
会場の照明が暗転すると、舞台上のスクリーンに宇宙と地球のイメージが投影される。壮大なBGM.それにかぶさるようにナレーションが流れだした......
1993年秋、京一夫はソマリアを訪れました。ソマリアの難民キャンプで泊まったテントの中から満天の星空を眺めていました。遠くには機関銃の音が聞こえる。アメリカ軍の増員を伝える地下ラジオ放送もありました。緊急な事態になりつつあるソマリアの国内では、もっとも弱い子どもたちを苦しめていました。一日も早く戦争が終わり、国境も差別もない、鉄砲も大砲もない、愛と平和のあるアフリカを望んでいます。
昨年はルワンダを陸路2000キロ、平和への願いを託して作ったこの曲『フィーリング イン アフリカ』を歌って、アフリカを回ったのです。
フィーリング イン ルワンダ
国境も差別もしない
鉄砲も大砲もない 音楽に
愛と平和がある 音楽に
夢と希望もある 音楽に
君のふるさと ルワンダ
ルワンダにコメを送ろうと呼びかけてボランティアの京一夫は出発しました。彼はコメのほかに日本の小学生が描いた絵を持って難民キャンプを訪れ、交流をしてきました。特に幼い子ども、親を失った子どもたちに会って、共に歌を歌ってきました。「そばにいてあげることが大切だ」という気持ちで京一夫は活動してきました。この視点は、つい忘れがちになっているのではないでしょうか。彼のボランティア活動は、その点を視野に入れた活動でした。それは、歌で言えば『愛の贈りもの』、それから私たちの笑顔が大切だと思うのです......。
『きょうはボランティア日和』(京一夫著ハート出版刊)より
京一夫さんは演歌歌手であり、カラオケ喫茶経営者であり、ボランティアの専門家である。いま、千葉県我孫子の近く、湖北駅前のカラオケ喫茶<鬼平>で目の前に座っている京さんは、まぎれもなくスナックか喫茶店マスターの顔だし、最近発売されて話題の、流しの演歌師を集めたCD『演歌師稼業』で聴く京さんの歌声は、あくまでも正調演歌歌手だし、『きょうはボランティア日和』という自著で語られるスリリングなアフリカ・ボランティア行は、筋金入りのボランティア活動家にも負けない情熱とフットワークの産物だ。
芸能界には杉良太郎や八代亜紀など慈善・福祉活動に熱心な歌手が少なくないが、京一夫さんはそういうだれともちがう異質のマルチ・タレント、というより異質のマルチ・アクティヴィストなのだ。

のちに左右対称が印象的な字画の「京一夫」と名乗ることになる薩摩勝美さんは昭和25(1951)年、東京の下町である江東区亀戸に生まれた。ご両親は建築資材運送を生業として、かなりの成功を収めていた。お父さんには別に正妻がいて、勝美さんもお母さんにとっては義理の息子にあたる存在だったが、実質的に稼業を取り仕切り、優しく頼りになる「育ての母」のもとで、勝美少年はまっすぐ、元気に育っていったという。
家は下町の土建業でしたから、音楽どころじゃないんですが、父が浪曲好きでね。家の裏が亀戸駅の土手で、そのころは材木だのなんだの焚き火できたんで、ドラム缶風呂があったんです。仕事が終わって、オヤジがドラム缶風呂入りながら、浪曲唸るのを聴いて、好きになったのが音楽の原体験かな。小学生のころから、広沢虎造なんか真似てがらがら声だしてましたよ(笑)。
時代はロカビリーからグループサウンズへと移行する時期。しかし浪曲の好きな少年が、次にはまったのが歌謡曲だった。
小学校3、4年のころでしたか、島倉千代子なんかの歌謡曲が大流行したあたりで、これはいいな!って思っちゃって。それまでドスの利いたがらがら声だったのが、今度は女の細い声を真似するようになっちゃって。

「当時はウクレレとか流行ってたから、僕も買ってもらって練習したりしてましたよ」というが、勝美少年がいちばん熱心に取り組んでいたのは柔道だった。その甲斐あって、亀戸で小、中、高校まで通ったあと、国士舘大学の体育学部にスカウトされる。
別に親に言われたわけじゃなくて、好きで自分から、小学校4年ぐらいから近所の道場に通いはじめたんです。それから、やっぱり柔道なら講道館だって思い込んで、中学高校時代は水道橋(の講道館)までずっと通ってました。それで国士舘の柔道部に引っ張られたんですけど、もうひとつ日大からもアメリカン・フットボールで誘われて。あっちに行かなくてよかったなあ(笑)。
若き柔道家が飛び込んだ国士舘は、しかしとんでもなくアナクロな学びの場だった。
詰襟の制服着て、親父は軍隊みたいだって喜んでましたけど、もうとんでもなく厳しくて、毎日泣いてましたね。柔道部だけじゃなくて全校生徒が、毎朝朝礼で山の上登って、皇居の方角向いて、棒もって「捧げ、銃(つつ)!」なんてやってたんだから。勝美さんが小学校のころ、家には大学受験の学生が下宿していた。その彼が大学から外務省に進み、のちに京一夫さんの恩人のひとりになる新田宏さんだ。勝美さんが国士舘の学風になじめず悩んでいたころ、外務省から香港に派遣留学されていた新田さんを頼って、勝美さんは国士舘を中退、香港行きを決意する。
宏さんなら両親も信頼してたから、いいだろうって。あっちの学校とか全部チェックしてくれて、当時は飛行機なんて贅沢だったから船で向かったんだけど、ちょうどそのころ新田さんは香港からアメリカのコロンビア大学に行くことになっちゃって。着いてみたら自分ひとりで、アジアユナイテッド・カレッジというところに通うことになったんです。
田中角栄と周恩来による日中国交回復が1972年。それ以前の時代だから、香港も現在とはずいぶんちがう都市だった。国士舘時代から、香港行きに備えて中国語を自主的に勉強し、万全の備えで香港に降り立った勝美さんだったが、まず言葉のちがいに戸惑うことになる。この時代、香港では現在よりもはるかに、地元の言語である広東語が幅を利かせていたのだった。
まあ、片言ぐらいはできるようになって行ったから、あと2年もいればペラペラになるだろうと思って行ったら、とんでもない(笑)! 向こうは日常、広東語ばっかりだから、僕のほうが北京語は発音よかったりして。それでけっきょく、北京語習うより、現地のひとに日本語教えるほうがメインになっちゃったりしてね。それであんまり勉強にならなくて、このままじゃまずいと思って、帰りがけに台湾に寄って北京語がんばろうと思って、台湾に1年間いたんです。
香港のカレッジを卒業したのが1971年。時代はロック全盛だったが、勝美さんがハマったのは中国民族音楽や、台湾歌謡曲だった。香港でも台湾でも、夜になればナイトクラブに遊びに行って、生演奏をバックに現地の言葉で現地の歌謡曲を歌う。カラオケ登場以前の時代、そんなふうに歌を楽しめる場所が、いくらでもあった。
そんなことしてるうちに歌が、ステージが楽しくなって、芸能界に入ろうと思って帰国したんですよ。役者になりたくて。それでオーディションをいろいろ受けているうちに、仕事が少しずつ入るようになったの。それが、運がよかったんだね。「歌舞伎座で三波春夫の1ヶ月公演があるから行ってこい」って。兵隊とか、酔っぱらいの役だったんだけど。それで1ヶ月やったんですけど、ああいう舞台って、第1部がお芝居、2部がかならず歌謡ショーでしょ。それで、三波春夫の歌謡ショーに惚れちゃったんだよね。
たった1ヶ月ほどの役者キャリアを経て、勝美さんは歌手になるべく積極的に活動開始。テープをレコード会社に送ったり、オーディションを受けに通ったり、そうしているうちにマーキュリー・レコードのオーディション会場で橋本一郎先生(歌手、作曲作詞家)に声をかけられ、弟子入りすることになった。歌手としては戦前に活躍していた橋本一郎にとって、勝美さんは最後の弟子だった。
内弟子として先生のところに通うようになって、身の回りの世話を手伝いながら、びっちり一年間ほどレッスンしてね、それで先生がデビュー曲を作ってくれたんですね。特に厳しいとか、そのときは思わなかったけど、できなきゃいつまでもやらされたりしてたから、いま考えると厳しいってことなのかもしれないね。
昭和55(1980)年、『嵯峨野ひとり旅』で薩摩勝美=京一夫はデビューを飾る。京都の歌だから、一文字取って「京」。それに橋本一郎先生の「一」を足して、「夫」は「合計すると五木ひろしと同じ画数だってことで(笑)」、京一夫という芸名がこのとき生まれた。
デビューがもう30歳直前だったから、年齢的にちょっと乗り遅れたね。「あと10歳若かったら、よかったのに」なんて、よく言われたし、先生からも「君は遅咲きだからね、がんばれよ」って励まされてた。
歌謡曲業界では「若さ」がなによりのウリになっていた時代、遅咲きのデビューを飾った京一夫は、マスメディアへの露出を狙うよりも、地元中心の活動に専念するようになった。1983年から84年にかけて、レコード会社がかわってビクターから出されたのが『裏町の春』と『亀戸人義』。生まれ育った故郷をテーマにした曲ということもあって、ギターを持って夜の町を歌って歩く、流しの歌い手としての生活が始まったのだった。
とにかく自分の町の歌だから、知ってる店で歌うってことから、自然に流して歩くようになったの。あのころはみんな、そういう感じだったしね。流しといっても、僕の場合は自分のレコードを売り込むためだから、「なになに歌え」って言われる前に、まず自分の歌を歌うのが先決で、それからほかの歌も、歌いたいお客さんがいれば「いいですよ」って伴奏してあげる。だから弾き語りの先生、みたいな感じでもあったかな。渥美二郎の『夢追い酒』とかが流行ってたころだったなあ。
流す先は、もちろんスナック。仲間がマネージャーになって、予定を入れてくれることもあったが、飛び込みも多かった。
「いいですか?」ってドア開けて、飛び込みで歌わせてもらうんだよね。亀戸だけじゃどうにもならないから、青森の津軽海峡のほうまで足をのばして。海峡のそばの店、一軒一軒回って、やりましたよ。でも行くとこ行くとこ、「ここは五木ひろしが来たんだよ」とか、「川中美幸だよ、これ」とか、「ここに来た人はみんなヒット飛ばしてるんだよ」って言われてね、「がんばりな」って励まされて、がんばりましたけど。

そうやって、自分で買い取ったレコードを手売りして回る生活。もちろん、それだけでは食べていけないから、昼間もいろいろな仕事で生活費を稼いでいたが、その当時のことを京一夫さんは、「たいへんだったよ」」というだけで、多くを語らない。高校時代から好きあっていた女性と最初の結婚をして、ふたりの子どもに恵まれ、そして別れを経験したのも、このころだった。
営業で回ってれば、食べるだけは食べさせてもらえるし、チップもあったりして、生きていくには困らないけど、まあ「その日暮らし」だよね。それじゃ、まともな結婚生活もできないでしょ。「ウチにいれば給料出すよ」って言ってくれた店もあったけど、やっぱり気持ちが続かない。そのころ出会った占い師の先生にも「あなたはじっとしてるとそこで終わっちゃうけど、出て行けばかならず新しい巡り会いがあって、新しいことが広がっていくんだ」って。そのひと言でその気になっちゃってね。いつか見ておれ、みたいな気持ちで一日一日、無我夢中でがんばってたんだねえ。
そうやって夜も町を流しながら未来を夢見ていた京一夫さんに、神様は新しい巡り会いをちゃんと用意してくれていた。昭和60(1985)年、流しに立ち寄ったスナックで飲んでいた、亀戸天神の宮司さんに「うちの神社の曲を作ってくれ」と頼まれて、みずからの作詞で『亀戸天神様』を制作、歌の奉納を行ったのが、地元で話題になった。
レコードを1000枚作って奉納式典って、ものものしいのをやってもらったんですよ。それで半分の500枚を全国の天神様に配って。だから日本中の天神様にこのレコードあるんですが、残りを「おたくでどうぞ利用してください」って貰ったから、それは江東区の子どもたちのためになにかしようってことで、天神様コンサートというのを開いたの。そしたら売り上げが20万円ぐらい集まって、それを江東区の社会福祉協議会に贈ろうということになったんです。 そしたら協議会から「江東区の障害者福祉センターに、子供用の教育玩具が不足しているので、それに使ってもいいですか」と言われて、「わかりました、どうぞどうぞ」となったんだけど、また連絡があって、「「よろしかったら、子供たちの前でプレゼントしていただけませんか」って。そんなつもりじゃなかったんで、なんにも考えないでのこのこ行ったらさ、新聞記者までいて、たいへんな騒ぎ。それで子供たちとワーッてやってたら、その子たちと別れられなくなっちゃったの。なんかしてあげたいなって、初めて思って。「もしあれだったら、僕と一緒に歌おうよ。歌いに来るよ」っていうきっかけから、自然とミニ・コンサートっぽいものができちゃった。で、そういう子たちのために、毎月1回なら来れるからっていうことで、第3金曜日にね、もう25年から30年経つけど、いまもやってるんですよ。

ひょんなきっかけけから、ライフワークとなった障害者施設の訪問コンサート。演歌歌手として活動しながら、地道なボランティアを続けるうちに、京一夫さんにとって決定的な転機となるできごとがあった。あるとき、訪問コンサートにでかけようという朝、新聞を開いた京さんの眼に、ソマリアの悲惨な状況を伝える記事が飛び込んできた。痩せこけた子どもが、こちらも栄養不足で母乳も出ないだろうお母さんのおっぱいを懸命にさすっている、それは衝撃的な写真だった。
いつものように施設を訪れた京さんに、ひとりの子どもの母親が近づいてきた。見ると、手にコップ1杯のコメを持っている。「京さん、この子が、このお米を世界で飢えに苦しんでる子どもにあげたいって言ってるんです」と言う。ああ、あの記事だなと思った京さんは、「わかりました」と受け取ったものの、どうしていいかわからない。
子どもが自分でコップ1杯入れたんだ。コップ1杯なら、だれでもできるねって言ってるうちに、それがいつのまにか「コップ1杯のコメを贈る運動」になっちゃったんですよ。
すでに激動だった人生に、またひとつ激動の展開が待っていた京一夫さん。40歳を越えて始まったボランティア人生を語りおろす後編、次回にご期待あれ!

