第14回

離島移住? 夫婦別居? 二拠点生活?
ある「島」と出会った「家族」の生活実験
久保田茜さん&林田家インタビュー(前編)

14-01.jpg愛媛県今治市の大島に住む茜さん。カレイ山展望公園から芸予諸島を望む。

 みなさん、こんにちは。我が家はその後、いろいろ悩みながらも妻の実家や友人たちの協力も得て、なんとか楽しく過ごしています。と言いながらも辛かったのはやはり病気ですね。アサダ家に胃腸炎パンデミックが到来しまして......! 次女N美→妻→長女M子→わたくしと律儀に回ってきて、この原稿を執筆中の一昨日はトイレから離れられないという地獄を味わいました。
 さてさて、前回はがっつり次女N美の苦しいホカツ事情について書きましたが、改めてご報告。全滅でした......。やぁもう予想を綺麗に裏切らなさすぎて、逆に前向きになれたYO!!

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 前向きになれたきっかけのひとつとして、ある家族との出会いがありました。僕が大阪にいたときから、かれこれ15年ほどお世話になっている友人に、久保田テツさんという方がいます。大学の教員でありNPO法人の代表として、文化事業の企画や市民メディアの制作など幅広く活躍されています。
 彼と大阪で会うたびに立ち話程度に話を聞いていたのが、「妻と子どもたちが離島に移住して、僕はひとりだけ大阪に残って、ちょくちょく島に通っているんだ」という話。同年代の子どもがいて、かつ、仕事の内容もわりかし似ている先輩的存在のテツさんが、そんな不思議な家庭生活を送っていると聞いて、「この話が面白くないわけがない!」と直感。お伝えしている通り、我が家も子どもが増え、東京での生活に苦戦しているなかで、最初はただの興味だったのが、だんだんと切実に話を伺いたいと思うようになりました。
 そこで、まず昨年10月に大阪でテツさんとお茶をした際に伺った内容を、以下ざくっとしたメモに。
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《久保田家&林田家のメモ》
・2008年、京都出身で大阪を拠点にしている久保田テツさんと、東京都港区出身の林田茜さんが結婚。
・2009年、大阪で同居生活スタート、ほどなく2010年に長男丸慈(まるじ)くん(執筆当時は小学3年生)が誕生。
・2011年に、東京都世田谷区に住む茜さんのお父様の林田誠一さん、お母様の町子さん、そして(母方の)おばあ様が、茜さんの子育てのサポートも兼ねて大阪へ移住。
・2012年に、茜さんは町子さんのサポートを存分にうけ、大阪の企業にフルタイム就職。翌年の2013年には、長女埜良(のら)ちゃん(執筆当時は年中さん)誕生。
・2015年、育児と仕事の両立に限界を感じ始めていた茜さんに対して、突如、誠一さんと町子さんから「田舎に移住したい」とびっくり提案。そうこうしているうちに、次女うねちゃん(執筆当時は2歳)の妊娠発覚。
・2016年、リサーチにリサーチを重ねて見つけた愛媛県今治市の大島に、誠一さん、町子さんらとともに久保田家も家族ごと移住。その後、東京都世田谷区の実家で暮らしていた茜さんの弟の望(のぞむ)さんも移住。
・しかし、テツさんは仕事があるため大阪に残って単身生活、月に2度ほど島に通う二拠点生活へ突入。

 いやはや......。夫婦の片方が実家の両親とともに子育ての環境を整えるというのはまぁあることだけど、その実家も含めて「まったく何の縁もゆかりもない土地」に移住し、しかもその結果「夫婦は別居する」って家族形態は、これまで聞いたことがなかったので、昨年12月に愛媛県今治市宮窪町友浦に住む久保田茜さんを中心に、ご両親の林田誠一さん・町子さんにもお話を聞きに行ったわけです。ということでインタビューの前編をお届けします!

■新天地・大阪でのワンオペ育児から抜け出すプロセス

14-04.jpg 窓を開ければ海が見える居間にてインタビュー。中央が茜さん。
キッチンにいるのは弟の望さん。夕方になって長男・丸慈くんが小学校から帰宅。


アサダ 今日は深夜バスで渋谷から今治桟橋まで来て、そのあと、しまなみ海道をバスで渡ってここまで辿り着きました! まずはテツさんに事情を聞こうと思って大阪で会ったら、会話の端々で「ええっと、詳しくは妻に聞いてもらえれば......」と言われたので(笑)、ここはちゃんと現地に行って茜さんから事の経緯をうかがい、生活の雰囲気も体感できたらなぁって。

 ようこそお越しいただきました(笑)。じゃあまず私の実家、林田家の話からしていきますね。私自身は東京の港区出身なんだけど、両親は共に関西出身。父は大阪の都島区、母親は京都の左京区で生まれて。二人は高校の同級生だったんだけど別々の大学に進んで東京で再会したそう。父は建築を勉強していたんですが、大学に10年もいて、それで学生結婚で子供ができたっていう(笑)。
 それでさすがに働かなきゃってことで、なんとか東京の某デベロッパーに就職。港区界隈の都市開発の仕事が多かったこともあって、社宅を転々としながら、その界隈に長らく住んでいたんです、私が高校を卒業する頃くらいに世田谷区に中古の戸建てを買うまでは。その頃は、母方の祖母と父方の祖母も一緒に住んでいたりで、結構大家族でしたね。

 私はその家に住んだり、一人暮らしをしたり、出たり入ったりしていたんですけど、大阪にいたテッちゃん(久保田テツさん)と結婚することになって。今年で10年目なんですが、最初の1年は東京と大阪で遠距離生活を送っていたんですよ。いわゆる別居婚ですね。で、そのあと結局私が仕事を辞めて大阪に移ってテッちゃんと暮らし始め、それでわりとすぐ妊娠して。大阪で何か仕事に就こうと思っていたんだけど、長男の丸慈が誕生してからは育児にかかりっきりで。まぁワンオペ育児っていうか、テッちゃんは仕事で外に出ずっぱりだったから。両親はもともと関西だけど私は生粋の東京育ちだったからまったく地縁もないし、初めての子育てだし......正直、大変でしたね。

 しかも大阪の北摂エリアのモノレールが走っている、下町感ゼロで幹線道路沿いでマンションバブルなあの感じっていうのが、子育ての環境としてちょっと馴染めなくて。まぁ六本木に住んでいたお前が言うなよって感じなんですが(笑)。私も働き出してから丸慈を駅近の保育園に入れていたんだけど、旦那さんがもともとそのエリア出身で実家が近いから、そのあたりでマンションを買ったみたいなお母さんたちが多くてね。うちらは、テッちゃんの職場の大学がたまたま豊中やったから、そこの教員寮に住んでただけなんですけど。

アサダ なるほど。初めての大阪に、初めての子育て、それに住んだ地域自体にもなんだか馴染めなかったと。

 そうなんです。それでもしばらくはその教員寮に、テッちゃんと丸慈と私の3人で住んでいて。一方、世田谷の実家には、両親と弟、それに母方の祖母が住んでいたんですが、もともとその家は、兄と私と父方の祖母も入れて多いときは7人くらいで住んでいたんですね。でも兄が家を出て、私も結婚して大阪に行って、父方の祖母は亡くなり、弟も一度一人暮らしをしたりで、とにかくどんどんスカスカになっていったんですよ。しかも父が会社を突然早期退職してしまって。父はなかなか変わり者で、なんせ大学に10年くらい居座って学生結婚して子供をつくっちゃうような人なので無茶苦茶なんですよ、昔から(笑)。
 まぁそんなモラトリアムな父が会社に入ったものの、やっぱり仕事に行くのが苦痛で仕方なかったんだと思います。家族もいたから泣く泣く締めたくもないネクタイを締めてなんとかサラリーマンを続けてくれていたんだけど、さすがにもういいわと。しかも世田谷の家のローンも完済してしまった。言わなければいいのにローンが終わったことを母が父に言ってしまったんですよ!(笑)

アサダ あぁ、それでもう弾けちゃったと......(笑)。

 そう! バーッと視界が開けてしまって、「仕事辞める!」って(笑)。30歳くらいで勤め始めて60歳にもなってないのに辞めたから、普通のサラリーマンに比べたら勤続年数が短い、短い(笑)。とにかく辞めてしまったら東京にいる意味がなくなったんですね。それで、娘の私がたまたま大阪で結婚して孫もいるし......しかも、子育てが大変そうだから「ちょっと大阪行くか!」って思ってくれたようで。
 でも、父はもうそんな状況だからお金はないわけですよ。ローンに使ったり、自己都合の早期退職だから退職金も微々たるもんだし(苦笑)。そんなことがあって、世田谷の持ち家を活用するのがいいんじゃないかということになり、シェアハウスとして運用できないかと考えたんです。

 ちょうどあの頃、2010年頃ってシェアハウスがすごく話題になっていてタイミングもよかったんですね。私は大阪から乳飲み子を抱え東京に通ってリノベーションに立ち会いました。父は仕事を辞めたあと家に引きこもりがちで、弟もそのときその実家に住んでいたんだけどネトゲ廃人みたいになってて......、母方の祖母もいてその介護で母にも相当負担がかかっていたので、シェアハウスの件は私が立ち会うしかないなと。で、いざシェアハウスが順調にスタートして、いよいよ林田家が大阪に移り住んでくるってなったんですが、とは言っても、うちはテッちゃんの大学の教員寮だったからさすがに狭い。それですぐ近くの借家を探して、父、母、祖母を呼んで。弟だけはそのまま世田谷のシェアハウスの管理人を兼ねて残しました。その大阪への引っ越しの翌日が、2011年3月11日だったんです。

アサダ そうか。東日本大震災。

 震災がきっかけで「一人暮らしはこわい」「シェアハウスに住んでいざとなったときは助け合いたい」という人が増えて、入居の募集があっという間に埋まって。それが収入の糧にもなって、林田家もようやくなんとか生活できる状態になったんですね。

アサダ 東京のご実家が収入の糧を得たことで、お父様とお母様との近居も成立。あとは茜さんたちの子育てサポートの体制づくりと仕事ですよね。

 そう。丸慈も2歳になったし、助けが見込めるようになったことで、うちもようやく生活が安定してきた。だからいよいよ私も働きに出ようと。それで2012年に、大阪の某通信販売会社に契約社員として就職しました。で、ぶち当たるのが保育園問題ですよね。一応フルタイムだったし、4月入社で内定が取れたので結構万全なホカツだったんだけど、それでも最初はどこも入れなかった。それでテッちゃんの大学のなかにある事業所内保育所に通っていたんですが、でもそこは保育料がかなり高くて補助金もなかったから家計的にきつくて。そのあとなんとか認可園に空きが出て、年度途中で移ることができたんだけど。

アサダ ああ、北摂エリアも子育て世帯に人気があるからホカツ大変そうですよね......。

 大変でしたね。最近ますます待機児童が増えているらしく、小学校の学童保育もパンパンだと。どんどん新築マンションも建ってるし。まぁホカツ以前にそもそもよく就職できたなって今は思いますけどね。子供はいるし学歴も資格もないのに、もう面接では口八丁手八丁で「東京でバリバリやってました!」って風吹かせて、かつ「子供は両親の協力があるのでがっつり働けます!」と言いまくって、なんとか就職を勝ち取ったという(笑)。実際に保育園の送りは、母親が車でうちの寮まで来てくれてそこに丸慈と一緒に乗り込んで保育園にほうりこんだらそのまま駅に直行。フルタイムだから迎えはそもそも間に合わず母に任せきりでしたし。そのサポートがなかったらまぁ絶対働けなかったですね。テッちゃんがルーチンの仕事だったらまだしも、とにかく彼はほぼ家にいないし、いてくれるにしても、時間が読めないし。

アサダ まぁテツさんは、かなり僕と働き方が近いと思いますから、聞いていて自分のことのように胸が痛いです......。

 それでも親たちのサポートがあることで、働きに出られていること自体がすごく嬉しくて。正直、契約社員だったしそんなに稼げるわけでもなく、保育料のこととか考えたらわざわざ働きに出ても割に合っていたのかわからないんですが、とにかく子どもと二人きりでいる状態から脱したくて。「このままでは私がしんどい!」ってずっと思っていたから、稼ぐどうこうより「社会とコミットしたいっ!」って動機の方が強かった。子どもは子ども同士で遊ぶ時間も必要だって思っていたし。

 東京で働いていた頃は、いろんな活動をする仲間たちもいたし、仕事でもプライベートでも社会にコミットしている感じはあったんです。でも、そういうチャンネルを全部捨てて大阪に移ってきたじゃないですか。旦那は旦那でいつも面白いことをやってるし、地元だからつながりもいっぱいあるし。だから彼もいろいろ私に気を遣って自分の友人知人を紹介してくれて。それはすごくありがたかったんだけど、でもやっぱり、子連れかつ新天地でどう関わっていったらいいかずっとわからずにいました。

アサダ いやぁ......。もううちの家族の話を聞いているようでなんとも......。僕もテツさんと同じで、妻に東京でいろんなつながりを紹介したり、特に今住んでいる小金井市の文化関係の仲間につないだりしていますね。妻もじわじわ仕事を増やし、娘を友人に預けたりして、そういったつながりを広げてきてはいるんだけど、それでもやっぱりここにいる理由を見出すのはそう簡単ではないと言います。そう言われると、僕も自分の都合で無理やり東京に引っ越したところもあったから、ほんとに申し訳なくて、それでまたいろいろ紹介したり......。

 そうでしょ、そうでしょ!(笑) すごいわかる。テッちゃんもそこはずっと負い目を感じてきたと思うし。だから私が自分の世界を持つために働きに出たいって話したときはすごく歓迎してくれたし、そのために親のサポート体制も固まったからね。
 仕事を始めたことでだいぶ土地にも慣れたんだけど、テッちゃんは、私がバタバタ働いている様子を見て、「そんなに働かなくても、もっと茜ちゃんのやりたいことをやったらええよ」って言ってくれるんですね。確かにテッちゃんの稼ぎだけでもなんとかなるかもだし、彼も私を気遣って言ってくれてたんだろうけど。でも、実はこの「やりたいことをやったら」っていう言葉って私にとっては結構プレッシャーで。だって「うーん......じゃあ私のやりたいことって一体なに?」って考えても結局わかんなかったし、考えれば考えるほどだんだんしんどくなってきて(苦笑)。逆にそういうことより「お金稼げるんならええわ」って感じでがむしゃらに働いてきた気がします。だけど......。

アサダ だけど......?

 そうこうしているうちに埜良がお腹にできちゃって。しかも入院したんですよ。妊娠初期に切迫流産のおそれで緊急搬送されて。退院したあとも出産までずっと自宅安静となって、そのまま育休も1年半くらいいただいて、結局、仕事をかなり長らく休むことになったわけなんです。で、「さすがにそろそろ職場復帰せねば!」と思ってホカツをしたけど、埜良を丸慈と一緒の園に入れることはできなくて。その2拠点がまた結構離れてるんですよね。そうなったら送り迎えは完全に母に頼りっきり。それでもさすがにきつかったので、フルタイムから時短勤務に変えてもらって。とはいえ、仕事の量は減らず、チームで動いているからとにかく気を遣うことが多く、同僚にも謝りまくりで。仕事の内容的にもやりたいことをやれているという感じもなく、なんとか親のサポートもあって勤めてきたけど、そろそろ限界かなと思い始めていたときに、テッちゃんも当時勤めていた大学の任期が切れて「次どうする?」ってなって。

14-05.jpg大阪の教員寮時代の家族写真。左からお腹に埜良ちゃんがいる茜さん、丸慈くん、テツさん。

 あの人もすごく悩んでいてね。私もきつかったんだけど、本人を前にすると「きつい!」ってなかなか言い出せなくて。でもまぁおかげさまで次の大学の仕事がなんとか見つかって、しかも同じ大阪の近いエリアの職場でよかったって話になり。それが2015年、丸慈が5歳で、埜良が1歳の頃で、そうこうしていると今度はですね、なんとここにいるうちの両親が「私たち、大阪離れて田舎暮らしがしたいんだけど......」って突然言い出して(笑)。

アサダ いよいよ本題ですね(笑)。そうか、茜さんからじゃなくて、お父様とお母様が言い出しっぺなのか。

■事の発端は両親の田舎暮らし願望

14-06.jpg夕飯時。後ろ姿がそっくりの長女・埜良ちゃん(右)と次女・うねちゃん(中央)。
そして、キッチンには誠一さんと町子さん。


アサダ お父様、お母様にも改めて移住の経緯をうかがいたいのですが。

誠一 うちは基本的にアウトドアというか、家族でもよく小さい車にキャンプ道具詰めて各地を走ってたんですよ。

アサダ どこへ行かれてたんですか?

誠一 まぁ東京近郊だから奥多摩とか、山梨とか、福島だとか。

町子 行ける範囲はほとんど行ったよね。

 北海道にも行ったよね(笑)。ポンコツ車にみんなでぎゅうぎゅうになって乗ってね。

アサダ そもそもなぜ田舎暮らしに憧れるようになったんですか?

誠一 大阪の街中で生まれ育ったでしょ。高校までずっとそこで、大学は東京で、仕事も東京でってとにかく都会しか経験してこなかった。それでちょっと疲れたこともあり、いつか田舎に住みたいとは思っていて。それでどうせ田舎に住むなら海の近くに住みたかったんですわ。

アサダ 海ってのがポイントだったんですか?

誠一 まぁ大阪って山も見えるけど、海もまぁまぁ近いじゃないですか。なんか山あり谷あり海ありってそれらの距離感が近いところが落ち着くなぁとは思っていて。東京も港区にいたし海が近いんだけど、なんせああいう整備された海だからね。山も遠いしね。だからそれらが歩いていけるサイズ感で集まっている田舎に住めたらなぁって思うようになったんです。

アサダ 基本的にアテがあったわけではなく......?

誠一 まったくない。

町子 相当回ったよね、あちこち2週間くらい。それこそ瀬戸内界隈は小豆島とか、岡山とかの沿岸も回ったし。四国の沿岸ももちろん。だって長崎や阿蘇の方まで行ったもんね(笑)。

アサダ 九州まで車で! そのリサーチ中ってどこで寝泊まりしてたんですか?

町子 基本車中泊。私は最初は嫌で、「絶対どっかに宿とるんじゃ!」って言ってたんだけど、ぐるぐるぐるぐる、あてどなく回っていくうちに、いちいち宿をどこにするとか考えてアポ取ってっていうのが面倒臭くなってきてね(笑)。それでもう「キャンプ場でいいか」ってなってキャンプ場に電話してここにテント張らせてってやってたんだけど、そのうちそれも面倒になって(笑)。しかもこの人(誠一さん)はそういう予約とか絶対やらない人だから。「もうええか......車中泊で」って最後はなっちゃいましたね。

誠一 旅をするときに予定なんか絶対立てないよ。そんなのありえない!

 この夫婦は昔から、ほんとに行き当たりばったりなんですよ!(笑)

アサダ いやはや、面白すぎます(笑)。お二人ともその年齢で車中泊とかすごすぎますよ!それでこの島に辿り着いたわけなんですか?

誠一 まぁいろいろ回ったけど、親戚が大阪や浜松にいるから、あんまり離れすぎるのもと思い、できるだけ関西寄りで海があって。それで小豆島もええなぁって思ったんやけど、あそこはすでに結構都会っぽくなっちゃって。のんびり感が少しなくなっていたからね。この島なんて来たらわかるでしょ? ほんとにのーんびりっていうか(笑)、別に観光で成り立っているわけでもなく。石材屋さんとか産業もあるけど、全体的にあまり商売っ気がないというか。そのゆるさ加減に惚れたんです。

町子 沿岸部だとやっぱり工業地帯が多くてあまりのんびり感もないしね。離島の中でも大島は、海の景色が開けているってのもポイントやったかな。ほかの島(このあたりの島は芸予諸島と言われる)だと、目の前に別の島とかがすぐ見えちゃってね。ここはとにかく抜け感がある。

誠一 それで、私たち夫婦二人で勝手に決める前に、一度、茜にも見ておいてもらおうと思って、この島も含めて何候補か再び回って。

14-07.jpg島リサーチ中。テントで眠る誠一さんと埜良ちゃん。

町子 でもこの人の心の中ではもう「ここだ!」って決まっていたんでしょうね。そこにたまたま「売地」って看板も出てたし(笑)。まぁその売地を買うことは結局なくて別の土地になったんだけど。

アサダ 聞けば聞くほど、ほんとに「ただたまたま出会っただけ」なんですね(笑)。なかなかそんなダーツの旅のような移住リサーチ、稀だと思いますよ。すごいわ......僕や妻の両親だったら、その発想と行動力はまったく考えられないですね(笑)。

誠一 一応ね、ちょっとは現地の人の話も聞いたのよ。ちょうどたまたま大島のどこかの家で移住してきた人たちが集まってピザパーティーをするって話を聞いて、飛び入りで参加させてもらって(笑)。そこで4組の移住者の方とお会いしてね、みなさんリタイア組っていうのかな。それが同じようにみんな口を揃えて「ここの朝日は最高だ」とか「のんびりしててほんとにいい」って言うんですよ。外から来て住んでいる人がそう言うんだから間違いないだろうって思って、「やっぱりここだ!」って決めたんです。

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■育児の限界という現実 × 両親の夢=「島」へ!
 そうなると実際問題ね、父と母と祖母だけで移住されてしまったらね、「えっ? これから私はどうなるの......!?」って思うわけですよ。両親がいるから働けていたわけで、それに旦那は職場が変わってさらに忙しくなりそうだったし、その時点で子どもは丸慈と埜良の二人もいると。「いや待て待て。絶対無理やん!」ってなって(笑)。どう考えても大阪に残り続けることに希望を見出せなかったんです。

 さらにね、これは私自身の問題かもしれないけど、とにかく都会での子育てに相当限界を感じていたっていうのもあって。自分の家の周りは住宅とちっちゃな公園ばっかりで、毎週末、子どもと何しようか本気で悩んでいた。まぁテッちゃんが週末関わっているイベントに連れて行くとかはあったけど、そこに子どもを連れて行っても子どもが勝手にちょろちょろ走り回っているのを追っかけて疲れるだけだし(苦笑)。

アサダ うちもめっちゃよく似たもんですわ(苦笑)。近所の公園に連れて行くか、自分のイベントとか用事に付き添ってもらうか。しかも4歳年の差のある娘二人のどっちもってわけにいかず、だいたい僕は長女対応なんですけどね。あとは、まぁTSUTAYAでアニメのDVDを借りるとかも、時間を潰すのに楽だからついついしてしまいますね......。

 お金で解決したりね。テーマパークに行くとか、モールで買い物するっていうママたちも結構多いと思うんですけど、私の性分がケチでとにかく消費したくないんですよね(笑)。

アサダ 妻もまったく同じことを言うております(笑)。都会とか郊外のモールって、何かと金を使わせるような環境がくまなくちりばめられてますもんね。新潟にいる妻の姉がよく娘の世話をしてくれるんですが、ディズニーランドが好きで、たまに連れて行ってくれるんですよ。うちら夫婦だけなら絶対連れて行かないんだけど「伯母さんが連れてってくれるんなら行ってもいいよ」って(笑)。まぁ、だからと言って、うちら夫婦ともどもインドア派だからキャンプとかにも連れて行ってあげられてないしな......。

 旦那は買い物も好きだし、それに同じくがっつりインドア派でシティボーイなんでまぁそれは仕方ないとして(苦笑)、とにかく都会で子育てを続けることについては、私にとっても子どもにとっても「このままではいかん!」って感じていたんです。そんな悩みの渦中で次女のうねの妊娠が2015年にわかり、さすがにこれ以上職場にも迷惑かけられないしということで、ついに退職。ちょうど2016年は丸慈が小学校にあがるタイミングだったから、「もうこれは今両親について行くしかない!」と覚悟を決めたんです。

アサダ ってなると、候補地の話し合いには茜さんも途中から加わったんですか?

 多少は。両親と祖母だけならまだしも、私と子どもたちも一緒に移住したいって言い出したらそりゃいろいろ条件が変わってきますよね。まずは旦那をどうするか問題。彼は大阪に仕事があるから離れられないのはわかっていたけど、だから物理的に2拠点生活できる範囲ってどこまでなのか、たとえば最初は小豆島って案も出た。大阪になるべく近い島の方がギリギリ通いやすいんじゃないかとかね。

アサダ テツさんは今どれくらいのペースで島に通っているんですか?

 月に2度のペースをどうにか守っているけど、時期によっては忙しくて1回しか来られないこともあるし。だいたい、金曜日の夕方に仕事が終わって、その足で新大阪から新幹線で福山まで来て、そこから大島までバスが出ているんですよ。だから19時半くらいに着いて、それで日曜のね、まぁ結構早めに帰るかな? 次の日の準備がどうのこうのとか言って......(苦笑)。16時過ぎとかに大阪へ旅立つ感じ。それで往復2万円×月2回で毎月4万円くらいかかってくるんですよね。もちろん必要経費なんだけど、それなりに大きな出費だし、どうにかそれくらいはやっていけるかなって家計簿とにらめっこして......。

 あとは、子どもに関する問題ですよね。小学校もないくらい過疎化しているところはさすがにまずいなと。その点、大島には2校ある。あと船便しかない離島が多い中で、大島にはしまなみ海道という「橋がかかってる」。やはり小さい子どもに何かあったときにすぐに大病院に駆けつけられるという心理的な安心感があります。今治にも30分で出られるし。そういう意味でここはちょうどよかった。こうやって条件が改めて絞り込まれていって、この大島に辿り着いたんです。


 いかがだっただろうか? 後編では、家族それぞれが島で見つけた新しい生活について、特に、丸慈くんと茜さんが始めたユニークな商い活動などを紹介していこう。

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