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        <title>都築響一 【演歌よ今夜も有難う】</title>
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        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2010</copyright>
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            <title>みどり・みき</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/image/21l.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
昔　昔の　物語り<br />
神と私の　お話じゃ<br />
若いピチピチ　可愛い私<br />
神は私に　ラブコール<br />
ああ　私はおねだり　お金がほしい<br />
遊ぶにお金を　ちょうだいな</p>

<p>可愛私に　貧乏神<br />
金が無かった　哀しいね<br />
若いピチピチ　可愛い私<br />
年齢（とし）をもらった　プレゼント<br />
ああ　ふられた神様　悔しい泣いた<br />
金無し　辛いと　泣いた雨<br />
　<br />
雨はそれから　降ったのだ<br />
神の涙は　本当かな<br />
若いピチピチ　可愛い私<br />
ヘルプ　シルバー　年齢（とし）を取る<br />
ああ　何でもするから　お金がほしい<br />
老後もお金が　かかるのよ</p>

<p>『神様は泣いた』　天の川一歩：作詞作曲</p>

<p>　東京のはずれ、足立区の団地裏の居酒屋で、入ってみると実はカラオケ喫茶＆スナック、しかも朝8時に開店という店内で、ショッキング・ピンクのかつらにショッキング・レッドの口紅にショッキング・グリーンのドレスを身にまとったおばさまが、激しいアクションとともにこんなコミカルでシュールな歌を絶唱する場面に遭遇したら...それだけで「生きててよかった！」ってなっちゃいます。</p>

<p>　平成12（2000）年に発表した代表曲の『神様は泣いた』が、すでに40万枚突破！　2008年には英語バージョンの『ゴットクライド』まで発売！　もう15年ほども浅草東洋館で定期出演！　いままで通信カラオケで配信された持ち歌が13曲！　なんでこんな大物が、なんでこんな場末（失礼！）に隠れていたのかと訝りたくなる、それが知られざるビッグ・アーティスト、みどり・みきさんだ（正式には「みどり」と「みき」のあいだに、ちいさな白丸が入る）。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21s.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/21s.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>　みどり・みきさんは昭和18（1943）年、東京中野区に生まれた。家業は鉄工所、それも一時は自社でオートバイまで製造販売する、業界では知られた会社だった。</p>

<blockquote>　わたしは中野区の沼袋で生まれて、そのあと鍋屋横丁や杉並のほうとか、いろいろ引っ越しながら育ったんです。父は寺田製作所という鉄工所をずーっとやっておりまして。運転手付きのルノーなんかに乗ってるようなお父さんだったんですが、昭和30年ごろでしょうか、わたしが小学校高学年のころにバイク、オートバイをつくりはじめましてね。アース号という名前で、小学校5年のわたしがサイドカーに乗せられてる写真が残ってますけど、それがまあ、うまくいかなかったんですね。時代に先駆けちゃったというか。それで負債を負ってしまって、大変なことになったんです。住むところも転々とするようになって。</blockquote>

<p>　創意工夫、起業家精神に富んでいたお父さんは、また大の歌好きでもあった。家には当時高価だったレコードがたくさんあって、みどりさんも幼いころから「大きくなったら歌手になるんだ」と、自然に思っていたという。</p>

<div style="text-align: left;">　父はね、NHKの『のど自慢』の第1回に出てるんですよ（1946年）。2等賞になって、けっこう大きな唐草のつづらをもらって帰ってきたのを覚えてます。もともと父は近衛兵でラッパを吹いたぐらいの音楽好きで、ギターも古賀政男さんに習いに行ってましたから。だから、道楽が過ぎて失敗しちゃったのかも（笑）。
　家にはいっぱいレコードがあって、わたしも2歳で『裏町人生』（上原敏）とかを歌ってたそうですから。意味もわからないままにね。もう毎日歌いっぱなしで、ほんとに小さいころから歌手になりたかったんです。
　父も応援してくれて、中学校になったら私立に通いながら林伊佐緒先生（戦前から戦後にかけて活躍した歌手・作曲家）のところに行かせるって言ってたんですけど...小学校6年生になるころに、鉄工所が倒産しちゃったんです。</div>

<p>　かわいらしいお嬢様だったみどりさんの生活は、寺田鉄工所の倒産によって一変することになった。</p>

<blockquote>　倒産して、わたしは6年生で茅ヶ崎の親戚のもとに行かされて、そこで卒業してまた中野に戻ったんですが、それからは中学も3年間で3回替わりました。事業が失敗しちゃったから一家離散になって、バラバラに親戚に引き取られたんです。けっきょくわたしは、小学校中学校、全部で6回も替わりましたからねえ。
　バラバラになって、最終的にわたしは池袋の親戚に引き取られたんですが、母が週にいちどだけ会いに来てくれるんです。それでとにかく真面目に、真面目にやれって言われて。みんなでがんばって、いつかまた一家で一緒に暮らしたいなって希望がありましたから。その母は去年の5月に亡くなりましたが、父は91歳でまだ元気にしてます。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/21s2.jpg" width="240" height="335" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>　けして冷たい仕打ちを受けたわけではなかったが、なんとか親戚のもとを離れて独り立ちしたかったみどりさんは、中学を卒業したあと、高校に進む代わりに美容学校への進学を選ぶ。手に職をつけ、一日も早く自活したいと願う、それは少女のけなげな選択だった。</p>

<blockquote>　高校も大学も行こうと思えば行けたんですけど、とにかくやっかいになっている親戚の家を早く出たいもんだから、美容学校に行かせてくれって頼んだんです。それだと（住み込み制の）インターンがあるから、卒業したら出れるからね。それで美容学校を夜間で1年半通って、卒業して家を出て、インターンのあと国家試験を通って、19歳になったときに美容院を出してもらえたんですよ。
　それで19歳で美容院を始めました。北千住で4年ぐらいやったんですけど、そこで結婚して神奈川でやっぱり4年ぐらい。そのあとまた東京に戻ってきて足立区で、今度は自分で資金を出して始めたのが、いまでも細々と続いてるんですね。昔は忙しくて、朝の6時から夜中の12時すぎまで店を開けてたり、美容師も6人ぐらい雇ってましたが、いまはもう歌のほうもあるんで、予約のひとだけで、のんびりやってます。ここの店が朝8時からでしょ、だから明日も美容院にはお客さんが朝5時にひとり来るんですよ、「だって早く来てくれないと、わたしこっちの店に来ちゃうから」って（笑）。</blockquote>

<p>　ご主人は印刷会社で、早朝から深夜まで働きづめの毎日。みどりさんのほうも美容院を切り盛りしながら、ふたりの娘さんの子育てという多忙を極める日々。そんななかでも歌を忘れることができず、合唱団に入ったり、友人とカラオケ教室の経営にもかかわったりと、みどりさんと歌の縁は途切れることがなかった。</p>

<blockquote>　美容院は忙しかったんですけど、とにかく歌手になる夢だけは捨てられませんでした。歌手になるより、宝くじに当たるほうが簡単だろうな、なんて思ったりもしてましたが、でも諦めないって気持ちはずーっと持っていて。だから（美容院の）仕事してても、ちょっと手が空くとスナックとかに歌いに行っちゃう。お金もバンバン使っちゃった（笑）。とんでもないこと、してましたね。
　それで昭和58年ごろから、知り合いに頼まれてカラオケ教室を主催することになったのね。近所の住区センターを借りて、月2回。お酒とか料理とか作って持っていって、2回で会費が800円ですよ！　でも、なんとかお金を浮かせて、貯めたお金でカラオケの機械買ったり。当時は８トラからレーザーになるころでしたね。わたし、教え方なんかわからないから、本読んでてきとうにやってたんですけど、それでも生徒さんが100人ぐらいはいて、けっきょく平成８年まで14年間続けてました。</blockquote>

<p>　自己流で教室は続けながらも、プロになるためにはやっぱりきちんと先生について習わないと、と痛感したみどりさんは、ある日教室の仲間と連れだってカラオケ教室の門を叩く。それが歌手みどり・みき誕生のきっかけになる、天の川一歩先生との出会いだった。<br />
　天の川一歩は作曲・作詞家として長く活動しながら、カラオケ教室を主催。その前はジャブ・ワーストなる芸名で歌手活動、さらに音楽の世界に足を踏み入れる前は俳優・瀬川克弘として、羽仁進の映画『不良少年』などに出演した経歴を持つ、ユニークなマルチ・アーティストである。</p>

<blockquote>　天の川先生は日本カラオケ連盟という会をそのころ主催されていて、カラオケ大会をずいぶんやってらっしゃったんです。それにわたしがカラオケ教室仲間と参加しまして、そこで先生のことをゲストで来ていた歌手の方に紹介していただいて。「あの先生なら最高よ」って言われたので、これは教室に入れていただきたいって、オバサン3人で押しかけちゃったんですよ。そのときはまだ、先生がそんなプロの方だって知らないで行ったから、びっくりしちゃいましたけど。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21s5.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/21s5.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>＜天の川一歩＞　わたしはカラオケ教室やってたから、生徒はたくさんいたんだけど、なんせこのひと（みどりさん）は、来たとき52歳でしたからねえ。それでいきなり「歌手になりたい、歌手になりたい」って言われて、往生しちゃったよ。正直言って、ヘタクソだったしね（笑）。</blockquote>

<p>　実はみどり・みきさん、美容院経営にカラオケ教室主催のかたわら、それまで30年間にもわたって、混声合唱団にも所属、副団長として活発に活動していたのだった。天の川先生のレッスンは、まず合唱の発声を歌謡曲向きに矯正することから始まることになった。</p>

<blockquote>　合唱はね、ほら感情なんかはこめないで、ひたすらきれいにという歌い方でしょ。だからそのクセをまず抜かないと。でも、そう簡単には抜けない。いまでも油断できないですから。とにかく夢中で、自転車漕いで先生のところ通いました。忙しい方ですから、会えるとはかぎらないでしょ。だからいつも「どこで捕まえようか」（笑）なんて感じで、追っかけてました。
　わたしは声も歌い方も、美空ひばりに似てると思ってたんです。自分で歌ってたのも、いつもひばりちゃんばっかりだったし。まず、先生にはそれを直されましたね。「ひばりの色を消してかなきゃいけないよ」って。それもわたしのは自分勝手なひばり節だったから、「ひばりちゃんはそういうふうには歌ってないよ」って指摘されて。</blockquote>

<blockquote>＜天の川＞　ひばりの物真似じゃないんだからねえ。ひばりと同じように、大衆受けする声質を持ってると思うので、それを伸ばそうと思ってはますが。ひばりが昭和演歌の女王だったので、こっちは「平成演歌の女王」ってキャッチフレーズで。しかしだいたいこのひと、うちに来るようになったとき、まずいきなり詞を持ってきたんですよ。これを曲にしたいんだって。それがデビュー曲になった『夫婦鶴』なんだけど、もう、メチャクチャなの（笑）。原稿用紙にいっぱい書いてあって、とても詞にならない。それでどうしてこんなの書いたの？って聞いたら、うちに来る前に、それを三浦弘とハニーシックスに持っていって、断られたって言うの。なんか知り合いがいたらしいんだけど。だれだって断るけど（笑）。でも、それを聞いて、「じゃあ俺が曲にしてやらあ！」って言っちゃったんだね。騙されたようなもんだけど、それでずるずると抜き差しならない状態に...。</blockquote>

<p>　天の川先生の門を叩いたのが平成元年。それから8年間のレッスンを経て平成8年、歌手みどり・みきは『夫婦鶴』で念願のデビューを飾った。</p>

<blockquote>　わたしのメチャクチャな詞をですね、先生がすっかりきれいに直してくれて。「あんたの気持ちを活かしてあげるよ」って言われて、できあがってきたらもう見事にわたしじゃなくなってた（笑）。それで先生のところで制作していただいて、プレスだけクラウンレコードで、CDとカセットで4000本。それが1年間で、それも足立区だけで売れちゃったんですね。
先生もいっしょについてもらって、もう関東一円のカラオケ喫茶やスナックに営業キャンペーン、一日に５，６軒はやりました。まあ、わたしが歌ってるうちに、「つくったひとの歌が聴きたい」って言われて、けっきょく先生が歌う羽目になっちゃったりして、ずいぶん迷惑かけましたが。そのすぐあとぐらいから、ローカル岡さんっていう漫談の方に気に入ってもらったのがきっかけで、浅草の東洋館に出るようになりました。最初はローカルさんのバラエティに入ってて、あとからは東洋館さんから直接、お仕事をいただくようになって、もう15年ぐらい。いまも毎月呼んでいただけることになってますから。考えてみれば不思議ですよね、三遊亭鳳楽とか、トリが牧伸二さんとか、そうそうたる人たちが出ている中で、なんでわたしでいいのかしらって（笑）。</blockquote>

<p>　デビューから4年後の平成12年には、みどり・みき最大のヒットとなる『神様は泣いた』をリリース。それまでのしっとりした正調演歌から一変したコミカルな歌詞と曲調に、「わたしこれは、自分の革命だと思いました」と本人もびっくりすることになった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/21s3.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>　有線放送かなんかで、林あさ美の『ジパング』っていう曲が流れたのね。それが「すみ焼き木こりの勘太郎が　庄屋の娘に恋をした～」なんておかしな曲で。それを先生が「こういうのおもしろいな」って言って、次の日に行ったら「ちょっとこれ、歌ってみてくれないか」って。ひと晩で、できちゃってたんですよ。でもほんとは、そのとき先生はわたしじゃなくて島倉千代子か都はるみさんに歌わせたかったらしいんですけど、うまくいかなかったみたいで（笑）。それでわたしに回ってきて、だからわたしは幸せものですよ！</blockquote>

<p>　縁あって畠山みどりショーの前座に出演した際、『神様は泣いた』の途中で入る掛け声に畠山さんが驚いて、かわいがってもらうようになったみどり・みきさん。それからは彼女から舞台用の着物をもらったり、彼女の歌をうたう許可ももらったとか。ちなみに畠山みどりの歌を披露するときは、「畠山ちどり」なる芸名を使っているという。</p>

<p>　毎月お声がかかる浅草東洋館をはじめとして、ステージ活動に走り回りながら、長く通ってくれるお客さんのために美容院も開いて、忙しくしてきたみどりさん。それに加えて去年からは、インタビューにうかがった居酒屋桂ちゃんのママ役も務めるようになって、ますます忙しくなった。</p>

<blockquote>　この店は4年前ぐらいからあるんですけど、先生が去年、ここにカラオケの機械を入れることになって、それで結果的にわたしもママ役で入ることになっちゃった。朝8時開店ですから、美容院の予約はその前。だって、タクシーの運転手さんとか、そうじゃないひとでも朝から飲む方って、いらっしゃいますからね。先生もお家が近いので、いつもここにいらっしゃいますから、カラオケの機械の前が指定席みたいになってて。それで、先生の歌を歌いたいお客さんがすごく多いので、引っ張りだこだから、けっきょくカラオケ道場みたいになっちゃってますね、いまは。</blockquote>

<p>「わたし、性格が素っ頓狂なんで、とにかくお客さんを驚かせるのが好きなの！」というみどり・みきさん。撮影のために用意してくれた舞台衣裳も、すばらしく素っ頓狂な（いい意味です！）ドレスだったが、ご本人の天真爛漫な笑顔とそれが組み合わさると、不思議に自然体に見えてくる。伴侶と子供と孫もいて、なにより好きな歌を毎日歌える場所があって、毎月歌える舞台もあって、CDも出せて。「ほんとにわたし、遠回りしてない人生だと思います！」と言い切る表情に、だれにも媚びる必要のない、まっすぐ前を向いた生きざま、そしてなによりも歌の持つチカラ、その真髄を見た気がした。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="21s4.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/21s4.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p></p>

<p><br />
●topic!<br />
2010年４月20日に浅草東洋館で行われた「エンタメヒットパレード vol.13」に、みどりみきさんが出演しました！　</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="midorimikilive.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/midorimikilive.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
決めの駆け声で観客を魅了！</p>

<p></p>

<p><br />
　</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/04/post-17.html</link>
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            <pubDate>Thu, 15 Apr 2010 16:20:36 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>湖本恭子</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20-l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/20-l.jpg" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>急な夕立ち朝顔市で　偶然出会ったあの日のように<br />
見知らぬ町で又会えそうな　そんな気がして　旅に出ます<br />
窓の向こうは周防灘　あなたと旅した　あの思い出の町を<br />
今通り過ぎて行きます...<br />
『ASAGAO』　作詞・作曲：倉岩正</p>

<p>水森かおりみたいな若手演歌歌手が歌ったら似合いそうな曲を、ピアノの弾き語りでさらりと歌ってみせる湖本恭子さん。曲調は演歌っぽいけど、演歌じゃない。声の感じは小坂明子みたいなフォーク系の弾き語りに近いけれど、フォークでもない。ピアノはものすごくうまいけれど、さりとてクラシックのピアノとはちがう。このひとは、演歌でもフォークでもクラシックでもない、「クラ歌謡」という独自のジャンルを確立すべく、去年デビューしたばかりの新人歌手なのだ。そしてデビュー曲の『ASAGAO』と『国東半島』の２曲を作詞作曲したのは、恭子さんのお父さん。「クラ歌謡」というコンセプトを考え出したのもお父さん。そんなお父さんに育てられ、尊敬したり反発したりしながら、歌手になったのが娘の恭子さん。このひとのデビューには、いろんな思いがこめられているのだった。</p>

<p>湖本恭子さんは１９８１年５月１０日、栃木県上三川町（かみのかわまち）に生まれた。もともとお祖父さんの代から大分県に暮らしていたが、恭子さんが生まれる前に一家で移住して、お祖父さんは幼稚園の園長に、お父さんはゴルフ場や飲食業を営む親戚の事業を手伝うようになっていた。</p>

<blockquote>うちの一家は大分の出なんですが、わたしは栃木の上三川町で生まれました。いまはすごいショッピングモールができたりしてるみたいですが、わたしが育ったころはほんとに田舎、田んぼばっかりで、ぜんぜんなんにもなかったです。あったのはカンピョウぐらいで（笑）。上三川はカンピョウで有名なんです。それで自然と戯れながら育ったって感じですねー。</blockquote>

<p>恭子さんのお父さんは、大分生まれの大分育ち。しかし音楽の道を志して高校時代に上京、長く東京暮らしをしていたのだという。恭子さんが生まれたころは、親戚の事業を手伝うために毎日忙しく働いていて、恭子さんはかわりにお祖父さんからピアノの手ほどきを受けることになった。それは恭子さんがまだ３歳になったばかりのことだった。</p>

<blockquote>とにかくお父さんはそのころすごく忙しくしていて。小さいころ、お父さんといっしょに長く過ごした記憶がないくらいなんです。それで、この子にピアノを習わせようって言いだしたのはお祖父ちゃんでした。
お祖父ちゃんはもともと国東（くにさき）で中学校の教頭先生をしていたんですが、栃木に来てからは幼稚園の園長をしながら、園内でピアノ教室もやっていて、そこにわたしが通うことになったんです。でも、昔気質のスパルタ的な教育者でしたから、ほんとに怖くて。いつも竹の棒を持ってて、間違えるとバーンッ、下向くとバーンッ！　指を見ながら弾くとよくないからっていうことなんですが、それで段ボールで指を隠す覆いを作られて。もう、５分遅れただけで、すごーく怒られましたから。でも、お祖父ちゃんっ子だったんでしょうねえ。そんなに厳しくて怖かったのに、誉められればうれしいから、ピアノを嫌いになりきれなかったんですねぇ。</blockquote>

<p>恭子さんが中学３年生になった夏、一家は栃木の家を畳んで、故郷の大分に帰ってくる。恭子さんは日出町（ひじまち）の中学に半年通って卒業したあと、大分県立緑丘高等学校音楽科に入学した。プロのピアニストに、という具体的な目標はなかったが、とにかくピアノのそばから離れたくない、その一心で音楽科のある高校を選んだのだった。</p>

<blockquote>緑丘高校はもともと別府にあった普通高校なんですが、大分市内に引っ越してからは音楽科と美術科だけの、芸術高校になったんです。わたしとしては、ピアノをいつも近くで感じていたいという思いが強くて。普通科は無理だろうなとわかってましたから、躊躇なくピアノ科を選びました。</blockquote>

<p>それまでとは環境が一変したなかでの、音楽漬けの新生活。しかしそれは、思っていた快適な日常とはほど遠い毎日だった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20-s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/20-s2.jpg" width="240" height="160" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>そのころは......とにかくお父さんとケンカばっかりしてました。もともと音楽をやっていたひとですから、特に音楽のことでは何度も何度もぶつかりあって。学校から帰って、おうちでピアノ弾いてるでしょ。それで一音でも間違えると、お父さんは耳がすごくいいですから、飛んできて「お前、そこまちがってるだろ！」って怒鳴られる。そのころから歌も好きになってたんですが、「歌いかたが悪い」とか「気持ちが入ってない」とか。そのとおりかもしれないんですけど、あの時点でお父さんのレベルで話されても、わからないことってあるじゃないですか。こっちも、わかろうともしなかったかもしれない。それでもう、家では弾きたくなくなったり、音楽が嫌になりかけたりもしました。</blockquote>

<p>そんな恭子さんの悩みを正面から受け止めてくれたのは、高校で出会ったピアノの先生だった。</p>

<blockquote>ある時期、お父さんの隣でピアノ弾くのが嫌で嫌でたまらなくなっちゃったことがあって。でも高校でわたしを教えてくれたピアノの先生が、ほんとにつらいときに抱きしめてくれるようなひとだったんです。いっしょに泣いてくれたりとか。もちろん、その先生もすごく厳しかったんですけど......わたし、ずーっと厳しいひとにばかり会ってきたみたい（笑）。でも、その先生がいたからこそ、音楽をやめずに卒業できたのかなって思います。</blockquote>

<p>音楽学校だから、授業はほとんどクラシック一辺倒。しかしそのころから恭子さんは、歌謡曲のほうを好きになる気持ちが出てきた。授業のあとに練習室で、ひとり流行の曲を歌ってみたり。そんな気持ちを後押ししてくれたのも、お父さんと先生だった。</p>

<blockquote>クラスメイトでそんなことやってるひとは、もちろんだれもいなかったんですが、お父さんは自分で作詞作曲していましたし、先生もコブクロとか絢香とか大好きなひとでしたから、お父さんとも意気投合しちゃって。「お父さんの信念はわたしもすごく共感できるから、言うこと聞いてたら間違いないよ」って言ってくれたり。それで高校を卒業したあと、ほんとは東京に出たかったんですが、お父さんから「行くな！」って反対されちゃって。それで同じ敷地内にある芸術短期大学に進むんですが、授業はとうぜんクラシックですから、やっぱり気持ちがだんだん離れていきましたよね。</blockquote>

<p>短期大学に入学した恭子さんは、周囲との違和感を抱きながら授業に通ううち、ひとりの女の子と出会う。やはり歌謡曲が好きだった彼女と、恭子さんをユニットにして「弾き語りピアノデュオ」というスタイルで売り出したら、とお父さんが発案。恭子さんの人生は、最初の転機を迎えることになった。</p>

<blockquote>ふたりとも歌謡曲が好きだってことで、２台のピアノで弾き語り。歌も、ピアノもハモるってスタイルですよね。ピアノ１台では表現できないことをやろうという。レパートリーはお父さんが前に作った曲だったり、小坂恭子さんの『思い出まくら』とか、シモンズの曲とか。それで１年近くやったんですけど、けっきょく解散して、幻のデュオになっちゃいました。一時期、うちに住み込みで練習していたことがあったんですが、そこでお父さんが厳しすぎて、その子がついていけなくなっちゃったんですね。あまりの厳しさに、「わたしはこれ以上、歌えない」って。もう典型的な九州男児ですから、テレビだったら"ピーッ"ってなっちゃうような、すごい言葉で怒鳴られたり。ドーンッって感じで。そういえばお祖父さんもドーンッでしたから、うちはほんとにドンドン家族でしたね（笑）。</blockquote>

<p>厳しいトレーニングを重ねて、いままでなかった形態の歌謡曲デュオを作り出そうという目標が突然消えてしまった瞬間。プロデュースしていたお父さんにとっても、恭子さんにとっても、それは失意と転機のきっかけだった。</p>

<blockquote>ユニットはうまく行かなかったんですが、そのころから歌って弾いて、なにかを伝えることがどんどん楽しくなって。そうすると、学校の授業がどんどん眠くなってきて（笑）。教わるのとはちがう音楽がしたいという思いが強くなっていったんですね。それで短大を中退しちゃったんです。なんだか急に、いままで生きてきた世界から飛び出したいなって思ったんですね。いままで音楽の世界だけで生きてきたので、ほかの世界のひとたちとの接点がぜんぜんなかったし。引っ越してきてから音楽ばっかりでしたから、よけいに。ふつうのお仕事もしたかったですから。それで洋服屋さんでバイトを始めて、それで働きながら、ひとりで音楽をやっていくようになったんです。</blockquote>

<p>いままでは学校と家しか知らなかった恭子さん。最初は洋服屋でバイトしつつ、友達とバンドを組んでみたりしながら知り合いを増やしていき、大分市内のレストランやバーなどで弾き語りの仕事も始めるようになった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20-s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/20-s3.jpg" width="240" height="180" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>音楽で行き詰まってる自分というのもあったんでしょうねえ。いろんな世界を覗くのが、自分にとってかならず得るものがあると思いまして。一時はやっぱり音楽が好きだった妹とユニットを組んでみたりもしたんですが、姉妹というのもぶつかりがちで。それでバンドに入ったり、ひとりで弾き語りのレパートリーを増やしていって、大分市内の店で演奏できるようになっていきました。スピッツとか、一青窈さんの『ハナミズキ』とか、ポップスものをけっこうやってましたね。そういう曲をピアノ用にアレンジしてくれたのは、お父さんなんです。でも、やっぱり反発するでしょ（笑）。だって、ずっと近くにいるんですから。それで２４歳ぐらいのときには家出して、ひとり暮らしをしてみたり。このままじゃおたがいの関係がダメになるし、音楽を嫌いになってしまうかもしれないから、距離を置くしかないと思って、勝手に家を出ました。すごく開放感に満ちあふれて、最高だったんですけど、それからですね、ほんとうにお父さんと仲良くなってきたのは。離れて暮らして、はじめてわかったんです、お父さんはほんとはイジメでやってたんじゃないんだな、わたしのこと嫌いだったんじゃないんだなって。</blockquote>

<p>親であり、先生であり、プロデューサーであり、ディレクターである父のもとで育ち、教わり、反発し、そして和解と新たな敬意という関係に落ちついていった父と娘。湖本恭子さんは大分で自分の音楽を探しながら、弾き語りの経験を積んでいった。気がついてみたら、短大を中退してから６年の歳月がたっていた。</p>

<blockquote>弾き語りはもちろん、妹も含めていろんなひととデュオを組んでみたり、ピアノができますからカラオケの発表会に伴奏で出させてもらったり、演奏の仕事もあって。５，６年っていってもあっという間でしたが、だんだんわかってくるんですね、いまいるところがすごく狭い世界だっていうのが。現場仕事を重ねていくうちに、実感してきたというか。だって、ライバルってものが少ないでしょ。だからこそ受け入れてもらえたりしたのかもしれないし。それじゃダメだな、もっと上のひとたちを見たいなと思って。それで、ついに「よし、東京に行こう！」っていう決心ができて。それまでは、まだそこまでの勇気も、お父さんと離れる勇気も、正直言ってなかったんでしょうね。</blockquote>

<p>もちろん周囲は全員反対。年齢もあるから、「えーっ、いまから行くの？」とみんなに言われた恭子さんだが、いちど決めてしまったらもう無我夢中。なんのコンタクトもコネもないまま、後先考えずに上京してしまう。２００８年７月、２７歳になってまもなくのことだった。</p>

<blockquote>とにかく、なんにも決まってないのに、出てきちゃったんです。どこに入るとかも、なんにもなくて。お父さんが書いてくれた曲があったので、ぜったいこの曲を世に出す、その夢を叶えるんだっていう気持ちだけでしたね。
デビューなんて簡単にできるもんじゃないってことはわかってましたし、１年、２年で結果が出るとは思ってませんでした。でも、勝負に出れば、うまくいかなくても自分が納得できると思って。それで上京を決めたら、お母さんがついてきてくれることになったんです。
アパートを借りて、母子で生活を始めたんですが、とにかく生活費を稼がなくちゃならない。それで昼間はケーキ屋さん、夜はスナックでバイト。ピアノは関係なくて、接客のバイトです。そうなるとめちゃくちゃ忙しいから、睡眠時間もろくに取れない、歌もピアノもできないまま生活に追われるようになって、半年ぐらいあっという間に過ぎちゃったんです。それで、これはいけないと思って、歌の先生を探しまして、（２００９年の）１月からスクールに通い出したんです。</blockquote>

<p>心機一転、歌のレッスンを始めた恭子さんに幸運が訪れたのは、入学後１ヶ月もたたないころだった。ドラマの主題歌のオーディションがあり、受けてみたものの落選。しかしオーディションに立ち会った音楽プロダクションの社長に見いだされて、春には契約、レコーディングの準備となって、その年の１１月２５日にはデビュー・シングル発表という、とんとん拍子の展開を迎えることになった。「歌はヘタだったんだけど、見た目に引っかかって（笑）。ぜんぜん歌謡曲の発声ができてないんだけど、鬼気迫るものがあるというか」と社長さん。そのとき歌った『ＡＳＡＧＡＯ』が、すごく情景が浮かぶ歌詞だったこと、そしてそれが歌い手のお父さんの作詞作曲になるものだということで、「悩んだんですけど、とりあえず出しちゃおうか！」とＣＤの発売を決めたという。</p>

<blockquote>オーディションには８００人ぐらい応募があったみたいですから、すごいラッキーですよね。社長さんはずいぶん悩んだみたいですけど、こちらはお話をいただいて、もう「やります、やります！」みたいな（笑）。
大分でやってた時分に、クラシックと歌謡曲を融合させた「クラ歌謡」っていうジャンルを作ろうってお父さんが言い出してたんですが、その当時は意味がわからなかったんですよね。でも、自分でずっと弾き語りをしているうちに、だんだん「クラ歌謡」というのが見えてきて。それでデビューから、そういうキャッチフレーズでいってもらうことにしたんです。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20-s.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/20-s.jpg" width="240" height="160" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>『ＡＳＡＧＡＯ』とカップリングの『国東半島へ』のおかげで、２００９年１１月には「くにさき観光親善大使」にも任命された恭子さん。現在は東京と大分を往復しながら、ライブをメインに活動している。<br />
小さなライブハウスからお祭りの会場まで、演奏の場所は大小さまざまだし、弾き語りというスタイルのために、どうしてもピアノの前に座ってうたうという制約から逃れられない。でも、「わたしはずっとこのスタイルでしたから、逆にピアノと一体化して歌うほうが、メッセージを届けられる感じ。立って歌うほうが、逆に戸惑っちゃうんです」という恭子さん。いまの課題は、「行くとこ行くとこ温かいひとばっかりで、ピアノうまいねー！って言ってくれるんですけど、歌うまいねー！って言ってもらえるようにならないと」なのだそう。いまでも生活は大変なんですよ、と笑いながら話してくれたが、こんな小柄で可愛いからだの、どこにそんなエネルギーが詰まっているんだろう。<br />
演歌なり歌謡曲なり、もう確立してしまった世界で、確立してしまった先人をフォローしていく道をあえて選ばなかった彼女。だれもやったことのないスタイルで、たれも行ったことのない場所を探してもがいている彼女。神様はその努力にいつ、どんなふうに応えてくれるのだろうか。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="20-s1.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/20-s1.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>★イベントスケジュール<br />
ライブ　Sunst Music Jack！<br />
10/03/29（月） <br />
湖本恭子出演時間 17：00～ <br />
会場 サンストリート亀戸 マーケット広場 <br />
雨天中止<br />
【サンストリート亀戸HP】http://www.sunstreet.co.jp/</p>

<p>ライブ Live Pocket GARDEN<br />
10/04/13（火） 12：00～13：00 <br />
料金 観覧無料<br />
会場 東京サンケイビル </p>

<p>ライブ Green Field Tuesday Live！<br />
開催日時 10/04/13（火）　17：30～18：30　19：00～20：00 <br />
料金 観覧無料<br />
会場 飯田橋ラムラ <br />
【飯田橋ラムラHP】http://www.ramla.gr.jp/</p>

<p>●topic!<br />
2010年４月13日に、飯田橋ラムラでライブが行われました。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="komotolive333.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/komotolive333.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="komotolive33.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/komotolive33.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="komotolive2222.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/komotolive2222.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>『ASAGAO』『国東半島へ』など、計５曲をしっとりと歌い上げました！<br />
</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/03/post-16.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2010/03/post-16.html</guid>
            
            
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            <pubDate>Wed, 24 Mar 2010 18:46:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>裕力也</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="19ｌ.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/19%EF%BD%8C.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>ＪＲ巣鴨駅の改札を出た通路脇に、きょうもあのひとが立っている。きょうも革のジャケットに革のパンツで、マイクにかぶさるようにしながら、しわがれ声を振り絞っている。</p>

<p>言いたい奴には　言わせておけと 黙って飲み干す　手酌酒 <br />
ひたすら人生　生きてきた 路地裏　ちょうちん　影法師 <br />
笑顔のおまえが　心のささえ<br />
『ひたすら人生』　作詞：ないとうやすお　作曲：長浜千寿</p>

<p>裕力也さん、67歳。老舗材木屋の長男としてなに不自由なく育ちながら、どうしても学校制度になじめず、中学、高校を転々としたあげく、ドロップアウト。歌手を目指して歌謡学院に通うが、親のコネでゼネコンの熊谷組に入社。21年間勤めたあと、自身の会社を興し、バブルの波に乗って成功するも、バブル崩壊と共にすべてを失い、家族とも別れて、いまはひとり。失った夢を取り戻そうと、数年前からストリートに立って、雨の日も風の日も歌いつづける。毎日、朝から晩まで。<br />
道行くひとのカンパと年金で命をつなぎながら、ストリートに生きつづける。音楽のジャンルとしてではなく、生きかたとしてのブルース・シンガーという存在が日本にあるとするならば、それはこのひとのことを言うのだ。</p>

<p>裕力也さんは昭和１８年、東京に生まれた。実家は長野県松本市の近郊で祖父が興した、老舗材木屋だった。父は祖父の跡を継いで材木商として東京と松本を往復する日々。商売柄、お祖父さんの代から政治家とのつきあいも多く、叔母は逗子の名門・聖和学院の創立者という、恵まれた家柄だった。</p>

<blockquote>自分は東京生まれで、小学校は地元に行ったんですけど、父親が材木の買いつけで半年以上、山に入っちゃうでしょ。それで遊び人でもあったらしく、僕の記憶に残っているのは継母だけです。僕を生んだ母親というのは、父親と別れたかなんだか知らないですけど、だれだかわからない。それで、僕にしてみれば腹違いの弟たちと、目立って差別されたわけでもないけど、やっぱり自分が腹を痛めた子のほうがかわいいからね。そんなんで僕もやんちゃになっちゃって、そりが合わなくなって、中学は長野に行ったんです。お祖父さんの故郷で、いまは聖高原（ひじりこうげん）って言ってますが、麻績村（おみむら）という、すごい田舎でした。篠ノ井線の、松本と篠ノ井のあいだですね。そのふたつ先の駅が、有名な姨捨山（おばすてやま）の姨捨ですから。</blockquote>

<p>麻績村の筑北中学を卒業後、「むりやり高校に行けって言われて、いろいろ落ちたあと」、聖和学園高校の創立者であった叔母の関係を頼って、平塚学園に入学することになった。</p>

<blockquote>最終的に長野から平塚に行ったんですけど、とにかくそのころの平塚学園は不良ばっかりだったうえに、叔母さんや学校の管理が厳しくて、嫌気がさしちゃってね。けっきょく１年で学校を飛び出しちゃうんです。お祖父さんの家のある松本に帰って、歌がやりたいなーと思いながら、2年ぐらいぶらぶらしてました。</blockquote>

<p>まだカラオケのなかった時代。松本市には生バンドが入るクラブがいくつもあって、若き裕さんはそんな店を探しては、頼んで歌わせてもらっていた。松島アキラのような明るい歌謡曲、それに『ダイアナ』などアメリカン・ポップスがもっぱらのレパートリーだった。</p>

<blockquote>それでね、松本にずっといてもしょうがないから、東京に戻って歌謡学院に入学するんですね。実はそのころ松本でつきあってた彼女が、当時高校生だったんですが、僕が東京に来るときについてきちゃって。それが最初の結婚になりました。それですぐ子どもが生まれて。長男は僕が19歳、嫁さんが17歳のときの子どもですから。いまは46歳になってるはずです。</blockquote>

<p>おさない夫と、おさない妻。家庭を思いやるこころの余裕を、19歳の裕さんは持つことができなかった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="19ｓ3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/19%EF%BD%933.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>結婚しても、子どもができても、こっちは気持ち的にひとりものと同じようなもんで、歌にばっかりかまけちゃって、家族にはなんにもしてあげられなかったんですよ。それで12年間ぐらいは続いたんですが、けっきょく別れました。嫁さんは、田舎に帰ったっちゅう話をあとから聞きましたけど、いまどうしているのかわからないです。長男のほうは、風の噂だと建設関係の仕事をしているらしい。次男はちょっと、なにやってるかわからないです......。</blockquote>

<p>しばらく歌謡学院に通ったのち、「このまま歌ってたって、食っていけるかわからない、とりあえず会社に入れ」と親に説得されて、ゼネコンの熊谷組に入社したのが昭和40年、裕力也さんが22歳のことだった。</p>

<blockquote>親が材木屋やってましたから、その縁故で入れてもらったんですね。だから、社員はみんな朝8時半に各部でラジオ体操とかやるんですが、こっちは9時ごろに、平気な顔して遅れて行って「オス！」なんてやったりしてね。ちょうどそのころ、石原裕次郎さんが『黒部の太陽』という映画を撮ってたので、よく会社に来てたんです。会議室で、会議のシーンを撮影したりね。それで、すっかり裕次郎さんにかぶれちゃって、裕次郎さんの歌ばっかり歌ってたこともありましたねえ。</blockquote>

<p>就職したといっても、もともと建設業には興味のなかった裕さん。会社では労務安全課という部署に回されて、9時から5時まで安全パトロールなどの仕事をこなしながら、5時を過ぎれば池袋、錦糸町など、各地のクラブで歌うという二重生活を満喫していた。</p>

<blockquote>僕が歌を好きだって、みんな知ってましたからね、営業の連中とかが、僕を連れて回るんです。当時はカラオケじゃなくてバンドですから、なかなかシロウトは歌えないんですよ、恥ずかしがって。でも、僕は平気でしたから、みんなにかわいがられて。
でも、仕事もいろいろしましたよ。あのころはね、悪い人たちがいて、現場の出入のところにベンツとか停めちゃうんですよ。そうすると所長とかは、お金ふんだくられてね。僕なんかは平気で行きましたから、ヤクザの事務所でもなんでも。「警察でもなんでも行くよ、うちは悪いことなんにもしてないじゃないか」と。そんなことから、夜なんかは韓国クラブだとかそんなところに行って歌ってたんで、顔見知りになっちゃったんですね。そうすると、「またあんたか！」なんて言われるような感じで。だからずいぶん現場を助けたっていうか、そういうこともありました。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="19s4.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/19s4.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span><</p>

<p>たとえば池袋の大箱クラブで飲んで歌って、12時半で店がハネると、バンドにくっついて錦糸町のダンスホールに移動。そこでも歌って踊って。家に帰るのは夜中の3時、4時。それで翌朝は9時から会社。なにより歌が好きだった裕さんは、そんな生活がちっとも苦にならなかったという。そして45歳になって、21年間籍を置いた熊谷組から独立、自分の会社を設立する。</p>

<blockquote>僕がずっとついていた重役さんにね、「お前、大学も出てないんだし、顔が広いんだから、ここにいるより独立しろ。その代わり、うちの仕事あげるから」って言われて、下請けみたいにして自分で会社持ったんですね。４５歳になったときでした。仕事には困らなかったから、自分は歌にうつつを抜かしていられたんです。クラブでもなんでも行けって。だって、いまだから言えるけど、現場の所長さんが僕にね、「社長、1000万振り込んだから、500万は社長が自由に使っていいんで、500万こっちにバックしてくれ」とか、そんなのがいくらでもあったんです。だから金なんて、いくらでもありましたよ。</blockquote>

<p>独立したのが昭和63年。時代はまさにバブルに突入するころで、「いまから思っても、あのころはすごかった」というほど、笑いの止まらない時代だったが、しかしそんな絶頂期は長く続かなかった。</p>

<blockquote>けっきょくは歌にうつつを抜かしてた自分の管理不行き届きなんですが、バブルが弾けたときにいろんな事情があって、会社を事実上、自分が潰したんですね。何年かはがんばったんですが、最終的に平成14年の4月に、銀行と話し合って、身ぐるみ剥がされて......。自宅も取られて、連帯保証人になってた息子や、2番目の奥さんとも別れて。それで借金をすべて返済して、きれいな身になったんです。</blockquote>

<p>持ち家を銀行に取られて、まず3LDKのマンションに、それが2DKになって、次に1DKになって、いまは「先輩の自宅を仕切って貸してもらってる」六畳ひと間の部屋で、ひとり暮らしをするようになった。</p>

<blockquote>身ぐるみ剥がされて借金を返したら、少しだけカネが残ったんですね。ふつうの人間だったら、それでラーメン屋でもやろうかってなるんでしょうけど、僕はそうじゃなかった。どうしても、歌が頭から離れないんですよ。それで近所のスナックに通って歌ったり、プロモーターと知り合った縁で千昌夫さんの巡業についていってみたり、あの数年間はいろいろと模索の時期でしたねえ。</blockquote>

<p>平成１８年、裕力也さんはそれまでのモヤモヤをふっきるように、ひとり錦糸町の駅前に立って歌いはじめる。「ストリートはおもしろいよ、やってみたら？」という、知り合いのプロモーターのひと言に動かされての、63歳のストリート・デビューだった。</p>

<blockquote>これは僕の信念なんだけど、そりゃあ劇場とか、そういうところから始められたら華やかでしょうけど、ストリートは反応が直に伝わってくるんです。いい歌、悪い歌ってのが、歌っててわかるんですよ。この直の感覚は、ストリートから始めなかったらぜったいにわからない。</blockquote>

<p>そうやって好きな曲を歌いはじめてしばらくたったころ、「これはわたしが作った曲なんだ」と声をかけてきた人がいた。それが、この連載で以前に紹介した内藤やすおさんだった。内藤さんが書いた『ちょいワルおやじのセレナーデ』と『ひたすら人生』を、本人を知らないまま歌っていた裕さん。しかし内藤さんはそれを怒るどころか、いろいろアドバイスをくれたうえに、自主制作CDの作り方まで教えてくれて、それが裕力也の初CD『力也の心のうた』に結実することになった。内藤さんの2曲に、井沢八郎の『ああ上野駅』、石原裕次郎の『北の旅人』と『わが人生に悔いなし』。全6曲にそれぞれのカラオケ・バージョンが入った、それは手作りとはいえ立派なCDだ。ただし、それを歌いながら売ってしまうと「路上販売」として咎められるから、歌を聴いた人が「ほしい」と言ってくれれば、「作るのに若干お金かかるんで、500円以上のカンパしていただければ」と答えて、路上に開いたケースの中に入れてもらう。最初は錦糸町、それから少しでも家の近くｄということで巣鴨に歌う場を移し、そんなストリート・ライブ生活が今年でもう４年。裕さんの歌声を、歌う姿を見るのを楽しみに、毎日のようにやってくるファンもつくようになった。</p>

<blockquote>自宅が鬼子母神の近くなんで、巣鴨なら都電で来られるから、近いでしょ。それでここでやるようになったんですが、アンプやなんかでけっきょく機材が20キロぐらいになっちゃいますからね。うちのアパートは鉄階段で14段あるんで、毎日担いで昇り降りするのが大変なんですけど。でも、今年は元旦からまだ1日しか休んでない。雨がすごかった日が1日だけあってね。あとはずーっと、毎日。
ワンクールが30分ぐらいかかるんで、歌ったり、それから休んでるあいだにCDをかけてたりと交代で。それで朝は１１時ごろから、いまは寒いから夜6時ごろ上がりますけど、夏だと7～8時ぐらいまでやってますね。
いろんなことがありますし、いろんなひとが来ますよ、ほんとに。500円のカンパを値切るおばあちゃんもいれば、涙をぼろぼろ流しながら聴いてくれるひともいる。どうしたんだって聞いてみたら、「会社をリストラされたんで、この歌を聴いたらそこ（線路）に飛び込んで死のうと思ってる」なんて言うんですよ。だからね、「俺なんか、もっとひどい目に遭ってるんだから。身ぐるみはがされても、自分がいちからやる気になれば、なんだってできる。自分のやりがいを見つけろ」って言って。それからそのかたは月に2、3回来ますよ、カンパしに。たとえ500円でもね。
いちばんうれしかったのは、「俺、今日これでタバコ買うんだけど、まあいいか。力也さん、『ああ上野駅』歌ってくれよ」って言うから「いいですよ」って歌ったら、１円玉とか５円玉、10円玉でね、数えたらちょうど300円あったんです。「いいよ、無理しなくても」って言ったらね、「これは空き缶売って作ったんだ」とかね。幅広いんです、僕のファンは。プータローの人とか、そういう人まで聴きに来るんですね。それも大事なファンですから。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="19ｓ.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/19%EF%BD%93.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>駅前で歌うのだから、もちろんトラブルもある。「座ってれば乞食と間違えられたり」、地回りのチンピラにからまれたりーー「でも僕はそういうの、ぜんぜん怖くもないし、なんともないですよ、悪いことしてないんだから」と、はねのける。</p>

<blockquote>ヤクザはちゃんと話せば紳士的ですよ。それよりタチが悪いのは警察のほうですよね。弱いものいじめするし。最初のころは特に、おまわりさんとの葛藤がすごかったです。でも僕は、若いおまわりさんを教育するつもりでいるんで、来ると「君、いまの口の利きかた悪いよ」って始めるわけだから。それで「部長さん呼んで来い」って言って。偉そうにするわけじゃないけど、僕は政治家の友達がいっぱいいるんで。権力でガーンってやられるような、弱い者イジメっていうのが大嫌いなんですよ。だから署長のとこでもなんでも、いきなり行っちゃうんです。「べつに悪いことしてるんじゃないからね、日本の文化なんだから、うるさいって言うんだったら音量少し落としてやるから」って。だからここらへんに（歌いに）来る人は、みんな僕んとこ寄るんですよ、「きょうは大丈夫ですかね？」って。それで「少し音量落としてやってごらん」とか、いろいろアドバイスしてあげる。だから最近は、おまわりさんが替わっても、申し送りが上からあるみたいで、あんまり偉そうにしてくるのはなくなりましたねえ。ここまで来るのに、丸２年はかかりましたけど（笑）。</blockquote>

<p>「寒い季節はお客さんもそんなに足を止めないし、ほんとにつらいときもあります」と言いながらも、マイクを握って歌いつづける裕力也さん。その姿を見て、勇気をもらうひと、そして居ても立ってもいられずにサポートを申し出るひともいる。</p>

<blockquote>前に盲腸になったことがあって、50歳過ぎての盲腸は100人のうち助かるのが5人ぐらいだってほど怖いらしいんですが、お腹痛いんで風呂入って治そうとしたのに、痛みが止まらなくて。そしたらすぐそこのパーマ屋さんの旦那さんと奥さんが、病院に付き添って行ってくれた。それで即、その日に緊急手術で一命を取り留めて。それにいろんな衣類ももらうんですよ。いま履いてるこのズボンも、「これ履いてやりな」ってね。実は僕、この髪はヅラなんですが、やっぱりそこのパーマ屋さんが「これ使ってみたら」って言ってくれて。</blockquote>

<p>裕力也さんの歌は、正直言ってうまくない。声は不安定になりがちだし、声量があるわけでもない。テクニックで聴かせるタイプでもない。でも、彼の歌をそういう評価基準でしか聴けないリスナーは、もしかしたらすごく不幸だ。</p>

<p>寒風吹きすさぶ中、コンクリートの地面から上がってくる寒さに足踏みで耐えつつ、駅前の雑踏に飲み込まれそうになりながら、小さなアンプを通したひずんだ声に聴き入っていると、音楽のもっとも根本にあるカタマリのようなものが、チラリと見える瞬間がある。こころの奥のどこかをサッと引っかかれる瞬間がある。</p>

<p>歌の持つちからに導かれて、なにかを見つけてしまったひとが、ここにもいた。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="19ｓ2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/19%EF%BD%932.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/03/19.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2010/03/19.html</guid>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">0019thumb.jpg</category>
            
            <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 19:41:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>京一夫（後編）</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="18ll.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/18ll.jpg" width="540" height="379" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>亀戸天神　教え神　学問鷽替（うそかい）　願い事<br />
歴史を作る　道真公　今もかなえる　天満宮<br />
『亀戸天神様』</p>

<p>　亀戸天神の宮司さんに請われて、天神様のイメージ・ソング『亀戸天神様』を自作自演でＣＤにしたことがきっかけで、障害者福祉センターで歌の会を開くことになり、そこで「飢饉で苦しむソマリアの子どもたちに、コップ一杯のコメを贈る運動」を始めることになった京一夫さん。演歌歌手＆シンガーソングライターだった彼の半生は、40歳を越えて大きな転換点を迎えることになったのだった。<br />
　<br />
<blockquote>施設に子どもを連れてきてたお母さんが、コップにコメを入れて持ってきたんですけど、「コップ１杯、この子が自分で入れたんです」と言うから、断れないでしょ。コップ１杯ならみんなできるね、みんなで集めようぜって言ってるうちに運動になっちゃって。</blockquote></p>

<p>　歌謡教室が開かれるごとにコメが、ときには１日で１００キロほども集まるようになった。歌手仲間で有志を募り、銀座・数寄屋橋公園や都内各地の広場、コミュニティ会館などで「ソマリア難民支援コンサート」を何度も開き、ついに１トンものコメを集めることに成功したのだった。<br />
　日本ならば、コメがあれば炊けばいいだけなのだが、そのような習慣も設備もないソマリアの難民キャンプでは、コメをそのまま渡しても不便だろうということで、集まったコメはすべて焙煎し、粉末状の「ライスミール」に加工されたうえで現地へと運ばれる。現地では、この粉末状のコメをお湯にとかして飲む。炊いたコメに較べて消化・吸収がいいので、飢えで栄養失調状態に陥っている子どもでも、栄養摂取が容易であるのがライスミールの利点である。<br />
　当時、東京にはすでに外務省、農水省、運輸省の支援によって立ち上げられた援助団体「ソマリアにコメを送る会」があった。京さんたちは、当然ながらその会に集まったコメを託して、いっしょに送ってもらおうとする。しかし、寄付したひとたちからは、「ほんとうに困ってる子どもたちに届くの？」といった疑問が出て、それに京さんは軽い気持ちで「大丈夫、信用してください、わたしが届けます」と答えてしまう。その、何気ないひと言が、各方面には「ソマリアにコメを送る会の代表として、京一夫がコメを届けにソマリアに飛ぶ」という発言に誤解され、政府のお墨付き団体である「コメを送る会」から「うちはそちらと関係ないですから」と抗議を受けるという、予想外の展開になった。<br />
　売れない演歌歌手の売名行為、みたいに誤解されて京さんは困惑するが、最終的には腹をくくり、独力でソマリアに飛ぶことを決意する。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="18s4.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/18s4.jpg" width="240" height="340" class="mt-image-none" style="" /></span>支援の輪は、各国へと広がる。</p>

<p><br />
<blockquote>「コメを送る会」を無視するとか、面子を潰すとか、そんなこと思ってたわけじゃもちろんなくて、行動する前にいろいろ許可や承認を得たり、おうかがいをたてたりってことを知らなかっただけなんです。でも、けっこう厳しい口調で責められて、関係各方面に（京一夫は当会と関係ないという）通達が回っちゃったりしたから、現地の窓口に行っても門前払いされるかもしれない。そんなふうに思われたとしたら、それは自分がいたらなかったため。自分が悪い。でも、自分としては現地に行って、飢えている子どもたちに食べさせてあげたいだけなんだ！　そう思う気持ちにはひとつもウソ偽りがなかったので、たとえバッシングされてもいいから、決めたことに飛び込んでいくだけだ！　そう思って飛行機に乗ったんです。</blockquote></p>

<p>　ほとんど胃潰瘍になりそうなほどの心配を抱えてケニアのナイロビに到着した京一夫さんを迎えた、現地の国際赤十字事務所は、しかし日本のお役所的発想とはまったく異なる次元で動いていた。単身乗り込んだ京さんを温かく迎え、これから行く先々の赤十字支部にも連絡を入れておいてくれた。<br />
　ナイロビからモンバサへ。そしてケニア国内のソマリア人難民キャンプを経て、密貿易船に乗せてもらってソマリア入りした京さんは、ライスミールを配りながら、自作の歌をギター片手に行く先々で歌って、飢えた子どもたちと心の交流を深めていった。</p>

<p>苦しみ悲しみ　翼に秘めて<br />
ソマリアを見つめて　胸が痛むでしょうか<br />
愛をください　夢をください<br />
涙がお乳の　エンジェルたちに<br />
私の涙が　あふれたら<br />
フライ　ウィズ　ミー　ラブ　フォー　ソマリア<br />
愛をください　ソマリアに愛を　生きぬく力を<br />
ソマリアに愛を　希望の翼に<br />
君のやさしさ　フォー　ソマリア<br />
『翼のメッセージ』　詞／曲　京一夫</p>

<p>　難民キャンプの中をギターを肩にかけて歩くと、子どもたちが集まってきた。持ってきたキャンディーをプレゼントしながらギターを弾いた。<br />
　この子たちに幸せになってほしい。ただそれだけを願って歌った。ここでも日本の小学生がソマリアを心配した気持ちを伝えたかった。歌を歌っている瞬間、この子たちは本当は幸福なのではないか、と錯覚するくらい彼らの目は輝いていた。彼らと一緒に歌える喜び、それは彼らからの"愛の贈りもの"だ。メロディーやリズムを通して、人間には国境はないと強く感じる。<br />
『きょうはボランティア日和』より</p>

<p>　ほとんど無政府状態のソマリアで、ボランティア経験ゼロの演歌歌手である京一夫さんは、数々のトラブルに巻き込まれながらも、無事に日本に帰ってくることができた。その年には「小さな親切」運動本部から、「こころの国際交流実行章」を授与される。<br />
いちど京さんのこころの中に灯ったボランティアの明かりは、しかし時がたっても消えることはなかった。翌１９９３年には「ルワンダと飢饉に苦しむ人たちにコメを送る会」を同志たちと発足させ、百トンのコメを集めてふたたびルワンダへの飛行機に乗る。</p>

<blockquote>私がアフリカに行くのは、食料を届けに行くだけではない。ルワンダ国では、目の前で父母が殺されたり、兄姉が傷つき心に傷を負って、子どもたちは笑顔がなくなっていると言われています。幼い子たちは精神的な恐怖でおののいています。そのことを私は心配しています。今必要なのは、愛にあふれるふれあいです。私は歌手だから、歌を歌ってふれあいができたらと期待している。私のギターを鳴らして歌い、日本はアフリカから遠く離れていても、君たちのことをけっして忘れてはいない、と特に幼い子たちに伝えたい。人間は国境を越え平和を愛し、助け合いたい。
（成田空港でテレビ東京のクルーに答えたインタビューより）</blockquote>

<p>　ルワンダで京一夫さんは、ライスミールを運送中にトラックの一台が襲撃され、積み荷を略奪された上に運転手と助手が殺害される、というようなソマリア以上の生命の危機に直面しながら、ギター一本を抱えて難民キャンプをめぐり、オリジナル・ソングを歌って歩いた。</p>

<p>星は見ている　アフリカ<br />
君のふるさと　ルワンダ<br />
星は見ている　君たち<br />
助け合おうよ　地球人<br />
フィーリング　イン　アフリカ<br />
フィーリング　イン　ルワンダ<br />
国境も差別もしない<br />
鉄砲も大砲もない　音楽に<br />
愛と平和がある　音楽に<br />
夢と希望もある　音楽に<br />
君のふるさと　ルワンダ<br />
『フィーリング　イン　アフリカ』　詞／曲　京一夫</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="18s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/18s2.jpg" width="218" height="335" class="mt-image-none" style="" /></span>ボランティアのためにつくった曲をまとめたカセットテープ。</p>

<p><br />
９４年　エチオピア　<br />
９５年　スーダン<br />
９６年　ジンバブエ<br />
９７年　北朝鮮<br />
９８年　モンゴル<br />
９９年　ユーゴ<br />
２００２年　アフガニスタン<br />
　危険を顧みることもなく、飽くこともなく、京一夫さんは毎年のようにボランティアの旅へと、ギターを抱えて飛び出していった。そうして１９９２年から現在までに届けたコメの量は、５００トン以上にものぼるという。<br />
　無理に無理を重ねて、実は京さんは心臓が悪かったりするのだが、「だれにもまだ言ってないけど、ハイチであんなこと（２０１０年１月の大地震）があったでしょ、ああいうの聞いちゃうと、もうどうしようもない。それで死んでもいい、ぐらいのつもりなところもある、本望だって」というエネルギッシュな精神は、いささかも衰えていない。<br />
　いま京一夫さんはカラオケ喫茶〈鬼平〉をベースキャンプに、喫茶店経営者、歌謡教室の先生、演歌歌手、そしてボランティアの専門家として、多方面な活動に飛び回る毎日だ。ボランティアのためには、個人の名前だけでなく機関名も必要だろうと思い、「レッドハート」という団体も設立した。</p>

<blockquote>レッドハートっていうのは、向こうに行って活動してるうちに、最初は個人のボランティアだって言ってたんだけど、ＩＣだとか、ＵＮＡＣＲだとか、みんなそういう言葉使ってるから、なんかつけなきゃなってことで、レッドハートってつけたんです。ハートと鳩と、かけてるんですよ、平和の象徴で。だからレッドのハート、それを鳩がくわえて平和をっていうイメージで。物資もみんな、レッドハートのシールがついているんです。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="18s6.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/18s6.jpg" width="240" height="159" class="mt-image-none" style="" /></span>愛用のギターケースには、訪れた国の国旗と「レッドハート」のロゴシールが貼られている。</p>

<p><br />
　音楽活動のほうでは、十数年前からのパートナーである、やはり歌手の奥様と「京一夫＆ちづる」というユニットを組み、『夫婦で乾杯／裏町の春』を１９９８年に発表。夫婦のコンビで歌と舞を融合した「舞唄」なる新ジャンルの表現に挑戦した。以来、『伝統物語 匠』、『鬼平 江戸の華』など、ボランティアとはまた風合いの異なった世界の歌をつくり、歌いつづけている。<br />
　「ボランティアも歌も両方、自分の中では大事だけど、うーん、最後の目的としては、歌をヒットさせたいなっていう気持ちはずっと変わらない」と話してくれた京一夫さん。彼を変人扱いするひとは少なくないだろう。でしゃばりのシロウト扱いする"援助の専門家"も多いだろう。<br />
　でも、少なくとも京一夫さんは動きつづけている。ほかのだれよりも。そして苦しむひとたちに最終的に届いていくのは、理念でも資金でもなく、活動しつづけるこころ、愛しつづけるエネルギーだと、このひとはわかっているにちがいない。<br />
　<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="18s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/18s3.jpg" width="240" height="159" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/02/post-15.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2010/02/post-15.html</guid>
            
            
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            <pubDate>Sun, 14 Feb 2010 00:50:09 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>京一夫（前編）</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="17l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/image/17l.jpg" width="540" height="357" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>会場の照明が暗転すると、舞台上のスクリーンに宇宙と地球のイメージが投影される。壮大なＢＧＭ．それにかぶさるようにナレーションが流れだした......</p>

<p>1993年秋、京一夫はソマリアを訪れました。ソマリアの難民キャンプで泊まったテントの中から満天の星空を眺めていました。遠くには機関銃の音が聞こえる。アメリカ軍の増員を伝える地下ラジオ放送もありました。緊急な事態になりつつあるソマリアの国内では、もっとも弱い子どもたちを苦しめていました。一日も早く戦争が終わり、国境も差別もない、鉄砲も大砲もない、愛と平和のあるアフリカを望んでいます。<br />
　昨年はルワンダを陸路2000キロ、平和への願いを託して作ったこの曲『フィーリング　イン　アフリカ』を歌って、アフリカを回ったのです。</p>

<p>フィーリング　イン　ルワンダ<br />
国境も差別もしない<br />
鉄砲も大砲もない　音楽に<br />
愛と平和がある　音楽に<br />
夢と希望もある　音楽に<br />
君のふるさと　ルワンダ</p>

<p>ルワンダにコメを送ろうと呼びかけてボランティアの京一夫は出発しました。彼はコメのほかに日本の小学生が描いた絵を持って難民キャンプを訪れ、交流をしてきました。特に幼い子ども、親を失った子どもたちに会って、共に歌を歌ってきました。「そばにいてあげることが大切だ」という気持ちで京一夫は活動してきました。この視点は、つい忘れがちになっているのではないでしょうか。彼のボランティア活動は、その点を視野に入れた活動でした。それは、歌で言えば『愛の贈りもの』、それから私たちの笑顔が大切だと思うのです......。</p>

<p>『きょうはボランティア日和』（京一夫著ハート出版刊）より</p>

<p>京一夫さんは演歌歌手であり、カラオケ喫茶経営者であり、ボランティアの専門家である。いま、千葉県我孫子の近く、湖北駅前のカラオケ喫茶＜鬼平＞で目の前に座っている京さんは、まぎれもなくスナックか喫茶店マスターの顔だし、最近発売されて話題の、流しの演歌師を集めたＣＤ『演歌師稼業』で聴く京さんの歌声は、あくまでも正調演歌歌手だし、『きょうはボランティア日和』という自著で語られるスリリングなアフリカ・ボランティア行は、筋金入りのボランティア活動家にも負けない情熱とフットワークの産物だ。<br />
　芸能界には杉良太郎や八代亜紀など慈善・福祉活動に熱心な歌手が少なくないが、京一夫さんはそういうだれともちがう異質のマルチ・タレント、というより異質のマルチ・アクティヴィストなのだ。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="17s6.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/17s6.jpg" width="240" height="159" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>のちに左右対称が印象的な字画の「京一夫」と名乗ることになる薩摩勝美さんは昭和25（1951）年、東京の下町である江東区亀戸に生まれた。ご両親は建築資材運送を生業として、かなりの成功を収めていた。お父さんには別に正妻がいて、勝美さんもお母さんにとっては義理の息子にあたる存在だったが、実質的に稼業を取り仕切り、優しく頼りになる「育ての母」のもとで、勝美少年はまっすぐ、元気に育っていったという。</p>

<blockquote>家は下町の土建業でしたから、音楽どころじゃないんですが、父が浪曲好きでね。家の裏が亀戸駅の土手で、そのころは材木だのなんだの焚き火できたんで、ドラム缶風呂があったんです。仕事が終わって、オヤジがドラム缶風呂入りながら、浪曲唸るのを聴いて、好きになったのが音楽の原体験かな。小学生のころから、広沢虎造なんか真似てがらがら声だしてましたよ（笑）。</blockquote>

<p>　時代はロカビリーからグループサウンズへと移行する時期。しかし浪曲の好きな少年が、次にはまったのが歌謡曲だった。</p>

<blockquote>小学校３、４年のころでしたか、島倉千代子なんかの歌謡曲が大流行したあたりで、これはいいな！って思っちゃって。それまでドスの利いたがらがら声だったのが、今度は女の細い声を真似するようになっちゃって。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="17s7.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/17s7.jpg" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>「当時はウクレレとか流行ってたから、僕も買ってもらって練習したりしてましたよ」というが、勝美少年がいちばん熱心に取り組んでいたのは柔道だった。その甲斐あって、亀戸で小、中、高校まで通ったあと、国士舘大学の体育学部にスカウトされる。</p>

<blockquote>別に親に言われたわけじゃなくて、好きで自分から、小学校４年ぐらいから近所の道場に通いはじめたんです。それから、やっぱり柔道なら講道館だって思い込んで、中学高校時代は水道橋（の講道館）までずっと通ってました。それで国士舘の柔道部に引っ張られたんですけど、もうひとつ日大からもアメリカン・フットボールで誘われて。あっちに行かなくてよかったなあ（笑）。</blockquote>

<p>若き柔道家が飛び込んだ国士舘は、しかしとんでもなくアナクロな学びの場だった。</p>

<blockquote>詰襟の制服着て、親父は軍隊みたいだって喜んでましたけど、もうとんでもなく厳しくて、毎日泣いてましたね。柔道部だけじゃなくて全校生徒が、毎朝朝礼で山の上登って、皇居の方角向いて、棒もって「捧げ、銃（つつ）！」なんてやってたんだから。</blockquote>
　
勝美さんが小学校のころ、家には大学受験の学生が下宿していた。その彼が大学から外務省に進み、のちに京一夫さんの恩人のひとりになる新田宏さんだ。勝美さんが国士舘の学風になじめず悩んでいたころ、外務省から香港に派遣留学されていた新田さんを頼って、勝美さんは国士舘を中退、香港行きを決意する。

<blockquote>宏さんなら両親も信頼してたから、いいだろうって。あっちの学校とか全部チェックしてくれて、当時は飛行機なんて贅沢だったから船で向かったんだけど、ちょうどそのころ新田さんは香港からアメリカのコロンビア大学に行くことになっちゃって。着いてみたら自分ひとりで、アジアユナイテッド・カレッジというところに通うことになったんです。</blockquote>

<p>田中角栄と周恩来による日中国交回復が1972年。それ以前の時代だから、香港も現在とはずいぶんちがう都市だった。国士舘時代から、香港行きに備えて中国語を自主的に勉強し、万全の備えで香港に降り立った勝美さんだったが、まず言葉のちがいに戸惑うことになる。この時代、香港では現在よりもはるかに、地元の言語である広東語が幅を利かせていたのだった。</p>

<blockquote>まあ、片言ぐらいはできるようになって行ったから、あと２年もいればペラペラになるだろうと思って行ったら、とんでもない（笑）！　向こうは日常、広東語ばっかりだから、僕のほうが北京語は発音よかったりして。それでけっきょく、北京語習うより、現地のひとに日本語教えるほうがメインになっちゃったりしてね。それであんまり勉強にならなくて、このままじゃまずいと思って、帰りがけに台湾に寄って北京語がんばろうと思って、台湾に１年間いたんです。</blockquote>

<p>香港のカレッジを卒業したのが1971年。時代はロック全盛だったが、勝美さんがハマったのは中国民族音楽や、台湾歌謡曲だった。香港でも台湾でも、夜になればナイトクラブに遊びに行って、生演奏をバックに現地の言葉で現地の歌謡曲を歌う。カラオケ登場以前の時代、そんなふうに歌を楽しめる場所が、いくらでもあった。</p>

<blockquote>そんなことしてるうちに歌が、ステージが楽しくなって、芸能界に入ろうと思って帰国したんですよ。役者になりたくて。それでオーディションをいろいろ受けているうちに、仕事が少しずつ入るようになったの。それが、運がよかったんだね。「歌舞伎座で三波春夫の１ヶ月公演があるから行ってこい」って。兵隊とか、酔っぱらいの役だったんだけど。それで１ヶ月やったんですけど、ああいう舞台って、第１部がお芝居、２部がかならず歌謡ショーでしょ。それで、三波春夫の歌謡ショーに惚れちゃったんだよね。</blockquote>

<p>たった１ヶ月ほどの役者キャリアを経て、勝美さんは歌手になるべく積極的に活動開始。テープをレコード会社に送ったり、オーディションを受けに通ったり、そうしているうちにマーキュリー・レコードのオーディション会場で橋本一郎先生（歌手、作曲作詞家）に声をかけられ、弟子入りすることになった。歌手としては戦前に活躍していた橋本一郎にとって、勝美さんは最後の弟子だった。</p>

<blockquote>内弟子として先生のところに通うようになって、身の回りの世話を手伝いながら、びっちり一年間ほどレッスンしてね、それで先生がデビュー曲を作ってくれたんですね。特に厳しいとか、そのときは思わなかったけど、できなきゃいつまでもやらされたりしてたから、いま考えると厳しいってことなのかもしれないね。</blockquote>

<p>昭和55（1980）年、『嵯峨野ひとり旅』で薩摩勝美＝京一夫はデビューを飾る。京都の歌だから、一文字取って「京」。それに橋本一郎先生の「一」を足して、「夫」は「合計すると五木ひろしと同じ画数だってことで（笑）」、京一夫という芸名がこのとき生まれた。</p>

<blockquote>デビューがもう30歳直前だったから、年齢的にちょっと乗り遅れたね。「あと10歳若かったら、よかったのに」なんて、よく言われたし、先生からも「君は遅咲きだからね、がんばれよ」って励まされてた。</blockquote>

<p>歌謡曲業界では「若さ」がなによりのウリになっていた時代、遅咲きのデビューを飾った京一夫は、マスメディアへの露出を狙うよりも、地元中心の活動に専念するようになった。1983年から84年にかけて、レコード会社がかわってビクターから出されたのが『裏町の春』と『亀戸人義』。生まれ育った故郷をテーマにした曲ということもあって、ギターを持って夜の町を歌って歩く、流しの歌い手としての生活が始まったのだった。</p>

<blockquote>とにかく自分の町の歌だから、知ってる店で歌うってことから、自然に流して歩くようになったの。あのころはみんな、そういう感じだったしね。流しといっても、僕の場合は自分のレコードを売り込むためだから、「なになに歌え」って言われる前に、まず自分の歌を歌うのが先決で、それからほかの歌も、歌いたいお客さんがいれば「いいですよ」って伴奏してあげる。だから弾き語りの先生、みたいな感じでもあったかな。渥美二郎の『夢追い酒』とかが流行ってたころだったなあ。</blockquote>

<p>流す先は、もちろんスナック。仲間がマネージャーになって、予定を入れてくれることもあったが、飛び込みも多かった。</p>

<blockquote>「いいですか？」ってドア開けて、飛び込みで歌わせてもらうんだよね。亀戸だけじゃどうにもならないから、青森の津軽海峡のほうまで足をのばして。海峡のそばの店、一軒一軒回って、やりましたよ。でも行くとこ行くとこ、「ここは五木ひろしが来たんだよ」とか、「川中美幸だよ、これ」とか、「ここに来た人はみんなヒット飛ばしてるんだよ」って言われてね、「がんばりな」って励まされて、がんばりましたけど。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="17s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/17s2.jpg" width="240" height="337" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>そうやって、自分で買い取ったレコードを手売りして回る生活。もちろん、それだけでは食べていけないから、昼間もいろいろな仕事で生活費を稼いでいたが、その当時のことを京一夫さんは、「たいへんだったよ」」というだけで、多くを語らない。高校時代から好きあっていた女性と最初の結婚をして、ふたりの子どもに恵まれ、そして別れを経験したのも、このころだった。</p>

<blockquote>営業で回ってれば、食べるだけは食べさせてもらえるし、チップもあったりして、生きていくには困らないけど、まあ「その日暮らし」だよね。それじゃ、まともな結婚生活もできないでしょ。「ウチにいれば給料出すよ」って言ってくれた店もあったけど、やっぱり気持ちが続かない。そのころ出会った占い師の先生にも「あなたはじっとしてるとそこで終わっちゃうけど、出て行けばかならず新しい巡り会いがあって、新しいことが広がっていくんだ」って。そのひと言でその気になっちゃってね。いつか見ておれ、みたいな気持ちで一日一日、無我夢中でがんばってたんだねえ。</blockquote>

<p>　そうやって夜も町を流しながら未来を夢見ていた京一夫さんに、神様は新しい巡り会いをちゃんと用意してくれていた。昭和60（1985）年、流しに立ち寄ったスナックで飲んでいた、亀戸天神の宮司さんに「うちの神社の曲を作ってくれ」と頼まれて、みずからの作詞で『亀戸天神様』を制作、歌の奉納を行ったのが、地元で話題になった。</p>

<blockquote>レコードを1000枚作って奉納式典って、ものものしいのをやってもらったんですよ。それで半分の500枚を全国の天神様に配って。だから日本中の天神様にこのレコードあるんですが、残りを「おたくでどうぞ利用してください」って貰ったから、それは江東区の子どもたちのためになにかしようってことで、天神様コンサートというのを開いたの。そしたら売り上げが20万円ぐらい集まって、それを江東区の社会福祉協議会に贈ろうということになったんです。
そしたら協議会から「江東区の障害者福祉センターに、子供用の教育玩具が不足しているので、それに使ってもいいですか」と言われて、「わかりました、どうぞどうぞ」となったんだけど、また連絡があって、「「よろしかったら、子供たちの前でプレゼントしていただけませんか」って。そんなつもりじゃなかったんで、なんにも考えないでのこのこ行ったらさ、新聞記者までいて、たいへんな騒ぎ。それで子供たちとワーッてやってたら、その子たちと別れられなくなっちゃったの。なんかしてあげたいなって、初めて思って。「もしあれだったら、僕と一緒に歌おうよ。歌いに来るよ」っていうきっかけから、自然とミニ・コンサートっぽいものができちゃった。で、そういう子たちのために、毎月１回なら来れるからっていうことで、第３金曜日にね、もう25年から30年経つけど、いまもやってるんですよ。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="17s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/17s3.jpg" width="240" height="347" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>ひょんなきっかけけから、ライフワークとなった障害者施設の訪問コンサート。演歌歌手として活動しながら、地道なボランティアを続けるうちに、京一夫さんにとって決定的な転機となるできごとがあった。あるとき、訪問コンサートにでかけようという朝、新聞を開いた京さんの眼に、ソマリアの悲惨な状況を伝える記事が飛び込んできた。痩せこけた子どもが、こちらも栄養不足で母乳も出ないだろうお母さんのおっぱいを懸命にさすっている、それは衝撃的な写真だった。<br />
　いつものように施設を訪れた京さんに、ひとりの子どもの母親が近づいてきた。見ると、手にコップ１杯のコメを持っている。「京さん、この子が、このお米を世界で飢えに苦しんでる子どもにあげたいって言ってるんです」と言う。ああ、あの記事だなと思った京さんは、「わかりました」と受け取ったものの、どうしていいかわからない。</p>

<blockquote>子どもが自分でコップ1杯入れたんだ。コップ１杯なら、だれでもできるねって言ってるうちに、それがいつのまにか「コップ１杯のコメを贈る運動」になっちゃったんですよ。</blockquote>

<p>すでに激動だった人生に、またひとつ激動の展開が待っていた京一夫さん。40歳を越えて始まったボランティア人生を語りおろす後編、次回にご期待あれ！</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/01/post-14.html</link>
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            <pubDate>Sun, 31 Jan 2010 02:02:33 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>秋田・パブ「やすらぎ」探訪記</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16ｌl.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16ｌl.jpg" width="540" height="357" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>　演歌歌手が歌を生かした副業を始めようとすれば、カラオケ教室かカラオケ・スナック経営しかない。ときには「昼はカラオケ教室、あるいは昼カラ喫茶、夜はカラオケ・スナック」という形態になったりもする。<br />
　プロの歌手がママさんやマスターを務めるのだから、そういうカラオケ・スナックは、飲んでいてすごく楽しい。ショーのチャージなんかなくて、キープ・ボトルを飲むだけのお金でプロの歌を堪能できるのだし、そういう店にはたいてい歌自慢のお客さんが集まってくる。ママやマスターのファン、というひとばかりが常連になるのだから、酒癖のわるい客や、酔って騒々しすぎる団体も来なくなる。演歌歌手のスナックって、実はすごく居心地いい遊び場なのだ。<br />
　今回はいつもと趣向をかえて、そんな演歌歌手の経営するカラオケ・スナックの典型をご紹介しよう。この連載の第9回でインタビューした、秋田の歌姫・あずさ愛さんが経営する「パブやすらぎ」だ。<br />
　秋田駅前からタクシーでワンメーター、飲み屋街のはずれのビルに、あずささんの「やすらぎ」が開店して、もう16～17年になる（「正確な年は忘れちゃった！」そう）。<br />
　ここで第9回のインタビューを読み返していただけるとうれしいのだが、主婦だったあずささんは、20歳のときから約10年間続いた「ままごとみたいな夫婦生活」に終止符を打ち、ひとりになったそのころに、パブやすらぎを開いた。<br />
　はじめのころはあずささんがママになって、バイトを雇って店を切り盛りする毎日。主婦時代につちかった料理の腕が評判になって、食事目的の女性客が多かったという。「人気メニューはね、グラタンでしょ、きりたんぽでしょ、それから特に漬け物！　"いい加減漬け"って名づけてるんですけど、らっきょうを漬けた酢の中に、いろんな野菜を漬け込んだので、これが大人気だったのよー」。<br />
　10年ほど前からあずささんは歌手活動を再開。東京と秋田を行ったり来たりするようになって、店に立つのが難しくなった。それからは昼のカラオケ喫茶、夜のパブと2部構成にして、昼夜ふたりのママに店を任せ、自分は「ときどき行って、飲んで騒いで歌ってるんです」。<br />
　地元のあずさ愛ファンクラブの面々は、そんな日を狙って店に集まってくる。この夜も、こちらが着いたころにはすでに大盛り上がりの最中。「東京から来た人には、食べてもらわなくちゃと思って、用意しといたのよ！」と、グラタンやらきりたんぽやら、並びきれないほどの料理でテーブルは満杯。<br />
　もちろん、お客さんたちはみんな歌上手だ。次々と入るカラオケにあわせ、広いフロアで歌って踊って、見ているだけでも楽しい。ソファで座りながらマイク持って、なんてダメなんですね。<br />
　あずささん本人の歌もたっぷり聴けて、もう食べられないぐらいお腹いっぱいにしてもらって、帰りには「ホテルで食べて」とオニギリまでラップしてもらって、フラフラで帰って爆睡。ごちそうさまでした！<br />
　出張や旅行先で、今晩は飲みたいなと思っても、知らない町の知らない飲み屋街では、どこに入っていいかわからなかったりしますよね。そういうときに、「歌手だれだれの店」と看板にあるのを見つけられたら、それは当たりってことなのかも。</p>

<p><br />
<strong>★パブやすらぎの、あずさ愛ファンクラブ・ナイト★</strong></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s5.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s5.jpg" width="400" height="265" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s6.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s6.jpg" width="400" height="266" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s22.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s22.jpg" width="200" height="301" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s8.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s8.jpg" width="400" height="265" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s44.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s44.jpg" width="200" height="302" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s9.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s9.jpg" width="400" height="265" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s7.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s7.jpg" width="400" height="265" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="16s33.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/16s33.jpg" width="200" height="302" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2010/01/post-13.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2010/01/post-13.html</guid>
            
            
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            <pubDate>Fri, 15 Jan 2010 19:51:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>木田俊之</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="15l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/15l.jpg" width="540" height="357" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><br />
熱いみそ汁　炊きたて御飯<br />
どこに不満の　種がある<br />
広い世界にゃ　水一杯に<br />
両手あわせる人もいる<br />
お前・・・なるなよ　弱虫に</p>

<p>汗を流して　はたらく事を<br />
さけて通るな　男なら<br />
泥にまみれて　真暗闇を<br />
抜けりゃ花咲く　春も来る<br />
お前・・・なるなよ　負け犬に<br />
『こころ』木田俊之・歌／櫻田誠一・作曲／坂田あふる・作詞</p>

<p><br />
　青森県弘前市を拠点に活動する演歌歌手・木田俊之を、青森県人以外で知っているひとは少ないだろう。しかしすでにシングル2枚、全曲集1枚を発売し、地元メディアにもしばしば登場する有名シンガーだ。<br />
　木田俊之は、車椅子でうたう歌手でもある。筋ジストロフィーという難病に冒され、病魔と闘いながらの音楽活動を続けているからだ。愛妻・智恵子さんと二人三脚で、スナックから老人ホームまで、祭りの舞台からコンサートホールまで、呼ばれればどこでも出かけていく。<br />
　そしてその歌声はどこまでも明るく力強く、のびのびとすがすがしい。ステージでは地元言葉の軽妙なトークで、客席を笑いの渦に巻き込む。録音だけ聞いていたら、とても難病に苦しむ人間とは信じられない、そんなエネルギーを声から、からだから放つ希有なシンガーだ。</p>

<p>　温泉とリンゴで知られる青森県大鰐町に1957年2月2日、木田俊之さんは生まれた。リンゴ農家を営む家は貧しかったが、豊かな自然の中で相撲に山遊び、夏は野球、冬はスキーに明け暮れる、腕白な少年時代だったという。</p>

<blockquote>とにかくお金がなかったけど、まわりもみんなそうだったから、貧乏だからってなにも感じなかったねえ。うちは婆さま（祖母）がね、津軽民謡が大好きで、手踊りをやって村でも有名だったんで、物心つくまえから民謡を聴いて育ってきたんです。あとは小学校3年ころにグループサウンズやビートルズに出会って。そのころ絶頂期だったでしょ。</blockquote>

<p>津軽民謡とビートルズ。グループサウンズに、石田あゆみや天地真理やクールファイブといった歌謡曲。耳に入ってくる音楽を片っ端から吸収しながら、俊之少年は育っていった。中学卒業を控えて、担任の先生から「頭の良い者は頭を使え！　そうでない者は、身体を使え！」と言われたのをきっかけに、進学ではなく手に職をつける道を選び、中学卒業と同時に左官屋の親方に弟子入りする。<br />
15歳で左官屋見習いになった木田さん。一時は暴走族に足を突っ込んで、警察のお世話になったこともあったが、「でも仕事だけは一日も休まなかったね」。親方の家に住み込むこと4年、さらに自宅から通いで4年。合計8年間、左官屋で働くうちに、また新しい歌との出会いも待っていた。</p>

<blockquote>親方がね、とにかく演歌や歌謡曲が好きだったのさ。自分でうたいはしないんだけど、聴くのが好きでね、いっつもトラックの中で聴かされてるうちに、こっちも演歌や歌謡曲が大好きになったんだね。昔はほら、油屋（ガソリンスタンド）さんに8トラ（8トラックのカセット）がみんな置いてあってね。現場の行き帰りとか、ずーっと懐メロ聴かされてね。</blockquote>

<p>親方とふたり、トラックの中で演歌に耳を傾けていた見習い工。しかしそのころ、もうひとつ別の種類の音楽にも、実は夢中になっていた。</p>

<blockquote>１７、８歳でさ、スティーヴィー・ワンダーを聴いてね、ちょっと衝撃、カルチャーショックを受けちゃったんですよ。それでブラック・ミュージックというか、ディスコにハマってね。休みはいっつも踊りに行くようになった。青森県内だけじゃなくて、秋田、仙台、郡山とか。それでそのころになると、左官の仕事も少なくなってたから、わたしら冬は出稼ぎに行くわけですよ、東京に。それで六本木とか新宿とか、ずいぶん行きましたよ。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="15s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/15s2.jpg" width="240" height="363" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>1980（昭和55）年、23歳のころからは、仕事量が激減した左官業に見切りをつけ、木田さんは横浜に出稼ぎに出る。</p>

<blockquote>横浜の綱島ね、あそこまで出稼ぎで土方やりに行ってたんですよ。綱島で飯場暮らし。左官やってたころは冬だけだったけど、仕事がなくなってしまったから、夏冬通しで3年くらい。それで25歳の夏に、お盆で帰省したとき、弘前のディスコでかあちゃん（奥様の智恵子さん）と知りあってね。まあ、わたしが（かあちゃんに）引っかけられたみたいなもんです（笑）。</blockquote>

<p>1年間にわたる横浜と大鰐の遠距離恋愛を経て、26歳で木田さんは青森に帰郷を決意。バスの運転手を目指して大型二種免許を取得するかたわら、弘前でタクシー運転手として働きはじめた。26歳で智恵子さんと結婚、翌年には長男、3年後には次男が生まれる。平日はタクシー、休日は実家のリンゴ園を手伝い、冬はスキー三昧、さらに地元のカラオケ教室に通いはじめたのをきっかけに、村祭りなどで自慢のノドを聴かせるようになった。木田さん一家の生活が、いちばん平穏だった時代である。しかしそのあいだ、知らず知らずのうちに、病魔は木田さんのからだを着実に蝕んでいたのだった。</p>

<blockquote>長男が3歳で次男が生まれて、そのころです、弘前公園に花見に行ったら、子供が走り回るのについていけないんですよ。それまでもちょっとからだはおかしかったんですが、車に乗ってばかりだったんで、運動不足だろうと思ってたんです。それでも大学病院に検査入院したら、診断が「筋ジストロフィー」だって。そのときはからだも動いてたし、「そうなんだ......」ぐらいで現実感なかったですけどね。</blockquote>

<p>2児の父親になった、それは木田さんが30歳になった1987（昭和62）年のことだった。最初のうちはちょっと不便を感じるていどで仕事もこなせたが、発病から1年たったころ、カラオケ発表会のステージで、スポットライトを浴びた瞬間に目の前が真っ暗になって昏倒。それ以来、立って歌うことができなくなって、大好きだった歌もきっぱり絶った。<br />
　タクシーを運転できなくなると、配車係に転属、しかしそれも難しくなって失業。それからはサウナの受付や、組み立ての軽作業などを転々としながら、妻のパートと失業保険で食いつなぐ生活が始まった。そして36歳の誕生日を迎えるころにはとうとう、仕事ができなくなるほど、からだが動かなくなってしまう。</p>

<blockquote>発病して（運転手）ができなくなって、いろいろ2，3年やってるうちに、とうとうママ（ご飯）が食べられなくなったの。仕事はなにもなくなってしまったし。かあちゃんだけを働かせて、自分は家にいるでしょ。働きたくても、働けない。あのころはつらかった。だれとも会いたくないし、電話にも出たくないし。それは死ぬことも考えましたよ。</blockquote>

<p>そんなふうにこころの暗闇の中でもがく生活が続いた2年間。38歳になって、必死に家計を支える妻と、元気な子供たちの姿を見るうちに、このままではいけないと、友人の紹介で健康産業関係の仕事を始めた木田さん。その仕事を通して、人生をやりなおすちからを与えてくれることになるひとと出会う。鹿児島県出身、6歳のころに筋ジストロフィーを発症し、医者からは20歳までの命と宣告されたものの、持ち前のバイタリティで難病と闘いながら、強く明るく生きつづけてきた政所庄治（まんどころ・しょうじ）さんだった。<br />
　同じ健康産業で働いていたことがきっかけで政所さんと出会い、そのポジティブな生きざまに、木田さんは「雷に打たれたように、目が覚めた」という。自分よりも、家族はもっと辛い思いをしているにちがいないのに、いままで自分のことしか考えずに落ち込んでいた日々。<br />
　政所さんと出会った集会で、参加者がひとりずつ、なにか得意なことを披露することになって、悩んだ末に木田さんは「歌をうたってみよう」と決意した。31歳でステージに倒れてから封印してきた歌を、生まれて初めて椅子に座りながらうたった。うたい終わって、大きな拍手に包まれたとき、「そうだ、自分には歌があった、歌なら座ってもできる、これからは歌で生きていこう！」と、ひらめく。木田俊之、38歳の演歌歌手が誕生した瞬間だった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="15s4.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/15s4.jpg" width="240" height="159" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
　<br />
こころの暗闇を抜けて、歌手を目指す決心を固めた木田さんは、それから打って変わって精力的に動き出した。著名作曲家、作詞家の先生が審査員をするコンテストを狙って、集中的に出場。そうやって名前を覚えてもらおうという努力が実って1998（平成10）年、『第4回櫻田誠一杯　全国演歌大賞』でグランプリを獲得。コンテストのステージでうたった櫻田作曲の『蟹船』と『こころ』で、キングレコードからプロ歌手としてデビューを果たす。<br />
2年後の2000（平成12）年には、同じ櫻田誠一作曲による、初のオリジナル曲『ふたり道』を発表。それは木田俊之と智恵子さん、ふたりで歩んできた苦難の道を、そのまま描いた曲だった。<br />
2002年には、東北の演歌をふたたび盛り上げようと設立された「みちのくレコード」の第1号歌手となり、以来2年に1作のペースで新作を発表しながら、去年はとうとう歌手生活10周年を迎えた。<br />
　<br />
<blockquote>『こころ』を発表したころですが、人間には「あいうえおの心」と「かきくけこの心」があるっていうのを、書いたことがあるんですよ。前に出会った住職さんにお聞きしたんですが。それは、人間は「明るく」、「うれしそうに」、「笑顔で」、「おもしろく」という明るい心と、「悲しそうに」、「きつそうに」、「苦しそうに」、「けだるそうに」、「怖そうに」、という暗い心、このどちらかを持って生きているそうなんです。わたしが病気に悩んでいた時期は「かきくけこ」に心を占められていたんですが、家族と歌をとおして「あいうえお」の心を取り戻せたんですね。</blockquote></p>

<p>　2008年には智恵子さんと結婚25周年、銀婚式を祝った木田俊之さん。筋ジストロフィーを発症してから、もう22年になった。いまでは車椅子がないと動けないからだになってしまったが、「歌に魂を入れること」だけを願って、いまも歌いつづけている。次の新たな10年に、そしてなによりの夢である紅白歌合戦出場に向かって。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="15s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/15s3.jpg" width="240" height="363" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><br />
●木田さんが所属する「みちのくレコードＨＰ」<br />
<a href="http://www.michinokuhit.com/">http://www.michinokuhit.com/</a></p>

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<p>●著書情報<br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="kida001.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/kida001.jpg" width="200" height="284" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
<strong>『木田俊之物語　歌こそ我が人生』平成20年、みちのくレコード刊</strong></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/12/post-12.html</link>
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            <pubDate>Wed, 16 Dec 2009 00:18:13 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>大和たける</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="14l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/14l.jpg" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>今日という日が　二度ないように<br />
後にゃ戻れぬ　夫婦丸<br />
長い人生　これから先は<br />
命重ねる　契り船</p>

<p>『契り船』　大和たける・歌</p>

<p>　喫茶店のテーブルを挟んで、目の前にふたりが座っている。大和たけるさんと、藤原りかさん。自身の歌そのままに手を取りあって演歌の道を歩みつづけるふたりは、青森をベースに活動する歌手であり、パートナーでもある。<br />
　大和たける（本名・木村誠）さんは昭和46年3月11日、津軽平野の南端に位置する青森県平川町（現・平川市）に生まれた。トラック運転手だったお父さんは大の演歌好き。小学生のころから、年に似合わぬオトナの歌に親しみ、地元のカラオケ大会やスナックでノドを披露しては、オヒネリをもらうほどの歌上手だった。<br />
　中学校時代には剣道に打ち込むが、どうにもからだの具合が悪く、病院で診断を受けたところ、重い腎臓疾患が発覚。高校を卒業するころから、透析治療を始めなくてはならなくなった。<br />
　病気のおかげで土地を離れることもできず、昼間フルタイムで働くこともできないまま、トラック運転手、駐車場勤務、運転代行など、夜できる仕事を転々とするようになったが、ひょんなことから歌謡大会の仕事を手伝うようになり、そこで知りあった藤原りかさんに歌の才能を再発見されて、30歳を過ぎたころ歌手デビュー。2004（平成16）年には初のＣＤシングル『男の宝／浪花の女』を発表、2006（平成18）年には第2弾ＣＤシングル『契り船（ちぎりぶね）／茨人生（いばらみち）』を出す。現在にいたるまで、どこのプロダクションにも、レコード会社に属することもなく、藤原さんとたったふたりで、車に音響設備も積んで、地元の青森をベースに東北を歌い歩く生活を続けている。</p>

<blockquote>もともと両親ともに演歌が好きだったんですが、特に父親がもう、バカがつくくらいの演歌好きだったんですね。とにかく朝、起きたら演歌。ずっとトラック運転手をやってたんですが、運転中ももちろん演歌。それで乗せてもらってるうちに自然と覚えたりして、小学校3年生ぐらいから歌うようになりました。まだ子供の声だから、キーが女の歌しか歌えなくて、木村友衛さんの『浪花節だよ人生は』とか、神野美伽さんの『男船』とか、歌ってた記憶があります。</blockquote>

<p>「自分で言うのもなんですけど、ちゃんとコブシ回して歌ってましたね」という、小学生にして本格的な演歌節をマスターしていた天才肌だったが、実は人前で歌うのは「ほんとにイヤだった」。お父さんは歌上手な息子を自慢したくて、スナックに連れて行ったりするのだが、知らないオトナばかりが酔っぱらってる席で歌うのが、イヤでイヤでしょうがない。地元のカラオケ大会に出場して、「舞台に出ると"お花が上がる"（オヒネリがもらえる）のは楽しかった」けれど、けっきょく気持ちが歌から離れていって、中学いっぱいぐらいでぷっつり、歌をやめてしまう。<br />
　歌のかわりに誠少年のこころをとらえたのは、剣道だった。</p>

<blockquote>オヤジは自分のことを、歌手にしたいと思ってたみたいなんですけどね、そのうち諦めちゃいました。それで、実は生まれつき片方の腎臓が機能しなかったみたいなんですけど、剣道で無理しすぎたみたいで、いずれは透析しなきゃダメだよと言われまして。高校に入ってから、長く検査入院したりして、最初のうちは透析ってなんなのかも、わからなかったんですけど。できればドナーを探して、移植したいとずっと思ってましたが、そう簡単に見つからないし、検査でうまく合っても、かならずしも適合するとはかぎらない。両親からも「片方あげる」と言われましたが、オヤジはもう歳だし、おふくろは血液型が違うしってことで、けっきょくもう、18年間も透析やってますから。</blockquote>

<p>高校を卒業しても、昼間は透析に通わなくてはならないので、必然的に仕事は夜になる。小さいころから乗せてもらって大好きだったトラックの運転、弘前の繁華街で駐車場の管理、それに運転代行など、クルマ関係の仕事をしながら20代の生活を送ることになった。</p>

<blockquote>30歳になるかならないかぐらいまで、駐車場や代行をやってたんですが、ちょうど氷川きよしがぐーっと人気ではじめたころでした。『箱根半次郎』のＢ面に『花の渡り鳥』という曲があるんですが、これを聴いたときに、いい歌だなーって思って。そのへんをずっと自分で聴いたり、カラオケで歌ったりはしてたんですね。</blockquote>

<p>そんなとき、秋田からすごくうまい演歌歌手が来るらしい、と演歌好きのお父さんが聞きつけ、大和さんを連れて見にいったのが、藤原さんとの出会い、そして歌の道へと大和さんを引き戻すきっかけになった。</p>

<blockquote>［藤原りかさん］わたしはそのころ、水沢リカという名前で、自分で歌ったり司会する仕事のかたわら、山川大介さんという歌手のマネージャーをやってたんですね。山川さんというのは、東京ではそれほど知られていないかもしれないけど、秋田を中心として東北地方では演歌の第一人者っていわれるくらい有名で、ステージやると、お花（オヒネリ）もものすごくつくんです。そこで彼（大和さん）と知りあったんですが、音響設備に詳しいとわかって、そのあと秋田でイベントがあるときに来てもらったんですよ。</blockquote>

<blockquote>昔から趣味はクルマと機械いじりで、子供のころに親が買ったステレオをカラオケ機に改造してたぐらいなんですが、彼女が秋田のいろんな場所を回るカラオケ大会の司会をやることになって、そのときは鮎川ゆきさんという八代亜紀の物真似ショーがゲストイベントであったんですが、音響をやる人がいなかったんで、頼まれてついてまわったんですね。
それで音響の調整をするのに、マイクで歌を歌わなきゃならないじゃないですか。てきとうに歌ってたら、「歌合わせできるから、本気で歌って！」って言われて、それを主宰者のひとが聴いていて「きょうからシロウトじゃなくてプロってことで、２，３曲歌ってくれよ」と頼まれまして。</blockquote>

<blockquote>［藤原りかさん］あのころはこのひと、知らない曲でも2,3回聴くと、ちゃんと3コーラスまで歌詞を暗記できちゃったし、歌はうまいしで、びっくりしましたね。それで鮎川さんや山川さんにも可愛がられるようになって、本人も歌でいこうかなと思いはじめたようです。</blockquote>

<p>鮎川ゆきさんや山川大介さんのショーで前歌を歌ったり、音響を担当したりしながら、ひょんなきっかけで大和たけるさんの歌手生活がスタートした。いまから7,8年前のことだった。</p>

<blockquote>山川（大介）さんというのはね、舞台も完璧主義で、ちゃんと自分で音響（設備）持ってる。ショーの場所の音が悪かったら、「音響さん、もういいよ」って、自分の機械をセットしちゃう。音が悪くちゃ、テープも売れないし、花も上がらないでしょ。山川さんぐらい、テープ売って、花上がるひと、見たことなかったっすもん。すごい田舎で、じいちゃんばあちゃんばかりを集めてやるんですが、テープと花で、もう数える指が疲れるぐらいの札束。そういうの見ていて、自分も憧れたんですね！</blockquote>

<blockquote>大和さんの故郷は青森だが、歌を始めたころは秋田を中心に回っていたという。「東北にもいろいろあって、いちばん演歌が好きなお客さんが多いのが秋田。その次が青森で、岩手は民謡が強くて、演歌はちょっとむずかしい。お客さんのノリも難しくて、秋田がいちばん歌いやすい」そうだ。
デビューといっても、特に先生についてボイストレーニングを受けたわけでもない。いきなりステージにポンと出されて、衣装もない、オリジナル曲もないという状態で、氷川きよしのナンバーを中心に歌って、「オバサマたちからは"津軽の氷川きよし"なんて呼ばれました（笑）」。売るべきＣＤもカセットテープもない。でも、歌えば意外にオヒネリが集まる。はじめのうちは駐車場や代行の仕事と掛け持ちでやっていたが、「あのね、夜代行に行ってさ、いくら稼いでるの？　1曲か2曲歌うだけで、時給にしたらいくらよ？　自分の体調を見ながら、やれるときに集中して、短時間で稼ぐようにしたほうがいいんじゃないの？って説得して、夜の仕事を辞めるように説得したんです」（藤原さん）。</blockquote>

<p>「歌手といったって、どんな仕事かなにもわからない、とにかくＣＤやテープ出せばカネかかるんだろうなってぐらいの意識しかなかった」という大和たけるさん。歌手になって1,2年は氷川きよしなどのヒット曲を中心に歌っていたが、2003（平成15）年ごろになって、オリジナルを出そうという話が持ち上がる。世話になっていた山川大介さんが、自分の持ち歌、なんでもいいから歌って、安く出して稼げばいいじゃないかと言ってくれたのだ。そうして選んだ歌を吹き込んで、テープを作って、いざ売ろうとしたところ、作曲家に話が通っていないことが判明！　大和さん、山川さん、作曲家のあいだでの行き違いがあったためだが、結局デビュー曲の『男の宝／浪花の女』は2004（平成16）年、テープを1000本ほど作って売って、制作資金を回収したところでお蔵入りになってしまった。</p>

<blockquote>そんなことがあって、山川さんとはうまくいかなくなっちゃったんですけど、それから秋田で作曲をしている、あさぎり英夫さんという先生と知りあいまして、「とりあえず自分の歌が欲しいんです、なんか作ってくださいっちゅうことで」、2曲作ってもらったんです。</blockquote>

<p>それが翌2005（平成17）年に発表することになった第2弾、『契り船／茨人生』だった。</p>

<blockquote>最初に曲をいただいたときはね、正直言って、自分のイメージにぜんぜん合わなかったんですよ。こっちは氷川くんみたいな明るい曲が欲しかったんですが、できてきたのはなんだか年配のおじいちゃんが歌うみたいな感じで。歌い方も先生が指示するのが、自分とは合わない感じで......。だから4年経ったいまは、ＣＤとはぜんぜんちがう歌い方をしてますね。ジャケット写真も、ほんとは評判悪かったんですよ。真っ赤な背景で、はだかの上半身に革ジャン羽織ったりして。もう亡くなっちゃった、弘前で写真館をやっていた、地元ではカリスマ的な写真家の方にお願いしたんですが。自分では、もっとぼかした感じの風景とかがよかったんですけど......（笑）。</blockquote>

<p>ともかくも自主制作で無事に発売となった『契り船』のあと、2007年には次の新曲の話が進み、今度はきちんと予算もかけて作ろうとなり、スポンサーも見つかったのだが、「とんとん拍子で曲ができて、1週間後に音録りって段階になって、スポンサーが降りちゃって」頓挫。自分が熱くなって、どんどん先に行っちゃったのがいけなかったんですと当時を振り返るが、「制作費が600万かかる。それだけのカネ、自分では出せないですよねえ」。なので現在は『契り船』を歌いつづけながら、音響の仕事に「ずいぶん生活、助けられてます」という状態だ。<br />
　<br />
<blockquote>いろんなところで歌うでしょ、音響屋さんって、かならずしも歌手にそんな合わせてはくれないんですよ。歌い手のいいところを引き出してあげよう、って音響屋さんは、なかなかいない。だって自分みたいに、歌って音も出すという音響屋は、いないですからね。歌わなくちゃ、歌いやすい音って、わからないもん。かといって、こっちも新人ですから、なんか言っても、生意気だって怒られるのが目に見えてますんで。それで、そんな思いするんだったら、自分で持ったほうがいいと思って。だからいつもスピーカーとミキサー、クルマに積んで回ってます。それならどこ行ってもすぐに歌えますし。お祭りだろうがスナックだろうが、どこでセッティングしても、歌いづらいって言われたことないですからね。</blockquote></p>

<p>「機材の高い安いじゃなくて、音に対する耳の問題なんですよ。機械ってのは、なるべくシンプルな組み合わせがよくて、いらないものいろいろ入れちゃうと、かえっていい音出ないんです」と教えてくれた大和さん。考えてみれば、どこの組織にも属すことなく、自分で作品をつくり、自分のクルマにサウンドシステムを乗せて、呼ばれればどこへでも行って歌い、ＣＤやテープを売る。これほどシンプルで、混じりけのないスタイルがあるだろうか。<br />
　シンプルなシステムの機械からいい音が生まれるように、作り手と聴き手のあいだに、なるべくよけいなものを入れないこと。それがいい音楽をいい音楽のまま世に出す、ひとつの解決法なのかもしれない。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="14s.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/14s.jpg" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/11/14.html</link>
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            <pubDate>Mon, 30 Nov 2009 16:02:40 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>黒岩安紀子－後編</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="12l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/12l.jpg" width="300" height="451" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>＜前回のあらすじ＞<br />
昭和２０年１月１２日、終戦間近の東京都葛飾区に生まれ育った黒岩安紀子さん。父は亀戸で鉄工所を営む優秀な職人だった。終戦後、一足先に釧路に新天地を求め渡った父を追って、安紀子さんと母も釧路に渡る。４歳のときだった。小学校５年で内地に戻り、東京の中学に入学した安紀子さんだったが、酒癖が悪く放浪癖のあった父親に愛想を尽かし、高校１年生で中退、母とふたり家を出て、繊維問屋の住み込みとして働くようになる。１７歳の春だった。<br />
２０歳になるころ、繊維問屋を出て品川区に転居、安紀子さんは昼間は会社の電話交換手、夜はアルバイトで水商売の世界に入ることになる。昼夜掛け持ち、二足のわらじを履く生活がそれから10年あまり続くことになったが、そのなかで妻子ある男性との大恋愛を経験する。地位も人格もたいへん立派なひとだったが、援助はきっぱり断って、働きながらのお付き合いが５年も続いたあげく、結局は将来の展望が見えなくなって、別れを決意。安紀子さんは30歳になっていた。</p>

<p>最愛のひととの別れを乗り越え、母と娘ふたりで生きていく決心を固めた黒岩安紀子さん。生活を仕切り直そうと、ずっと勤めていた電話交換手を辞め、母も仕事にしていた英文タイピストを目指し、目黒のタイピスト学校に通い始める。学校は資格の取れるまで1年間、そのあいだの生計を立てるために、同じ目黒にある会社にアルバイトとして働くことになった。</p>

<blockquote>忘れえぬひとと別れて、これからはもう、よその亭主に手を出すことはしまい！と固く誓ってですね、仕事も替えることにしたんですよ。それで目黒のタイピスト学校に通いながら、ホテルを経営している会社にアルバイトで働くようになったんですが、そこがレジャーホテル・ニュースという新聞を出すので、社長が女性記者に「この町内に団鬼六という作家がいるから、行って取材してこい」と、行かせたんです。それで帰ってきたから、「団鬼六って、なにそれ？」って聞いたら、こういうのやってると言ってSM写真を見せられて。でも、本人は優しい感じのひとだった、って言うんです。で、今度銀座に『鬼の館』という、マニアの人たちが集まるクラブを団鬼六監修というかたちで作るんで、オープニングに友達連れて遊びに来ないかって誘われたから、あんた来ないかって言われまして。それで、作家のひとなんて、いままで知らなかったので、おもしろそうだから行ってみましょうかって、行ったんです。</blockquote>

<p>レジャーホテルとは、ラブホテルのこと。黒岩さんが勤めることになった会社は、ラブホテル経営のかたわら、業界誌も発行する会社だったから、当時SMの大家として世に知られはじめた団鬼六さんを取り上げるのは、自然な流れだったろう。ちなみにその会社のオーナーは里見燿三氏。あの目黒エンペラーを作った、日本のラブホテル史に残る重要人物である。</p>

<p>それがたしか、５月のことでしたね。パーティに行って、団鬼六と隣同士になって、「あんただれ、ここになにしに来たの？」って聞くから、こういうわけでって説明して。そしたら、どこに住んでるんだって言うから、西小山ですって言ったら、「ふーん、目黒から近いね、いま秘書探してるんだけど、いちど遊びに来ないか」って。あのひと、だれでも誘うんですけど（笑）。でも、それで「遊びに行っていいんですか？」「いいよ、掃除してくれよ」みたいな感じで、花持って遊びに行ったんですね。それがきっかけで、ここまで入り込んでしまいました（笑）。ああ、またよその亭主と、こういうことになってしまったかと。</p>

<p>団鬼六さんにはその当時、すでに奥様とふたりの子供がいた。兄が小学校６年、妹が３年生。団さんは奥様と別居中で、本宅には団さんひとり、近くのマンションに奥様とふたりの子供が暮らすという状態だった。</p>

<blockquote>そのころ、ご夫婦がちょっと疎遠で別々に暮らしてたんですが、奥様もブティックとかいろいろ仕事をされていて、家にいないことが多いので、しょっちゅう子供たちが（団さんの暮らす）家に来て、わたしがご飯を食べさせたり、４人で一家団欒やってたんです。</blockquote>

<blockquote>（団）先生と知りあって、そのうち家に帰るのもめんどくさいしってことで、住み込みになっちゃって。子供たちも泊まりに来るし、仕事の仲間や編集者たちもたくさん来るしで、私がねえやみたいなかたちで、なし崩しに泊まることになって、そんなことになってしまったんですね。やっぱり主人の生活態度は、ふつうじゃないわけですよ。それを欠点と見るべきか、長所と見るべきか、なんですけど。奥様は20年間尽くされてきたけれど、それが欠点に見えてきちゃったんでしょうねぇ。</blockquote>

<blockquote>それで、別居してはいるけれど、奥様のほうはできればもういちど、復活したいと思ったようで。先生も「何回も同じことがあった末のことだから、どうせまたダメだと思うけど、子供の顔を立てて、もういちど（妻と）同居することにしようと思う」って言うから、「それはもう、当然ですから、そうしてください」って、私は（団さんの）家を出たんですよ。そうして、紹介してくれる人がいて、テレビ神奈川の傘下の会社に就職したんです。31歳のときに入って、38で結婚するまで、けっきょく８年ほどもいました。</blockquote>

<p>黒岩さんが入社したのは、テレビ神奈川傘下で、もともと神戸に本社を置く、地方のUHF局を数局運営する会社だった。横浜の所長格で入社した黒岩さんは、しかし管理職として、いきなり組合との闘争に巻き込まれることになった。</p>

<blockquote>放送関係っていうのは、組合運動がすごく盛んなところで、テレビ神奈川は総評系だったんですが、私が入った社員30人ほどの会社でも、たいへんだったんです。組合員のひとりが起こした不祥事がきっかけで、ストライキとかが始まって、テレビなので心臓部は休むわけにいかないけれど、夕方５時になるとピーとか笛吹きやがってね、言葉は悪いけど。それで赤い旗振って、いままでやってた仕事をバンと投げ出すんですよ。管理職ったって私たちふたりしかいなかったですから、もう何日徹夜したことか。いままで徹夜なんて、したこともなかったのに。それでご飯も食べられなくなって、体重40キロを切っちゃって。人の上に立つ仕事なんて、もともと向いてないんですが、尻尾巻いて辞めるのもイヤだとがんばってるうちに８年近くたっちゃって。そのときに、レコードの話が舞い込んできたんです。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="12s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/12s2.jpg" width="240" height="160" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>流行歌がまだカラオケではなく、有線放送から広まっていた時代のこと。あるとき黒岩さんのもとに、曲としてはできているものの、歌い手を探している『網走の女（ひと）』という歌の話が伝わってきた。仕事に悩んでいた黒岩さんは、それなら私が歌います！と手を挙げてしまう。</p>

<blockquote>♪北の最果て　流氷の海の～～、という感じの歌ですが、もともと『奥飛騨慕情』の竜鉄也さん用の曲だったのが、事情があってお蔵入りしていたようなんです。それで、だれかやるひといないでしょうか、というのを漏れ聞いて、私がやりますと言ったんですよね。少しは嫁入り資金も貯めてるし、でももう、嫁に行ける希望もないし、組合と揉めるのもうんざりということで、いちかばちか、これに使っちゃうほうがいいやと思ってね。だからもう、会社の人間には、「私はもともと小さいころから歌が好きだったので、こういう機会が巡ってきたから、もうこれでやっていく。だから送別会もいらない、アバヨ」といって、辞めちゃったんです。それでレコードを出して、網走の流氷祭りとかにキャンペーンしに行くので、30年ぶりに釧路にも寄れました。もう涙、涙でしたねえ。</blockquote>

<p>テレビ制作会社の管理職を経て、ついに歌手になった黒岩安紀子さん。しかし会社で働いていた８年間のあいだも、団鬼六さんとの関係はまったく切れたわけではなかった。</p>

<blockquote>（団さんの）家を出て就職したわけですが、そのあいだもたまには会ったりするし、先生の取り巻きたちが「宮本さん（黒岩さんの旧姓）呼んで飲もう、飲もう」という話になることもあったり。そんなふうにして時が過ぎて、私がレコード出して、といっても自主制作盤ですけど、しばらくしたら、突然ある事件が起きて、団さんが奥様と別れることになったんです。</blockquote>

<blockquote>もう、太陽が西から出たってそんなことあり得ない、とまで思ってましたから、まさに青天の霹靂でした。でもそういうとき、女ってのは「待ってました」とは言えないの。悔しいじゃない。それで「ああ、そう、いいんじゃない、だれかほかのいいひと探して、後添えにもらったら？」とか、言っちゃったんですよ。</blockquote>

<p>そんな、かわいらしく拗ねる黒岩さんと、団さんの仲を取り持ったのが、団さんのお母さまだった。</p>

<blockquote>その方は、うちの母と同じ明治36年生まれで、香取幸枝という芸名の元女優、松竹の映画にも出たし、岡田嘉子一座に入っていて、しかも直木三十五の弟子になって文学を志したこともあるという、素晴らしい女性でした。</blockquote>

<blockquote>そのお母さんに私は、愛人時代からよくかわいがってもらって、ふたりとも同じ日蓮宗だとわかって、お寺詣りに出かけたり、遠くに旅行したりしてたんですね。それで、そんなことになって、お母さまが乗り出してきた－－「黒岩家を救えるのは、あなたしかいないのよ！」って。私の好きなフレーズなんですねえ（笑）。</blockquote>

<blockquote>それでも１年ぐらいは、「私はそんなつもりで付き合ってきたんじゃない、これからレコードでやっていくんだから」とか抵抗していたんですが、「まあまあ安紀子さん、そんな意地を張らないで、レコードは結婚してもできるからね」とか言われて。それでとうとう、結婚することになったんです。でも主人にはちゃんと言いましたよ、「あんたに惚れて来たんじゃない、お母さんが素晴らしい方だから来たんだ」ってね。</blockquote>

<p>昭和59年、黒岩安紀子さんは39歳にして、団鬼六夫人に収まることになった。そのとき団鬼六さんは53歳、二度目の結婚だった（団鬼六＝本名は黒岩幸彦）。</p>

<blockquote>レコード・デビューといっても自主制作だったから、お皿を作ってもらっただけのこと。それに子供たちもいましたから、まず家庭の維持というか、子育てにがんばらなきゃならないと思ってるうちにね、結婚してから２年ほどしてからでしょうか、落ちついたところでふたりで旅行に行く機会があって、それで思いもかけず、私に子供ができちゃったんですよ。</blockquote>

<blockquote>そのとき、私も41になってました。すでに黒岩の家も、跡取りの息子と娘がいますから、つくろうとして行為に及んだわけではないんですけれど、まあ、ひょいとそういう気になった時に、できちゃったわけです。いやあ、私も非常にびっくりいたしましたですね。主人には「俺はもういらない」なんて言われてましたし、私もほんとにそうだと思ってたんです。でも、できちゃったから産ましてちょうだいって言ったら、「そんなの同じ小説二度書くみたいで、俺はいらねえ」とか言うから、むっとしましたけれど、「ええ、構いません。実家の方が（跡継ぎが）絶えてるので、実家の跡取りにするべく産みますから」って言い返して。産んだあとで四の五の言われるのなら出てやれ、と思ってましたけど。まあ、産んだらやっぱり孫みたいな歳ですから。55で産まれた子供ですから、孫みたいに可愛がってくれたので、しめしめと（笑）。</blockquote>

<p>昭和61年、41歳で長男を授かった黒岩さんは、団さんと前妻との子供ふたりをあわせた家庭の切り盛りに専念するようになる。そうして上の子ふたりが成人を迎え、長男が中学校に入学し、ひと段落というころ、「団鬼六の妻」としてテレビ出演する機会が増えてきた。ワイドショーへのゲスト出演、『知らばかプラス』（フジテレビ系列）ではレギュラーも務めたりしているうちに、「なにかやりたいことないかなーって番組の関係者と話したりしているうちに、ああそうだ、また歌をやってみたいなと思いはじめて。そうしたら、あれよあれよというまにコロンビアに話が行っちゃって、レコードができちゃったんです」。</p>

<p>昭和57年に自主制作盤を出して以来の２枚目にして実質的なデビュー、それが平成11年にリリースされたCDシングル『乳房／知らぬは亭主ばかりなり』だった。</p>

<p>詞を書いているMURASAKIというのは、実は花井紫さんという女優さんで、そのマネージャーがもともと谷ナオミのマネージャーだったので、昔からよく知ってたんですね。それで彼が動いてくれて、レコード会社のほうも「テレビにも出てるし、団鬼六の奥さんだから売れるんじゃないか」とか思ったんでしょうね、異色の歌手としてデビューして、当時はけっこう取材が来ましたね。</p>

<p>♪私を花に　たとえるならば<br />
　薄紅　燃える　夕顔の花<br />
　闇夜に命を　授けられ<br />
　あなたの為に　身をひらく<br />
　もっと・・・　愛の証しが欲しいなら<br />
　この乳房　切り裂いて<br />
　あなたに見せて　あげましょか</p>

<p>激烈な愛の情念を歌う『乳房』、そして</p>

<p>♪お金も指輪も　欲しいけど<br />
　小指をかんで　じらすよな<br />
　甘くて切ない　恋もよし<br />
　浮気ごころは　蜜の味・・・　サテ</p>

<p>と軽妙に流す『知らぬは亭主ばかりなり』。どちらも、酸いも甘いも噛み分けた、オトナの女性ならではの世界観である。平成14年にはコロンビアからの2枚目となる『京都絵すがた／深川恋ごよみ』を発表。その間に日舞のための曲などもリリースしているが、特筆すべきは平成16年にキングより発売された『知覧の母／母は老いても』だろう。昭和20年、終戦の年に生まれた黒岩安紀子さんにとって、終戦後60年にあたる平成17年は、特別に思い入れのある年になるはずだった。そのためになにかやりたいと思っていたところに出会ったのが、『知覧特別攻撃隊』と題された、特攻隊員の写真、遺書、日記、手紙を収めた書簡集だった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="12s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/12s3.jpg" width="240" height="352" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>終戦の年に生まれたということは、私自身とても意義のあるときに生んでもらったと思って。たくさんの犠牲によって得た平和と幸せを一身に浴びて、この60年きたわけですね。ですから、なにかこう、それに見合うようなものをやりたいと常々思っていたときに、ちょうど、平成16年の９月くらいに知り合いの方から、知覧特別攻撃隊の書簡集をいただいたんです。</blockquote>

<blockquote>「安紀子ちゃん、こんなのを歌にしてくれたらいいね」、「あぁ、それじゃあぜひ！」というようなぐあいで、すぐに知覧に飛びまして。それで関係者の方々にもお話をいろいろしまして、平成17年１月発売、戦後60周年記念曲ということになりました。それからずっと、いまでも毎年５月３日に知覧で行われる慰霊祭には、かならず参列しています。</blockquote>

<p>カップリングは『母は老いても』という曲ですが、こちらは昭和20年の東京大空襲を扱っています。３月10日の未明の爆撃で、東京の下町では10万人からの人間が犠牲になったのですが、そのなかに墨田電話局で、最後まで通信器を耳から離さずに、電話回線を死守しながら焼け死んでいった28人の娘さんたちがいたんです。いま、まあ問題はあっても、これだけ平和で豊かな国になれたのは、そういう方々の貴い犠牲の上に成り立っているのだろうと。それで、なにかしたくって、CDを出してから、靖国神社やほかの護国神社でも、この『知覧の母／母は老いても』の２曲に『岸壁の母』と『九段の母』を加えた４曲と語りを入れて、奉納歌謡をやらせていただいてきました。</p>

<p>平成19年には一転して『夢二憂愁／ああ忍ぶ川／浅草振袖さん』という粋歌を集めた３曲入りCDを発売。「私には『知覧』の部と、『夢二』の部とあるんですよね」とご本人が言うとおり、主婦としての日常のかたわら、多彩な活動に取り組む毎日である。</p>

<blockquote>（歌手として）始めたころは、右も左もわかりませんでしたが、いまはなるべくいろんなところに食いつくようにしてますね。でも、プロダクションもマネージャーもなしですから、全部自分でやるの、大変ですよ。家では「すいません」とか低姿勢にしてますけど、外へ出たら、ふだんでも着物ですから、もう着物のままで大きな荷物持って、階段駆け上がるんですよ。</blockquote>

<p>だから体力も必要だし、お金も必要、はっきり言って。年金、駆使してますから！　歌いに行ったって、何十万ももらえるわけではないでしょ。ボランティアで、交通費すら出ないことだってしょっちゅうあるし。でも、そんな経費出してくれるところ待ってたら、いつまでたっても私みたいのに声なんて、かからないから。</p>

<p>それでも歌いつづけること。それを黒岩さんは、「自己満足なんです」と笑う。</p>

<blockquote>ひとのためじゃなくて、結局は自分が楽しいからなんでしょうねえ。主人が言うのは当を得てまして、「お前の幸せは、俺の不幸だ」って。いつも私は、「あの団鬼六先生の奥様」と前置詞がつくわけですよ。だから私の究極の望みは、「ああ、あのひとさ、歌手の黒岩安紀子の夫だってさ」と主人が言われること。この文言が聞きたい！　それでね、私が稼いだお金の、札束で主人のホッペタをペンペンってはたいてね、「これで遊んでらっしゃい」ってね、言いたいねぇ。</blockquote>

<blockquote>演歌は、好きな人たちがどんどん高齢で死んじゃってるし、大体において世の中が幸せで豊かだと、演歌はいらないんです。言葉は悪いけど、小便臭い路地裏から流れて来るのが演歌なんですよ。ところが、そういう時代じゃないですから。みんな裕福になっちゃってて。自分の家に有線放送引いてあります、自分でリクエストしますから自分の歌をかけてください、って時代でしょ。いろんな歌が聞こえてくるけど、全部、前世紀の言葉。「追いかけて、港へ追って行って」なんて、そんなのないでしょ、いまは。『愛染かつら』だって、あの時代だから成り立つんで。ホームへ高石かつ枝が駆け上がったら、浩三さんが大阪行きの列車で行っちゃって。すぐ追いかければいいでしょ、携帯に電話かければいいんじゃないって。だからいまのひとに言っても、身も蓋もないけど、ただね、ほんのひとにぎり、そういう心情をわかる方たちが残ってますから、それは日本人のこころとして、やっぱり必要なものだと思うんですよね。</blockquote>

<blockquote>ただ、いまはね、お金さえあれば、レコードなんてだれでも出せるでしょ。歌手ですと言えば、自己申告で歌手になってしまうわけ。それに、うまい人はいっぱいいるんです。ただその中で天才と、天才は運勢も持って来てますから、世の中を捉まえる運勢があればこそ、第一線に入れる。だって私は、うまかないけど、へたじゃない、へたじゃないけど、うまかないという部類ですから。ふつうのひとのカラオケ、聞いてご覧なさい、ただうまいひとなんて、ごまんといるでしょ。だけど第一線に行けるひとは、そのうえで時代を捉まえる運勢があるんですね。で、たとえ運が来たって、うまくなきゃあ上がっていけないし。そうやって、すべてのものがうまくかみあわさったときに、四次元の世界に入れるんですよ。</blockquote>

<p>「うまかないけど、へたじゃない、へたじゃないけど、うまかない」黒岩安紀子さんは、あくまでも自分のペースで歌いつづける。戦後65周年になる来年（平成21）には、『黒岩安紀子と行く知覧慰霊の旅』を企画中。20名以上の参加者を集めて、特攻隊の基地があった知覧の地で慰霊祭を執りおこなう予定だ。また黒岩さんの歌謡ショーは、昭島市の健康ランド・スパ昭島でも定期的に開催されている。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="12s1.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/12s1.jpg" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/11/post-11.html</link>
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            <pubDate>Wed, 11 Nov 2009 02:00:57 +0900</pubDate>
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        <item>
            <title>黒岩安紀子－前編</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="011l.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/011l.jpg" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>初秋の靖国神社。カラオケにあわせて、能舞台で歌い踊る女性がいる。絣のもんぺ姿、腰には日の丸を差して、「空をつくよな大鳥居　こんな立派なおやしろに　神とまつられもったいなさよ　母は泣けますうれしさに......」と、『九段の母』を熱唱しながら、仰ぎ見る靖国の青空。舞台前に並んだ椅子で、みじろぎもせずその姿に見入るお年寄りの団体、いぶかしげに通り過ぎる観光客......。官能小説の大家・団鬼六の夫人にして演歌歌手・黒岩安紀子さんの、もうひとつの姿だ。</p>

<p>終戦の年、昭和20年に生まれた黒岩さんは、自分の生を戦争と切り離して考えることができずに、いままで生きてきた。生まれたのがあと1年、半年早かったら、いったいどうなっていたのだろう。いまの平和な日本を自分たちは享受してなんの疑問も持たないが、その陰で流された血を、犠牲になった命を、どれだけ顧みたことがあるだろうか。</p>

<p>いたたまれぬ思いから、彼女はみずから歌を作り、特攻隊基地のあった知覧を訪れたり、東京大空襲で犠牲になった人々の遺族を訪ね歩き、靖国神社で歌を奉納するなど、さまざまな活動をたったひとりで続けている。いっぽうで、竹久夢二の耽美世界を描く『夢二憂愁』（2008年）や、「男と女の人生は　狐と狸の化かし合い......」（『知らぬは亭主ばかりなり』1999年）のようなコミカルな曲も歌いながら。</p>

<p>その歌の世界も、自身の生きてきた道も、さまざまに陰影に富む、そんな人生を、彼女は歩んできたのである。</p>

<p><br />
黒岩安紀子さんは昭和20年1月12日、東京都葛飾区、菖蒲園で有名な堀切に住んでいた両親の元に誕生した。終戦直前のこと、出産直前に母親の友人宅がある千葉県市川に避難して、そこで生まれたあと、葛飾に戻って終戦直後の時代を生き延び、4歳のときに北海道の釧路に渡って、小学校5年生までを過ごしている。</p>

<blockquote>わたくし、本籍はいまも葛飾にあるんですが、もともと亀戸で鉄工所をやっていた父が、終戦でダメになったので、一旗揚げたいと釧路に渡って、しばらくしてから母とわたしを呼び寄せたんです。葛飾時代の記憶はひとつもないんですけど、北海道に渡る連絡船で、頭からＤＤＴを撒かれて、真っ白になったのを覚えてます。いまのひとはわからないでしょうけど、そのころはお米の通帳が身分証明書がわり。それがないと宿屋にも泊まれない、そんな時代でした。それも、自分でお米を持っていって、それを宿で炊いてもらうんですから。東京から釧路まで、丸1日半かかりましたね。</blockquote>

<p>まだ、ひなびた港町だった釧路に渡った安紀子さんは、母の勧めでバレエ、合唱団、日本舞踊など、乏しい家計の中で、さまざまな習い事に通う、勉強熱心な少女だった。</p>

<blockquote>母は明治35年生まれなんですが、もともと英語が達者で、高島屋の貿易部で、英文タイプを打ってました。当時の英文タイピストといったら、重役クラスの給料を取っていたというんですが、高島屋の前後にも外国商社の東京支店とか、満州の製鉄会社で働いたり、なかなか志が高くて、しかも東京下谷の生まれですから、ちゃきちゃきの江戸っ子だったんです。</blockquote>

<blockquote>昭和24年の釧路というのは、馬橇が市内を走っているような、ほんとに最果ての町というような、寂れた町でした。母はもともと東京ですし、父は岩手ですけど若いときに東京に出てきてますから、釧路の寒さにからだがついていかなくて、大変でした。父は肺炎になって、生死の境までいったことがあるくらい。母の看病で一命を取り留めたんですが、まあ釧路には哀しい思い出しかないですねえ。</blockquote>

<p>昭和31年、小学校5年生の夏に内地に戻った一家は、まず横浜、それから東京に戻り、安紀子さんは法政大学の付属中学・高校に進学する。</p>

<blockquote>父親は非常に腕のいい旋盤工だったんですが......はっきり言って、性格破綻者でした。お金を持つと、どっかに行っちゃって、いつ帰ってくるかもわからないんですよ。放浪癖なんですかね。</blockquote>

<blockquote>釧路のころは、それでも行くところもないんで大丈夫だったんですが、東京に帰ってきてからは、知り合いもたくさんいるし、世の中も落ちついてきたので、またぞろ虫が出てきまして。
お金を持つと、いなくなる。いなくなるだけならまだしも、お酒を飲むと酒乱なんで、母がいつも殴られてました。それを見てたんで、わたしはいつか殺してやろうと思ってました。</blockquote>

<blockquote>父親がお酒飲み出すと、寝てる隙に母とふたりで、酒が醒めるまで、よく映画館に行ってたりしました。だからわたしは、一刻も早く学校を出て、なんとか母と一緒に独立しようと、そればっかり考えてましたね。それで、ゆくゆくは大学に入って学校の先生になる、なんて父親も、わたしも望んでいたんですが、法政の付属校はお嬢さん学校で、ちょっと授業料も高くって。いまみたいに銀行振り込みじゃなくて、現金を窓口に行くわけですから、母がパートタイムなんかで稼いだお金を持っていくのが辛くって。それで、高校１年すぎたころから、もういいだろうと思って、2年になる前に自主退学したんです。</blockquote>

<blockquote>母が信仰していたお寺さんの紹介で、（日本橋）横山町の繊維問屋さんに、母娘で住み込みで働くことになりました。父親がいないあいだにずらかってやるということで、バタバタでね。とにかくあっちはいちどお金持ったら、半月や20日は帰ってこないんですから。腕がいいんで、どこに行っても仕事はあるんですね。で、帰ってきても、こっちが文句言ったら、殴るだけ。</blockquote>

<blockquote>母はもともと、そういう教養あるひとでしたが、父親と一緒になる前の若いころ、満州で知り合った軍人さんとの大恋愛があったんですね。そのかたが大尉さんで、「士官だから身元調べがあったりして、そう簡単に結婚できない。そのうち戦況が悪化してきたころ、そのかたが満州の奥地に特務機関で入るから、もう連絡はできない。この戦争はもう負けると思うけれども、自分は軍人だから仕方がない。あなたは僕のことを諦めて、良い人を見つけて幸せになってくれ」という手紙を残して、奥地に入っていったんです。母はよく、そのひとの話を聞かせてくれていたので、わたしも子供ごころに、「なんとかそのひとを見つけ出して、お母さんと一緒になってもらおう」と思ってました。</blockquote>

<blockquote>戦後になって、そのひとの消息はわからないし、母は寝たきりの父親を抱えていたりしたもので、結婚したんです。父親はその当時、鉄工所を経営して羽振り良かったんですが、酒癖が悪すぎて、前の奥さんが逃げちゃってたんですね。それを、仲人するひとがあって、一緒になったんですけどね。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="011s.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/011s.jpg" width="240" height="160" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>母の辛い日常を黙って見ていることができず、高校を中退した安紀子さんと、お母さんとの平和な暮らしが、ようやく始まった。昭和37年、安紀子さんが17歳のときのことだった。</p>

<blockquote>母はね、もちろん（退学を）止めましたよ、「高校だけは出てちょうだい、わたしが我慢すればいいんだから」って。でも、「いや、わたしのほうが我慢できない、黙ってて酒飲んで、こんなふうに寝てたら、殺しちゃうかもしれないから、もう出ましょう」と言って、ふたりで出たんです。</blockquote>

<blockquote>横山町の繊維問屋に住み込むことになって、わたしは電話交換手になりました。昔の映画に出てくるような、あのコードを抜いたり挿したりしてつなぐ、あれですよ。母はわたしの学校を辞めさせたことをずっと悔いてましたが、わたしはそんなこと思ったことないし、いままで学歴で損したことはいちどもない。ちゃんと義務教育を受けさせてもらったんだし、卑下することはひとつもないと、言ってきました。</blockquote>

<blockquote>それで18のときに電報が来まして。あの当時は電報って、電話で来たんですよ。電話口でリンゴの"り"、大阪の"お"とか、符丁で伝えるんです。それが、父親の叔母さんからで、「ノリオシンダレンラクコウ」って。父親は、仙台に鉄工所やってる叔父さんがいたんですが、そこで脳溢血かなんかで倒れたんです。お墓は東京のに入れたいので、納骨に来てくれないかと言うんですね。母に相談したら、「あんたのお父さんだから、行くなら行きなさい、あたしは行かないから」って。それで途中まで行ってみたんですけど、ずいぶん迷って、けっきょく行かなかった。でもそのあと、何度かお墓参りに行ったときに、命日とかお彼岸なんですが、いつもすれちがうひとがいて。そのとき声はかけられなかったんですが、そのひとが実は腹違いのお兄さんだったんです。前にテレビに出ていたときに、（ご対面番組で）探してもらって再会できましたが、彼も10歳のころに父親に捨てられて、だからそれまでわたしも知らなかった。そんなこともありましたね。</blockquote>

<p>繊維問屋に住み込んで3年目、安紀子さんは職を替え、お母さんとふたり暮らしを始める。20歳になったばかりだった。</p>

<blockquote>母はわたしを41歳で産んでいて、実はわたしも41歳で初めての子供を授かるんですから不思議なものですが、とにかく20になったころ、60を過ぎた母がちょっと具合が悪くなりまして。それにあまり待遇もよくなかったのが、世間を知るうちにわかってきまして。それでもう、わたしが外に出て、ひとりで働いて母の面倒を見ることにして、品川区のほうに引っ越したんです。</blockquote>

<blockquote>ちょうど東京オリンピックのころで、景気がいい時代でした。昼間は別の会社の電話交換手をやって、夜はアルバイト。最初は喫茶店だったんですが、だんだん給料のいいところに移っていくと、水商売になって。でも、わたし物怖じしないので、接客業は向いてるというか、夜の世界は嫌いじゃなかったですね。だから、引く手あまたでしたよ。銀座、赤坂......そのころに、頼まれてちょっと歌ったこともありました。</blockquote>

<blockquote>昼夜かけもち、二足のわらじをけっきょく30歳まで履いたわけですが、楽しかったですねえ。母が家のことはやってくれるし、お弁当も作ってくれるので、わたしは家に帰ってぱーっと寝るだけ。「夜だけじゃなくて、ちゃんとしたところに昼間お勤めして、夜はアルバイトにしておきなさい」と母から言われていたので、夜の水商売に較べたら大した給料じゃないけども、昼間の電話交換手をちゃんと続けて、身分証明書をもらって。</blockquote>

<blockquote>そういえば『エンサイクロペディア・ブリタニカ』って百科事典あったでしょ。あれの訪問販売もしたことありました。あの当時で三十何万円かしたけど、みんな読めもしないのに、見栄で買うのね。そういう経験をいろいろしたことが、わたしの人格形成にずいぶん役立ちました。それにいくら稼いでも、母という歯止めがおりましたから。「こうやって生活させていただいてるんだから、あだやおろそかでお給料もらってはいけません、ちゃんと働くように」って、いつも言われる。そういう真面目なひとでした。</blockquote>

<p>どんなに忙しくても、それは若さで乗り切れる。昼夜、充実した日々を送っていた20代の安紀子さんだが、実は大きな悩みも抱えていた。</p>

<blockquote>主人（団鬼六氏）と知り合うのが30歳のときですが、その5年ほど前から、いまでも忘れえぬひととの恋愛があったんです。わたしより20歳も上で、たいへん地位のあるかたでしたが、もちろん家庭を持っているかたでした。</blockquote>

<blockquote>外資系の会社のかたで、英語はペラペラだし、ダンスもうまいし、いろんなところに連れてっていただいて、ほんとに素晴らしいひとでした。でもわたしは、そういうかただからといって、援助してもらうのは大嫌いなので、洋服1枚買ってもらわなかった。ノドから手が出るくらい、お金は欲しかったけど、それを言っちゃおしまいでしょ。だからわたしはお付きあいしながらも、あいかわらず昼夜、働いてましたね。</blockquote>

<blockquote>でもね、そうやって5年ぐらいたってくると、自分にもわがままとか、迷いが出てくるのね。「あぁ、こうしてたって一緒になれるわけでもないし」とか思い出して、気がつくと、そのひとの家のまわりをうろうろしてるわけ。あっちは立派な家に、暖かい灯りがついてるのに、こっちは6畳ひと間の間借りでしょ。こっちも若いから、石投げてやろうとか思っちゃって。それで、こんなことじゃいけないときっぱり決意して、言ったんです......「わたし、こうしていると、だんだんわがままになって、あなたに無理な要求をしはじめそうな自分が怖い、だから別れましょう」って。</blockquote>

<p>別れよう、と切り出されたら男のほうはどうすることもできないが、「それなら、なにか困ったことがあったら、なんでも言ってきなさい」と言われて、安紀子さんがお願いしたのが、お母さんが以前に大恋愛したまま消息不明になった相手を探し出してもらうことだった。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="012s2.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/012s2.jpg" width="240" height="369" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>そのかたはたいへんに力のあるひとでしたから、いろいろ聞いてもらったら、わりと簡単に探し出せちゃったんですよ。それで、相手は男のひとだから、どんな家庭を持ってるかもわからないので、まずわたしが長い手紙を書いたんです、「覚えてらっしゃいますか、わたしは30年前のこういうことの......娘で」って。</blockquote>

<blockquote>そうしたら、わたしが勤めていた会社宛に返信が来ました......わたしがその当人です、娘さんが僕のことを探してくれていると知って、びっくりしました。（終戦後）2年ぐらいしてから復員したのですが、もう精神的に虚脱状態で、（お母さんも）もう結婚したかもしれないしと思い、そのままになってしまいました。いまは大阪で結婚、就職して、嘱託として働きながら、寝たきりになっている妻の介護に明け暮れてます。そんなに誇れる暮らしをしているわけでもないから、あなたには会いたいが、お母さんには黙っていてほしいのです。</blockquote>

<blockquote>そう言われて、わたしは大阪まで会いに行きました。当時すでに60歳をこえていましたが、「（お母さんは）あなたのような娘さんを持てて、ほんとに幸せだ。大事にしてあげてください」と、とても喜んでくれて。それでしばらく文通していたんです。</blockquote>

<blockquote>ところがねえ、人生は松竹新喜劇のようにはいかないのよね。奥さまがそんな状態なら、亡くなったあとで、母とふたりで小さなタバコ屋でもやってもらって、3人で暮らしていけたらとか考えて、一生懸命働いてたんです。それで、3年くらい過ぎたときに突然、そのかたから電話がきたんですね。しばらく連絡とってなかったので、どうされたかなと思っていた矢先でした。「おじさま、どうされたんでしょうか。お電話でどうなさったんですか？」って聞いたんです。そしたら、奥さまが亡くなったのかと思ったら、「実は、お母さんから手紙をもらった」って。</blockquote>

<blockquote>それでこちらもびっくりして、母に「お母さん、手紙書いたの、どうして？」って聞いたら、「お前の机にあったから......」って言うんですね。たぶん不用意に出しっぱなしにしておいたのを見つけたんでしょう。わたしに黙ったまま手紙を出したんですね。それで、「母と話してくださいますか」と電話口で聞いたら、「うん、いいです」と言うので、母に受話器を渡して、しばらく話していたあと、「わかりました、どうぞお元気で」と言って、母が受話器を置いたんです。</blockquote>

<blockquote>電話が終わったあと、母がわたしに「安紀子、あのかたを探したんだね」って言うので、「うん、こうこうでお母さんには言わないでくれというから、黙ってたの。なんておっしゃってたの？」と聞くと、「安紀子さんは立派な娘さんだし、あなたも元気で良かった。でも僕は家内の介護でいま手一杯で、あなたたち親子のいろいろなことに応えることができないから、もう今後は連絡しないでほしい」って言われたって。それを聞いて、わたしはお母さんに、手をついて謝りました。お母さんの美しい思い出を、わたしが壊したんですよ。</blockquote>

<blockquote>思い出のままにしていたら、よかったんです。現実というものは哀しいものでね、わたしが探し出したために、もう連絡しないでくれと言われちゃった。そんな言い方しなくても、とも思いましたけど、人間はやはり変わるものですし。大変喜んでいただけはしたけれど、松竹新喜劇みたいに「わーっ」て抱き合うことにはならなかった。わたしは親孝行だと思ってしたけれども、結果としてお母さんの思い出を壊してしまった、ほんとに申し訳ないって。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="012s3.jpg" src="http://webheibon.jp/enka/images/012s3.jpg" width="240" height="123" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>そうしたら母は、「わかったよ安紀子、父親がもっと普通のひとだったらよかったけど、あんなだったから、つい若いお前にそんなことを言ってしまって、かえってこちらこそ悪かった。でも、これでわたしの思いもきっぱりついたから」って言って、それから死ぬまで、あのかたのお話はひとことも口に出しませんでした。</blockquote>

<blockquote>そういえば、そのかたに大阪で会ってからのことなんですが、母がへんなこと言い出したんですよ。そのころわたしたちは武蔵小山に住んでいたんですが、母が「あのかたが夢に出てきてね」って言うんです。「武蔵小山商店街のあたりに来るから、待っていれば会える」って。わたしはすでに大阪で会ってるから、そんなわけないと思って、なんかあったのと聞いたら、霊感がしたって。それで、しょうがないから武蔵小山商店街で、朝の9時から夜6時まで、交代でじぃーっと待ってましたね。</blockquote>

<blockquote>もう（大阪に戻ったと）知ってるとは言えないから、「写真持ってるし、見たらわかるから、お母さん、なにか食べといでよ、それらしいひと見かけたら教えるから」って。いい娘だと思いません？（笑）　いま思うと馬鹿くさいし、ほんとに何度言おうかと思いましたよ、「実はお母さん、あのひと大阪に戻ったから、ここにいても会えるわけないの」って。でもね、そこをこらえて、そのあと（母が）死ぬまでそれは言いませんでしたよ。だからね、思い出は、思い出のままでとっておいたほうがいいってことね。こちらの思いは、相手の思いとは違いますし。よく、ご対面番組で、出てこないひともいるでしょ。そういうことを、わたしもあれで思い知りましたね......。</blockquote>

<p>すでに波瀾万丈の人生、しかしまだ30歳！　怒濤の黒岩安紀子物語は、次回後編に続く。こころして待て！</p>]]></description>
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            <pubDate>Sat, 31 Oct 2009 19:59:06 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>いづみ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="11ll.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/11ll.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>　大久保の小さなライブハウスのステージ。空席の目立つ客席の暗闇に向かって、女の子が歌いかけている。余裕、とかじゃない。不安定ながら、とにかく一生懸命な歌声と、ぎこちなさの残る振り付け。<br />
　歌い終わると、客席に深く一礼して、彼女は袖から出てくる司会の男を待ち受ける。どうせ、きょうも同じことを聞かれて、ネタにされるのだ――「有名漫才師の娘って、どんな感じですか？」</p>

<p>　いづみ＝IZUMIさんは、漫才コンビ「おぼん・こぼん」の、こぼん師匠の娘だ。高校生のころに、おぼん師匠の娘・ちひろさんと女子高生お笑いコンビ「くれよん」を結成。しかし2年ほどでコンビ解消。「浅草娘演歌隊」なるグループに参加して、浅草のホールで歌ったり、大阪のステージで歌ったりしながらチャンスを待ち、おととし2007年、はじめて東京のライブハウスで単独ライブ、シングルCD『浅草は心の故郷』を発表した。</p>

<p>　まだ、とても歌だけで生活していくことは無理だから、パスタ屋を２軒掛け持ちでバイトしながら、歌えるところならどこにでも足を運ぶ。厳しいのが当たり前の世界で、彼女もまた、ゴールの見えないコースを、必死に走っている。</p>

<p><br />
<blockquote>よく間違えられるんですよね、おぼん・こぼんって、吉本でしょって。父もおぼん師匠も大阪出身ですけど、漫才をやるのに東京に出てきたので、スタートがこっちなんです。だからわたしも東京の生まれ育ち。そういえば父たちのデビューも、わたしの漫才師デビューも、同じ17歳でした。</blockquote></p>

<p>いづみさんは1982年9月、こぼん師匠の次女として、東京都中野区に生まれた。2歳になったころ、一家で千葉県船橋市に引っ越し、以来現在に至るまで千葉県民だ。</p>

<blockquote>子供のころは、学校の友達も「おぼん・こぼんって、だれ？」みたいな感じだったんです。ちょうどわたしが生まれたころぐらいがブームだったんで。でも、『お宅訪問』みたいな番組で、家族でテレビに出させてもらったりしてたので、小学生のころから、テレビは身近でしたねぇ。けっこう目立ちたがり屋だったんで、学校でも放映の日は「きょう、出るよ～！」みたいな（笑）。</blockquote>

<p>おぼん・こぼんの芸は、ただの漫才ではなくて、タップや歌や踊りを取り混ぜた、バラエティ豊かなステージだった。自転車の空気入れで、ハーモニカを吹いてみたり。そういう父の姿を見て、いづみさんは小さいころから、なんとなく自分も同じ道に行くんだと思っていた。</p>

<blockquote>幼稚園のころ、自分の夢を書くときがあって、わけもわからないまま「漫才師」って書いたのを、覚えてます。どんな仕事かなんて、理解してなかったと思うんですけど。小さいころからピアノとかバレエとか、習い事はいちおうさせられていて......。自分でやりたかったのは、そうじゃない。そのころ安達祐実がすごく人気で、ひとつ上だったんですが、彼女に憧れて、劇団に入りたい！って親に頼んだんです。でも、子役からやるのはダメだって言われ続けて。安達祐実みたいのは一握りで、たいてい子役上がりは大成しないんだからって。</blockquote>

<p>児童劇団には親の反対で入れなかったいづみさんだが、中学に入った年、ちょうどできたばかりの演劇部に入部、第１期生として学生演劇にのめり込む。そして３年のとき、ついにお許しが出て、日本テレビが主宰するタレント養成所＜タレントセンター＞に通い始めた。</p>

<blockquote>中学校の演劇部は、わたしたちが第1期生だったので、先輩も後輩もないですから、もう、やりたいほうだい。顧問の先生が、すごく熱い人だったんで、けっこう衝突したり。でも、すごくおもしろかった。ほかの学校の演劇部と共同で発表会とかもやるんですが、舞台で台詞忘れて、芝居が止まっちゃったり（笑）。でも、中学校最優秀演劇賞や、個人の演技賞ももらって。とにかく演劇が、楽しくて楽しくて、しょうがなかったんです。そういえば、同じ学年で、演劇部が一緒だったのが、倉木麻衣ちゃん！　そのときは同じクラスじゃなかったんで、突っ込んだ話はしなかったんですが、あとであんなことになって、悔しいぞ！みたいな（笑）。</blockquote>

<p>演劇にすっかりはまった少女は、声優に憧れるようにもなって、普通の高校に進学する気をすっかりなくすが、周囲の説得に負けるかたちで、日本芸術専門学校という、芸能の専門学校に進学する。</p>

<blockquote>姉が声優に憧れてて、養成所に通ったりしていたので、それについていったりしているうちに、自分でも「勉強するなら、芸の勉強がしたい！」と思うようになって、高卒資格が取れる専門学校を自分で探して、申し込んだんです。</blockquote>

<blockquote>お姉ちゃんが普通の高校に行きたくないって言ったときも、周囲から説得されて、けっきょく普通の高校に進学したんですが、そのときにうちの親が山田康雄さんと交流が深くて、あのルパン３世の声で、「声優になるのにも、高校は出ておいたほうがいい」って、説得の電話がかかってきたりしたんですよ（笑）。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="11s5.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/11s5.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>わたしが選んだのは日本芸術専門学校・芸術高等課程っていうところで、演技はもちろん、ダンス、日舞、殺陣、タップ、バレエ、あと楽器系もある。月、火、水が座学っていうんですが、国語、社会、英語の授業。理数系はないんです。木曜が音楽の日。音楽理論からボーカル、ピアノ、キーボード、ドラム、ギターの授業を受けて、金曜日は実技の日。ダンス、日舞、殺陣までやってました。でも、みんなバカばっかりで、明るいバカですが。だって英語の最初の授業が、I、my、me、mineから始まったんです。高校なのに！</blockquote>

<p>そんな楽しい仲間との学校生活の中で、いづみさんは本格的に音楽に目覚め、バンド活動を始めたり、学校のほかにダンスのレッスンに通ったりするようになった。</p>

<blockquote>授業で音楽理論習ったりすると、バンドやりたくなって、仲間とバンド組んでキーボードやったりとかしてました。高校生のころから、自分で作曲もやってましたし。友達の影響で、浅倉大介が好きで、コンピューターミュージックがやりたいと思って。それに芸能人もよく来るようなダンス・スタジオに、ダンスを習いに通って。ヒップホップ系じゃなくて、ジャズダンスですが。それで、レッスンが21時30分に終わって、家に帰ると23時。もう、バイトどころじゃなかったですね。</blockquote>

<p>演劇に音楽にと、エネルギッシュに打ち込んでいたいづみさんに、思いがけない話が飛び込んできたのが、高校3年生の夏。父の相方・おぼんさんの娘と、ふたりでユニットを組んで漫才をやってみないかという誘いだった。</p>

<blockquote>わたしも相方も9月生まれなので、ちょうど来月18になるよってときがデビューでした。それまで、親戚みたいな感じで、特別に家族ぐるみで親しくしていたわけではないんですけど。あちらのほうが高２のころぐらいから、芸能界でやっていきたいと言い出したと聞いて、漫才だったら協力できる、ということになったんです。</blockquote>

<blockquote>大丈夫かな......って不安もありましたが、でも、勢いがありましたから。やるぞって決めたら、なにも考えずに飛び込んでいけるような。父たちの漫才も、確かにお笑いはお笑いなんですけど、音楽もやるし、タップも踏むし、踊りも踊るし、いろいろやるので、漫才＝しゃべくりってわけじゃなくて、すべてがつながる、っていうイメージで。</blockquote>

<p>「くれよん」という名前でデビューしたのが1７歳。デビュー公演を売ったの浅草木馬亭だったが、奇しくも、ネタを書いたのは山田康雄さんの息子。「やるのも２世、作家も２世、２世づくしで売り出そうってことで」、芸能メディアの注目を集めた「くれよん」は、いちじスポーツ紙などでずいぶん記事になった。</p>

<blockquote>高2のときにやると決めて、デビューまで半年ほど準備期間がありましたが、わたしのほうは学校で演技の勉強してたけど、彼女はふつうの高校生だったんで、そういう勉強をしたことがない。ゼロからだったんで、とにかく大変だったです。バレエをずっとやってる子なんで、踊りはうまいんですが。</blockquote>

<blockquote>わたしもそのころはヘンに尖ってプライド持ってたんで、合わせるのが難しくて。キャラから言えば、わたしのほうがぜったいボケだと思うんですけど、あっちはさらに天然系のボケ・キャラなんですよ。ツッコミがうまくできない。だからいっしょにあたふたしてた感じでした。</blockquote>

<blockquote>学校は違うけど同じ年生まれで、よくネタでやってたのが、同じ９月生まれなんですよ、わたしたち。わたしが９月２日、相方が９月１７日で、２週間しかちがわない。当時は漫才ブームで、お父さんたちは忙しくしてまして、なかなか休みの日がとれなかったんですけども、漫才で休みのときはふたり一緒ですから、休みの日は、ほかになんにもすることがなくて......こらっ、なに言ってるの！　みたいな。10代の女の子なんですけど（笑）。</blockquote>

<p>同じころデビューした若手漫才には、青木さやかや森三中がいる。「売れりゃ、なんでもできるんだから」と言われて、ほんとうは自分ひとりでやりたいことがほかにあったのに、我慢することがだんだんつらくなっていった。「こればっかりやってる感じじゃないな」という気持ちが、だんだんつのっていった。</p>

<blockquote>売れればなんでもできるというのが、理解できなかったんです。いまならわかりますが。当時、いちばんわかりやすい目標がオセロで、バラエティやドラマもやってるのを見ていて、ああいうのがいいなと思ったり。</blockquote>

<blockquote>好きなことをやっているはずなのに、なんか｢なにやってるんだろう」と、自分で悩み出したんですね。芸能界しか目標にしてなかったんで、そこを失ったらなにも無いし、好きなものを、なんでできなくなっちゃってるんだろうと、すごくあせりました、その時。</blockquote>

<blockquote>相方は、多分、与えられることをやることしか、できなかったと思うんです。いろいろふたりで話をして、どういうふうにしたいとか聞いても、たいてい、わからないと返ってくる。良くするにはどうしようとか、そういう会話ができなくなっちゃってた。向こうにも多分、伝わらないというジレンマはあったと思います。</blockquote>

<blockquote>向こうのほうが素直に動けてて、私のほうは頭でっかちで、考え込んでた部分があったかな。たとえばネタの練習をふたりでやっても、ただの口あわせになっちゃって、どうしたらおもしろくなるか、という会話ができない。2年ぐらい活動して、お父さんたちはこれから引っ張りあげようという時期になっていたようですが、わたしにはもう無理だと。だから解散に際しては、色々ありました。ちゃんと相手と話すのもできないでやめちゃったんで、相方とまた話ができるようになるまで、けっこう長い時間がかかりました。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="11ss.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/11ss.jpg" width="240" height="161" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>2年間がんばったあげく、ユニットを解散したいづみさんは、「なにがやりたいのかわからない」、気持ちの整理がつかない状態に陥ってしまう。そこから立ち直るきっかけを与えてくれたのは、やはりお父さんだった。</p>

<blockquote>やめて、しばらくバイトしてたんですが、劇団でお芝居はどうだと父に言われて、水森亜土さんの未来劇場に入れてもらったんです。1年ぐらいいさせてもらったんですが、なにもしないよりはいいだろう、ぐらいの気持ちで入っちゃったもんだから、けっきょく続かなくて。あそこのブラック・ユーモアは、20歳の女子にはぜんぜんわからなくて。</blockquote>

<blockquote>それで、あるときカラオケで、（山本リンダの）「ウララ～」を歌ってたんです。物真似とかテレビで見てて、「ウララ、ウララ」って走り回っているイメージがあったんで。それをなんとか真似して、カラオケでイエーッとかやってたら、劇団の演出を担当している、亜土さんの旦那さまに、それおもしろいって言われて。亜土さんが山本リンダさんの『どうにも止まらない』を歌うんだけれど、『狙い撃ち』と『どうにも～』の２曲、レビューで歌いなと言ってくれて、レビューに出たんです。それが、学校卒業以来、はじめての歌の舞台でした。</blockquote>

<p>カラオケを水森亜土さんたちにおもしろがられた、というきっかけで、歌の世界に足を踏み入れたいづみさんは、未来劇場を離れたあと、「くれよん」時代に知り合った大阪在住の女の子に誘われ、「浅草娘演歌隊」に加入することになる。それまでポップス一辺倒だった彼女には、それが演歌の初体験でもあった。</p>

<blockquote>未来劇場を辞めて、どうしようかと思いながらバイトしてたときに、誘われたんです。彼女は子供のころから大阪で、子役でがんばってた吉野悦世という子です。わたしたちがおぼん・こぼんと「親子漫才」みたいなコーナーを、瀬川瑛子さんの名古屋公演でやらせてもらったときに、彼女も役者で出ていて知り合って、それからも連絡取り続けてたんですね。それで、浅草で演歌のイベントやるから見に来ないかと誘われて、彼女がメンバーだった浅草むすめ演歌隊という３人組ユニットの、ひとりが辞めるから、代わりに入らないかと誘われて、「はい、やります！」って、勢いで言っちゃったんですね。だいたい２ヶ月に１回のペース、東洋館の向かいにあった大勝館の小ホールで、二日間公演で昼夜２回の４公演やってました。</blockquote>

<blockquote>演歌なんて歌ったことなかったんで、とりあえず「歌いやすい演歌ない？」ってお父さんに聞いて、カラオケいっしょに行って教わったりして。まず、劇場の人に歌ってほしいと言われた、香西かおりさんの『流恋草』を覚えて、お父さんに教えてもらったのは『石狩挽歌』でした。あとはテレサ・テンさんとか、杏里とか。</blockquote>

<blockquote>もう、衣装だって衣装が振袖２枚ドレス３枚くらい、大体一回に５着くらい使ってたんで、それだけでも大変。ステージが一回３時間ぐらいあったんで、その中で着替えるんです。しかも誘ってくれたのが大阪の子でしょ。前日に東京入りしてリハーサル、翌日が本番。だから前日に、曲が決まったりする。ひとりで６、７曲は歌わなくちゃならないし。チケットさばくのも大変だったし。公演が終わったあとは、死んだようになっちゃいましたが、あれを半年ぐらいやったこととで、そのあとソロでやっていくうえでの、すごいトレーニングになりました。</blockquote>

<p>浅草むすめ演歌隊のイベントが終わったあと、いづみさんは演歌隊に誘ってくれた大阪の彼女にまた誘われて、今度は大阪で歌うようになった。小さいころから舞台に立ち、「通天閣の親指姫」とニックネームを持つ彼女に誘われて、舞台に合わせ土、日と大阪に通う生活が、23歳から26歳まで、３年ほども続くことになった。</p>

<blockquote>歌で仕事したかったけど、東京ではどうしたらいいのか、わからなかったんです。ＣＤもなかったので、かたちになるものがなんにもない。ただ他人の曲を歌ってるだけで。だから大阪に行って、たとえば地元に密着して、お祭りとかで歌わせてもらうような地道な営業のやりかたを彼女から学んで、すごく刺激になりました。月に１回くらい出させてもらってたんで、いつも3900円の夜行バスに乗って、通ってたんです。</blockquote>

<p>大阪では誘われて歌えるようになったが、東京に帰ってくると、あいかわらず活動の場はほとんどない。オリジナル曲も、売るべきＣＤもない。そういう八方ふさがりの状態が長く続いたあと、おととしの2007年になってようやく、はじめてのＣＤを出す話が持ち上がった。曲は、浅草むすめ演歌隊のテーマ曲だった『浅草は心の故郷』だった。2007年、彼女は25歳になっていた。</p>

<blockquote>むすめ演歌隊のころから歌の先生についてレッスンしだしたんですが、その関係で、東京駅八重洲口にあるライブハウスで、はじめて単独ライブをやることができたんです。そのころからミュージシャンの知り合いがけっこうできて、「とりあえず曲を作ってレコーディングすれば、お金をかけずに形にすることはできるんだよ」とか教えてもらったりしたんですが、とにかく具体的にどう行動すればいいのか、ぜんぜんわからない。レコード会社にも、プロダクションにも属してないので、どう売り込んでいったらいいのか、見当もつかない。そんなときに、『浅草は心の故郷』をレコーディングしないかと持ちかけられたんです。</blockquote>

<blockquote>発売元のレコード会社からお話をいただいて、作者の方にお会いして、まあいろいろ難しいこともあったんですが、ようやくという感じでかたちになりました。作者の方が制作費を出していただいて、こちらはそれを７掛けでレコード会社から買って、手売りで売る、ということです。</blockquote>

<blockquote>もう、びっくりの連続でした。まず、ＣＤができたこと。ジャケットを見たら、「いづみ」じゃなくて、「いずみ」に字が間違えられてること。ＣＤが出たら、レコード会社がキャンペーンとか組んでくれると思ってたら、ぜんぜんそんなことはなくて、自分で動かなきゃどうにもならないこと、そして自分のＣＤが出たあとに、ほかの歌手の方が同じ曲を浅草で歌って、やっぱりＣＤになって、そのひとの歌が通信カラオケに入っちゃってること！</blockquote>

<p>それまで知らなかった、業界の複雑なシステムに翻弄されながら、いづみさんはいま、レコード会社の助けも、プロダクションもなく、ひとりでライブを企画し、声をかけてくれたイベントに参加し、1枚ずつＣＤを手売りして暮らしている。自分の名前がまちがって表記されているジャケットを、「これ、まちがってるんですけど、初回限定なんでレアです！」とかアピールしながら。自分で毎日更新しているブログを、唯一の情報発信源にして。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="11s1.JPG" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/11s1.JPG" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/10/post-10.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2009/10/post-10.html</guid>
            
            
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            <pubDate>Thu, 15 Oct 2009 23:30:28 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>合格</title>
            <description><![CDATA[<blockquote></blockquote><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09ll.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09ll.jpg" width="540" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span>

<p><br />
♪コスモスの　花ゆれる日に<br />
来し方の　人生を想う<br />
人は誰でも　一期一会の<br />
出会いと別れを　くり返し<br />
遙かなる　歳月の果てに<br />
心おだやかな　笑顔さわやかな<br />
ＡＲＡ喜寿の年に　たどり着く<br />
ああ、、、　ＡＲＡ喜寿バンザイ<br />
ＡＲＡ喜寿バンザイ</p>

<p>『ＡＲＡ喜寿バンザイ』合格（作詞　玉利要）<br />
　<br />
昭和11（1936）年、薩摩半島の小さな町・吹上（現・日置市）生まれ。『合格』なる芸名で、すでに28年間にわたり作詞家兼歌手として活動を続けてきた。これまで作詞した曲がすでに2700余、歌手としてＣＤアルバム2枚、シングル6枚を発表するも、いまだ大ヒットには手が届かず。本人がＣＤジャケットに「自分は歌手のように上手には歌えないが、天命に従いベストを尽くした」と明記しているように、歌唱力はプロの足元に遠く及ばないまま。しかし喜寿まであと4年という73歳にして、毎日「心おだやかに、笑顔さわやかに」、元気いっぱい歌って、ときには踊って、聴くひと見るひとを元気づけ、勇気づける存在。それが玉利要（たまり・かなめ）＝合格さんである。</p>

<p>日本一の長さを誇る吹上浜で有名な吹上に玉利要さんが生まれたころ、日本はすでに戦時体制一色に染まっていた。家業は紙漉き。お父さんは日本史の研究家でもあり、書き物をするときには「合格」というペンネームを使っていたという「田舎のインテリ」だった。玉利さんの芸名は、お父さんから受け継がれた「2代目」ということになる。<br />
　<br />
<blockquote>鹿児島は桜島がまんなかにありまして、右と左に別れますけど、吹上は枕崎や指宿がある薩摩半島。九十九里浜、鳥取砂丘と並ぶ日本三大砂丘で、それは白砂がきれい！　あの、市川さんと増元さんが北朝鮮に拉致されたところでもあります。</blockquote></p>

<blockquote>うちは手漉きの和紙づくり、何代目かわからないけど、父が名人でした。戦後はやめちゃったんですが、小さいころ、よく（和紙の原料になる）ミツマタを粉々にするのを、よく手伝わされましたよ。</blockquote>

<blockquote>9歳のときが終戦でした。6月に沖縄が陥落して、次は吹上浜までのぼってくるだろうって、町じゅうで騒いで、みんな疎開したんですが、うちは家業のこともあって疎開しなかったんですね。それで父が、懐に鉈（ナタ）を忍ばせて、母は竹やりで、アメリカが上がってきたら、これでやるんだって。やれるわけがないのに。</blockquote>

<blockquote>よく父が言ってたんですけど、「もうすぐ（アメリカ軍が）上がってくるから、そのときはお前たちを殺して、みんな死ななきゃいかん。お前は薩摩の侍の息子じゃ、覚悟しとけ」って。夜、父と母に挟まれて川の字になって寝てるときに、真っ暗な中で、9歳の男の子が言われるんですよ。いまでも夜中に、ドキ、ドキってなって目が覚めることがあります。60年以上たってるのに。戦争の傷跡って、怖いですねぇ。</blockquote>

<p>戦争を無事に生き延びて、地元の吹上高校に進んだ玉利青年が夢中になったのは、演劇だった。生徒数1000人からという大所帯のなかで、1年から3年まで、すべて主役を果たす校内のスター状態。学園祭を見に来た両親も涙ぐむ迫真の演技だったそうだが、玉利青年には演劇ともうひとつ、両親に言えない憧れがあった。当時、日本中で大流行していたマンドリンである。</p>

<blockquote>楽器を弾きたい、という欲求が常にあって、それでマンドリンの、特に古賀政男に憧れましてね。でも両親には言わなかったんで、高校を卒業してから古賀政男に会いたい一心で、明治大学に進学したんですよ（古賀政男は明治大学でマンドリン倶楽部の創設メンバーだった）。両親は鹿児島で進学して、学校の先生になれって言ってたんですけどね。</blockquote>

<p>昭和30年に鹿児島から2昼夜かけて列車で上京。駒込病院でインターンをしていた従兄弟を頼って東京に落ちつくとともに、日比谷の時事通信社でアルバイトも始める。</p>

<blockquote>（昭和31年に）入学したその年に、古賀政男に会いに行きました。代々木上原の自宅まで。将来は作曲も、マンドリンもやりたいんです、って言ったら、そのときは時間がないけど、話は聞いてあげるからって言われて、そのあとしばらくしてから帝国ホテルに呼ばれたんです。</blockquote>

<blockquote>そこで、「僕はマンドリンをやりたいんです」って言ったんですが、ついでに「こんな詞も書いてるんです」って、『母ちゃんの海』という歌詞を見せたんですよ。カツオ漁船に乗って、枕崎を出て行ったまま帰ってこない船乗りをテーマにした曲なんですが、先生が「いいなぁ、これ」って言うから、なんとかしてくれるのかと思ったら、「マンドリンクラブね、あそこはいっぱい人がいて、楽器も持たせてくれないくらいだ。これだけ書けるんだから、君は詞を書きなさい」って言うんです。僕はそれを聞いて、がっかりしちゃったんですね。</blockquote>

<p>すでに大御所だった古賀政男に作詞の道をすすめられて「がっかりした」玉利青年も少々変わり者だったのかもしれないが、「マンドリンを弾きたかったのに、なんであそこで詞なんか見せちゃったんだろう」と落胆した彼は、それ以来、授業に出席する意欲をなくし、図書館に入り浸っては、哲学書を読みふける毎日を送るようになった。</p>

<p>それでもなんとか4年間で商学部商学科を卒業した玉利さんは、鹿児島に帰ることも考えるが、「それだけ勉強して、鹿児島なんか帰ってくることない！」と父に一喝され、東京で就職することになる。入ったのは東映の映画を台湾に輸出する会社だった。</p>

<blockquote>そこが映画でものすごく当てちゃって、僕も１年間、死にものぐるいで働いたんですが、会社が儲かりすぎちゃって、ゴルフ場まで作っちゃったんですよ。それで映画の仕事からゴルフに回されて、造成とキャディ管理。土方とキャディの世話じゃバカらしくなっちゃって、一緒にいた明治の先輩と独立して、会社を作ることにしたんです。27歳のときでした。彼が島根出身で、僕が鹿児島だから、鹿島通商と鹿島技研。建設とはなんの関係もないんですが。</blockquote>

<p>自動車関係の工作機械を扱う事業で、ふたりとも経験ゼロから始めた冒険だったが、高度成長の波に乗って、業務はおもしろいように拡大、儲かってたまらない状態だった。</p>

<blockquote>とにかく、こんなに儲けていいの、ってくらい儲けましたね。儲けすぎたんで栃木に土地を買って、工場を建てたんです。で、僕は働くの好きだから、社員が来る前に機械類を全部シンナーで清掃して、すぐに稼働できるようにしておく。従業員が嫌がる仕事なんで。それでもう、夜明けから起き出して、夜中までぶっ続けで仕事しては、ときには食事も忘れるくらい、ひとの２倍も３倍も働いて、そのまま工場のソファに寝泊まり。</blockquote>

<blockquote>もう社内結婚して、子供もいたんですが、月にいちどかそこらしか、家には帰らない。趣味もなんにもなくて、ただもう仕事だけ。長男は重度の障害を持って生まれてきて、５歳になってもしゃべれなかったんですが、それでも家のことは妻に任せっきり。それで当然だと思ってました。</blockquote>

<p>そんな仕事だけの生活が16年のあいだ、続いた。そうしてある日、過労とシンナーの吸い込みすぎで、呼吸器をやられ、家に帰り着いたとたんに昏倒。呼吸ができなくなって、「救急車を呼んでくれ」と妻に告げたまま、玄関先で倒れ込んでしまったのだ。</p>

<p>救急車で病院に運ばれて、即入院。医者の診断は心不全だった。あやうく一命をとりとめたが、玉利さんはもう助からないと思った会社のほうでは、本人が入院している最中に役員を解任。「そんだけがんばって、みんなに儲けさせてきたのにねえ」と落胆し、同時に目が覚めた玉利さんは会社人生から、きっぱり足を洗う覚悟を決める。昭和54（1980）年、玉利さんが43歳のときだった。</p>

<blockquote>病室で、妻に「もう会社には戻らないぞ」と言いましたら、どうかそうしてくださいと言われました。それでいろいろ考えましたが、いままでできなかった歌の道に行こうと思い、六本木にあった作詞教室に通うようになりました。ふと、思い出したんです。古賀政男に見せた、あの『母ちゃんの海』はどうしたっけって。</blockquote>

<blockquote>初級が６ヶ月に専科が６ヶ月、計１年間やりまして、それはいい勉強になりました。星野哲郎とか、中山大三郎とか、そういう大御所が教えてくれましてね。</blockquote>

<blockquote>その同じころですが、池袋の俳優プロダクションにも行きました。気休めみたいなもんですが、病気を忘れるためになにをしようと思ったら、中学高校の６年間、演劇やってたなと思い出して。時代劇にチョイ役でけっこう出たりしたんです。死人の役とかですが（笑）。でも鹿児島弁が抜けなくてね、１年ぐらいでやめちゃいました。</blockquote>

<p>「重度の障害をいただいてきた」と玉利さんが言う息子さんは、いま43歳になるのだが、その息子さんが、玉利さんが病床にあるとき、夢の中に出てきて、しゃべれないはずの言葉をしゃべったのだという。「お父さん、遊びに行こうよ。釣りに行こうよ。鹿児島に連れてって！」と。それに、もしかしたら引き戻されて生き返ったのかもしれないと思った玉利さんは、作詞教室を卒業したあと、日本作詞家協会の会員として事務局を手伝いながら、夢の中ではじめて言葉を話した息子とのことを歌った詞を書いて、新聞に投書したところ、思いもかけず大きな反響を得たのだった。</p>

<p>夢を見たんだ　父さんは<br />
おまえと　　おしゃべり　する夢だ<br />
愛するひとが　できたから<br />
結婚したいと　言ったっけ<br />
夢の中では　おしゃべりで<br />
おまえは　父さん　困らせた</p>

<p>夢を見たんだ　父さんは<br />
おまえと　旅行を　する夢だ<br />
北海道の　まんなかで<br />
おまえは　迷子に　なったっけ<br />
夢の中での　はしゃぎぶり<br />
おまえは　父さん　困らせた</p>

<p>夢と知っても　父さんは<br />
思わず　バンザイ　さけんだよ<br />
たとえば　それが　夢だって<br />
おまえと　おしゃべり　できたもの<br />
夢の中での　語らいに<br />
思わず　父さん　うれし泣き</p>

<p>同じころ、玉利さんにとってはもうひとり、転機となる人間との出会いがある。ちょうどその当時、新幹線建設に関わる反対運動の取材で、朝日新聞の記者が玉利さんを訪ねてきた（東北新幹線は１９８２年に大宮-盛岡間が開業）。話を重ねるうちに、こころうちとけた彼は、一冊の本を玉利さんに差し出す。『地獄のゴングが鳴った』と題されたその本は、冤罪事件として知られる「袴田事件」について、裁判の不当性を厳しく問う内容だった。</p>

<p>袴田事件は1966年、静岡県で発生した強盗殺人放火事件である。味噌製造会社の専務一家４人が殺害、自宅が放火された事件で、当時従業員だった元プロボクサーの袴田巌が強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕され、1980年に最高裁で死刑が確定した事件である（現在も弁護団が再審請求中、袴田巌はいまも70歳を越えて東京拘置所の獄中にある）。</p>

<p>『地獄のゴングが鳴った』の著者・高杉晋吾が、同じ埼玉の川越在住ということで、記者に連れて行かれて高杉氏に会った玉利さんは、袴田の無罪を確信、自分もなにかせねばという義憤に駆られ、『地獄のゴングが鳴った～～とらわれ人の唄』という詞を一気に書き上げる。</p>

<blockquote>高杉さんがね、私のことを作詞家と紹介されたもんで、出版パーティのためになにか歌ができないかと言うんですよ。それで、『とらわれ人の唄』を書きまして、大石日出男という静岡出身の、これも元プロボクサーの歌手が歌うことになりました。当時は鹿島時代のカネがあったもんですから、私が「チャンピオン」というレーベルを立ち上げまして。300万円はかかりましたねえ、当時で。それで3000枚シングル盤を作ったのが、私のプロ作詞家としてのスタートでしょうか。</blockquote>

<p>唄ってくれますか<br />
とらわれ人の唄<br />
薄暗い獄舎のすみで<br />
泣いてる男の歌を<br />
いつわりの　調べ書き<br />
おぼえなき　罪かなし<br />
なぐさめも　いたわりも<br />
欲しくは　ないけれど<br />
ただ　ただ真実を　見つめてくれる<br />
瞳が・・・瞳が　今は欲しい<br />
唄ってくれますか<br />
とらわれ人の唄を</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="toraware.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/toraware.jpg" width="240" height="243" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>それでボクシング会場での発会式で歌って、すごくたくさん人が来て、ボクシング界もものすごく協力してくれたんですが、そのすぐあとに、歌った大石さんが突然死しちゃったんです（1986年死亡、享年45歳）。</blockquote>

<p>1982年、46歳にして作詞家の道を歩みはじめた玉利さん。『とらわれ人の唄』に続く第2作は、地元埼玉を歌った『憧れの大宮／ハローさいたま』。作詞だけでなく、なんと歌も本人が担当した。</p>

<p>なみだ顔さえ　笑顔にかわる<br />
憧れの大宮　あなたと歩く<br />
いちど来たなら　トリコになるわ<br />
離れられない・・・<br />
何処か似ている　ふるさとの街</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="oomiya.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/oomiya.jpg" width="240" height="349" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>「当時のシンガーソングライターみたいに、詞も曲もつくって、歌う。そういうのがやりたかったんです」という玉利さん。大金を費やし、それまでとはまるでちがう道を、ゼロから突き進む彼を、奥さんは「そんなの、相談なんてひと言もありません、全部、事後承諾ですから。細かいことはひとつも言いません、この人はすごく大きな人ですから」と言いつつ、サポートしてきた</p>

<blockquote>この人（奥さん）はそのころ、すごく洒落た車に乗ってたんですよ。きらびやかな空色のカブトムシ、ワーゲンです。このへんで、そんな車に乗ってる人、いなかったですから。そのワーゲンの上にスピーカー乗っけて、車体にポスター貼って、埼玉中を走り回ってくれたんです。所沢球場まで行きましたよ。売れる、売れないじゃない、その心意気がうれしいじゃないですか。</blockquote>

<p>作詞家・歌手の玉利要＝合格として活動を始めつつ、玉利さんは1986年ごろから結婚式の司会業も手がけるようになった。</p>

<blockquote>司会者を派遣する会社があるって教えられて、赤羽にある会社に行きまして、３ヶ月ぐらいトレーニングしてから、先輩について行くようになって。それから忙しかったですねえ。新郎新婦のところに１ヶ月前には打ち合わせに行って、まちがえないようにして、それから当日に顔合わせすると、金一封もらえる。</blockquote>

<blockquote>なんだか、私にすごく向いてたんですねえ。どんどん指名が入ってくるようになって、日取りがありますから、忙しいときは朝10時と１時と４時、一日に３組もやる。いままで15、6年間で2000組は、結婚式の司会してますから。歌手活動と司会業は「合格」の名前でやることにしてるんですが、おめでたい感じもしますしね。</blockquote>

<blockquote>そのうち、仲人役まで頼まれるようになって。できちゃった結婚とか、あるでしょ。そういうときに仲人がいないと、僕が行くんですよ。うちの奥さんじゃなくて、（派遣会社の）社長の奥さんを、これが私の女房ですと言って、ふたりで仲人つとめるんです。おととし、作詞家生活25周年の会を浅草ビューホテルでやらせてもらったんですが、そのときにいきなり、頭を坊主にしちゃいまして、それからは坊主頭で司会もできないだろうってことで、やってませんが。</blockquote>

<p>自分の歌、他のプロ歌手のための歌、ときには平沢勝栄のような政治家や、ミッキー安川といった芸能人のための歌まで手がけてきた玉利さん。いまは、ときの政治を憂い、厳しく糾すメッセージを書きつけた厚紙のボードをからだにかけて、国会議事堂前などでメッセージをアピールしたり、毎年8月15日には硫黄島で戦死した兄の繁さんを供養するライブを、千鳥ヶ淵で行ったりするかたわら、ブログで頻繁に情報発信。さらには「合格さんの歌をナマで聴きたい」というファンのために、『ボランティア宅配便』なる活動を始めている。本人のブログにある紹介によれば、</p>

<p>ボランティア　「合格の独りミュージカル｣宅配便が喜ばれている。<br />
坊主頭になる前は結婚式の司会　２０００組を担当した。<br />
だから今でも　いろんな人から　「会いたい」　と言って来る。<br />
中学生になる子供の「いじめ」の相談が多い。最近「合格の独りミュージカル」を自宅で父母共々聞きたいので、来て欲しいと言う依頼も多い。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09s2.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09s2.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>万葉集　「防人」　をベースにした　「合格の独りミュージカル」は関東から九州に向かう少年防人を送り出す詩だから、すすり泣きが聞こえる。親子の情愛の深さが身にしみるのだ。それから新曲の「いじめSTOP」と進み、最期は明るく「長生きONDO」でトリとする。<br />
２０分２０秒の出演時間。あとは万葉集の詩から幾つか...で幕！</p>

<p>この「独りミュージカル」をもって、合格さんはどこへでも行く。集会場にも行くし、個人のお宅にも、依頼があれば喜んで行く。「歌詞を１番だけ８曲歌えば20分間、２番までなら４０分、３番まで歌えば６０分と思ってください」と、システムも明快だ。</p>

<p>「私はね、百歳まで生きなきゃならないんですよ。障害をいただいた長男が寂しい思いをしないように、世話しなきゃならないから」という玉利さん。元気の秘訣は「朝晩２回、自分流の振りを入れて、『長生き音頭』をやる、それがすごくいいんです」。もともと薩摩男だから、焼酎を薄めないで飲んできた。「お祖父ちゃんも、80歳まで焼酎をお茶がわりにしてましたから」という酒飲みの家系だったが、最近は極力控えて、長寿をこころがけているそうだ。</p>

<p>「合格」さんとしてパフォーマンスする73歳。いでたちはちょっと異様だし、歌はうまくない。レッスンして、うまくなろうという気もない。そして歌いつづけ、ＣＤを出しつづける本人に迷いはない。その純粋でポジティブな姿勢が、まわりを明るく照らす。</p>

<p>音楽というものは、ときにこんな魔法を使ったりもするのだ。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09s5.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09s5.jpg" width="240" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>ブログ：合格のつれづれ日記　http://samplebiog.blog.so-net.ne.jp/</p>

<p><br />
●合格　ＣＤディスコグラフィー</p>

<p>1991　神さま仏さま／栄光への道</p>

<p>1992　エイズ予防SONG／神さま仏さま</p>

<p>2001　帰ってきたらじお流し</p>

<p>アルバム　『桜島　噴歌橋』</p>

<p>知覧（特攻の町・哀悼の町）／ハローさいたま</p>

<p>2003　大西郷／或る男の詩</p>

<p>2003　徒然ナカ（薩摩女の涙）／ピエロの涙</p>

<p>2005　アルバム　『硫黄島・さつま路哀愁』</p>

<p>2007　いじめSTOPいじめは犯罪です／長生きONDO</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09s3.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09s3.jpg" width="240" height="157" class="mt-image-none" style="" /></span></p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/09/post-9.html</link>
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            <pubDate>Wed, 30 Sep 2009 11:52:56 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>あずさ愛</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="09ll.JPG" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09ll.JPG" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>あの人は車をとめた<br />
私は笑ってみせた<br />
あの人はくちびる求め<br />
私は黙ってうけた<br />
いいのねこのまま別れても<br />
自分の心に聞いてみた<br />
あの人はため息ついた<br />
私は黙って泣いた<br />
幸せばかりが飛んでゆく<br />
二人のドラマは終わったの<br />
あの人はあしたへ向かう<br />
私はきのうへもどる</p>

<p>『思い出』あずさ愛（作詞　岩城健治）</p>

<p><br />
渡されたシングルＣＤは、久しぶりに見る縦長サイズのパッケージに、ノートパソコンには入らない８センチ・サイズの盤だった。めんどくさいなー、と思いながらプレイヤーにＣＤをセットして、「あの人は～～」と最初のフレーズが流れたとたん、思わず座りなおす。桂銀淑（ケイ・ウンスク）ばりのハスキー・ヴォイスと、全盛期の弘田三枝子を思わせるグルーヴ。素直な、というか引っかかりのない、カラオケで歌いやすい曲ばかりを聴かされる最近の演歌界にあって、久しぶりにザラリとした声のエネルギーに出会った気がした。こういう歌手が、こういう曲が、どうして話題にもならず、埋もれているのだろう。</p>

<p>あずさ愛さんは、秋田県秋田市生まれ。いまも秋田と東京を行き来しながら、地道な活動を続ける歌手である。<br />
会社員の家に生まれ、「父がよく歌ってた青江三奈の『池袋の夜』と、みんなが集まれば歌う秋田音頭みたいな民謡、そういうのを聴きながら」育ちましたというあずささんは、しかし子供のころは人前で歌うなんて、とても考えられないという、人見知りの激しい少女だった。</p>

<blockquote>中学生になったころ、物真似が得意になって、「だれだれが歌ってるの、ちょっと歌ってくれない」って、言われるようになったんです。藤圭子さん、ピンキーとキラーズ、男性だと西城秀樹とか郷ひろみとか。声に特徴ある人が、物真似しやすいんで・・・。えぇ、そのころから、オトナの声でした。当時はわからなかったんですけど、声帯にポリープがあったんです。それが５年くらい前に、もう手術しないとダメだということになって、いざ取ってみたら、声が澄むようになっちゃったんですが（笑）。</blockquote>

<p>歌は好きだけど人見知り。クラブ活動も部員が３人しかいない器械体操を選んで、平均台や鉄棒にひとりで取り組んでいるのが好きだったという中学生。そんな静かな生活が一変したのが、高校に入ってまもなくのこと。物真似が得意なのを知っていた友達が、勝手に『スター誕生』に応募してしまったのだった。</p>

<blockquote>秋田の予選会だけで、七百何十人も集まって。それで第１回の審査で50名選ばれるんですが、その中に入ったときは「えぇー、入ったぁ！」という感じで。その50名からさらに２週間分、14名残されたんですね。それに残ったんです。</blockquote>

<blockquote>そのとき、点数が割れたんですね。割れたら終わり、と思っていたら、コロムビアから引っ張られちゃった。歌いませんかということで、あのときなんていう先生だったかなぁ、有名な先生なんですけど、ピアノでレッスンされたんです。それで私が歌ったときに、ほかの生徒さんたちに向かって、「なんで、この人のように声が出ないんですか」って言われて。「あなたは、もうレッスンはいい」って言われたのが、記憶にあります。</blockquote>

<p>七百何十人からそこまで行って、本人も驚いたし、まわりも驚いた。とんとん拍子で話が進み、デビューに向かって歯車が動き出したころ、しかしあずささんの中ではどうしようもない違和感がふくらんでいた。</p>

<blockquote>実は桜田淳子が秋田出身なんですが、ああいうふうにすぐにテレビに出て「クッククック～」なんてできるって、簡単に考えてたんです。それが、始まってみたら、秋田や青森の、デパートの屋上とかで歌わされる。マネージャーも司会者も舞台の裏方さんもみんなおじさんだし。お客さんだって、ちょうど夏休みだと高校生や中学生とかが、ソフトクリーム舐めながら、だらだら見てるだけ。なんなの私、なにやってるの、バカみたいだって。夢に描いていたのとぜんぜんちがうって。テレビに出て、西城秀樹とか郷ひろみとかと同じになれると思ってたら、ぜんぜんそうじゃない。それで、いきなり歌うのやめちゃった。</blockquote>

<p>もうデビュー曲の用意も進み、何人もの人間がそのために動いている、そのときになって、「ここまで来て、やめるなんて言えないよ！」と周囲からは諫められたが、「これから一生、歌は歌わないから、もうやめる」と、決意は変わらなかった。デビューのときは反対しなかった両親でさえ、「勝手にやる、勝手にやめる、そんな簡単な問題じゃない！」と怒ったが、それでも意志を貫いた。<br />
そんなふうに（営業して）歩くのも、レッスンのうちだったんですね。でも、当時の私には意味がわからなかったし、「クッククック」のようにテレビに出られないことが、もう私は終わりだ、ちがう方向に流された、と思っちゃったんですねぇ。<br />
そんな挫折を経験した少女を、しかしまわりは放っておかなかった。どんなにすすめられても、二度と歌うまいと思っていたのが、１年ぐらいたったころ、イベントに誘われて、つい舞台に立ってしまう。</p>

<blockquote>それがね、秋田の県立体育館で大きなイベントがあったんです。そのときに、じゃあ大きなところだし、歌ってもいいかという感じで、軽い気持ちで歌ったんです。そしたら、うちにも来てもらえねぇか、こっちにも来てもらえねぇかと言われるようになって、じゃあ歌おうかという感じで歌ってたんです。そしたら、あるときロスプリモスの村上さんという方（村上章・現在秋田在住）が私の歌を聴いて、「いやぁ、いいなぁ、歌わない？」って言われて、『貴方の想い出』と『海猫の宿』という曲を作っていただいて、歌ったんですよ。もう、『スタ誕』から10年以上たってましたが。そしたら、また、ちょっと評判になって、それでも忙しく他県に動き回るのがイヤだった。イヤですもんねぇ。</blockquote>

<blockquote>秋田弁で言うと「ひやみこぐ」って言うの。わかりますか。標準語で言うとね、怠け者という意味なの。あんまり忙しく回りたくない、他県を回りたくない、でもちょっと歌を頼まれたら、市内の近くとか、そこらへんならいいかなと思って、やってたんです。だから村上さんが「山形のほうに仕事入ってますけど、行きませんか」と言うと、やっだなぁ。秋田県内でもちょっと遠かったり、大館？　やっだなぁ・・・秋田市からすぐなのに（笑）。だからカセットテープができて、すぐに売り切れたんですけど、また作ろうとも思わなかった。売り上げ、全部飲んじゃったし（笑）。別にがんばって歌わなくてもいいや、と思ってましたから。</blockquote>

<blockquote>そうやってるうちに、また「歌わないか」っていうのが来たんですね。こんどは、「あなたの声だったら、男唄のが合う」って。男性の歌なんか、私こんなに女性っぽいんだから、合わないなぁと思ったんですけど、男性の歌でオリエントさんから出すことになって、歌わせていただきました。『北岬』って、男鹿半島で男性が振られる歌を。振られた本人が私ということで、男性になったつもりで歌わなくちゃいけない。でも、好きじゃないんですね。詞も好きじゃない、曲も好きじゃない、イメージも好きじゃない、ど演歌。とてもじゃないけど、どうしても好きになれないのね。</blockquote>

<p>歌と自分が合わない、その思いを伝えにレコード会社に足を運び、社長さんと話をしていたとき、じゃあどういう歌がいいのかと聞かれて、「桂銀淑が歌うようなの、ああいう歌があればね」と言ったときに、「すっとそんな感じの曲がかかったんです、それが『思い出』でした」。<br />
それは韓国人歌手が歌うように、すでにレコード会社のほうで用意されていた楽曲だったが、その歌手が歌うことなく帰国してしまったために、宙に浮いていた状態だった。「ちょっと聴いただけで、あぁ、これだと思ったんです」という一曲が、"ひやみこぐ"だった彼女を変えた。</p>

<blockquote>自分の声が出るかぎり、歌っていきたいなと思わせてくれた曲でね。歌に欲を出すことができたということかな。全国を歩きたいとか、それまで思わなかったんですけど、この『思い出』は、みなさんの歌にしていただいて、歌っていただきたいと思いました。</blockquote>

<blockquote>とても大好きな男性と、一生いっしょにいたいという気持ちがあるんですけど、男性には新しい女性ができちゃうのね。女性ができて、あぁ、お前なんか嫌いだって、バーンと喧嘩して別れるんじゃなくて、ふとキスをしてみたり、好きだよって言われたり。そんなこと言われて泣いちゃうんですけど、男性はやはり去って行く。でもあなたの思い出だけで、私、一生いきてゆきますと、そういう感じの詞なんです。</blockquote>

<p>スナックや健康ランドより、ホテルのラウンジが似合いそうな、オトナの恋唄。いろんなひとに聴いてもらいたいと、それまで億劫だった営業に積極的に歩くようになった。なかでも効果的だったのが、長距離フェリーのラウンジでの歌謡ライブだった。新日本フェリーの大型船の、船内の様子をテレビ番組で見た当時のマネージャーが、「１回断られても、10回は噛みつくんじゃないかな（笑）」という粘りで大阪本社に掛け合い、試験的にいちどやってみたところ、大好評。それからは札幌―舞鶴、敦賀―苫小牧の２路線で、数百名の乗客のために歌うキャンペーンが始まった。</p>

<blockquote>１週間から、長いときは10日間ぐらいやるんですけど、あるとき乗務員で京都にお住まいの方が、ＣＤを買ってくれたんですね。それで、そのＣＤを（大阪）北新地のママさんにあげたんですって。そしたらホステスさんたちが気に入ってくれたみたいで、レコード会社のほうから「なぜか大阪で『思い出』売れてるよ！」って電話が来たりして。こころを病んでる女性には、とくに響くらしいです。うれしかったですねえ。</blockquote>

<p>いちどだけだったはずが、毎年ゴールデンウィークの恒例となって、今年で７年目。「売れたから、もうやめた、じゃなくて、ずーっとやってください」とフェリー会社に言われるまでになった。ふつうの営業だと交通費や滞在費など経費も問題になってくるけれど、「自分で動かなくても、黙って船に乗ってて、お客さんが出入りしてくださいますし、部屋も食事も用意してもらえますし、自分が走って歩かなくていいでしょ（笑）」という、考えてみれば最高の環境で、あずささんはいまも歌いつづけている。ほかに、そのフェリーで歌う機会を与えられた歌手はいない。あずさ愛の、ひとり舞台だ。そうして、その歌のおかげで、あこがれだった作詞家の三佳令二さんと出会うこともできた。</p>

<blockquote>私、『思い出』で取材を受けたときに、「一生にいちどでいいから、桂銀淑の歌を作ってらっしゃる先生の歌を歌えたら、もう歌をやめていいくらいです！」という話を、よくしてたんです。そしたら、ＣＤをお渡しすることができて、それからキャンペーンやディナーショーに来ていただいて、弘田三枝子の『人形の家』や、越路吹雪の『ラストダンスは私に』を歌ったのを、すごく気に入っていただけて。そのころ、三佳先生はハスキーな声の歌手を探していらっしゃったらしくて、私がお耳にかなったということなんですね。</blockquote>

<p>もともと敏腕ディレクターとして越路吹雪、加山雄三、水原弘、そしてなによりも八代亜紀を育て、作詞家としても『釜山港へ帰れ』、『大田ブルース』など、韓国作品の訳詞を手がけ、韓国歌謡ブームのきっかけを生んだ、歌謡界の大御所・三佳令二氏。この３月10日（2009年）、原発不明ガンにより死去したばかりである。享年80だった。</p>

<blockquote>先生の昔を知る人たちにお話を聞くと、ものすごく怖い方だったらしいんですが、私にはすごく優しい先生でした。怒られたこと、ないかもしれないぐらい。先生と出会って、ちょっとして声帯ポリープを取っちゃって、ハスキーだったのが澄んだ声になっちゃったんですけど（笑）、それでも気に入ってもらえて、けっきょく最後の弟子ということになりました。</blockquote>

<p>2005年に出会い、翌年、三佳令二・作曲作詞で『冗談じゃないよ／心の旅路』を発表する。２年後である2008年には、第2弾の『お酒なら／愛の未来』を発売した。</p>

<blockquote>先生からは、「この『お酒なら』で勝負に行くから、びっちり東京にいなさい、ＮＨＫのテレビ番組とかも決めて、やるぞっていうときに、突然に亡くなってしまって。計画狂っちゃいましたが、先生も悔しかったと思います。だって2月27日にお酒をごいっしょして、3月に入って、入院したと思ったら5日間で・・・。だから『お酒なら』が、先生の遺作なんです。</blockquote>

<p>「あずさみたいな子って、見たことない。ウブだから、人に騙されちゃうんだよな」と生前、三佳さんによく、あずささんは言われたという。「小学生・中学生そのまんまの感覚なんです。いくらお金とかで騙されても、人を恨まないんですから」と、マネージャーさんも太鼓判を押す、ピュアな性格と生きざま。そのせいで、いままでずいぶん苦労もしてきた。<br />
『スタ誕』からのデビューを取りやめたころ、あずささんはいちど結婚を経験している。としは20歳、相手の男性は22歳の「ままごとみたい、って言われる夫婦」だった。</p>

<blockquote>デビューをやめて、でもまた歌ってくれないかと言われていた時期だったんですが、彼は私が歌うことに反対でした。私がひとに注目される・・・のがイヤだったし、専業主婦になってほしかったんでしょう。</blockquote>

<blockquote>でも、私は歌えないことがイヤだったわけじゃないんです。主婦業も好きだったんですけど・・・男のひとって、私の歌みたいに、他に女のひとつくっちゃって、ということあるでしょ。家にいて、夜、ちょっとタバコ買ってくるって出て行って、そのまま朝まで帰ってこない。朝になって、鼻歌うたって帰ってくる。浮気されてるのはわかってるんだけど、帰ってきてくれてありがとうって思っちゃう。</blockquote>

<blockquote>でも男のひとって、追えば追うほどね・・・逃げちゃうんだよね。女といっしょにいなくなって、蒸発しちゃったり。それで会社の社長やってて、従業員もいたのに、いちど会社潰したりして。戻ってくると、また会社つくって。女も、いっしょに蒸発したのとは別れて、別の女とできちゃって、という繰り返しで、最後には子供までできちゃって。それでとうとう、これは自分が身を引くべきだと思って、きっぱり別れました。</blockquote>

<blockquote>だから別れたときはいつも泣いてました。毎日泣いてました。「別れちゃった」と話すとバーっと泣いちゃうんで、友達にも話せなかったです。１年以上たってから、「実は別れちゃったんだ」と、理由も話せるようになりました。それくらい未練たらたらで、泣くだけ泣いて...とにかく１年は寂しくって悲しくって。夢にも見ましたから、勝手に夢に入ってくるなって。でも、それですっかり晴れたら、もうなんともなくなりました。</blockquote>

<p>あずささんが30歳をちょっと過ぎたころ、そんなつらい別れがあって、同じころに秋田に『やすらぎ』と名づけた店を開いている。最初は「いままでちゃんと仕事に就いたことなかったけど、料理は好きだったから」、料理の充実したパブを開いて、店に立っていたが、『北岬』で再デビューしてからは昼のカラオケ、夜のスナックと、別々のママに店を任せるようになって、あずささん本人は歌に本腰を入れる日々になった。</p>

<p>「そんなことがあったから、『思い出』みたいな歌に入り込めるんでしょうね」と話してくれたあずささん。いまでも秋田にいるときは、気が向けば自分の店でマイクを握ることがある。「若いころはビールだったらワンケースは飲んでました。いまでは10本ぐらいですけど。仲間と飲むんですけど、そうなったら潰れるまで飲む。で、最後には頭がテーブルにつくまでに、もうイビキかいてますから！」という酒豪ぶりも、いまだ健在だ。<br />
優しくて、純粋で、姉御肌で、そうして声は最高にエネルギッシュで。いま、その歌声をＣＤからじゃなく、ナマでお届けできないのが、残念でならない。</p>

<p><img class="mt-image-none" height="361" alt="09s.JPG" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/09s.JPG" width="240" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p></p>
<p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="DISPLAY: inline">&nbsp;</span></p>

<p>撮影協力：三ノ輪スナック・マツエ</p>

<p><br />
<blockquote>●イベント情報</blockquote></p>

<p>第４回　日韓交流福祉慈善歌謡祭　2009　in　秋田<br />
会場　秋田市文化会館<br />
日程　2009年11月23日（月・祝）</p>

<p>あずさ愛さんをはじめ、多数の歌手が出演されるイベントです。<br />
詳細は会場に直接お問い合わせください。<br />
秋田市山王七丁目3-1<br />
TEL　018-865-1191</p>

<blockquote>●「パブやすらぎ」について</blockquote>

<p>あずさ愛さんがオーナーの「パブやすらぎ」は、秋田市内で営業中です。<br />
秋田市南通築地4-13<br />
TEL　018-832-7721</p>

<p>あずささんがお店に入るのは不定期です。事前にお電話でお問い合わせください。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/09/post-8.html</link>
            <guid>http://webheibon.jp/enka/2009/09/post-8.html</guid>
            
            
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            <pubDate>Tue, 15 Sep 2009 00:00:00 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>春風うらら</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="08l-2.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/08l-2.jpg" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p><br />
大阪府と県境を接する、奈良盆地の小さな町。川沿いの桜並木が、春ともなれば川面を一面のピンクにかえる穏やかな環境で、春風うららさんは平成元年から暮らしている。<br />
生まれも育ちも大阪ミナミ。大阪寿司屋の娘に生まれて、なに不自由ない少女時代を送ったが、なにより歌が好きで、親に隠れてレッスンに通ううち、地元のグランドキャバレーで歌うように。当然ながら猛反対だった実家を飛び出し、大阪のプロダクションに所属。スーツケースに衣裳と譜面を詰めて、営業やキャンペーンに走り回る生活が始まった。<br />
昭和55（1980）年には『おてんば旅からす』でレコード・デビュー。ちょうどそのころ、松竹の舞台でやっていた、チャンバラ・コントの代役を務めたのがきっかけで、松竹芸能に属することになり、花月などの劇場で仕事するには「歌だけでなく、なにかプラスアルファを」と考えて、浪曲を参考に「ものがたり演歌」なるスタイルを編み出した。<br />
歌謡浪曲というのはそれまでもあったけれど、浪曲の部分を歌に替えて、台詞と歌をあわせた独自のパフォーマンスを、試行錯誤しながら作っていった。1曲の長さが15分から18分あまり。最初は『無法松の一生』や『岸壁の母』など、よく知られた題材をもとにしていたが、しだいにオリジナルの楽曲を増やしていく。<br />
昭和58（1983）年にものがたり演歌の第一弾『王将みだれ駒』をカセットで全国発売したのを皮切りに、『梅川忠兵衛』、『花の牛若』、『虹の橋』など、じっくり時間をかけてレパートリーを増やしてきた。</p>

<p><br />
「 ものがたり演歌 」 そんな言葉が今や、東に西に広がっています<br />
 ものがたり演歌 」 とは歌謡浪曲では有りません。物語を演歌で綴ったもの。<br />
私はこの様に説明してます。演歌と演歌の間にセリフが入っていますがその人物は<br />
声色では演じておりません。あくまでも、その物語のム−ド作りを主に考えています<br />
厚みの有る音が会場を圧倒し照明の数々、ドライアイスが舞台を包み観客を魅了する。<br />
魅せて、聞かせて、感動を呼ぶ！　そんな舞台を演じているのが、「ものがたり演歌」の春風うららです。ご期待ください。</p>

<p><br />
春風さんの公式ウェブサイトには、こんな説明が載っている。「歌だけ歌ってるんなら、若くて、いい着物着てればいいけど、歳とったらそうはいかないでしょ。浪曲だったら70，80代の人がたくさんいてはるし、そういう歳になってもできるものが、やりたいんです」という彼女は、ものがたり演歌の世界に賭けて、もう25年を超えた。<br />
もういまさら、カラオケでふつうに歌えるような曲には興味ありません、と言い切る春風うららさん。その真価は、舞台でこそ発揮される。公式サイトではその、年齢をまったく感じさせないエネルギッシュなパフォーマンスを動画で体験できるので、ぜひアクセスしてみていただきたい。<br />
<a href="http://www.alpha-net.ne.jp/users2/urara12/">http://www.alpha-net.ne.jp/users2/urara12/</a></p>

<p>春風うららさんは、かつて難波新地と呼ばれた、大阪一の繁華街に生まれた。実家は大阪寿司の店だった。</p>

<blockquote>わたしはね、生まれも育ちも難波なんです。商売人の娘ですね。だから歌をやることに関しては、賛成やなかった。というより、はっきり反対でしたね。そんなことさすの、嫌だったと思いますけどね。まあ、反対押し切ってやったもんで、自分独りでやってきましたね。
小さいころから、歌は好きでした。ちょうど、美空ひばりさんの曲がなんかがテレビやラジオでよく流れてましたね。私が稽古したのは、『あんこ椿は恋の花』のころの都はるみさんとかね。</blockquote>

<p>歌がなにより好きだった少女は、お小遣いを貯めては親に秘密で歌のレッスンに通うようになっていた。</p>

<blockquote>中学校２年のころからですか、基礎からきっちり、個人レッスンを受けるようになったんです。ちょうどね、歌謡学校が難波にあったんですよ。そこは先生がひとりずつ時間を決めて、個人レッスンやってるところで。学校の帰りに行ってたから、親は知らないと思いますよ。ぜんぜん言ってなかったですから。</blockquote>

<p>最初はただ、ただ歌いたいなあ、うまくなりたいなあ、という単純な動機でレッスンに通い始めたのが、2，3年たつころになると、なんとか歌の道で生きていきたいなぁと考えるようになった。春風さんが、高校を卒業するころだった。</p>

<blockquote>ほんとに趣味で行ってたんですけど、だんだんやっぱり、今度は人前で歌いたくなって。あの時代は、私が１８のころですが、もう水商売、キャバレーと言うんですか、あういうのが全盛だったですね。難波や千日前に、マンモスキャバレーがばんばんあって。近所には富士という大きなキャバレーがあったんですよ。スイングバンドで２０人近くのとタンゴバンド、バイオリンとかあんなのが入ったバンドと、バンドさんがふたつあって、時間交代でやってたんですが、たまたまスイングバンドで歌ってらっしゃる専属歌手の方を知ってたんで、バンドさんに紹介していただいてね。半年ぐらいかな、お手伝いしながら歌わせてもらったんです。
バンドさんの演奏レパートリーがありますね、それの知ってるのを歌わせていただいて、半年間くらいやってたらね、キャバレー富士から専属歌手の募集があったんですよ。出てみないかと言われたら、30人のうちで２人か３人しか採らないんですよね。一回出てみたらと言われて、そのときは私服で歌ったんですが、通っちゃったんです。</blockquote>

<p>そのとき歌った曲は、西田佐知子の『東京ブルース』だった。</p>

<blockquote>家の近所でしたから、キャバレー富士に出たときに（家に）ばれちゃって。もう反対されて反対されて、とりあえず私も独りでやっていく、親はいっさい関知しない、やりたかったら勝手にやれということで、家を出たんですよ。それで独りで生活しはじめることになりました。ちょうど、父親がそのころ病気で亡くなりましてね。それで母親は、なおさら反対で。それでまあ、家出まして、そこから歌の生活が始まりましたね。そのころは、やめと言われたら死ねと言われるのと同じくらいに、歌に入り込んでましたね。</blockquote>

<blockquote>それでキャバレー富士で何ヶ月か専属で歌ったあと、大阪のプロダクションに入って、大阪を中心に全国のキャバレーをショーで回るようになりました。もう、休みが無いくらい、北海道から九州からね、ずっと回りました。ひとりでね、譜面持って衣装持って、夜行列車に乗って、行き先と旅館の名前と、店の名前を書いた紙と切符もらって、それでずぅーっと行ってましたわ、重たい荷物下げて。</blockquote>

<blockquote>だいたい１ステージ５曲歌うでしょ。持ってるのは１０曲くらい。でも（楽器ごとに）パートがちがうんですからね、ナインピースだったら９０枚の譜面を持って歩くんです。それで衣装はツー・ポーズでしょ（舞台のあいだに衣装替えすること）。それで着物、着てますからねぇ。振り袖着てましたから、それだけの着物持って。そんなんで何年ぐらい回ったかな......やっぱり７・８年はやりましたね。</blockquote>

<blockquote>譜面作るのに、あのころで１曲１万円ぐらいするんです、フルメンバー分で。ほんでそれを10曲作ってもらって、そいで今度は衣装が要りますやろ。そんなん全部プロダクションで出してくれませんから、もちろん借金ですよ。ほんとに仕事たくさんありましたから、とりあえず１年で借金返しましたけど。</blockquote>

<p>18歳で歌いはじめ、キャバレーを回る生活がそろそろ10年目になろうとする27歳のころ、レコード・デビューの話が持ち上がった。それが初めてのレコードになる『おてんば旅がらす』だった（トリオ・レコード）。</p>

<blockquote>ある日、東京のプロダクションから電話がかかって来ましてね、「こういう曲があるんだけど、歌ってみませんか」って。それで一回やってみようかなと思って、『おてんば旅がらす』と『うら町ぐらし』の２曲で出したんです。</blockquote>

<blockquote>ほんで『おてんば旅がらす』という歌は、どっちか言うたらテンポの速いエイトビートの利いた演歌だったんですね。だから着物じゃなくて、髪の毛もアフロの感じの（かつら）をかぶって、衣装もパンツルックで、ブーツ履いて、そんな格好でした。それまではずっと着物だったんですけど。
レコード出してからは、今度は（キャバレーの）営業じゃなくて、キャンペーン。それはもう、夜の8時くらいから夜中の２時、3時までね、ずぅっと何軒も何軒もキャンペーンに行って。
レコードはもちろん、はけますけどもねぇ。そんで有線に挨拶に行って、有線に流してもらっても、なかなか売れるものとちがいます。</blockquote>

<blockquote>ほんで今度は生活していかなければなりませんでしょ。キャンペーンしてたら生活費がぜんぜん入ってこないから、ほなら続かなくなってきます。これだったらあかんから、営業もやっていかなあかんということで、また同じキャバレーで回ってたら、ギャランティの問題になってきてね。やっぱり値段も安いし。同じ大阪でやるんやったら、やっぱりどっか劇場形式の所に出たいなあという希望がありまして。そいで「ものがたり演歌」というのを作って、こんどは松竹に入ったんですよ。</blockquote>

<p>キャバレーやスナックから、舞台へ。それは若い歌手にとって、大きな転換点になった。</p>

<blockquote>松竹芸能に入ったきっかけは、もう亡くなってしまったんですが、東映やあっちこっちの殺陣をやってた先生が知り合いにおりまして。その方が、女の子ひとりと、男の子ふたりか３人が殺陣でぱっと絡んでという、２０分ぐらいのコント形式みたいなのを、やってはったんですね。
それをやってはった、芯になる女の子が辞めちゃったんですよ。で、急遽私のほうに来たんです、「悪いけど助けてもらえへんか」ということで。ちょうど２８ぐらいだったかな。舞台が道頓堀の角座であって、新世界の新花月であって、神戸の松竹座であって、ちょうど１ヶ月回ったんです。いやぁ、同じ出るんだったら、こういうのに出たいなあと。でも劇場に出るんだったら、歌だけでは無理なんです。やっぱり色物の寄席の劇場でしょ。けど、浪曲の人だったら出れるわけです。
かといって、ちょっとやそっとで浪曲はできないし、そいでまぁ考えて。どんなんいいんかなぁ、どいうのがえいのかなぁって。</blockquote>

<blockquote>そのころ、天津羽衣さんとか双葉百合子さんなんかが、歌謡浪曲というのをやってはりましたわね。『お吉物語』とかね。あ、こういうので浪曲の部分を、演歌にすればいいんだと。で、台詞があって、浪曲の部分を歌にこしらえてみたらということで、『無法松の一生』とか『岸壁の母』とか、そういうものを題材にだいたい１３分か１５分くらいまでにおさめて。ほんでBGMをあっちこっちで探して来てはね、歌の流れをBGMに合わせるようにと作って。それをひとつテープに作ってもらって、松竹に持っていったんです、こういうのをやりたいんですけどと言うて。
それ聞いてて、「おもしろいやないか、それやったら劇場にも通用するな」ということで、初めてひとりで、「ものがたり演歌」として新世界の新花月の舞台に上がったんです。それがきっかけなんです。</blockquote>

<p>春風さんに浪曲の素養があったわけではないが、キャバレー回りの時代に、三波春夫の『俵星玄蕃』や木村友衛（『浪花節だよ人生は』）の『花の牛若』とかを聞いて覚えていたのが、ずいぶん役に立った。<br />
劇場の舞台での、持ち時間は20分ぐらい。まずは１曲か２曲歌って、それから１５分ぐらいにまとめたものがたり演歌。そんな構成で１年ぐらい舞台経験を積むうちに、最初のオリジナル『王将みだれ駒』が完成した。</p>

<blockquote>「ものがたり」と平仮名で書くのにこだわったんですけど、それは浪曲とはぜんぜん中味がちがうんですよ、というのをはっきりさせたかったんですね。
浪曲の世界というのは、これまた非常に上下関係の厳しいところで。だから浪曲の、だれだれさんの流れじゃないんです、とわかってもらわないと。それで、だれもやってないことだから、新世界の花月に出されたんです。
あそこはとにかく、いちばんペーペーが出てくる劇場なんですね。漫才でもそこで２年くらいやって、それでよかったのをピックアップして神戸松竹に送ったり，角座に出したりするんですから。そこで３ヶ月目に、私が大トリになっちゃったんです。</blockquote>

<blockquote>新世界というたら下町ですから、どっちかと言うと労働のおっちゃんばっかりやからね、口コミが凄いんですよ。それでお客さんがわーと入ってくるんですよ。だから若手の漫才の子らは、出るのがイヤ。ヤジが飛ぶからね。「早よ止め」とか、「ええかげんえぇぞう」とかね。私も初めてだから、心配ですわね、なんか言われるとちがうかなぁとか思って出たら、ワーっと受けたんです。
もうあの、新世界のあの舞台に上がったら、あとはほんとうに、どの舞台でも上がれますね。だってもうね、鉢巻きして、ニッカボッカ履いて酒の一升瓶とかワンカップ持って、入ってきはるようなお客さんばっかりですからね。女の人なんて、いない。おっちゃんばかりですよ。だからよっぽど性根入れてやらないとね。</blockquote>

<blockquote>よく言われたのは、あのころの看板さんだと、ミスハワイさんとかね。もちろんオオトリで、たまに出はるんです。そやからいうて、あの方が出たからというてね、お客さんは入らない。あそこは特殊なところなんですよ。だから、喜んでいいいのかわからないけど、新花月だけは、うららちゃんにかなわんなあ、まかしとかなしゃあないなあ、て言われるくらいでね。新世界の中では人気がありました。</blockquote>

<blockquote>中ではね、酔っぱらってぐじゅぐじゅ言うてたら「静かにせい！」とか、言うてくれますもん、お客さんが。そんなの、前の漫才師さんがやってるときと、お客さんの態度がぜんぜんちがうから。おしまいには、うしろから雪駄持って、頭バシーンとどついたりね。で、どつかれて、うしろ見たら暗いでしょ。知らん顔してるから、だれがやったかわからへんで。そんなすごい劇場でしたわ。
ものがたり演歌に入ったら、絶対に途中でやめることできませんからね。その前に３曲ぐらい、歌をやるんですが。その時に（舞台の）前で喧嘩したり。だから私が歌の途中で仲裁に入って、「おっちゃん、頼むからもう止めといて」とか言いながら歌って。「頼むから喧嘩せんで聞いてね」とか言ってね。そうかと思ったら。「うらら、ええぞ！」って、バンと一升瓶舞台に置いてくれたり。差し入れですわ。バラ銭ばあーっとばらまいたり。祝儀くれはるんですよ。あんなとこのおっちゃん、1000円ちゅうたら大変なんですよ。それをね、1000円、2000円とくれはるんです。よそに、そんな雰囲気のとこありませんもの。そんな劇場に、10年から出てたんですからねえ。</blockquote>

<p>そんなふうに舞台になじんでいった春風さん。新世界での人気を受けて、ぐっとランクアップした角座にも進出することになったが、異例のスピード出世は、古参芸人からの反感を買うことにもなった。</p>

<blockquote>３ヶ月で大トリになって、ほんですぐ角座の舞台に上がって。それかて一本二本三本目じゃなくて、四本目からでしょう。だから反感はきつかったです。そりゃあ、裏ではすごかったですよ。
そりゃあ考えたら、私より古い人ばっかりだからね、漫才の方にしても、浪曲の方にしても、私より若い人いなかったですから。（自分が）28や29のころですから。まあ、気は使いましたわね。舞台に立ったら、やっぱり自分やから関係ない、板の上は後輩も先輩もありませんから。でも下りたときは、やっぱりね。気ぃ使います、下駄箱の位置からね。
出る順番に、下駄箱の位置ってあるんです。それが、古い方が私より下だったとかいう場合が、多々あるんですよね。そしたら、それを会社に言いに行く、「なんでうららちゃんより、わしらの方が下やねん」と。本人には言わないんですよ。</blockquote>

<blockquote>けど松竹の演芸部長がうちを買うてくれてたからね、30分40分も時間いただいて、ものがたり演歌入れてお芝居やったりとか、お芝居挟んでショーやったりとかをやらしていただいてね。そういうこと、ほんとうにまれなことだったもんですから。それはその、極端な言いかたをしたら、「これからの演芸場は、（昔ながらの芸だけじゃなくて）、そういうふうにやらんかったらあかんようになるかもわからん、だからこういうものは、どうしてもいるんや」ということで、会社自体がバックアップしてくれました。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="08s.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/08s.jpg" width="240" height="181" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>それと、もうひとつよかったのは、あの建物は松竹の建物で、松竹の演芸部がやってますから、照明さんなんかも全部松竹の方で。それで照明さんなんかにしてみたら、漫才はなにもすることないわけよ。ところが、うち行ってやってると「ピンスポットでああしたらどう、こうしたらどう」っていうことで、どんどん照明のプログラムを作ってですね。やってくれた。もちろん、照明と音楽と演者と、この３つがパチッと合って、初めてよい、ものができるわけなんですよね。
ずーっとそんなんでやって来たもんやから、反感も多かったと思いますわ。
それがだんだん、毎月10日間ずつ新世界新花月と角座、もう神戸の松竹座はなくなってましたから、10日間ずつ割って（出演させて）いただくようになりました。もう、それが18年くらいもやりましたか、ずっと出てましたね。</blockquote>

<p>18歳のころからキャバレーで、酔っぱらい客に芸を揉まれて、ものがたり演歌をやるようになってからは、浪曲や漫才の大御所といっしょの舞台でまた芸を揉まれて。そうやってだんだんと、春風さんは芸能用語で「看板を上げる」＝トリや、トリに近い出番を確保できるようになっていった。</p>

<blockquote>芸で納得してもらえんかったら、しょうがないですから。お客さんを納得させて、その結果、「良かったよ」という声が、支配人さんとか会社に入りますやんか。たとえば９本の寄席の中の一本で、先輩の中に入って、これでもかこれでもかとやってきてますからね。ほんでボチボチ、看板上がって来ましたもん。それだけやってもね、先輩で中トリも取れれない方が、たくさんいますからねぇ。</blockquote>

<p>「ものがたり演歌」は春風さんと、20代のころからずっといっしょのマネージャーである鍛治さんのふたりによって、生み出されてきた。</p>

<blockquote>台詞はオリジナルでこしらえて、それに既成の音楽を聞きながら、それをバックに取り入れて。それでたとえば、三波春夫さんの『俵星玄蕃』でも18分あるんですが、ふつうの演歌みたいに、音入れっぱなしでずっと行くんとちがうんですわ。
台詞があって、ポンとイントロが入っていって、そのイントロにかぶせてずっと盛り上がり、そこで歌に入ると。ほんで、すっと終わってから台詞が入ったときにBGＭがパッと流れる。劇場なんかだと、拍手が来ればそんだけ間が延びてくるわけですから、タイミングが難しいわけですわね。早くても歌いにくいし、遅くても歌いにくいし。10日間やってながら、「今日うまいこといったな」というのは、１日昼夜２回ですが、それで１回あるかないかですね。</blockquote>

<p>マネージャーの鍛治さんによれば、「この人よりギャラ高い人なんていなかったんです」というぐらい、キャバレー回り当時の春風さんのギャランティは高かったらしい。</p>

<blockquote>それにもかかわらず、お金がないとはなんでやねんと話聞いたら、行き帰り全部タクシーですわ。着物が２枚と譜面ですね、これを入れて、こんなごついトランクで電車乗って行かれへんと。そこへもってきて、着てる衣装がその時分から、百万単位の衣装で。だから大阪のプロダクションでは、「着物ではうららちゃんに敵う歌手おらへん」と。いまならマンションの２軒くらい建ったんじゃないですか。（鍛治さんのお話）</blockquote>

<p>春風さんのウェブサイトには、＜うらら衣装アラカルト＞と題されたページがあって、過去にうららさんが着た、美しい衣装の数々がアルバムになっている。</p>

<blockquote>あの時分はテレビがあり，舞台があり、劇場形式の営業があり、それぞれやる場所がちがうんで、衣装を替えていかんと。柄もね。ホテルの仕事なんかやったら、（お客さんが）目の前でしょ。舞台だったら、お客さんから少々離れて見栄えのするやつでしょ。またちがう雰囲気の柄、持ってかなあかん。女のひとって、いっぱいうるさいですから、着ているものに。
女性のお客さんだと、歌ってるときに、（春風さんの着物の）袖をこないして、触って持ち上げますもん。ぱっと持ってね、「あらこれ正絹やわ」って。化繊か絹かを見てる、そういうひともいてますよ。そうやってやって来たから、お金もいりますよ。全部、自前ですもんね。だから１年間12回出ますね、舞台に。その12回で、同じ着物着たことないです。それで私の場合、10日間着たら、次は１年後しか着ないですから。多すぎて、タンスにも入らなくなってくるんですよ。だから、かわいがってる後輩の子に、何十枚と上げたりしてましたね。</blockquote>

<p>昭和5７（1982）年に「ものがたり演歌」を始めて、いつのまにか30年近くの年月がたった。そのあいだ、東京の国立劇場や浅草演芸場にも請われて出演するようになり、レコード会社からのオファーに応じてシングルを発売したり、自分でも自主制作で新曲を発表するようになった。</p>

<blockquote>キャンペーンをしてみれば、東京のほうがぜんぜんたくさん、セールスに結びつくんです。ものがたり演歌かて、東京で通用するかなと思って心配したんですけどね、最初。でも、１ヶ月に１回、２回東京に行ってたら、それだけでも大変なんです。
国立劇場でも、こちらの予想以上にものすごい受けたんです。劇場側から、東京に来たらどうなんです、とまでお話をいただいたんですけど......。大阪に長いこと居てるから、やっぱり行くまでの勇気がなかったですね。行ってたら、変わってましたでしょうねぇ。
東京だったら、いろんなとこから集まってるでしょう。だから東京行ったほうがよかったかって、いま考えたら後悔してね。だけど、やっぱり大阪で生まれて、大阪で育った中でやってきたから、東京で行くというのはなかなか......悩んだけど、行けませんでしたね。「東京がなんぼのもんじゃ」という気も、ちょっとはあったし。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="08s-3.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/08s-3.jpg" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>昭和が平成になって、春風さんが居を奈良に移したころ、時代はすでにカラオケ全盛になっていた。どこへ言っても、聴くより歌いたいというひとが多くなって、歌わせるのではなく聴かせる「ものがたり演歌」は、だんだんキャンペーンの機会も少なくなっていく。</p>

<blockquote>舞台の合間にね、10分休憩があるんです。そのときに私とマネージャーとぼうやと、３人で色紙とカセット持って、わーっと走って売るんですよ。１本２千円なのが、50本売れる時代でしたから。</blockquote>

<blockquote>歌手生活やってきたなかで、だれもやっていない、自分だけのものを持っているという気持ちが強いんだと思います。だれも真似のできないものを、私がやっているというね。それで突っ張ってやってきましたから、いまさらカラオケブームやからといって、年齢もそこそこいっているし、柄じゃないんです。
機械にカセット、ポンと入れて、音出したらえぇというもんとちがいますからね。カラオケ喫茶では、ちょっとできない。それにカラオケ喫茶はいま、数が増えすぎて、お店がキャンペーンをいやがるようになってきてるし。だからいま仕事やってるのは、敬老会とか、そういう感じのイベントですね、年金友の会とか。</blockquote>

<p>いま、春風うららさんの歌を聴こうと思ったら、公式ウェブサイトからメールでアクセスして、カセットテープを購入するしかない。それも、すでに在庫は限られているという。これだけの芸歴を持つ歌手だから、もちろんレコード会社からのオファーも過去に何度もあったが、春風さんの目はむしろ、別の方向に向いているようだ。</p>

<blockquote>いまのレコード会社はね、ほんとに歌手を育てようという気がないんですよ。ただもう商売で、カラオケにどんどん配信するためだけに、どんどん新曲出してく。カラオケで流れたら、作曲と作詞のひとにはJASRACからお金が入ってきますわね。でも、歌手には入らないんです。
それでもレコード会社は儲かるから、そういう商売をやってるだけで。昔みたいに美空ひばりさん、都はるみさんを育てたディレクターみたいな方が、この歌手を売るにはどの曲が良いのや、この歌はだれがよいのやと考える、そんなのはいま、ないでしょう。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="08l.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/08l.jpg" width="540" height="392" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<blockquote>うちのは、ただの演歌とはちがいます。最低16分から18分は要りますというと、どの会社も「それはちょっと......ふつうのにしてくれませんか」と言うわけですよ。だから、いまはむしろ、そういう制約がない、ネット配信がいいかなと思って、いろいろ交渉してる段階なんです。</blockquote>

<p>1曲の録音時間がふつうの歌の何倍もあり、バックトラックも打ち込みではなく、「大きなスタジオを借りて、（ミュージシャン）27人いっぺんに入れて、だーんと音を出して、一発録り」という、昔ながらのスタイル。だから1曲の制作に、300万円ぐらいの費用がかかるという。<br />
舞台は舞台で、音響や衣装はもちろん、多量のドライアイスまで持ち込んで、凝りに凝った舞台を演出する。「そういうやりかたが、自分には合ってるんだと思いますし。舞台が終わってから、ああやったなっていう気持ちが、ぜんぜんちがいますから」という春風さんだが、それだけのステージを、年齢による衰えをカバーしながらつとめあげるには、そうとうの体力と精神力が必要なはずだ。</p>

<blockquote>神経はすごい、つかいますよ。だって長い時間、お客さんをぐーっとひっぱらないかん。ふつうの歌だったら、ワンコーラス歌って、間奏がありますけど、こっちは休みがないんですもん。歌終わったら台詞でしょ、台詞終わったらまた歌でしょ。</blockquote>

<blockquote>泣きの部分なんかでもね、息を止めているところがあります。息を吸ってしまうと、そこで感情が逃げるんです。ここで息したいなと思ってても、息を吸った瞬間に、かーっとなっていたのが、すっと薄れるんです。だから泣きのところなんか、ここの台詞のとこまでは絶対、息を止めて、とそれくらいの気持ちでやりますね。</blockquote>

<blockquote>人間って感情の激しいところがありますから、なんぼやってても、なかなかノリがちがうときって、やっぱりありますもん。のってるときなんて、勝手に涙がバーッと出てきますしね。それをお客さんも見て、泣いてくれはる。</blockquote>

<p>こういうレベルのアーティストを、いまのレコード会社が扱えないという現実。それをただ悲観するのではなく、地方をベースに地道なコンサート活動を続けながら、インターネットという新しい媒体に活路を見いだしていこうというベテランの、ラディカルな意志のスタイル。<br />
日本の音楽業界を支えているのは東京の商売人たちだろうが、日本の、ほんとうの「うた」を支えているのは、春風うららさんのような歌手なのかもしれない。</p>

<p><br />
<big><br />
●春風うらら「着物写真館」</big><br />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="カタログ.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%82%B0.jpg" width="540" height="564" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>●プレゼントのお知らせ<br />
先着10名の読者のみなさまに、春風うららさんの「ものがたり演歌　王将みだれ駒」のカセットをプレゼントします。<br />
ご希望の方は、メールでタイトルに「春風うららカセット希望」と書いて<br />
・住所<br />
・お名前<br />
・電話番号<br />
を書いてご応募ください。<br />
宛先は、webmagazine@heibonsha.co.jp <br />
までお願いします。</p>

<p>※当選結果は、発送をもってかえさせていただきます。<br />
また、お送りいただいた個人情報は、<br />
上記プレゼントに際してのみ使用させていただきます。<br />
他の目的で使用することはございません。</p>]]></description>
            <link>http://webheibon.jp/enka/2009/08/post-7.html</link>
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            <pubDate>Sun, 30 Aug 2009 23:00:18 +0900</pubDate>
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            <title>胡桃乃みちる</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="07l.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/07l.jpg" width="540" height="359" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>どんなに長い夜も　いつか朝が来る<br />
幾年月も心の中　くり返すあなたの言葉<br />
人生は悲しみを越えて　輝きを知る<br />
愛をくれたあなたへ<br />
この歌　届きますように</p>

<p>『優』　作詞曲／小田ちはる</p>

<p><br />
郊外の小さな駅。線路沿いの暗い道を、自分の背の半分ぐらいはありそうなカート付きのスーツケースをがらがら引いて、ちいちゃな彼女が歩いていく。今夜もこれから、カラオケ好きが集まるスナックで、長いキャンペーンの時間が始まるのだ。<br />
自分の曲を歌って、お客様とデュエットを何曲もやって、また自分の曲を歌って、終わったらカセットとプロマイドを持って客席を回る。1枚ずつその場でサインして、ぎゅっと握手して、それから物置みたいな小さな部屋で着替えて、またスーツケースを引いて家に帰る。<br />
レコード会社もない、マネージャーも運転手も、事務員もいない。たったひとりで営業して、歌って、売り歩く。胡桃乃（ことの）みちるさんが、そんな歌手生活に入ってから、もうずいぶん長い時が流れた。</p>

<p>胡桃乃みちるさんは盆唄で有名な福島県相馬生まれ、ただすぐに埼玉県川口に移り、小学校から同じ埼玉県内の蓮田に引っ越してきた。いまも蓮田が地元である。<br />
お父さんは建具職人、お母さんは大月みやこなど、ド演歌が大好きな「根っからの演歌好き」の主婦。とりたてて音楽的な環境でもない、ごくふつうの家庭だったが、物心つくころにはすでに地域の盆踊りでマイクを握って歌いまくる、大の歌好きの少女になっていた。</p>

<blockquote>なんででしょう、いまではなにを歌ったかも覚えてないですし、母の好きだった演歌はちょっと敬遠していたし。昔の友だちに会うと、「どこでも歌ってたよねぇ」ってよく言われるんですけど、それくらい、学校でも道でも、いつでもどこでも、人に聞こえるぐらいの声で歌ってたみたいです、口ずさむとかいうレベルじゃなくて。</blockquote>

<p>時代はピンクレディーとか松田聖子とか、それまでの"芸能人"とはちがった、子供が夢中になれるアイドルが一世を風靡し始めたころ。ただ、歌が好きな少女だった胡桃乃さんは、将来歌手になろうなんて、考えたこともなかった。</p>

<blockquote>学校時代は歌と、まるで関係なかったです。むしろ部活に明け暮れてて。わたし、テニスやってたんです。硬式じゃなくて、軟式テニス。中学がけっこう強豪校だったんで、練習がものすごく厳しくて。背が小さいから後衛ばっかりだったんですけど、授業の前に朝練があって、終わると8時ごろまで夜練があって、土日も練習。元旦も練習で、休みは年に1日か2日だけ。からだが持たないから一日5食食べて、早弁もして。もう、はんぱじゃなく大変でした。</blockquote>

<p>上級生がコートでポコンポコンと球を打ち合う。下級生は脇や後ろに並んで、ボール拾いに走ったり、「ナイショッ！」「ガンバ！」とか叫ぶのだが、そんなときでも胡桃乃さんは知らないうちに、歌っていたらしい。</p>

<blockquote>なんかこう、打ちながらも、待ってるあいだも、歌ってたみたいなんです。なにを歌ったかは覚えてないんですが、先輩から「うるせー！」とか「黙ってろ！」とか怒られた記憶は、けっこうあるんです。怒られるぐらいだから、ずいぶん大きな声だったんでしょうねえ。そうとう変わり者ですよね（笑）。</blockquote>

<p>中学ではテニス漬けだった胡桃乃さんだが、高校では「もっと楽な、仲良し系の部活でテニスやりながら」、ちょうどそのころ流行りだしたカラオケボックスに寄るようになった。部活のあと、一室1500円か2000円の料金を友だちと割り勘して、毎日のように歌いまくっていた。<br />
英語の先生に憧れて、バレンタインに手作りクッキーを焼いたりしたころから（「大好きで憧れて、結婚して幼な妻！とか思ったんですけど、見事に玉砕でした」）、料理が好きになって、胡桃乃さんは短大の栄養科に進学、栄養士を目指すことになる。</p>

<blockquote>わたし、一人っ子なんで、けっこう両親が厳しくて、高校のころも門限があったりして・・・9時半には帰ってこい、みたいな。バイトも9時で上がらせてもらえないと、「早く帰せ！」ってバイト先に電話がかかってきちゃうくらい。</blockquote>
<blockquote>だからいちどは家を出てみたかったというのもあります。2年間だけ、駄々こねてひとり暮らしして、好きほうだいやらせてもらって。でも卒業したらやっぱり実家に戻っちゃって、それで地元の保育園で栄養士の仕事を始めたんです。</blockquote>

<p>短大に進学して、保育園で働くようになって。胡桃乃みちるさんはここまで、ほんとにふつうの人生を送ってきて、そうして20歳だった。</p>

<blockquote>仕事は音楽とかけ離れてるんですけど、でも、やっぱり、なんか自分の中では歌がすごく好きで、ふだんから音楽を毎日聞いたりとかはしてたんですが、そのころからオーディションを受けてみたいなぁという気持ちが芽生えて・・・遅いんですよね。ふつうはみんな、早いうちから受けますよね。でも、オーディションに受かったら歌手になれるとか、そういうプロセスを全然知らなかったので。</blockquote>

<p>なんにも知らない、20歳の栄養士の女の子。レッスンを受けることすら知らず、両親にも言えず、こっそりオーディションに応募しては「どこにも引っかからない」、その繰り返しだった。</p>

<blockquote>シンガーソングライターさんだと別ですけど、ふつうのポップス系の歌手だと２０代じゃもう、いっちゃてるというか、さすがにもうきついんだろうなとか思いながら、受けては落ちで。やっぱりちゃんと働かなきゃいけない、働いたほうがいいかもしれないと葛藤もある中で。</blockquote>

<blockquote>それで保育園を2年ほどやったあとに、会社に就職してOLになったんですが、そこがけっこう大きな会社だったんですね。ニューオータニのいちばん広い宴会場を貸し切って新年会とか、全社員が集まる機会があって、そのために社員バンドのメンバーを募集してたんです。そこでボーカルをやらせてもらえることになって、それで何百人という前で歌うという、初めての体験があって、それで病みつきになっちゃったんです。</blockquote>

<p>中学、高校時代はバンドブームのただ中で、プリンセスプリンセスとかが大ヒットしていたころだったが、「わたし、自分からはなんにも言い出せないみたいな、積極性のない、恥ずかしがり屋だったんです」という胡桃乃さんは「バンドやろうぜ！」になることもなく、24歳にして初めて、人前で歌う快感に目覚めたのだった。</p>

<blockquote>あの感覚は、いまでも忘れられないですねぇ。人前で歌うのが、こんなに楽しいことだったんだって、そのとき知って。すごい体験でした。舞台に出る前は怖いかなと思ったんですけど、それが怖くなかったんですよ。</blockquote>

<blockquote>でも仕事の合間ですから、練習もできないですし、年にいちどぐらいしか機会もないしで、もっと歌いたい！と思いながら働いているうちに、2年ほどして母がガンで倒れてしまって。それで会社を辞めて実家に帰ることになったんです。</blockquote>

<p>　「末期ガンで余命一年」を宣告されて、胡桃乃さんにとっても、それまでとはまったくちがう生活が始まった。病院への送り迎え、実家の家事。「それまでなんにもしてこなかったから、ここで親孝行しとかなきゃ」と思ってがんばる毎日の中で、お母さんの友だちから、「歌が好きなら、趣味でカラオケ習ってみたら」と、地元の歌謡教室を紹介される。</p>

<blockquote>そんなきっかけで、初めて歌を習うことになるんですけど、でも、その教室が演歌だったんですよ。私は歌は好きだけど、「え、演歌ですか」みたいな感じがあって。ほんとにもう、演歌の"え"の字も知らなかったので、歌いかたも全然わからない。コブシってなに？みたいな（笑）。だから最初は、歌えなくて恥ずかしかったですね、とにかく。</blockquote>

<p>埼玉の、町の演歌教室である。生徒さんは、カラオケうまく歌えたらいいな、ぐらいの人たち。それも彼女よりずっと年配の50代、60代ばかり。そんな中で、先生もなにかちがうものを感じたのだろう、胡桃乃さんだけには「子リスが森の中でクルミ食べてるみたいな感じだね」ということで、レッスンに行った最初の日に、「森くるみ」という名前をつけてもらい、それが胡桃乃さんの最初の芸名になった。</p>

<blockquote>自分ひとり若かったのもあるし、「本格的に習いたいんです」と言って入ったのもあるのかもしれないけど、とにかく先生にはすごく可愛がってもらったんです。ほかの生徒さんからやっかまれるぐらい。わたしは鈍感なんで、あんまり気にはなりませんでしたが。</blockquote>

<blockquote>それで3年ぐらいレッスンを続けて、先生がもともと作曲家だったんですが、人脈からコロムビアに話を持っていってくれて、デビューすることになったんです。まあコロンビアは、名前を借りただけで、内実は自主制作でしたけど。余命１年と言われた母が、頑張って３年も生きてくれて、亡くなってから半年ぐらい経ったころでした。</blockquote>

<p>業界の仕組みはなんにも知らなくて、「いつか機会があったらデビューできるんだろうな」という程度の認識しかない女の子と、カラオケ教室で教えてはいても、若い歌手を本格的にプロデビューさせ、売っていく経験などなかった先生。『道の駅／くるみのゑびす顔』は2002年6月に発売される。それは、ふたりとも手探りでのデビューだった。</p>

<blockquote>自主制作で、お金は先生が出してくれて、CDを売って返していくというかたちだったんですけど、事務所といってもカラオケのお教室でしょ。歌手の営業をする部門なんてないし、キャンペーンも、どうしていいかすらわからない。だから仕事がまったくなかったんです。デビューしてから2ヶ月で、仕事したのは1回だけ。でもCDは売らなきゃならない。もう、友だちに会えば「買ってぇ！」、前の会社の人にも「買ってぇ！」で、2年間かかってようやく最初にプレスした2000枚を売ることができました。</blockquote>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="07s2.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/07s2.jpg" width="240" height="160" class="mt-image-none" style="" /></span></p>

<p>住まいは実家があるにしても、そんな状態では生活が成り立たない。セブンイレブンのお総菜を作る工場で、「無菌状態ですっぽり、ほっかむりして、目だけ出してお総菜盛りつけしてました」。先生は「CD出したってだけで、ちょっと満足しちゃったのかも」という状態だったので、「こっちは人生かかってるのに、これじゃヤバい、展望がない！」と徐々に焦りの気持ちが芽生え、「ツテをたどって仕事の口を探してもらったり、地元の接骨院にポスターを貼らせてもらったり」と、ほんとに手探りで、少しずつ仕事を増やしていった。<br />
デビューから2年経った2004年には、2枚目のシングルとなる『雨の鎌倉／あぁ青春海峡』を、今度はキングから発表する。</p>

<blockquote>1枚目はもうヤミクモって感じだったんですが、2枚目もやっぱりだれも頼れる人がいなかったですから。自分で営業しなきゃと覚悟を決めて、よく歌手の人が店頭キャンペーンをやる演歌系のCD屋さんに、CDとポスターを持って行ってみたり。でも、女の子がひとりでそんなことしても、なんだこの子は、みたいな感じで、冷たい反応なんですよね。それで、けっこうめげたんですけど、でも歌はやめたくなかったんで、バイトいっぱい入れながら、営業に歩き回りました。</blockquote>

<p>バイトのあいまに、たったひとりで衣裳とCDとカセットを持って、営業に歩く生活。気がつけば「森くるみ」になって、10年が経とうとしていた。</p>

<blockquote>2枚目のシングルをずーっと売り続けて、それで10年間も教室にいて、そろそろ転機かなって思ったんです。教室やめたらひとりだし、次の新曲を出せる目処もないしで、歌が歌える環境じゃなくなっちゃうかもしれないなあ、ひとりでやっても変わらないかもしれないなあと、2，3年はすごく悩んだ末に、やっぱり後悔したくないと思って、決断したんです。10年間お世話になってましたから、先生はさみしがっていらっしゃいましたが・・・。</blockquote>

<p>心機一転の気持ちを込めて、「森くるみ」さんは2008年に「胡桃乃みちる」さんになった。「くるみ」という名前には愛着があったし、その名前で覚えてくれているファンもたくさんいたので、字は残しておきたくて、漢字の「胡桃」を入れた新しい芸名を、今度は自分で考えた。<br />
それまでのCDやカセットは、出資者が先生だったから、営業で手売りしても、売り上げは先生にまず返さなくてはならない。そこから何パーセントかもらうのが胡桃乃さんの収入になるわけだが、仕事は毎日あるわけじゃないし、何曲も歌ってもギャラはゼロ、「自分でCD売って、儲けにしてください」というケースがけっこうあるし、それでも1枚も売れないときだってある。「足代だけかかっちゃって、きょうはどうなるんだろう・・・とか思いながら回るんです」。<br />
所属事務所（といってもカラオケ教室だったが）から独立し、芸名も新しくして、ゼロからの再出発。でも、新曲がない。名前が新しくなったのに、営業で売って歩けるのは前の名前の、それもCDを売り切ってしまったので、残ったカセットだけ。そんな苦しいスタートを強いられたのが、胡桃乃さんの2008年だった。</p>

<blockquote>いまも胡桃乃さんは、バイトをしながら、歌を歌っている。この取材をさせてもらった直後の7月19日には、ようやく胡桃乃みちる名義の新曲『優／一夜の蝶』が発売された。歌う中で知り合ったシンガー・ソングライターが、曲を書きたいと申し出てくれて、資金はバイトで貯めたお金を注ぎ込んだ。スポンサーもパトロンもレコード会社のバックもない、今度はほんとうの自主制作だ。</blockquote>

<p>どんなに長い夜も　いつか朝が来る<br />
幾年月も心の中　くり返すあなたの言葉</p>

<p>彼女にとって、これは亡くなったお母さんを歌った曲なのだろう。芸能の世界はあまりに大変だからと、闘病生活を送っていたお母さんは、胡桃乃さんのデビューに反対だったという。振り返ってみれば、たしかにお母さんの言うとおりだったが、でも、「いつか朝が来る」のもまた、たしかだ。<br />
10年目にしてリスタートを果たした胡桃乃みちるさんは、きょうもスーツケースを引っ張って、歌える場所へと歩いていく。</p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="07s.jpg" src="http://blog.heibonsha.co.jp/enka/images/07s.jpg" width="240" height="361" class="mt-image-none" style="" /></span><br />
</p>]]></description>
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            <pubDate>Tue, 18 Aug 2009 20:34:40 +0900</pubDate>
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