結婚

Marriage

末井昭

第12回結婚と恋愛

 ひなびた温泉地を旅するつげ義春さんの紀行文集『貧困旅行記』(平成3年に晶文社から刊行されましたが、その後新潮文庫から『新版 貧困旅行記』が出ていて、僕はそちらを参考にしています)の中に、「蒸発旅日記」というまるで小説のような旅行記が入っているのですが、これがすごく面白くて、これまで何回も読んできました。

「蒸発旅日記」は「私」が蒸発(失踪)する話で、所持金二十数万円(昭和43年に書かれているので、現在の貨幣価値に直すと100万円ぐらいでしょうか?)と時刻表だけ持って、小倉に住んでいる女性に会いに行くところから始まります。会いに行くといっても、その女性に行くことを知らせている訳ではありません。その女性とは2、3度手紙のやり取りをしただけで面識がないのですが、ただ会うだけでなく、「私」はその人と結婚して九州で暮らそうと思って行くのです。相手の同意もなくいきなり結婚ですよ。僕はこの連載で、結婚についてあれこれ考えているのですが、自分勝手な結婚ということではこれに勝るものはありません。

 大阪まで来て、さすがに行くのをためらうのですが、迷いを振り切って列車に乗ると、通路を挟んだ隣の席で若い女性がお婆さんと話をしています。九州の話が出たので、九州はどんなところかと訊くと、「九州見物ですか、それなら水前寺公園がいいですよ」とその女性は言います。その公園はどこにあるのかと訊くと、「熊本です。私は熊本に帰るのでよかったらご案内して上げましょうか」と言います。「私」は「熊本もいいな」と思い、「この女性に付いて行って彼女と結婚しようか」などと考えます。小倉に住んでいる女性はまだ見たことがない人だけど、この女性は(いまここで会っているから)人柄もわかるし悪くない感じなのです。「私」は「相手は誰だっていいのだ」と心の中で思います。「誰だっていい」というのもすごいですね。いい加減の極致ですが、蒸発しているからそういう発想ができるのです。

 そのあとも、ストリップの一座と出会い、一緒にドサ回りでもして暮らそうかと思ったり、杖立温泉のストリッパーと一夜を共にしたり、気の弱い引っ込み思案な「私」なのに、現実から離れたことによって、感情のおもむくまま、普通に考えたらかなり大胆な行動をとります。

 人は、頭の中では淫らなことや自分勝手なことを考えています。僕も道行く女性を見て、「この人とセックスしたいなぁ」と思うことがしょっちゅうあります。しかしそれを実行しようとは思いません。現実に縛られているからです。その縛りを取っ払ったらこんなことになる、というのがこの「蒸発旅日記」です。大阪で九州行きをためらったときのことを、筆者は次のように書きます。

 

 列車が動きだすと、私はようやくほっとしたが「蒸発をするのは案外難しいものだな」と思った。それは現実の生身の役者が舞台へとび出し別の人間になりきるのに似ている。役者は舞台のソデで緊張と不安のあまり吐気や便意を催すという。しかし舞台は幕がおりる。蒸発は幕がおりないから演じ続けなければならない。別の生を生きなければならない。だが演じ続けることもやがては日常となり現実となるのであろう。そう解っていても私はもうとび出してしまったのだ。


 確かに、蒸発してそれまでとは違った生き方をしても、それもすぐ日常になるのは当たり前で、その日常がイヤならまた蒸発するしかありません。

 この「蒸発旅日記」には、「私」が蒸発することになった原因は書かれていません。文章の行間から感じ取るか、不安神経症であるつげ義春さん自身のことを想像して考えるしかないのですが、根底にあるのは、自分が置かれている社会的立場から離脱して、自由になりたいという気持ちが強いということです。

 多くの人はその逆です。自分の社会的地位を守り、社会に認められたいと思っているのです。

 つげさんは『貧困旅行記』の中で、自分は貧しげな宿屋を見るとむやみに泊まりたくなる、その侘しい部屋でセンベイ蒲団にくるまっていると、自分がいかにも零落して、世の中から見捨てられたような心持ちになり、なんともいえぬ安らぎを覚えると書いています(「ボロ宿考」)。そして、次のように結論づけています。

 

 世の中の関係からはずれるということは、一時的であれ旅そのものがそうであり、ささやかな解放感を味わうことができるが、関係からはずれるということは、関係としての存在である自分からの解放を意味する。私は関係の持ちかたに何か歪みがあったのか、日々がうっとうしく息苦しく、そんな自分から脱がれるため旅に出、訳も解らぬまま、つかの間の安息が得られるボロ宿に惹かれていったが、それは、自分から解放されるには、〝自己否定〟しかないことを漠然と感じていたからではないかと思える。貧しげな宿屋で、自分を零落者に擬そうとしていたのは、自分をどうしようもない落ちこぼれ、ダメな人間として否定しようとしていたのかもしれない。

 

 ここに書かれているように、自己否定でしか本当の自由が得られないとしたら、ほとんどの人は不自由な状態にもがいていることになります。つげさんは、旅はそういう不自由な日常から少しだけ遊離させてくれるもので、生活から離れた気分になれるのが楽しい、とも書いています。

 それは旅だけでなく、結婚しているのに恋愛をすること(つまり不倫)も同じではないかと思います。

 僕は2回結婚しているのですが、最初の結婚のとき、何人かの女性と恋愛関係になりました。『貧困旅行記』を読んで、そのときのことを思い出すと、セックスへの好奇心ということだけでなく、日常から少しだけ遊離でき、自分が少し解放されるから恋愛をしていたのだということに思い当たりました。

 僕は子どものころ、現実から目をそむける癖がありました。目をそむけたいような現実があったからです。社会に出てからも、現実との折り合いが悪く、孤立することも多々ありました。

 現実との折り合いが悪かったのは、人とうまくコミュニケーションが取れなかったことが一番の原因ですが、現実から目をそむけているうちに、いつの間にか頭の中が現実離れしていって、現実離れした状態が自分の中では現実になっていたということもあります。

 キャバレーの宣伝課に勤めていたころは、学生運動の影響で、「デザインで革命を起こす」ということしか考えていませんでした。チラシやポスターの仕事を与えられても、お客さんを呼ぶにはどういうデザインにしたらいいのかということはまったく考えずに、自己表現とプロパガンダを目的としてデザインしていました。それはそれで夢中になれたので、僕にとってはいい時代だったと思います。上司から「そんなデザインで客がくるか!」とよく怒られていましたが、「資本主義に毒されたおまえには何もわかるまい、フフフフフ」と、一人心の中でせせら笑っていました。

 それでも給料をもらっていたのですから、かなりユルい職場だったと思いますが、そういうことがそんなに長く続くわけがありません。上司から邪魔者みたいに扱われ、なんとなく居づらくなってキャバレーを辞め、次に自分が何をすればいいのかわからなくて、妻に働いてもらいながら、自分は4畳半のアパートで本を読んだりしながらゴロゴロしていました。それまで考えていた、デザインで革命を起こすということが消えてしまい、頭の中がカラッポになりました。そして、なんの取り柄もない貧乏な自分という現実に向き合わざるを得なくなりました。

 妻だけに働かすのは申し訳ないからとにかく働こうと思っていたとき、キャバレー時代の知り合いから看板を頼まれ、アパートで看板を描いて電車で運ぶという、フリーの看板屋になりました。描くのが早かったので看板を量産し、収入はサラリーマンの月収を上回るようになりました。

 生活は安定するようになったのですが、看板を描くのも半年ぐらいでつまらなくなってきました。そんなとき、キャバレー時代の友達がエロ雑誌の出版社に就職して、僕にイラストを描かないかと誘ってくれました。それがきっかけになって、もう消えてしまったと思っていた表現欲がムクムクと膨れ上がりました。エロ雑誌には不釣り合いな、ドロドロしたグロテスクな絵を描いて持っていくと、それでも使ってくれたのですが、今度は収入が減ります。

 収入を増やすためには、仕事の量を増やさないといけません。表紙のデザインや描き文字、イラスト、レイアウト、マンガ、風俗ルポと、頼まれればなんでもやりました。一晩に30枚のイラストを描いたこともあるのですが、眠くなるのでペン先で手の甲をチクチク刺しながら描いていました。もう自己表現とか言っていられる状態ではありません。

 収入は再び増えてきましたが、それに反比例して毎日がつまらなくなってきます。いつも大量の仕事を抱え、寝不足でイライラしていて、しょっちゅう妻と喧嘩をしていました。僕はおそらく、自己表現以外の仕事は、何をやってもダメだったのかもしれません。生活のためにモクモクと働くことも、平凡な日常の繰り返しに埋没することもできませんでした。

 妻に内緒で女の人と付き合いだしたのは、そういう日常から離脱したいという気持ちが根底にあったからだと思います(恋愛していると現実が目に入らなくなります。どんなにブサイクな男でも女でも、自分のことを世界一カッコいい俺、世界一カワイイ私と思っているものです。もちろん僕だって、恋愛中は世界一の二枚目になっています)。

 僕がまだ20代半ばのころ、付き合っていた人と新宿で飲んでいて、気が付いたら電車がなくなっていました。二枚目でカッコよくなっていた僕は、彼女を家まで送っていこうと、タクシーを止め2人で乗り込みました。彼女が住んでいたのは多摩湖の近くらしく、かなり遠いということがタクシーに乗ってからわかったのですが、いまさら引き返すわけにもいきません。

 タクシーが都心を離れていくにつれ、町の灯りも少なくなり、そのうち真っ暗な道を走るようになります。すると前方に、赤や黄色や青のイルミネーションがチカチカ光っているのが見えてきます。まるでおとぎの国の入口のようです。それがラブホテルだとわかって、ますますそこに入ってみたくなり、運転手さんに「ここで降ります」と言って、半ば強引に彼女を連れてそのラブホテルに入りました。

 そこが東京なのか埼玉なのかさえわからないラブホテルの密室にいると、現実にはない架空の場所にいるような気がして、このまま現実から消えてしまってもいいような気持ちになってきます。そういう日常から少し遊離した感じが、なんともいえずいいのです。

 僕が30代の初めのころ、付き合っていた人(さっきの人とは違います)と、池袋のラブホテルで朝を迎えたときのことです。僕はラブホテルで朝を迎えるのがすごく苦手です。ラブホテルの中にいるときは日常から遊離していますが、明るくなって外に出ると、すべてがあからさまになるような気がして憂うつになるのです。

 気だるい気分でコーヒーを飲んでいると、彼女が「海が見たい...」とつぶやくように言います。現実に戻ってしまっている僕は「えっ? 海? 行きたくないなぁ」と思うのですが、彼女に合わせて「海ったって、どこに行けばいいんだろう?」と言うと、「湖でもいいよ」と言うので、彼女が知っている鎌北湖という湖に行くことになりました。

 池袋から東武東上線に乗りました。現実に戻っている僕は、その日、妻とどこかに行く約束をしていたことを思い出し、どう言い訳をしようかと考えています。電車は都心を離れ、郊外に向かって走っていきます。それにつれ、妻との約束もどうでもいいように思えてきて、再び現実から遊離した世界に入っていきます。

 坂戸という駅で東武越生線に乗り換えて、東毛呂という駅で降りました。東毛呂は寂しいところで、人もほとんどいません。駅前の駄菓子屋さんで訊くと、鎌北湖まで歩くと1時間はかかるというので、タクシーで行くことにしました。

 鎌北湖は大きな湖だと思っていたのですが、少し大きい池みたいなところでした。人もまばらで、2人でとぼとぼ歩いていると、なんだかもの悲しいような気分になってきます。どこかの食堂から「California Dreamin'」が流れていて、それを聴くとさらにもの悲しくなってくるのですが、そのもの悲しさが結構いいのです。これもつげ義春さんが言う「世の中の関係からはずれた解放感」なのでしょうか。

 もの悲しい気分のまま、彼女とボートに乗っていたとき、このまま蒸発してしまいたいと一瞬思いました。それは一瞬だったので、すぐ現実に戻りましたが、あのとき本当に蒸発していたら、僕はいまどこでどんな暮らしをしているのでしょうか。

 結婚しているのになぜ恋愛をしてしまうのかということについては、人それぞれの思いやそれぞれのケースがあって一般論では語れませんが、「ちょっとだけ現実逃避したい」ということもかなりのパーセンテージであるのではないかと思います。もちろん、現実逃避のつもりが本気で相手を好きになってしまい、僕みたいに家出をしてその人と生活する人もいると思いますが。

 僕が家出をして美子ちゃんと暮らすようになったことは、これまでに書いた通りですが、それから一度も恋愛はしていません。美子ちゃんとの約束で、お互い嘘をつかないことにしているので、恋愛をしたらそれを美子ちゃんに言わないといけません(美子ちゃんから「好きな人がいる、恋愛したい」と言われたことが1回だけありました。ちょっと困りましたけど)。それが縛りになっていることも確かにありますが、それ以上に美子ちゃんとの生活があまりにもギクシャクしていて、ちょっとしたことで喧嘩になってしまい、「日常が退屈だ」とか言っていられないぐらい、毎日が大変だったからです。

 でもそういう試練を乗り越えたおかげで、平凡な日常もいいものだと思うようになりました。それに、恋愛で非日常感を味わうにしても、ドキドキしたりワクワクしたりするのは最初の一瞬だけで、それもまた日常に還元されてしまうということもよくわかりました。世界一の美男子になったり、世界一の美少女になったとしても、それもすぐ覚めて自分に幻滅します。そういうことを越えたところに本当の愛はあるのです。

 恋愛とはそういうものだとわかっているので、いまもし美子ちゃんが「恋愛したい」と言ったら、ひょっとしたら「どうぞ、どうぞ」と言えるかもしれません。あるいは「つまらないからやめたほうがいいよ」と言うかもしれません。

 日常がつまらないのなら、日常を楽しくすればいいだけのことです。ちょっとしたことで日常は楽しくなりますが、それには、夫婦が愛し合っていること(お互いの欠点も含めて受け入れていること)が前提になります。そういう状態になるためには長い時間が必要で、そうして培った愛は、恋愛なんて足下にも及ばない素晴らしいものだと思います。