好み。音楽や漫画の趣味も合い、私に多くのことを教えてくれ、二人だけで遊ぶこともあるほどでした。私が性別を変えたいという気持ちを彼女に打ち明けたのもかなり早い段階のことでした。堀内は私の意志をとりたてて肯定するでも否定するでもなく、ただ聞いてくれました。
 東京郊外の実家に住んでいた堀内は、社会人になるにあたって沼袋のワンルームのアパートを借りました。その日は確か、その引っ越し祝いで押しかけたのだ。そうだ。それで、いっしょに行った男女数人の友達が酔いと睡魔に負けてバタバタと寝転がるなか、私たちはなんとなく明け方までだらだらと起きつづけ、二人で話していたのだ。
 堀内がその発言をしたのは、別に私の性にまつわる話なんぞをしているときではなかった。堀内が自分の話をしているときだ。夜中じゅう起きている日特有のおかしな心理状態で、もう酔いもだいぶ冷めているはずなのに、堀内は妙に深刻なトーンになっていた。ちゃんと結婚したいし、いずれは子供が欲しい、という話をしながら「私はやっぱり子供を産まないと、女じゃないと思ってるから......」と、自分自身に焼き鏝でも押しあてるように言ったのだ。
 あーそうなんだ、とかなんとか、おそらく返事にもならない返事をして、私は特に反論もしませんでした。
 だからそれは、私を責める言葉でも、当てつけでもないと分かっていました。「迷わずに子供を産みたい。他人はともかく自分はそう思っている」という意味での発言に決まっている。
 しかし、その言葉は、私にどす黒い復讐心を燃やさせるに十分でした。
 映画や本や音楽なんか私よりもはるかにたくさん知っていて、新卒でしっかり就職して、オシャレで......そんな彼女がそう言ってしまう世の中なのだ。これが世間だ。彼女が世間に化けて私に迫ってきた。
 なにも私は世間に喧嘩を売りたいなんて思っちゃいない、むしろ迎合できるならしたいくらいです。恋愛して結婚して子供を産んで、何の迷いもなくそうできたらどれだけ楽か。いちいち悩むの面倒くさい、楽できるものなら楽したい。迎合しようがないから悩むより仕方がないだけ。なのに、目の前の、ちょっとした憧れだった女の子が目も鼻もないのっぺりとした世間という形になり、「子供を産まないと女ではない」という呪文を発した早朝。
 そのときに私は、さっさと男と恋愛をしなきゃダメだ、と思った。
 それが私なりの世間へのおもねり方だと思ったのです。さっさと平凡な恋愛を済ませ、できることなら早めに結婚して、世間の代表格のこんなやつを出し抜き、世間に埋もれてしまいたい。かつていろんなセクシャリティの人に積極的に会っていたときは恋愛に発展することなど考えてもいなかったけれど、あの方法論で行けば、恋愛なんてたやすいんじゃないか。

「ルカ」は毎日まったくおもしろみのない言葉ながら、何か必ず話しかけてくれ、それでいて会いたいとか、顔を見てみたいとか、そういったことは決して言いませんでした。おそらく実際に会ってみてもまず危険のない人物だろう、という確信はありました。
 といってもこのサイトは衆人環視の状況にあるので、ここで露骨に「会おう」なんて約束するのはこの場のバランスを欠いてしまいます。私はアイドルでいなければいけない。うまくやらないといけない。
 私はメールアドレスを公開することにしました。そのためにフリーアドレスを取って、プロフィールページにポロリと載せました。

 今日は雨の中歩きまわってつかれたー。今日も発泡酒や発泡酒やー。
 さっき酒のいきおいで気まぐれにフリーアド取ってしまった!
 プロフ欄に載せたから興味あったら直接話したい人はなんでも送ってきていいよー(=゚ω゚)ノ

 酒なんか一滴も飲んでいない状態で、誤字の一つもなく丹念にこんなことを書きつける。
 それから数時間でもう、何通かメールが来ました。しかし、さすがにメールアドレスを公開した直後に喜び勇んでメールを送ってくる猛者は、ちょっとコミュニケーションをご勘弁願いたいような輩ばかりです。
「いつも読んでるよっ! よかったら返事ください☆☆☆」
 たった一行でなんの自己紹介もなく、こちらが返事を返したくなるような要素をわざわざすべてぬぐいさったかのようなメール。
「曇りちゃんはじめまして。俺は埼玉に住んでる大学生です。あそこでは修羅って名乗ってます。まだ曇りちゃんには話しかけたことなかったけど、メールアドレスがあったので、勇気出してメールしてみました。俺、マジでモテるんだけど、好きな女じゃないとやれないって思ってるので、童貞なんです。あっ、たぶんいま笑ったと思うけど、これはギャグじゃなくて本当にマジだから。チビだけど運動神経は悪くなくて、中学生の時からよく告白されてました。中学でいちばんかわいいって言われてた女子からマジで好かれてたっぽい時もあります。芸能人で言うと伊藤英明に似てるって言われたりする。曇りちゃんすごい優しくてかわいくてタイプだと思うので、ぶっちゃけ、会って話したいって思っ」
 途中で読むのをやめたくなる長文メール。
 サイトにアドレスを載せてから2日、「ルカ」からのメールは来ない。相変わらず彼はサイト上だけで丁寧な返信をしてくれる。そう、それでいい。あの書き込みだけで鼻息荒くメールを送ってくるような人では困ります。2日で来た何通かのおかしなメールは結局すべて無視し、2日後に今度はちょっと暗い日記を投下します。

 友達はいないわけじゃない。
 親友...も、たぶん、いると思う。
 私が悩みを相談すれば、きっとマジメに聞いてくれる人が何人かいる。
 でも、そういう人にも言えないことって、あるよね。
 そういうきぶん。
 今日は、それだけ。

 まるっきり噓をつくわけじゃないのがポイントだ、と自分で思いながら撒き餌を書きつける。書きながら、本当にもやもやした気持ちになってきます。こういうことを書くと、今までどおりにこのサイト上で会話してくる人も心配していろいろ言ってくるので、その対処も若干面倒くさい。
「ルカ」は、まんまと釣れた。
 10通ほど来た、ここ2日のもの以上にどうしようもないメールにまぎれて、彼からのメールがありました。アドレスのアットマークの前はrukaではなく、m-aiso。本名だろうか。

 曇りさん、こんばんは。
 はじめまして、じゃ、ないかな。ルカです。
 なんかメールって緊張するね(^_^;)
 親友でも相談できないことって、あるよね。うん。
 もし、あのページ上でも書きにくいことがあったら、僕で良かったら聞くからね。
 気が向いたら、お返事待ってます。
 もちろんあのページで返事をくれてもいいからね。

 来た、ついに来た。この人、たぶん押せば簡単に付き合える。
 私ははやる気持ちを抑えて、数時間経ってからメールを返しました。
 現時点で、この人に悩みを相談する気はまったくない。会ったこともないし、好きも嫌いもない。ただ、さっさと会って、彼氏になってほしいだけ。恋愛という形をいちはやく取ってみたいだけ。

 ルカさんこんにちはー。メールありがとう。
 別に悩みって言っても、内容はないんだけどねw
 ただなんか暗い気分になったときとか、いつもの友達とかじゃなくて、
 誰かに会って話したいなーって思うときもあって。
 ルカさんってどこに住んでるの?

 自分から会いたいとは言わない寸止め。ただもう、ここまで書けば実際に会うと決まったも同然です。
 「ルカ」は、大井町に住んでいました。全然縁のない、行ったこともない場所。その新鮮さがまたとてもよかった。
 私が「ルカ」と実際に会うまで、メールアドレスを公開してから1週間も経っていませんでした。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。