結婚の追求と私的追求

能町みね子

第11回

ファンヒーター

 イベントの翌日、アキラからまた丁寧なLINEが来ました。
「昨日はどうもお疲れ様でした! 観客としてはどうだったのかいまいちわかりませんが、個人的にはとても楽しいイベントでした。おひまがあったらまた遊びましょう、あるいはうちでパジャマパーティでも! 仕事で煮詰まったときでもデトックスしにきてください」
 親密さは多少増したような気がするものの、まだちょっと距離がある感じ。いつまでも、いずれ来てくださいVS.いずれ行きます、の繰り返しでは事が運ばない。さすがにもう一人で家に行っても「まさか本気にするとは」なんて言われまい。過剰に慎重な私でも確信できてきました。最初の思いつきからけっこうかかったけど、もう週一くらいのお試し同居をスタートさせてもよさそうです。
 お風呂の改装が行われない限り、アキラ邸に行ったときは銭湯通いとなってしまいますが、私はかつて風呂ナシアパートに住んでいたこともあるから別に抵抗はない。カップルで銭湯と言えば「神田川」、小さな石鹸カタカタ鳴らしてたまの銭湯に行くのも恋人プレイの大好きな私にはうってつけでしょう。勢いづいている今、このままさっさとお付き合いモードになってしまいましょう。よし、もう、今日行こう。
「今夜遊びに行こうかな~」
 気楽な感じで返事をすると、「え、いいすよ! てきとうに掃除しときます。石油ファンヒーターも出しとこうかな」と、向こうも軽い返事。
「銭湯何時までかな」
「11時半だったかしらん」
「仕事次第だけど。がんばる」
 こんなやりとりのあと、私の仕事は夜9時前にどうにか終わり、ついに一人でアキラ邸へ行くことになりました。心がまえのようなものももう要りません。地下鉄の駅を下りてシャッター商店街の四つ辻を左に曲がると古めかしい例の小ビルが現れ、玄関扉のすりガラスから明かりが漏れています。その明かりの右側には、天井までの突っ張り棒を使って作られた靴棚があり、大量のスニーカーが積み上がっているのが透けて見えます。
「ようこそ~どうぞどうぞ」
 チャイムを押すとすぐにアキラが扉を開けてくれました。入ってすぐ左にあるキッチンで料理の最中だったみたい。キッチンと、使えないお風呂と、小さなトイレと、ビニール袋がやたら詰め込まれた棚のようなものと、いろんなものが乗っかったテーブルと。1階はぎゅうぎゅうでとっちらかっていて、お世辞にもきれいだとはいえない。しかしそんな中で彼は料理を何品も作っていて、これはお試し同居というよりお客さんをお迎えするスタンスだ。べつにかしこまらなくていいのに、とも思うけど、最初はこんなものか。
「2階でゆっくりしてて~。3階に寝床もちゃんと用意したから」
 2階のおこたは以前のままですが、3階に行くと畳の部屋に間接照明が2つ、すでに灯されていました。しっかりしたベッドメイキングを柔らかい明かりが包んでいます。エロい。これはエロい。田舎のラブホテルみたい。私たちはこんなムーディーな部屋で寝て、一切セックスをしないわけだ。おもしろい。
 しかし、黒い厚めのマットレスの上に敷き布団、そしてふかふかの掛け布団、この寝具一式はどう見ても一人分です。ここが寝室だから私はてっきりここに布団を2つ並べて寝るものだと思っていたんだが、どういうつもりなんだろう。まさか同じ布団で寝るつもりじゃないだろうな。
 2階でこたつに足を入れ、ぼけっとテレビを見ながら待ちます。石油ファンヒーターがチラチラした音を立てている。石油なんて、東京の一人暮らしでいちいち買って運ぶのは面倒だから避けそうなものだけど、アキラはそういうところはずいぶんとマメなのだな。
 花火のときには人もいたからあまり部屋を観察しなかったけれど、本棚に並ぶ漫画本やCDはチェックしてしまう。岡崎京子、南Q太はそりゃ持ってるよねえ。ほしよりこは最近買ったのだな。ピチカートは当然たくさんあるよねえ。洋楽のCDはよく知らないものもたくさんある。そのうちにいい匂いがしてきて、中華スープ、豚肉と野菜の炒め物、ボウルに入ったままのサラダ、お茶などが続々と運ばれてきました。手伝ったほうがいいのかな、と思いつつも、階段はかなり狭くて慣れていないと運びづらそうだし、アタシがやるわ、いややらなくていいから、というおばちゃん同士の押し引き合戦のようになるのも面倒なので、「うわーすごい、豪勢~」と言うだけで私は座ったまま何もしません。
「いえいえ〜、こんなお粗末なものですけどぉ」
 二人のお皿が並べられ、なんてことのないテレビを見ながらの豊かな食事が始まりました。
「お口に合うかしら。ダメだったらひっくり返して」
 アキラの過剰な謙遜を受け流して、暖かい料理をつまみ、お茶を飲みます。私は自分のためにこんなしっかりした料理を作ることは絶対にない。他人のためにだとしても、ない。それに、私はひとりでテレビを見ているとき、自分のためにお茶すら淹れない。当然声も出さない。自宅はひたすらに乾いている。しかし、ここにはご飯とともに、ファンヒーターの独特の香りと、テレビの中の芸能人につっこんだりする本当にどうでもいい会話がある。これだ。これが同居だ。
 食事が終わると、お皿やお椀を1階にまたわざわざ運んで洗わなきゃいけません。自分のぶんの食器は一応運んでみたものの、片づけはやっぱりおまかせです。人の家のキッチンって使い勝手が分からないし、自分のテリトリーじゃない水回りはなんだか汚いような気がして、あまり使う気になれない。だから私は今まで、誰かとつきあったときもわがままを押し通してそうしてきました。人の家で自主的に料理を作ったり、片づけたりすることなんかほとんどありませんでした。そして、そのわがままを変えるつもりもないくせに、そのことに引け目を感じてきました。私がこんなふうにしてたら男の人には嫌われるんじゃないか、という負い目を勝手に感じてきました。料理や洗いものに手を出したほうが「彼女」らしいとか、母性があるとか、そんな腐臭のする考えがずっとどこかにありました。今日はまったくそれを感じない。アタシがやるからテレビでも見てて、と言うアキラに丸投げして、申し訳なさなんかまるでない。
 洗いものが終わったところで、歩いて5分の銭湯へ行きます。来るときも通ったシャッター商店街は道幅が狭くて下町風、神田川風味はいやがおうにも高まる。そういう甘酸っぱい学生の恋愛フォークソングの世界じゃないんだ、もっと合理的な同居なんだけどね、と言い訳しつつも、こういう「ごっこ」が好きなんだからそこは甘受して楽しめばいいってこと。自分の幼稚さを認めましょう。
 で、場合によっちゃこれから1つの布団に寝ることになるんでしょうか。それは少々抵抗があるんですが。
 このくらいの時間に上がろう、と言った約束に合わせて私が女湯を出ると、アキラは案外のんびり入っていてまだ出てこない。カウンターで駄菓子の「ポテトフライ」を買い、それをかじりながら脳内で神田川を早送りで3回くらいリピートした頃、ホカホカのアキラが男湯ののれんの向こうから登場。仲よくいっしょに帰ります。
「3階、すごいムーディーだよね」
「いいでしょう? 快適に寝れるといいけど」
「アキラもあそこで寝るわけ?」
 なにげなさを装って聞くと、アキラは露骨に眉をひそめる。
「はっ? いや、やめてやめてそんなの。嫌ですよ。2階のこたつで寝るよ。いっしょに寝るわけないでしょ」
「あ、そう」
 まあよかった、けれど、私は同じ部屋で、旅館みたいに布団を2つ敷いて老夫婦みたいに寝るのにちょっと憧れがあった。そうでないのは少々残念ではあります。
「でも、こたつじゃ風邪引くんじゃないの?」
「ふだんあそこで寝落ちしてるから全然いいわよ」
「そっかぁ、なーんだ、同じ部屋で寝るのかと思ってたのに」
「イヤー、無理無理無理」
 こういうところでも私たちは線引きが違ったらしい。

 おかしなアキラ邸の建物は、洗面室がない代わりになぜか2階に手洗い場だけが唐突にあり、私たちはそこで歯を磨きます。そして、2階と3階に分かれて就寝です。
 ムーディーな寝室でひとり柔らかい布団に入りこむと、ほどなくして階下から大きめのいびきが聞こえてきました。ああきついわ、やっぱり同じ部屋に寝なくてよかった、と苦笑いすると同時に、なんだかこれは夫婦というより「家族」っぽいな、と先走りした満足感が沁み渡ってきました。
 思ったよりはドラマチックじゃなく、変化も淡々としてスローペースで、何もかもが思いどおりというわけではないけれど、「結婚」の計画はあまりにも順調に進みすぎ、怖いくらいです。
 お風呂はなるべく早く改装したいな。そうだ、機会があったら仕事を頼んでみたいと以前から思っていた建築家の友達に連絡してみようかな。古い物件をリフォームして住むというのはちょっとした夢だったから、もっと過ごしやすいように大々的に改装してみるのもいいかもしれないな......あれこれと考えながら、ふだんよりだいぶ早い時間に眠りにつきました。

プロフィール

能町みね子

1979年北海道生まれ、茨城県育ち。漫画・コラム・エッセイの執筆を中心に、最近ではテレビ、ラジオへも活動の場を広げている。