結婚

Marriage

末井昭

第8回女は男を愛せない

1987年に聖書研究会・イエスの方舟の責任者である千石剛賢さんにお会いしてから、月に1回のペースで日曜集会に参加していたのですが、千石さんの本『隠されていた聖書――なるまえにあったもの』を出版させてもらってから、自分の中から聖書に対する興味がスーッと引いてしまいました。

その理由はいろいろありますが、一番大きな理由は、この本を作ったことによって「聖書のことはわかった」と思ったことでした。それは自分の思い上がりだったのですが、たとえ聖書のことがわかったとしても、聖書に書かれていることを実践して、その実感を感じ取らなければ何も意味がありません。

再びイエスの方舟の集会に参加させてもらうようになったのは、美子ちゃんと暮らし始めてからです。美子ちゃんと喧嘩ばかりするようになり、どうしたらいいのかわからなくて、その答えを聖書と千石さんの本に求めるようになったからです。

 聖書の中で、男と女の成り立ちを書いているところは創世記です。

 創世記の初めのほうに「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1章 27節)と書かれています。人はもともと神をかたどって造られているので、神のようになれる可能性を秘めているということです。つまり、すべての人を愛し、いかなる不安もなく、死すらない状態です。しかし、まだこの時点では神を知る者はいません。

 最初に神とコンタクトを取ったのはアダムです。創世記には、アダムは神により土(アダマ)の塵で造られたとあります。神はその土偶みたいなものの鼻に、命の息を吹き入れます。命という言葉は聖書によく出てきますが、心臓が止まるとなくなる生物学的なものではなく、霊と言ったほうがぴったりします。つまり、神を感じられる感性を吹き込んだということです。

 

 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。

「ついに、これこそ

わたしの骨の骨

わたしの肉の肉

これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう

まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2章2125節)

 

人というのはアダムのことで、女はのちにアダムからエバと名づけられます。

「な~んだ、女は男のあばら骨から造られたのか」と、女性蔑視のようにも取られる箇所ですが、男のあばら骨から造られたとは、男は他者である女に自己を見ていることの比喩です。つまり、男は女に対して自分のように心配し、自分のように喜び、自分のように愛することができるということです。

 神はエデンの園というユートピアを造り、食べるものをもたらすあらゆる木を生えさせ、中央に「命の木」と「善悪の知識の木」を生えさせました。中央に2本ということは、どちらが本当の中央かという問題が派生しますが、まあ、2本と書かれていますが本当は1本だったのでしょう。

 神はアダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2章1617節)と命じます。命の木と死の木が中央にあるのが象徴的です。

 そして「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と、神は獣やら鳥やらあらゆる生き物をアダムのところに持ってきましたが、アダムは自分に合う相手を見つけられませんでした。それならばと、前述の聖句のように神はアダムを深い眠りに落とし、あばら骨を抜き取り女を造ります。

 

 人間が神のことばを聞いてすばらしいものとなるためには、神のことばを聞いとるだけではあかんのです。聞いたことを、自分以外の誰かに間違いなく正確に伝え受け取らさねば、自分のすばらしさというものが現実にあらわれてこないんです。そこで、受け皿というか、すなおに男の伝えることを受け止める人格、つまり女がつくられたわけです。(千石剛賢『隠されていた聖書――なるまえにあったもの』)

 

「神のことば」と千石さんは言っていますが、たとえば自分が何かに感動したときでも、自分の中にとどめているだけでは感動の歓びは小さなものですが、それを人に伝えることでその歓びは大きくなります。人間はそのように造られているのかもしれません。

 神が女をアダムのところに連れて来ると、アダムは大喜びし「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言います。言うというより、おそらく嬉しさのあまり歓喜の声を上げたのではないかと思います。男が惚れた女と結ばれるときのことを想像してみてください。それはどんな歓びにも勝るものです。

 そのあとの「男は父母を離れて女と結ばれ」とありますが、これは親子という人間関係から、男と女の人間関係に移ったということです。千石剛賢さんは、親子というのは一時的な人間関係で、一番大事なのは男と女の関係で、これは永遠だと言っています。

「二人とも裸であった」というところは、衣服を着ていなかったということではなく、お互い何も隠し立てすることはなかった、嘘がなかったということだと思います。聖書に書かれていることは、すべて人間の心の中の問題ですから。

 こうしてエデンの園で楽しく暮らしていたアダムとエバですが、このあと大変なことが起こります。エバがふらふら歩いていたら蛇が現れます。

 

 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3章1~5節)

 

 聖書は比喩が多いのですが、蛇とは悪魔の前身のような存在です。悪魔は「この世の支配者」(ヨハネによる福音書1231節)と言われていて、物質面をすべて握っています。物質こそ価値があり神に等しいぞと宣伝するのが悪魔の仕事ですから、エバにその木の実を食べることを勧めます。

 エバにはその木の実がいかにもおいしそうに、食べたら賢くなるように見えたので、前々から食べたかったのではないかと思います。そのため、アダムから教えられていた「その木の実を食べると必ず死んでしまうぞ」ということを、蛇に「死んではいけないからと神様が言っていたわ」と言っています。「必ず」がなくなっているのです。これはエバが嘘をついているということで、狡猾な蛇はその嘘を瞬時に見破り、「よし、アダムはダメだったけどエバなら落とせる」と思い、「食べたら神のようになれるぞ」とぐいぐいエバを攻めます。

 ついにエバは禁断の木の実を食べてしまいます。そしてアダムにも食べさせます。そうしたら大変なことが起こってしまいます。原罪の発生です。

原罪の発生とは、人が神との誓いを破ったことですが、なぜ神との誓いを破ったかを考えると、自我が生まれたからです。人は神から言われる通りにしていたのに、自分の考えでするようになります。アダムが神から聞いたことをエバに伝えて、エバはそれに従っていたのですが、エバが(蛇に誘惑されたにしろ)自分で判断して木の実を食べてしまいます。エバは受け身ではなくなり能動的になっています。この時点で「女」という役割は消えたと千石さんは言っています。そして人は自分は自分、他人は他人と思うようになり、アダムとエバもそうなります。

 千石さんは、このアダムとエバと蛇のことを、夫が会社に行っている隙にセールスマンが家に上がり込んで、「奥さんは美人だ」とか何とかうまいことを言って誘惑し、そこに居ついてしまった。つまり奥さんがセールスマンとくっついてしまい、ドアの鍵をかけて旦那が帰って来ても入れなくしたと言っています。もちろん、旦那がアダムで奥さんがエバでセールスマンが蛇ということですけど。

 とんでもないセールスマンですが、物を売るのが仕事ですから家に入り込むのは仕方ありません。問題は誘惑された奥さんですけど、奥さんの心をふらふらさせている旦那にも問題があると思います。旦那が奥さんの心をしっかりつなぎ止めておけば、こんなことにならなかったかもしれません。

 この陥罪事件のあと、原罪を背負ったアダムとエバがエデンを追われどんな暮らしをするかが、創世記に延々と書かれています(われわれと同じになっただけですが、かなり悲惨です)。

 自我によって他人意識を持つようになったアダムとエバですが、それはわれわれも同じことです。しかしそのままでは、お互い愛することもなく、愛されることもなく死んでいきます。陥罪前のアダムとエバのような、夫婦一体のしあわせな状態になる、つまりエデンに帰るためには、男が女を自分のこととして思い、愛さなければいけません。男と女の成り立ちからして、それは男にしかできないからです。つまり、男が「俺がお前をこんなに愛しているんだから、お前も俺を愛してくれよ」と、一方的に押しつけても無理な話ということです。

 

 神が男をつくられている以上、当然そこには神のご意志があります。つまり、男は女を愛することによって男が願う真実のしあわせが出現するように、み心のなかに決められているわけです。男が女にひかれるのは、男自らのしあわせを希求しているからにほかなりません。次に女ですが、これまた男を愛するようにつくられていると早合点しないで下さい。男が女を愛し、女がまた男を愛する。これはあたりまえだと、思っている人がたくさんおられると思います。しかしこれはもう無茶苦茶で、女が男を愛するということは絶対できんのです。つまり、そのようにはつくられていないんです。それを無理に男を愛そうとすると、女の人はボロボロになります。

(略)男と女の関係はさきほど申しましたように神の絶対意志として、男は女を愛し、女はその愛を受け止める、このようになってるわけです。ここんところをちょっと勘違いして女が男を愛そうとしますと、男から見て女の真の価値が見えなくなってしまいます。女から見て男がどんなにまどろっこしくとも、愛想をつかしたり「私がやらにゃいかん」と思って、愛する側にまわったらあかんのです。(『隠されていた聖書――なるまえにあったもの』)

 

 くどくどとアダムとエバのことを書きましたが、美子ちゃんと喧嘩ばかりしていたころ、千石さんの『隠されていた聖書――なるまえにあったもの』を読んで、女は男を愛せないんだと何回も自分に言い聞かせていました。

 僕は美子ちゃんに愛されたいと思っていたのかもしれません。聖書的に言うと、僕は女になろうとしていたのかもしれません。女装したりしていたくらいですから、自分の中に女性性があることはわかっていましたが、愛されたい者同士が一緒にいてもうまくいくわけがありません。愛するということは、愛されているという意識を持つ者がいて成立します。「女は男を愛せない」とタイトルで断言してますが、極端なことを言えば、男であっても女であっても、愛する者と愛される者がいればいいのではないかと思います。

 自我を抑え、美子ちゃんを自分のこととして摂取する。なかなかできないことなのですが、それができれば僕らは「神が結び合わせてくださったもの」(マタイによる福音書19章6節)になれるかもしれないのです。

(旧約聖書、新約聖書とも新共同訳から引用しました)