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末井昭

第13回「たまゆら」と「たまもの」

 金持ちになりたいとか、有名になりたいとかではなく、「表現しないと死んじゃう人」が世の中には本当に存在するらしいということだ。それはすごく乱暴に言えば、普通の人間が無意識でやっているように、他者に対して自分の良い部分だけを「切り売り」したりできず、自分のすべてを他者の前に表したい気持が強い人たちであるように思う。

 

 これは、90年代の終わりごろ、『週刊プレイボーイ』が庵野秀明さんをインタビューしたときの記事の一部です。たぶん、庵野さんがこう言ったのではなく、記者が書いた文章ではないかと思うのですが、なんとなく頭にひっかかって、僕の「大事なお言葉手帳」にメモしておいたものです。

「表現しないと死んじゃう人が本当に存在するらしい」と、珍種の動物みたいに言っていますが、これはつまり表現者のことを言っているわけです。

 自分のすべてをさらけ出すことが表現のすべてではない、それは私小説などの文学に限られることではないか、とおっしゃる人もいるかもしれませんが、文学でも絵画でも写真でも、その根底には作者の内面がさらけ出されているものです。また、そういうものでなければ表現とは言わないのではないかと思います。

 

 僕が、自分を表現するということを意識するようになったのは、高校を卒業して(憧れの)工場に就職して、その工場にわずか数ヵ月で失望し、グラフィックデザイナーになろうと決心したころからです。

 それまでは、人前で自分の過去のことを話したことはありませんでした。母親が近所の男とダイナマイト心中したり、食べるものがないほどの貧乏生活をしたり、いじめられたり、自分の身の上に起こった出来事は、何ひとつ人に自慢できるものはなかったし、母親の心中の話をすると奇異な目で見られて、仲間外れにされるのではないかという恐怖がありました。

 人前では努めて明るく振舞うようにしていましたが、実際はネクラで、子どものころからひとりで絵を描くことが好きでした。

 マンガ家になりたいと思っていたのですが、マンガでは生活はできないと思い、工場労働者になって都会に出て暮らすという現実的な進路を選びました。前近代的な山村で育ったので都会に憧れていて、高校を卒業したら大阪に行って働こうと思っていたのでした。そして、モクモク煙を吐きながら24時間エネルギッシュに動いている工場(僕にとっては近代の象徴)で働くことが、自分にとっての輝かしい未来のように思っていました。

 グラフィックデザイナーという仕事があるということは、大阪のステンレス工場で働いていたころ、新聞の募集広告を見て知りました。

 その工場に入社して1ヵ月も経たないうちに、劣悪な職場に失望していたので、夜勤シフトのときに(工場は24時間稼働していて、工員は3交替で働いていました)、その募集広告を見て面接に行ったことがあるのですが、けんもほろろに断られました。

 それから数ヵ月後、僕は川崎の自動車工場で働いていて、休みの日に新宿に遊びに行ったとき、街角に貼ってあったデザイン専門学校のポスターが目に留まりました(そのころ、デザイン専門学校がたくさんできていました)。デザイナーになるためにはデザイン学校に行くのが早道だと思い、入学金を作るため、工場で働きながら牛乳配達のアルバイトを始めました。

 そして入ったのが、青山デザイン専門学校というところの夜間部でした。工場が終わったあと、渋谷にあったその学校に通うようになったのですが、学生運動の余波で昼間の学生たちが学校側と闘争を始め、バリケードを築いて中に入れなくしてしまいました。牛乳配達までやって入ったのに、わずか3ヵ月で学校からシャットアウトされ、入学金もパーになりました。

 でもまあ、3ヵ月勉強したからなんとかなると思って、作画会というディスプレイの会社に入りました。このころから反権力・反商業主義・反モダニズムデザインの『デザイン批評』という雑誌を熱心に読むようになり、その雑誌に感化されて「革命的デザイナー」になると決心したのでした。

 自分のことをいっぱしの表現者だと思うようになり、それまで隠蔽してきた自分の暗い過去は、自分が革命的デザイナーになるために必要なことだったのではないか、母親がダイナマイト心中したデザイナーはどこにもいないだろう、などと思うようになり、その自分の暗い過去やドロドロした情念をデザインで表現しようと思うようになります(デザインで自己表現していた横尾忠則さんや粟津潔さんの影響です)。

 それまでは自分の暗い過去を隠蔽しながらつとめて明るく振舞っていたのに、自分の暗い過去を肯定し、それを表現しようと思うようになったら、雰囲気までも暗くなり人があまり近づかなくなりました。

 作画会で看板のデザインやディスプレイデザイン、キャバレーの宣伝課でチラシのデザイン、フリーでピンクサロンの看板描き、エロ雑誌のイラストやデザイン、エロ雑誌の編集と、仕事はどんどん替わっていきましたが、自分は表現者であるという意識がいつもありました。

 文章を書くようになったのは30歳を過ぎたころで、白夜書房で『写真時代』を創刊した直後でした。北宋社の編集者、高橋丁未子さんから本を書いてみないかと言われ、1週間ほどホテルにこもって書いたのが『素敵なダイナマイトスキャンダル』という、自分の生い立ちとエロ雑誌の現場を書いた本です。この本では、最初に母親のダイナマイト心中の話を得意げに書いています。

 美子ちゃんは高校のときからアートに関心を持つようになり、大学のとき写真部に所属し、卒業して広告代理店で1年間働き、スタジオで半年間働いたあと(これまでに働いたのはその1年半だけだったそうです)ニューヨークに写真修行に行き、写真家の道を歩み始めます。

 僕と暮らし始めたころは、アシスタントをしていた森村泰昌さんの影響もあって、写真でアートをやろうとしていた時期で、女装を表現のモチーフにしていました。

 女装者でない人を女装させて撮るプロジェクトの最初のモデルは僕で、その後友人知人に声をかけ、スタジオで女装してもらって撮っていましたが、どうせなら有名人に女装してもらったほうが面白いのではないかということになり、僕が知り合いの『週刊宝石』のデスクに話して、「Who's Who」という連載を始めることになりました。

 方南町のボロビルのワンフロアを借りてスタジオにし、安部譲二さんや赤塚不二夫さん、田中小実昌さんといった方々に来てもらい、女装メイクのスペシャリストの森田豊子さんに大阪から出張してもらい、歌手のエルナ・フェラガーモさんにスタイリストを頼んでいたのですが、その人たちとの打ち合わせや撮影の準備などもあって、美子ちゃんはものすごく忙しくなりました。

 美子ちゃんは、何か自分のやりたいことに熱中しているときが、精神状態が一番安定しています。一方僕は、毎日会社に行くものの、編集の現場を離れ管理職として机に座っているだけの充実感のない日々を送っていて、好きな仕事をやっている美子ちゃんにコンプレックスを持っていました。

 そのころ坪内祐三さんは、新進気鋭の評論家として次々本も出していました。美子ちゃんは週に1回坪内さんのところに里帰りしていたので、帰ってきてから坪内さんの話をよくしていました。

 僕はそのころ、月刊『宝石』で連載していた「銀玉放浪記」というパチンコの話をまとめた、『パチプロ編集長』という本を作っていたのですが、美子ちゃんが「坪ちゃんの本は、坪ちゃんがどうしても書きたいことを書いて、坪ちゃんの本をどうしても作りたい人が作ったからいい本になったんだよ」と言うのを聞いて、自分がやっていることを批判されているように思いました。

 美子ちゃんはルンルン(ちょっと古いですが)で、僕はモヤモヤだったので、喧嘩の火種はいつもありました。美子ちゃんが忙し過ぎてパニックになっているときや、僕が気持ちが落ち込んで黙っているときは、最終的には喧嘩になり、美子ちゃんがやっていることを、「つまらない」とか「そんなのアートじゃない」とか言ってなじることもありました。自分は表現者だという意識があっても、具体的に何もしていないというコンプレックスが、そう言わせていたのかもしれません。

『週刊宝石』の連載が終わり、それまで「Who's Who」で撮ってきた女装写真を写真集にまとめることになりました。『週刊宝石』で連載していたので、『週刊宝石』のデスクに話すと「うちで出してもいいですよ」と言ってくれたのですが、美子ちゃんが「あそこじゃ嫌だ」とゴネてまた喧嘩になりました。

 美子ちゃんは、自分がこうしたいと思ったら妥協ということをしません。僕は表現者だという自覚はあっても妥協の連続で、お金のために魂を売ることなんて平気でやります。そうしないと生活できなかったからです。

「好きな人ができたから家を出る」と坪内さんに言ったら、坪内さんは「美子ちゃんはアーティストなんだから好きにすればいい」と言ったと美子ちゃんから聞いたときは、ものすごくものわかりのいい人だと思ったのですが、美子ちゃんがこうしたいと思ったら絶対妥協しないことを知っているので、坪内さんがそう言ったのかもしれないと思ったりしました。

 女装写真集には、坪内さんと僕が一緒に女装している写真を新しく撮影して入れることになりました。撮影のときは、女装は僕のほうが先輩だったので気持ちが楽でしたが、前夫と現夫を並べて女装さすなんてことは、おそらく美子ちゃんしかできないのではないかと思いました。このとき初めて、僕も「美子ちゃんはアーティストなんだから好きにすればいい」と思ったのでした。

 それから、写真集のダミー本を作る手伝いをやらされたり、イライラした感情をぶつけられたりしながら、1年近くかかってようやくまとまりました。その写真集『たまゆら』が、1998年の7月にマガジンハウスから発売され、同時に銀座のギャラリー小柳で、「たまゆら」という写真展が7月の終わりから8月末まで開催されました。パーティーには大勢のゲストや女装した人たちが集まりました。

 この席で、坪内さんが「ある時から神蔵さんに勢いが出てきたというのが横で暮らしててもわかって、そのとき僕は、神蔵さんになんか好きな人ができたんじゃないかなと思い、あるいは作品として自分の中であるひとつの明確なものが見えてきたんじゃないかなと思ったんですけど、結果的にその両方だったんですね」と挨拶をしているのを聞いて、やっぱり坪内さんは評論家なんだなと思いました。

『たまもの』は、『たまゆら』のあと作り始めた写真集で、仮のタイトルは『欲望にしたがって』だったと思います。それは美子ちゃんの行動原理そのままです。それが『こころ』というタイトルに変わり、最終的には『たまもの』になりました。

 この写真集の写真選びを始めたころ、住んでいた方南町のマンションが売却されることになり、僕たちは美子ちゃんの両親が住んでいた桜新町に引っ越すことになりました。それと同時に、方南町にあった美子ちゃんのスタジオも近くに移すことになり、ボロボロだけどかなり広いビルのワンフロアを、美子ちゃんは探してきました。偶然にもそのボロビルは、坪内祐三さんの仕事部屋のすぐ近くにありました。

『たまもの』は、美子ちゃんが僕と付き合うようになってからのことを書いた、私小説風の写真と文章の本です。この写真集の作業を初めてから、美子ちゃんは落ち込むことが多くなりました。

 

 スタジオの内装工事が始まった頃から、毎日のようにまずFマンションへ行って車を停めてそこから、環七の側道を歩いてスタジオに通いだした。昼時にはFマンションで文筆の仕事をしている坪内のところへ行って、二年前と同じテーブルについて同じイスにすわり、近所の気のきいたべんとう屋からべんとうを買ってきたり、焼きそばを作ったりして、一緒にワイドショーを見ながら昼ごはんを食べることもあった。八階の窓の下に見える、車の走っている環七の眺めも、窓辺に飾ってあるネコの小物や写真も二年前と同じままだった。(略)

 そうやって二年ぶりにかつて住んでいたところに通いだしてみたら、いつのまにやら過去が追いかけて来たのか淋しくなっていった。それはFマンションを出て方南町で暮らしてから二年も経ってからのことで、自分でもそんな気持ちになることは予想していなかった。堰を切ったようにセンチメンタルが押し寄せて来た。(神藏美子『たまもの』)

 

 美子ちゃんが落ち込んでいるのは、『たまゆら』の写真集発刊や展覧会の開催、マスコミの取材などの慌ただしさが終わり、心にふっと風でも吹き始めたのかなと思っていたのですが、坪内さんとの過去を思い出すことで寂しくなっていたのでした(このことは『たまもの』の制作がある程度進んでから知りました)。面白いのは、美子ちゃんがそういう自分の寂しさも現在進行形の写真集にどんどん取り込んでいったことです(だからなかなか写真集が完成しませんでした)。

 あるとき、朝起きると、美子ちゃんが布団の上に座っていて、「生きててもなんにも面白くない」とポツリと言いました。そう言われても、何も言いようがなくて黙っていたのですが、美子ちゃんに元気がないのは、僕のうつうつした気分が移ったのではないかと思いました。

 そしてまた、喧嘩が多くなりました。前と違ったのは、僕がカメラを買って写真を撮るようになっていたので、喧嘩をして美子ちゃんが泣いてるときも、それを撮るようになったことです。写真を撮っていると、行き詰まった気持ちが少しだけ楽になりました(その写真は『たまもの』にも使われています)。

 カメラを買ってから、休みの日は近所を歩き回りながら写真を撮っていました。あるとき、カメラを持って住宅街を歩いていると、どこにも行き場がないような気持ちになってきて、急に涙がボロボロ出てきたことがありました。それを見ていたもう一人の自分が、「いい年をしたオヤジが泣きながら歩いている。これは相当キモイぞ。それをブログか何かに書けば、面白がって読んでくれる人もいるかもしれないぞ」と思いました。

 たまたまそのとき、『パチンコ必勝ガイド』のホームページをリニューアルすることになっていたので、僕の日記を入れるページを作ってもらいました。タイトルは「ほぼ日刊イトイ新聞」をマネして、「ほぼ毎日末井日記」としました。何もドラマチックなことがない平凡な日常を、なるべく面白く書けないだろうか、と思いながら書きました。そうしたら、読んでくれる人がだんだん増えてきて、「日記読んでますよ、面白いですよ」と言ってもらうようになりました。特に夫婦喧嘩をしたときの日記は評判がいいようで、日記を書くようになってからは、美子ちゃんとの喧嘩のときも、それを書けばいいと思うと気持ちが少し楽になりました。

 それは喧嘩のときだけでなく、何もすることがない休みの日なども、日記を書く前は「自分も何かしなくては、何か書かなくては」と焦っていたけど、何もすることがないということを日記に書こうと思うと、焦ることもなくなりました。僕にとって(美子ちゃんにとっても)、何かのかたちで自分を表現していくことが生きていることではないかと思います。逆に言うと、僕たちは表現しないと死んじゃうかもしれない、ちょっと変わった夫婦なのかもしれません。

『たまもの』は、作り始めてから3年半経った2002年4月に、筑摩書房から発売されて話題になりました。「ほぼ毎日末井日記」は『絶対毎日スエイ日記』というタイトルで、2004年4月にアートンから発売になりました。どちらも憂うつから始まった本です。

『たまもの』が発売になったあと、美子ちゃんにもっと深い憂うつが襲ってきて、『たまきはる』という憂うつな写真集を作り始めます。

 憂うつというものは、普通は何もしたくなくなるものですが、僕たちにとっては、憂うつが何かを始めるきっかけになっています。表現するということは、そういうふうにマイナスをプラスに転換できるものかもしれません。だから、普通だったら別れてしまう夫婦なのに、表現のおかげでいまもって一緒にいることができているのです。