結婚

Marriage

末井昭

第9回結婚と経済

 僕のなかには、金持ちになりたい自分と、金持ちを軽蔑する自分がいて、その2人の自分がずっとせめぎ合っていました。どちらにしても、お金にこだわっていたということです。

 僕が生まれたのは岡山県の山奥で、ということを前に書いたかどうか忘れましたが、とにかく山奥で、子どものころはイノシシが獲れると村中に半鐘が鳴り響き、それを合図に鍋や皿を持った村人がゾロゾロ河原に集まってきて、太鼓がドンドコドンドコ鳴り始め(これは嘘)、イノシシを獲った人が肉をさばいて均等にみんなに分けていました。そういう原始共産社会みたいなところで育ったので、貧富の差とか考えたことがありませんでした。

 お金というものも、子どものころは見たことがありませんでした。たとえお金があったとしても、町まで出なければ遣うところがないので、村ではお金が必要なかったのかもしれません。たまに食品を売る移動マーケットのようなものが来ていましたが、みんな米で買っていました。まるで江戸時代のような話ですが、米がまだ貨幣として通用していたのです。

 ところがそういう田舎にも、田んぼや山林などの財産をたくさん持っている家と、わずかな畑しかない家があって、貧富の差というものがあることが、子ども心にもだんだんわかってきました。わが家は、肺結核だった母親の治療費や、退院したあとの母親の贅沢や、働くのが嫌いだった父親のせいで、田んぼは全部売ってしまい、わずかな畑しか残っていませんでした。

 田んぼを売るといっても誰でも買ってくれるわけではなく、結局は村で一番の金持ちに頼むことになります。そして、弱みに付け込まれて買いたたかれ、わずかなお金で手放すことになります。父親が町に住むことになったとき、家と敷地と畑と裏山、それにオートバイまでつけて、3万円でその金持ちに売ったと聞きました。1970年ごろのことですが、ずいぶん買いたたかれたものだと思います。

 僕は子どものころから、偉そうにしているその金持ちオヤジが大嫌いでした。そのオヤジのせいで、金持ちは性格が悪いものだという固定観念ができてしまいました。

 そういう子どものときに植えつけられた考えはずっと残るもので、いまも金持ちは嫌いだし、お金は必要以上に持たないほうがいいと思っています。聖書にも「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコによる福音書10-25)というイエスの言葉があります。この聖句を知ったとき「やっぱりね」と思いました。

 一方、家が貧乏でいつもお金に不自由していたので、村のみんなからバカにされ、父親が「金があればなぁ...」と情けない声でよく言っていたこともあって、金持ちになってみんなを見返してやりたい気持ちもありました。

 バブル経済のころ、不動産を買いまくったりしたのも、一気に金持ちになろうと思ったからです。その結果3億円以上の借金を作り、半ばやけっぱちになって、高レートのギャンブルばかりやるようになりました。ギャンブルで借金を返そうと思っていたのですが、気が狂っていたとしか思えません。ギャンブルでボロボロになって、「お前が嫌いな守銭奴にならなくてよかったじゃないか」ともう1人の自分に言われ、そう思い込むようにしていました。

 昔から、人からお金を貸して欲しいと言われたら、たいていは貸していました。そして、たいていは返してもらえませんでした。自分は金の亡者になりたくない、お金がある人がない人に貸すのは当然のことだと思いながらも、どうせ返ってこないだろうと思うと貸したくなくなります。それでも断れなくて渋々貸していました。困っているから貸すとか、あるいはお金は絶対貸さないとか、はっきりした態度が取れないのです。

 美子ちゃんは「自分がいい顔したかっただけなんじゃない?」と言います。そう言われるとムキになって「相手が困ってたんだから仕方がないでしょ」と善人ぶったことを言うのですが、本当は美子ちゃんの言う通りかもしれません。お金に対して、自分がどういうスタンスで対応していいのかよくわからないのです。

 美子ちゃんはお金に関して無頓着です。驚いたことに、美子ちゃんは生まれてこのかた働いたことが1年しかないそうです。親がお金持ちだったわけでもないので、金銭的にどうやって暮らしてきたのか不思議です。

 わが家の家計の仕組みは、美子ちゃんは働く気はまったくないので、お金を稼ぐのは僕の役目です。税金やら光熱費やら電話代やら保険料やら、毎月請求されるものを払うのも全部僕です。確定申告のためにそれらの領収書を整理するのも僕です。

 美子ちゃんは僕名義のキャッシュカードを持っていて、食材を買ったり遊びに行ったりするお金は、そこから下ろします。洋服やらカメラやら値段が高いものを買うときはクレジットカードを使いますが、それも僕名義の口座から引き落とされます。

 僕は月に1回その口座の残高を確認し、足らなければ必要と思われる額を入金しておきます。

 美子ちゃんはときどき、やたら高い洋服やら靴を買うことがあります。そういうとき、あらかじめ「欲しい靴があるんだけど」とか僕に言うのですが、美子ちゃんは欲しいものがあると絶対諦めないことを知っているので、しぶしぶ「いいよ」と言ってしまいます。

 月に1回の残高確認のとき、グッチの靴の値段が13万円だったりすると、たとえが悪いのですが、泥棒に遭ったような気持ちになります。「もったいない」とか「ブランドに騙されている」とか思うのですが、そういうケチくさいことを思う自分が嫌になります。

 高級ブランドであろうが何であろうが、美子ちゃんが買いたいと思うものがあるということはいいことなのです。それを買えば美子ちゃんは確実に気分がよくなるわけですから。買いたいのに僕に気を遣って買わなかったり、あるいは何も買う意欲がなくなるよりどれだけいいかわかりません。

 そう思うものの、「靴に13万円はないだろう」と思ってしまう自分もいるのです。結婚生活は、そういう自分の嫌なところや、(いいことも悪いことも含めて)自分が気がつかなかったことが、どんどんあばかれていくことでもあります。自分はこんなにキレやすかったのかとか、自分はこんなにプライドとコンプレックスが強い人間だったのかとか、自分はこんなにケチだったのかとか。

 でも、そういうふうに自分の実体がわかると、変わるきっかけになります。お金のことも、本当はお金が好きなのにそういう自分が嫌だから、ヘンな考えで自分をカモフラージュしてしまうのです。それがわかってからは、ごく自然にお金に接することができるようになりました。

 お金のことで美子ちゃんと約束していることは、ギャンブルや投資をやらないこと、それと人にお金を貸すときは美子ちゃんに必ず相談することです。約束しないでも、美子ちゃんと出逢ったときからギャンブルは一切やっていません。せいぜいパチンコをしたり、友達と麻雀したりするぐらいです。

 

 僕は出版社の取締役をしていたので、定年はありませんでした。

 毎日机に座っているだけで、仕事といえば会議に出席するぐらいなものです。楽と言えば楽なのですが、机に座っているだけのほうが、編集の実務をしていたときよりストレスが溜まります。さらに、出版不況も絡んで社員をリストラしなくてはならない状況になってきました。それを本人に言うのは僕の役目です。

 それは精神的に相当きつい仕事でした。家に帰って美子ちゃんにグチを言うと、一言「辞めてしまえば?」と言うのです。僕は「えっ?」と思いました。お金を稼ぐためにそういう苦労をしているのだから、「たいへんだね」とか言って慰めて欲しかったのですが、一言「辞めてしまえば?」です。

 僕が会社を辞めてしまえば、買いたいものも買えなくなります。でもそんなことは、美子ちゃんは考えないのです。僕がストレスを抱えていて、そのストレスを取り除くことのほうが先決だと考えているのです。あるいは、毎日グチを聞かされるのはまっぴらだと思っていたのかもしれません。いずれにしても、経済のことは二の次です。

 会社を辞めたいと思ったことは、それまでにも何回かありました。しかし、どうしても踏み留まってしまうのは、収入がなくなることです。だから、いつもお金で魂を売っているような気持ち悪さがありました。

 ところが4年ほど前に会社で不祥事があって、辞めるのはいまがチャンスだと思いました。その気持ちを後押ししてくれたのが、以前美子ちゃんが言った「辞めてしまえば?」という言葉でした。美子ちゃんがお金に無頓着だからこそ、会社を辞めることができたわけです。

 退社するとき、みんなが送別会をしてくれたのですが、挨拶のとき「美子ちゃんをもっと幸せにするために辞めます!」と言いました。若干ウケ狙いはあったものの、それは僕の本当の気持ちでした。

 夫婦というものは一緒にいる時間が大切です。僕ぐらいの年齢の人の中には、家にいて女房と顔をつき合わせているより、会社に行ったほうがマシだという人もいますが、そういう夫婦は早く別れたほうがいいと思います。一緒にいる意味がよくわかりません。

 生活を営むには、誰かが家族を養わなければいけませんが、お金を稼ぐことが偉いことのように思っている人もいます。奥さんに「誰が食わせてると思ってるんだ」と怒鳴ったりして、離婚訴訟を起こされた人を知っていますが、その人は結局離婚して、子どもにも会わせてもらえなくなりました。お金を稼ぐことは役割であって、そのことが偉いわけではありません。相手の幸せを考えることが偉いことなのです。

 僕が会社を辞めたら、美子ちゃんは「家に悪魔が入ってこなくなった」と言って喜んでいました。悪魔だけでなくお金も入ってこなくなりましたが、ストレスから解放されて毎日が楽しくなりました。それもみな、お金に無頓着な美子ちゃんのおかげだと思っています。