
JR巣鴨駅の改札を出た通路脇に、きょうもあのひとが立っている。きょうも革のジャケットに革のパンツで、マイクにかぶさるようにしながら、しわがれ声を振り絞っている。
言いたい奴には 言わせておけと
黙って飲み干す 手酌酒
ひたすら人生 生きてきた
路地裏 ちょうちん 影法師
笑顔のおまえが 心のささえ
『ひたすら人生』 作詞:ないとうやすお 作曲:長浜千寿
裕力也さん、67歳。老舗材木屋の長男としてなに不自由なく育ちながら、どうしても学校制度になじめず、中学、高校を転々としたあげく、ドロップアウト。歌手を目指して歌謡学院に通うが、親のコネでゼネコンの熊谷組に入社。21年間勤めたあと、自身の会社を興し、バブルの波に乗って成功するも、バブル崩壊と共にすべてを失い、家族とも別れて、いまはひとり。失った夢を取り戻そうと、数年前からストリートに立って、雨の日も風の日も歌いつづける。毎日、朝から晩まで。
道行くひとのカンパと年金で命をつなぎながら、ストリートに生きつづける。音楽のジャンルとしてではなく、生きかたとしてのブルース・シンガーという存在が日本にあるとするならば、それはこのひとのことを言うのだ。
裕力也さんは昭和18年、東京に生まれた。実家は長野県松本市の近郊で祖父が興した、老舗材木屋だった。父は祖父の跡を継いで材木商として東京と松本を往復する日々。商売柄、お祖父さんの代から政治家とのつきあいも多く、叔母は逗子の名門・聖和学院の創立者という、恵まれた家柄だった。
自分は東京生まれで、小学校は地元に行ったんですけど、父親が材木の買いつけで半年以上、山に入っちゃうでしょ。それで遊び人でもあったらしく、僕の記憶に残っているのは継母だけです。僕を生んだ母親というのは、父親と別れたかなんだか知らないですけど、だれだかわからない。それで、僕にしてみれば腹違いの弟たちと、目立って差別されたわけでもないけど、やっぱり自分が腹を痛めた子のほうがかわいいからね。そんなんで僕もやんちゃになっちゃって、そりが合わなくなって、中学は長野に行ったんです。お祖父さんの故郷で、いまは聖高原(ひじりこうげん)って言ってますが、麻績村(おみむら)という、すごい田舎でした。篠ノ井線の、松本と篠ノ井のあいだですね。そのふたつ先の駅が、有名な姨捨山(おばすてやま)の姨捨ですから。
麻績村の筑北中学を卒業後、「むりやり高校に行けって言われて、いろいろ落ちたあと」、聖和学園高校の創立者であった叔母の関係を頼って、平塚学園に入学することになった。
最終的に長野から平塚に行ったんですけど、とにかくそのころの平塚学園は不良ばっかりだったうえに、叔母さんや学校の管理が厳しくて、嫌気がさしちゃってね。けっきょく1年で学校を飛び出しちゃうんです。お祖父さんの家のある松本に帰って、歌がやりたいなーと思いながら、2年ぐらいぶらぶらしてました。
まだカラオケのなかった時代。松本市には生バンドが入るクラブがいくつもあって、若き裕さんはそんな店を探しては、頼んで歌わせてもらっていた。松島アキラのような明るい歌謡曲、それに『ダイアナ』などアメリカン・ポップスがもっぱらのレパートリーだった。
それでね、松本にずっといてもしょうがないから、東京に戻って歌謡学院に入学するんですね。実はそのころ松本でつきあってた彼女が、当時高校生だったんですが、僕が東京に来るときについてきちゃって。それが最初の結婚になりました。それですぐ子どもが生まれて。長男は僕が19歳、嫁さんが17歳のときの子どもですから。いまは46歳になってるはずです。
おさない夫と、おさない妻。家庭を思いやるこころの余裕を、19歳の裕さんは持つことができなかった。

結婚しても、子どもができても、こっちは気持ち的にひとりものと同じようなもんで、歌にばっかりかまけちゃって、家族にはなんにもしてあげられなかったんですよ。それで12年間ぐらいは続いたんですが、けっきょく別れました。嫁さんは、田舎に帰ったっちゅう話をあとから聞きましたけど、いまどうしているのかわからないです。長男のほうは、風の噂だと建設関係の仕事をしているらしい。次男はちょっと、なにやってるかわからないです......。
しばらく歌謡学院に通ったのち、「このまま歌ってたって、食っていけるかわからない、とりあえず会社に入れ」と親に説得されて、ゼネコンの熊谷組に入社したのが昭和40年、裕力也さんが22歳のことだった。
親が材木屋やってましたから、その縁故で入れてもらったんですね。だから、社員はみんな朝8時半に各部でラジオ体操とかやるんですが、こっちは9時ごろに、平気な顔して遅れて行って「オス!」なんてやったりしてね。ちょうどそのころ、石原裕次郎さんが『黒部の太陽』という映画を撮ってたので、よく会社に来てたんです。会議室で、会議のシーンを撮影したりね。それで、すっかり裕次郎さんにかぶれちゃって、裕次郎さんの歌ばっかり歌ってたこともありましたねえ。
就職したといっても、もともと建設業には興味のなかった裕さん。会社では労務安全課という部署に回されて、9時から5時まで安全パトロールなどの仕事をこなしながら、5時を過ぎれば池袋、錦糸町など、各地のクラブで歌うという二重生活を満喫していた。
僕が歌を好きだって、みんな知ってましたからね、営業の連中とかが、僕を連れて回るんです。当時はカラオケじゃなくてバンドですから、なかなかシロウトは歌えないんですよ、恥ずかしがって。でも、僕は平気でしたから、みんなにかわいがられて。 でも、仕事もいろいろしましたよ。あのころはね、悪い人たちがいて、現場の出入のところにベンツとか停めちゃうんですよ。そうすると所長とかは、お金ふんだくられてね。僕なんかは平気で行きましたから、ヤクザの事務所でもなんでも。「警察でもなんでも行くよ、うちは悪いことなんにもしてないじゃないか」と。そんなことから、夜なんかは韓国クラブだとかそんなところに行って歌ってたんで、顔見知りになっちゃったんですね。そうすると、「またあんたか!」なんて言われるような感じで。だからずいぶん現場を助けたっていうか、そういうこともありました。
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たとえば池袋の大箱クラブで飲んで歌って、12時半で店がハネると、バンドにくっついて錦糸町のダンスホールに移動。そこでも歌って踊って。家に帰るのは夜中の3時、4時。それで翌朝は9時から会社。なにより歌が好きだった裕さんは、そんな生活がちっとも苦にならなかったという。そして45歳になって、21年間籍を置いた熊谷組から独立、自分の会社を設立する。
僕がずっとついていた重役さんにね、「お前、大学も出てないんだし、顔が広いんだから、ここにいるより独立しろ。その代わり、うちの仕事あげるから」って言われて、下請けみたいにして自分で会社持ったんですね。45歳になったときでした。仕事には困らなかったから、自分は歌にうつつを抜かしていられたんです。クラブでもなんでも行けって。だって、いまだから言えるけど、現場の所長さんが僕にね、「社長、1000万振り込んだから、500万は社長が自由に使っていいんで、500万こっちにバックしてくれ」とか、そんなのがいくらでもあったんです。だから金なんて、いくらでもありましたよ。
独立したのが昭和63年。時代はまさにバブルに突入するころで、「いまから思っても、あのころはすごかった」というほど、笑いの止まらない時代だったが、しかしそんな絶頂期は長く続かなかった。
けっきょくは歌にうつつを抜かしてた自分の管理不行き届きなんですが、バブルが弾けたときにいろんな事情があって、会社を事実上、自分が潰したんですね。何年かはがんばったんですが、最終的に平成14年の4月に、銀行と話し合って、身ぐるみ剥がされて......。自宅も取られて、連帯保証人になってた息子や、2番目の奥さんとも別れて。それで借金をすべて返済して、きれいな身になったんです。
持ち家を銀行に取られて、まず3LDKのマンションに、それが2DKになって、次に1DKになって、いまは「先輩の自宅を仕切って貸してもらってる」六畳ひと間の部屋で、ひとり暮らしをするようになった。
身ぐるみ剥がされて借金を返したら、少しだけカネが残ったんですね。ふつうの人間だったら、それでラーメン屋でもやろうかってなるんでしょうけど、僕はそうじゃなかった。どうしても、歌が頭から離れないんですよ。それで近所のスナックに通って歌ったり、プロモーターと知り合った縁で千昌夫さんの巡業についていってみたり、あの数年間はいろいろと模索の時期でしたねえ。
平成18年、裕力也さんはそれまでのモヤモヤをふっきるように、ひとり錦糸町の駅前に立って歌いはじめる。「ストリートはおもしろいよ、やってみたら?」という、知り合いのプロモーターのひと言に動かされての、63歳のストリート・デビューだった。
これは僕の信念なんだけど、そりゃあ劇場とか、そういうところから始められたら華やかでしょうけど、ストリートは反応が直に伝わってくるんです。いい歌、悪い歌ってのが、歌っててわかるんですよ。この直の感覚は、ストリートから始めなかったらぜったいにわからない。
そうやって好きな曲を歌いはじめてしばらくたったころ、「これはわたしが作った曲なんだ」と声をかけてきた人がいた。それが、この連載で以前に紹介した内藤やすおさんだった。内藤さんが書いた『ちょいワルおやじのセレナーデ』と『ひたすら人生』を、本人を知らないまま歌っていた裕さん。しかし内藤さんはそれを怒るどころか、いろいろアドバイスをくれたうえに、自主制作CDの作り方まで教えてくれて、それが裕力也の初CD『力也の心のうた』に結実することになった。内藤さんの2曲に、井沢八郎の『ああ上野駅』、石原裕次郎の『北の旅人』と『わが人生に悔いなし』。全6曲にそれぞれのカラオケ・バージョンが入った、それは手作りとはいえ立派なCDだ。ただし、それを歌いながら売ってしまうと「路上販売」として咎められるから、歌を聴いた人が「ほしい」と言ってくれれば、「作るのに若干お金かかるんで、500円以上のカンパしていただければ」と答えて、路上に開いたケースの中に入れてもらう。最初は錦糸町、それから少しでも家の近くdということで巣鴨に歌う場を移し、そんなストリート・ライブ生活が今年でもう4年。裕さんの歌声を、歌う姿を見るのを楽しみに、毎日のようにやってくるファンもつくようになった。
自宅が鬼子母神の近くなんで、巣鴨なら都電で来られるから、近いでしょ。それでここでやるようになったんですが、アンプやなんかでけっきょく機材が20キロぐらいになっちゃいますからね。うちのアパートは鉄階段で14段あるんで、毎日担いで昇り降りするのが大変なんですけど。でも、今年は元旦からまだ1日しか休んでない。雨がすごかった日が1日だけあってね。あとはずーっと、毎日。 ワンクールが30分ぐらいかかるんで、歌ったり、それから休んでるあいだにCDをかけてたりと交代で。それで朝は11時ごろから、いまは寒いから夜6時ごろ上がりますけど、夏だと7~8時ぐらいまでやってますね。 いろんなことがありますし、いろんなひとが来ますよ、ほんとに。500円のカンパを値切るおばあちゃんもいれば、涙をぼろぼろ流しながら聴いてくれるひともいる。どうしたんだって聞いてみたら、「会社をリストラされたんで、この歌を聴いたらそこ(線路)に飛び込んで死のうと思ってる」なんて言うんですよ。だからね、「俺なんか、もっとひどい目に遭ってるんだから。身ぐるみはがされても、自分がいちからやる気になれば、なんだってできる。自分のやりがいを見つけろ」って言って。それからそのかたは月に2、3回来ますよ、カンパしに。たとえ500円でもね。 いちばんうれしかったのは、「俺、今日これでタバコ買うんだけど、まあいいか。力也さん、『ああ上野駅』歌ってくれよ」って言うから「いいですよ」って歌ったら、1円玉とか5円玉、10円玉でね、数えたらちょうど300円あったんです。「いいよ、無理しなくても」って言ったらね、「これは空き缶売って作ったんだ」とかね。幅広いんです、僕のファンは。プータローの人とか、そういう人まで聴きに来るんですね。それも大事なファンですから。

駅前で歌うのだから、もちろんトラブルもある。「座ってれば乞食と間違えられたり」、地回りのチンピラにからまれたりーー「でも僕はそういうの、ぜんぜん怖くもないし、なんともないですよ、悪いことしてないんだから」と、はねのける。
ヤクザはちゃんと話せば紳士的ですよ。それよりタチが悪いのは警察のほうですよね。弱いものいじめするし。最初のころは特に、おまわりさんとの葛藤がすごかったです。でも僕は、若いおまわりさんを教育するつもりでいるんで、来ると「君、いまの口の利きかた悪いよ」って始めるわけだから。それで「部長さん呼んで来い」って言って。偉そうにするわけじゃないけど、僕は政治家の友達がいっぱいいるんで。権力でガーンってやられるような、弱い者イジメっていうのが大嫌いなんですよ。だから署長のとこでもなんでも、いきなり行っちゃうんです。「べつに悪いことしてるんじゃないからね、日本の文化なんだから、うるさいって言うんだったら音量少し落としてやるから」って。だからここらへんに(歌いに)来る人は、みんな僕んとこ寄るんですよ、「きょうは大丈夫ですかね?」って。それで「少し音量落としてやってごらん」とか、いろいろアドバイスしてあげる。だから最近は、おまわりさんが替わっても、申し送りが上からあるみたいで、あんまり偉そうにしてくるのはなくなりましたねえ。ここまで来るのに、丸2年はかかりましたけど(笑)。
「寒い季節はお客さんもそんなに足を止めないし、ほんとにつらいときもあります」と言いながらも、マイクを握って歌いつづける裕力也さん。その姿を見て、勇気をもらうひと、そして居ても立ってもいられずにサポートを申し出るひともいる。
前に盲腸になったことがあって、50歳過ぎての盲腸は100人のうち助かるのが5人ぐらいだってほど怖いらしいんですが、お腹痛いんで風呂入って治そうとしたのに、痛みが止まらなくて。そしたらすぐそこのパーマ屋さんの旦那さんと奥さんが、病院に付き添って行ってくれた。それで即、その日に緊急手術で一命を取り留めて。それにいろんな衣類ももらうんですよ。いま履いてるこのズボンも、「これ履いてやりな」ってね。実は僕、この髪はヅラなんですが、やっぱりそこのパーマ屋さんが「これ使ってみたら」って言ってくれて。
裕力也さんの歌は、正直言ってうまくない。声は不安定になりがちだし、声量があるわけでもない。テクニックで聴かせるタイプでもない。でも、彼の歌をそういう評価基準でしか聴けないリスナーは、もしかしたらすごく不幸だ。
寒風吹きすさぶ中、コンクリートの地面から上がってくる寒さに足踏みで耐えつつ、駅前の雑踏に飲み込まれそうになりながら、小さなアンプを通したひずんだ声に聴き入っていると、音楽のもっとも根本にあるカタマリのようなものが、チラリと見える瞬間がある。こころの奥のどこかをサッと引っかかれる瞬間がある。
歌の持つちからに導かれて、なにかを見つけてしまったひとが、ここにもいた。


