第16回

新潟と東京での新たな家族生活へ。どんな場所でも"親"になる!(前編)

16-01.jpg令和元年5月1日の引っ越し。
僕らは新潟と東京の2拠点に別れ、新しい家族のスタイルへと突入した。

 2018年末、「風向き」が変わった。次女N美の理不尽なホカツ惨敗を経験し、ただでさえ(妻にとっては)縁もゆかりもない東京郊外の地で、誰にも会わずに自宅で仕事をしながら寂しさを募らせ、そして夫の度重なる出張のしわ寄せとしてのワンオペ育児に追われ、妻はいよいよ「モタない」と切り出した。僕もこの状況に、出張先でも後ろ髪をひかれる思いが募り、眠れない日々が続き、1年半前の「決断」を悔いるようになった。あのまま滋賀にいた方がよかったのかもしれないと。でもあのときは当時の生活に希望を持てなかった。そして、実際に仕事は前にも増して順調だ。でも、その代償として家族はどうだろう......? なんとかしなきゃと思った。

 妻は、僕を責める口調でもなく、ただこう言った。
 「お父ちゃん、アラフォー子連れでの新天地はキツイわ。もうちょっと若くてエネルギーもあったらね。それにM子だけやったらまだしも、赤子のN美もってなると、やっぱ無謀やったんよ」

■「ホカツと家族」 前夜

 若くて、子どもがいなければ......

 そう。僕と妻はこれまで文字通り「根なし草」だった。何度も土地も変え、働き方も変えてきた。僕らは20代後半だった2007年春から大阪市福島区のマンションで同棲を始めた。それまで僕は阿倍野で一人暮らしをしながら大阪市の文化事業のディレクターをしていて、妻は神戸のアパートで一人暮らしをしながら元町にあるアートスペースの管理人を務めていた。付き合い始めて半年ほどで同棲を考え、阪神電車を使えば大阪にいてもそれほど職場が遠くならないからと、彼女の方が飼い猫のミドリ(オス)とともに、大阪に出てきてくれた。そして2009年春に籍を入れた。

 大阪生活の間も、妻は神戸市が主催する芸術祭の臨時スタッフとして役所に勤務したり、大阪市の文化事業の事務局でスタッフとして働くなど、仕事を転々としてきた。僕が2010年からフリーランスになったのを機に、事務所も兼ねて福島区内のマンションからほど近い一軒家に引っ越した。ある日、その家のガレージオフィス(よく1階がガレージになっていてその上が住居の間取りってあるでしょ)で仕事をしていたら、ボロボロになった子猫が助けを求めて迷い込んできて、妻と相談して病院に連れて行った。結果元気になったが、さぁてこの子どうする? となり、僕らの家族の一員になった。名をアム(メス)と言う。そして夫婦と猫2匹の生活が数年続いた(アムは2013年に病気で、ミドリは2016年に寿命で永眠)。

 フリーになってからはありがたいことに仕事の依頼が各地から舞いこむようになった。東京や滋賀や東北や海外など、関わる土地が飛躍的に増え、「移動」が日常になった。今まで関わることのなかった地域コミュニティに「アーティスト」という謎の第三者として入り込み、地域住民と商店街の空きテナントを活用したトークイベントを開いたり、まちの魅力を再発見するツアープログラムを企画したり、小学校で児童も先生も親も同じ目線で楽しめるワークショップを実施したり。そんなことを日々積み重ねるなかで、「地域」とか「土地」とか「コミュニティ」といったものに対するまなざしの解像度はどんどん上がっていったと思う。しかしだ。その一方で、足元を見つめれば......、どうだ? 大阪にいる時間、つまり妻と暮らす自宅にいる時間が圧倒的に減ってゆき......(だからこそ第11~12回で取り上げた漆さんが、自らが暮らす足元に仕事をぶっこんだ勇気は尊敬に値する)。

 そして、この頃から「子ども」という言葉が妻の口から頻繁に出るようになり、僕も「そろそろか」と意識するようになった。でも時間的にすれ違いも多く、「で、どうしよう?」ということをなんとなく切り出せないままに僕は「1週間、東京に行ってくるわ」などと半ば逃げるように外へ出ていた。理屈を言えば「個人のやりたいことを根っこに置いた家族生活」であればいいと思っていた。でも、それだけだとなんのために「一緒」に暮らしているんだろう? 僕もそう思っていたし、妻はもっと根本的なレベルでそう思っていたと思う。

 そんな折、転機が訪れる。妻がスタッフを務めていた大阪市の文化事業が、「維新の会の府知事市長W選挙圧勝」を受け、突如終了となったのだ。僕も関わっていた事業だけに悔しかった。大阪市の仕事をそれなりにやってきた立場としても、失職するスタッフの夫という立場としてもやるせなかったけど、「子ども」という将来を考えるためにも、「大阪を離れて、環境を変えてみよう」と二人で話し合った。そして、2012年の初夏、滋賀県大津市の琵琶湖のほとりにある長屋に夫婦と猫2匹で転居した。
 妻は、「こんなこともあったし、しばらく仕事はええわ」と言いながら、前々から関心があった学童保育のスタッフとして働くことに。子どもたちと触れ合い走り回る日々を送るなかで、妻はだんだん元気になっていった。僕も関西での仕事のベースが大阪から滋賀へと移り、相変わらず出張は多いけど、自然も豊かなこの土地での生活バランスがなんとなく板についてきた。

 それでも、「子ども」のことは未解決で。歳だけ取っていくなかで、とりわけ妻の焦りが加速していった。そして2013年の年始、妻は僕にこう言った。「なんのために一緒にいるのか、なんで環境まで変えたのに子どもについて真剣に考えてくれないのか、わからない!」と。僕は僕なりに、本当に僕なりにとしか言えないけど、「子ども」については考えてきた。でも、一言で言えば、怖かった。大好きな仕事ができなくなるんじゃないかって。自分には趣味もなく、好きなことはすべて「仕事」に絡めてきたので、だからこそ自由奔放に立ち回ってこられたのだけど、それができなくなるんじゃないか。「土地」に縛られるんじゃないか。「家族」という関係性のなかに閉じ込められるんじゃないか。それがただただ怖かった。本当に身勝手だけど、当時の本心だから仕方ない。このときの妻とのやりとりでは「もう無理かもね」と離婚の話まで出た。でも結局、その場で結論は出さないまま、僕は仕事で家を後にした。

 仕事帰りの電車で僕はあるメールを見返していた。姉貴から2年前にもらったメールだ。僕には姉貴が二人いて、10歳上の長女の姉貴は昔からものすごく活発な人で、20歳でワシントンの大学に留学して以来、東京で黎明期のマイクロソフトに勤めたり、ニューヨークで旅行会社に勤めたり。そしてアメリカ人の男性と出会い結婚。プログラマーだった旦那さんの影響もあってか、ウェブデザイナーとして活躍し、現在もサンフランシスコに暮らしている。
 姉貴には二人の子ども(中学生と小学生)がいるが、不妊でかなり悩んでいたことは僕もなんとなく知っていた。というのは、彼女が子どもを授かるまでの数年は、別人かと思うほどにそれまでのアクティブさが失われ、あからさまに心身共にしんどそうだったから。だから子どもができたときは「姉貴、良かったなぁ」と心から祝福した。そんな姉貴からもらった長いメール。子どもを授かるまでの過程と、子どもができたからこそ拓けた人生について書かれたそのメールの内容を要約すれば、「子どもができる前にこだわっている"幸せ"と、できた後に見えてくる"幸せ"は根本的に違うから、どうか現在の基準の幸せのみに縛られず、チャレンジしてほしい」ということだったと思う。もらった当時は「ありがたいけど重いわぁ......」と感じたけど、2年ほどして改めてこのメールを読み返してみたら、なんか響くものがあった。それで覚悟を決めて、家に帰って妻に「さっきはごめんな。もう少し頑張ってみよか」と伝えたのだった。

 2013年3月。妊娠検査薬が陽性を示した。二人で「キター!!」となりつつも、早とちりはしたくないので、急いで産婦人科に行くことに。海外出張のため空港にいた僕に、妻から検査結果が伝えられると、これまで味わったことのない幸福感をじわじわと噛みしめることとなった。そして2013年11月、長女M子が産声をあげたのだった。その後のことは、この連載を通じて書いてきた通りだ。

16-02.jpg大津の長屋では気が向いたときに家を開き、友人やご近所さんを招いて食事会をしていた。
手前にベビーベッド、奥には友人に抱っこされる赤子時代のM子の姿が。

■私たちならではの「家族のあり方」再考

 冒頭の昨年末のやりとりに戻ろう。
 夫婦二人とも考えていたのが「妻の郷里の新潟県妙高市に家族のベースを置き、夫は東京で仕事をしながら新潟に通う」というスタイルだった。もともとこの案は東京行きの議論の際にも、次女N美の妊娠発覚後に選択肢としてあがってはいた。でも、そのときは「家族が一緒にいること」に妻がこだわり、僕もそれこそが第一優先だと考え、みんなで東京行きを決断した。でも、「一緒」ってなんだろう? どこに住んでいても、僕はそこにいないことが多く、そんな「移動メインのワークスタイル」がすぐに変えられないなら、「どれだけ一緒に過ごすか」という「量」より、「どう一緒に過ごすか」という「質」の話にシフトした方がいいのかもしれないと考えるようになった。

 それと同時に、そもそもその一緒にいるべき「家族」をどの範囲で捉えるか。父、母、長女、次女のいわゆる「核家族」? でも実際は、僕が長期出張の際に新潟からちょくちょくばあばやおばさん(妻の姉)が来てくれているし、M子はN美の里帰りの際に3ヶ月も新潟で過ごしている。新潟の実家の協力も含めた新たな家族の形をもう一回考え直した方がいいのではないか。

 連載で取材した北海道石狩市の漆家が核家族化を避けるために意識的に続けている三世代同居(夫の実家で共に暮らす)という、一見「典型的な大家族」というあり方の意味を、この現代において問い返すこと。

 愛媛県今治市大島の久保田家(林田家)の新天地への移住(妻とその実家が子どもたちを連れて何の縁もない離島に移住し、夫はもともといた大阪から家族のもとへ通う)という、一見かなりアクロバティックでありながらも「そもそも一つとして同じ家族像などない!」という当たり前の事実を感じさせてくれること。

 などなどを思い起こしながら、私たちならではの「家族」、そう、変化を受け容れつつもサステナビリティも兼ね備えた家族のあり方を探るための作戦会議を行うことになったのだ。

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■新・家族生活ガイドライン

 2018年の年末から2019年の年始にかけて、新家族生活のガイドラインを立てた。以下、その概要。

(1)まず妻が現地で仕事を得ること
 妻が出してきた第一条件がこちら。いくら実家にいろいろと協力してもらうとしても、自分が働かないのでは居心地が悪いし、そんな理由がなくても、もっとシンプルに、仕事を通じて社会参加したい。それに家族が2拠点に別れるってことは以前よりも生活費がかさむ可能性高し。ちょっとでも稼げた方が安心よね、と。それで地元で彼女がやってきたアートマネジメントの経験を生かせる仕事はないかと探すことに。
 ここは、全国で仕事をしてきた夫のネットワークは使わない手はないだろうと、妙高市のお隣の上越市でつながりのある社会福祉法人が、以前から障害のある方のアート活動に力を入れていたこともあり、妻を売り込むことにした。先方もちょうどいい人を探していて、とりあえず見合い状態まではこぎつける。あとは、お互い条件が合うかなので、そこから先は一切関与せず状況を見守ることに。と書くと、僕のコネありきみたいに聞こえるが、そもそも滋賀県にいたときの妻の仕事(M子が保育園に入った際に就職した職場)は、社会福祉法人で障害のある人たちが行うアート活動のマネジメント補助。はっきり言ってめちゃくちゃニッチな仕事なのに、偶然にも妙高の実家から車で30分くらいの上越市に同じようなことをやっている法人があるのだから、彼女の才能と経験を考えれば、どのみちそこに売り込むしかないわけで。
 ということで、まず妻の仕事に関して種を撒きつつ、同時に......

(2)実家への協力要請
 「仕事の目処がなんとなく立つんじゃないか」という状況にしておいて、次は実家との交渉だ。いくら親子の関係とはいえ、また、いくら東京での生活が大変なのをわかってくれているとはいえ、愛くるしいけどやっぱり騒がしい孫たちが日常的にちょこまかしている状況を受け容れてくれるのだろうか......? 年末、一足先に実家に帰省した妻から「感触悪くなかったよ! こっちだと車が絶対いるから買うって話をしたら、お父さんが今乗っているやつ譲ってくれるって!」とトントン拍子に話が進み。内心、僕としては「東京での生活で家族を守りきれなかったダメ旦那」としてお叱りを受けるのではないかと相当ビクビクしてたんだけど、我々を大きく包み込んでくれたお義父さん、お義母さん、そしてお義姉さんに思いっきり感謝。

 さて、この(1)と(2)が見えてきたあたりから、ちらほら娘たちに「新潟行き+父だけ東京に残る案」について話し始めるように。「まだ決まってはないけど、どう思う?」と。まだ1歳のN美はさすがにニコニコしてるか泣いているかのどっちかだが、5歳のM子はもうこのことの意味はよく理解している。M子はこう言った。

 「パパと別れるのは寂しいけど、じいじとばあばの家は広いから好き!」

 うーん、そうねぇ、じいじとばあばの家は確かにめっちゃ広いもんねぇ......(笑)。
いやはや、言葉の表面だけ受け取るとこういうことだが、もちろん彼女はもっといろんなことを考えていて。パパとはどれくらい会えるのか。保育園のお友だちと別れるのは辛いけど、新潟ではN美ちゃんと同じ保育園に行けるのか。じいじとばあばの家に住むことになるのか(その時点ではまだはっきりしていなかった)などなど。そのあたりを妻と相談し、M子が心身ともにストレスを感じないよう配慮をしつつ、以降の項目へと進みます。

(3)M子とN美の保育園探し
 仕事の目処もなんとなく立ち、実家の協力も仰げるとわかったら、次は娘たちの保育園だ。これまでさんざんっぱら親の都合で各地を連れ回されてきた彼女たちがのびのびと幸せに過ごせる保育園ライフについて、まず当事者である長女M子に聞いてみた。保育園に関しては前述した通り、「妹N美と一緒の保育園に通えること」がM子の第一条件だった。これは親としてもぜひ叶えたいとずっと思ってきたこと。しかし! N美出産の里帰りの際にM子が3ヶ月通った保育園はすでに1歳児がいっぱい。くぅーっ! ここでも入れないとは......。
 それで実家近辺で探したところ、姉妹ともども入れる保育園があるという。早速、妙高市役所のこども教育課に電話をしてみる。その「みょうこう保育園」(仮称)では、未満児(0歳〜2歳児)の受け入れが「生後1年6ヶ月後から」という条件があった。ちなみにN美は2017年11月生まれなので、保育園に通えるようになるのは2019年5月からとなる。それでよければ、実家の近くにあって(近くといっても田舎だから車がいるんだけど)かつ姉妹一緒に通えると。田舎ならではのとてものびのびとした環境で、かつ昔ながらの公立保育園ということもあり先生もベテラン陣が多く、安心感も高い。とはいえ、仕事が「正式」に決まらないとM子はまだしも(幼稚園的機能も兼ねているので、3歳~5歳児は親が仕事をしていなくても預けることができる)N美は預けられないので、ここからが妻の就職活動も本番だ。
 それと同時に、そもそも私たちはどこに住むのか? ということで......

(4)住まいを決める
 結局、選択肢は「実家に住まわせてもらう」か「実家近くで家を借りて実家と行き来する」の2択。前者は、もちろん助かることも多いし、実際実家は広いので部屋をあてがってもらうこともできはなくはないが......。でもここは正直なところ、お互いの「距離感」が大切。妻は「実家とはもちろん仲もいいし、みんな協力的だけど、私ももう20年以上離れているし、子どもがいる状態で地元に戻るのは初めてだから、私たちは私たちの家があって、通い合うって方がお互い健康的だと思うのよね」と。それには同感。っていうか、それは僕が同意するどうこう以前に、妻が一番気持ちよく過ごしてくれる環境を優先しないとバランスを崩す可能性だってある。でも、あまり物理的に離れた距離で暮らしてしまうと、そもそも新潟に住む意味がなくなってしまう。だから「がっつり近居」で、かつ「保育園も近く」、「職場にも負担なく通える」、このバランスで物件を探さなくては。

 で、さらにもうひとつ大切な条件が。それは雪国ならではの「除雪」という問題だ。雪深い地域はとにかく雪下ろしが大変。それを冬場、夫がいないなかで日常的にやるのは無理! 一軒家の空き家は結構あったけど、「除雪機能がしっかり付いている集合住宅」が絶対条件だった。そうなると、もうだいぶ絞られてくるわけで。あと、まぁこれは大した条件ではないけど、僕が新潟に通うときにいちいち車で送り迎えしてもらうのも申し訳ないので、最寄りの駅から徒歩圏内であればなおのこといいと。最終的には、実家から車で5分くらい、かつ最寄り駅から徒歩15分くらい、かつ偶然にもみょうこう保育園の真裏という好立地のアパートが見つかり、そこを借りることに決定!

 物件が決まればあとは引っ越す時期だ。そこはN美がみょうこう保育園に通えるタイミングと妻の仕事が始まるタイミングなどを考えれば自ずと絞り込まれていった。出した結論はロングゴールデンウィークの中日の5月1日。なんにも意識してなかったけど、世間的には記念すべき令和元年初日に決まった。

■で、夫(僕)はどうすんの?

 「仕事」「実家の協力体制」「保育園」「住まい」とようやく4つが出揃ったところで、残されたのは「夫はどこに住むのか問題」である。まぁ東京近辺であるのは間違いない。前々から(東京移住前から)ある程度わかっていたことではあるが、この2019年から僕は品川区で新しくオープンする区立の障害者福祉施設にて、障害のある人と地域住民とを文化的な企画を介してゆるやかに繋ぐ、コミュニティアートディレクターなる立場に就任する予定だった。これは2~3年で終わるような事業ではなく(多分)、かなり長期戦だ。今年で40歳になる僕としては、この仕事にこれまでの各地での経験を惜しみなく注ぎ込もうと、相変わらず移動はあるにせよ、東京をメインの拠点として頑張る覚悟を決めていた。なので、東京近郊に住むことに変わりはないんだけど、問題はそのままいま家族といる小金井市に住み続けるかどうかということ。

 これはかなり悩んだ。1月~2月の時点では、「小金井優勢」だった。ただ品川の現場は小金井から電車で1時間半ほど。週のうちそれなりに通うことになるだろうこの現場に満員電車に乗って往復3時間かけて通い続けることはできるだろうか。でも、その苦労を差し引いても、小金井で仲間、友人と呼べる人たちがそれなりにできたので離れがたかったのだ。それに、僕自身一人暮らしになるわけで、単純に「寂しい」だろうと。関西と東京の2拠点で生活していたときは、あくまで「家族がいる関西(大阪や滋賀)」がメインであって、サブとして東京のシェアハウスにいるというスタイルだったが、今回は違う。東京での一人暮らしがメインとなり、妻も「お父ちゃんが孤立して、酒浸りにならないように!」(ぶっちゃけ飲まない日はないので......)ということで、「小金井にいられるんならそれもいいよね」とは言ってくれた。でも「小金井は品川にも新潟にも遠いのよね。あんたの性格的にすぐ音をあげそう」とも......。いやん、迷うやん。

 で、どっちみち小金井に残るとしても今の家は嫌だった。だって2年にも満たない短い期間とはいえ、娘たちとの思い出が染み付いたこの家には辛くていられない......。さすがに、俺、そんなにメンタル強くないわと(苦笑)。それで、小金井で事務所も兼ねられる物件で、今よりも安くていいところあるかなと、友人たちにあたったりして、決めかけた物件もあったんだけど、最終的にうまく折り合わなくて。そうこうしているうちに、品川の現場付近にちょくちょく打ち合わせに通っていくなかで、「ああ、もういっそのこと品川に住むか......」という気分へと傾き......(妻は本当に僕の性格をよく見抜いている)。大変名残惜しいが、小金井に別れを告げ、品川区内で物件を探すことに決めたのだった。

 妻と相談し、具体的にどれくらいのペースで新潟に通えるかシミュレーションした。僕の仕事の予定もあるが、家計的なこともある。なんせ、妙高と品川、2拠点のアパートの家賃プラス僕の新幹線(時にバス)往復代だから、都内のまぁまぁ便のええところで4人家族が暮らせる物件を借りるくらいの支出は覚悟しないといけない。結論としては「主に金曜の夜に到着して日曜の晩に帰るか、土曜の夜に到着して月曜の晩に帰るパターンで、2週間に1度2泊3日で通う」ことになった(まるで久保田家のよう)。とりあえずこれでやってみよう。しかし、数年前に北陸新幹線の上越妙高駅ができてなかったら、この2拠点案は絶対ありえなかったわと、JR様にも感謝......。

 こうして、最後の課題(お荷物)だった、「夫はどこに住むのか問題」もなんとかクリアし、令和元年5月1日の、新潟妙高、東京品川への2拠点同時引っ越しの日を迎えたのだった。新生活の話は......、次回最終回へと続く!

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