[第15回] 木田俊之

「あいうえおの心」で、病魔を蹴散らし歌う男

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熱いみそ汁 炊きたて御飯
どこに不満の 種がある
広い世界にゃ 水一杯に
両手あわせる人もいる
お前・・・なるなよ 弱虫に

汗を流して はたらく事を
さけて通るな 男なら
泥にまみれて 真暗闇を
抜けりゃ花咲く 春も来る
お前・・・なるなよ 負け犬に
『こころ』木田俊之・歌/櫻田誠一・作曲/坂田あふる・作詞


 青森県弘前市を拠点に活動する演歌歌手・木田俊之を、青森県人以外で知っているひとは少ないだろう。しかしすでにシングル2枚、全曲集1枚を発売し、地元メディアにもしばしば登場する有名シンガーだ。
 木田俊之は、車椅子でうたう歌手でもある。筋ジストロフィーという難病に冒され、病魔と闘いながらの音楽活動を続けているからだ。愛妻・智恵子さんと二人三脚で、スナックから老人ホームまで、祭りの舞台からコンサートホールまで、呼ばれればどこでも出かけていく。
 そしてその歌声はどこまでも明るく力強く、のびのびとすがすがしい。ステージでは地元言葉の軽妙なトークで、客席を笑いの渦に巻き込む。録音だけ聞いていたら、とても難病に苦しむ人間とは信じられない、そんなエネルギーを声から、からだから放つ希有なシンガーだ。

 温泉とリンゴで知られる青森県大鰐町に1957年2月2日、木田俊之さんは生まれた。リンゴ農家を営む家は貧しかったが、豊かな自然の中で相撲に山遊び、夏は野球、冬はスキーに明け暮れる、腕白な少年時代だったという。

とにかくお金がなかったけど、まわりもみんなそうだったから、貧乏だからってなにも感じなかったねえ。うちは婆さま(祖母)がね、津軽民謡が大好きで、手踊りをやって村でも有名だったんで、物心つくまえから民謡を聴いて育ってきたんです。あとは小学校3年ころにグループサウンズやビートルズに出会って。そのころ絶頂期だったでしょ。

津軽民謡とビートルズ。グループサウンズに、石田あゆみや天地真理やクールファイブといった歌謡曲。耳に入ってくる音楽を片っ端から吸収しながら、俊之少年は育っていった。中学卒業を控えて、担任の先生から「頭の良い者は頭を使え! そうでない者は、身体を使え!」と言われたのをきっかけに、進学ではなく手に職をつける道を選び、中学卒業と同時に左官屋の親方に弟子入りする。
15歳で左官屋見習いになった木田さん。一時は暴走族に足を突っ込んで、警察のお世話になったこともあったが、「でも仕事だけは一日も休まなかったね」。親方の家に住み込むこと4年、さらに自宅から通いで4年。合計8年間、左官屋で働くうちに、また新しい歌との出会いも待っていた。

親方がね、とにかく演歌や歌謡曲が好きだったのさ。自分でうたいはしないんだけど、聴くのが好きでね、いっつもトラックの中で聴かされてるうちに、こっちも演歌や歌謡曲が大好きになったんだね。昔はほら、油屋(ガソリンスタンド)さんに8トラ(8トラックのカセット)がみんな置いてあってね。現場の行き帰りとか、ずーっと懐メロ聴かされてね。

親方とふたり、トラックの中で演歌に耳を傾けていた見習い工。しかしそのころ、もうひとつ別の種類の音楽にも、実は夢中になっていた。

17、8歳でさ、スティーヴィー・ワンダーを聴いてね、ちょっと衝撃、カルチャーショックを受けちゃったんですよ。それでブラック・ミュージックというか、ディスコにハマってね。休みはいっつも踊りに行くようになった。青森県内だけじゃなくて、秋田、仙台、郡山とか。それでそのころになると、左官の仕事も少なくなってたから、わたしら冬は出稼ぎに行くわけですよ、東京に。それで六本木とか新宿とか、ずいぶん行きましたよ。

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1980(昭和55)年、23歳のころからは、仕事量が激減した左官業に見切りをつけ、木田さんは横浜に出稼ぎに出る。

横浜の綱島ね、あそこまで出稼ぎで土方やりに行ってたんですよ。綱島で飯場暮らし。左官やってたころは冬だけだったけど、仕事がなくなってしまったから、夏冬通しで3年くらい。それで25歳の夏に、お盆で帰省したとき、弘前のディスコでかあちゃん(奥様の智恵子さん)と知りあってね。まあ、わたしが(かあちゃんに)引っかけられたみたいなもんです(笑)。

1年間にわたる横浜と大鰐の遠距離恋愛を経て、26歳で木田さんは青森に帰郷を決意。バスの運転手を目指して大型二種免許を取得するかたわら、弘前でタクシー運転手として働きはじめた。26歳で智恵子さんと結婚、翌年には長男、3年後には次男が生まれる。平日はタクシー、休日は実家のリンゴ園を手伝い、冬はスキー三昧、さらに地元のカラオケ教室に通いはじめたのをきっかけに、村祭りなどで自慢のノドを聴かせるようになった。木田さん一家の生活が、いちばん平穏だった時代である。しかしそのあいだ、知らず知らずのうちに、病魔は木田さんのからだを着実に蝕んでいたのだった。

長男が3歳で次男が生まれて、そのころです、弘前公園に花見に行ったら、子供が走り回るのについていけないんですよ。それまでもちょっとからだはおかしかったんですが、車に乗ってばかりだったんで、運動不足だろうと思ってたんです。それでも大学病院に検査入院したら、診断が「筋ジストロフィー」だって。そのときはからだも動いてたし、「そうなんだ......」ぐらいで現実感なかったですけどね。

2児の父親になった、それは木田さんが30歳になった1987(昭和62)年のことだった。最初のうちはちょっと不便を感じるていどで仕事もこなせたが、発病から1年たったころ、カラオケ発表会のステージで、スポットライトを浴びた瞬間に目の前が真っ暗になって昏倒。それ以来、立って歌うことができなくなって、大好きだった歌もきっぱり絶った。
 タクシーを運転できなくなると、配車係に転属、しかしそれも難しくなって失業。それからはサウナの受付や、組み立ての軽作業などを転々としながら、妻のパートと失業保険で食いつなぐ生活が始まった。そして36歳の誕生日を迎えるころにはとうとう、仕事ができなくなるほど、からだが動かなくなってしまう。

発病して(運転手)ができなくなって、いろいろ2,3年やってるうちに、とうとうママ(ご飯)が食べられなくなったの。仕事はなにもなくなってしまったし。かあちゃんだけを働かせて、自分は家にいるでしょ。働きたくても、働けない。あのころはつらかった。だれとも会いたくないし、電話にも出たくないし。それは死ぬことも考えましたよ。

そんなふうにこころの暗闇の中でもがく生活が続いた2年間。38歳になって、必死に家計を支える妻と、元気な子供たちの姿を見るうちに、このままではいけないと、友人の紹介で健康産業関係の仕事を始めた木田さん。その仕事を通して、人生をやりなおすちからを与えてくれることになるひとと出会う。鹿児島県出身、6歳のころに筋ジストロフィーを発症し、医者からは20歳までの命と宣告されたものの、持ち前のバイタリティで難病と闘いながら、強く明るく生きつづけてきた政所庄治(まんどころ・しょうじ)さんだった。
 同じ健康産業で働いていたことがきっかけで政所さんと出会い、そのポジティブな生きざまに、木田さんは「雷に打たれたように、目が覚めた」という。自分よりも、家族はもっと辛い思いをしているにちがいないのに、いままで自分のことしか考えずに落ち込んでいた日々。
 政所さんと出会った集会で、参加者がひとりずつ、なにか得意なことを披露することになって、悩んだ末に木田さんは「歌をうたってみよう」と決意した。31歳でステージに倒れてから封印してきた歌を、生まれて初めて椅子に座りながらうたった。うたい終わって、大きな拍手に包まれたとき、「そうだ、自分には歌があった、歌なら座ってもできる、これからは歌で生きていこう!」と、ひらめく。木田俊之、38歳の演歌歌手が誕生した瞬間だった。

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こころの暗闇を抜けて、歌手を目指す決心を固めた木田さんは、それから打って変わって精力的に動き出した。著名作曲家、作詞家の先生が審査員をするコンテストを狙って、集中的に出場。そうやって名前を覚えてもらおうという努力が実って1998(平成10)年、『第4回櫻田誠一杯 全国演歌大賞』でグランプリを獲得。コンテストのステージでうたった櫻田作曲の『蟹船』と『こころ』で、キングレコードからプロ歌手としてデビューを果たす。
2年後の2000(平成12)年には、同じ櫻田誠一作曲による、初のオリジナル曲『ふたり道』を発表。それは木田俊之と智恵子さん、ふたりで歩んできた苦難の道を、そのまま描いた曲だった。
2002年には、東北の演歌をふたたび盛り上げようと設立された「みちのくレコード」の第1号歌手となり、以来2年に1作のペースで新作を発表しながら、去年はとうとう歌手生活10周年を迎えた。
 

『こころ』を発表したころですが、人間には「あいうえおの心」と「かきくけこの心」があるっていうのを、書いたことがあるんですよ。前に出会った住職さんにお聞きしたんですが。それは、人間は「明るく」、「うれしそうに」、「笑顔で」、「おもしろく」という明るい心と、「悲しそうに」、「きつそうに」、「苦しそうに」、「けだるそうに」、「怖そうに」、という暗い心、このどちらかを持って生きているそうなんです。わたしが病気に悩んでいた時期は「かきくけこ」に心を占められていたんですが、家族と歌をとおして「あいうえお」の心を取り戻せたんですね。

 2008年には智恵子さんと結婚25周年、銀婚式を祝った木田俊之さん。筋ジストロフィーを発症してから、もう22年になった。いまでは車椅子がないと動けないからだになってしまったが、「歌に魂を入れること」だけを願って、いまも歌いつづけている。次の新たな10年に、そしてなによりの夢である紅白歌合戦出場に向かって。

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●木田さんが所属する「みちのくレコードHP」
http://www.michinokuhit.com/

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●著書情報
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『木田俊之物語 歌こそ我が人生』平成20年、みちのくレコード刊

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木田俊之「蟹船/岩木山」
試聴音源
1955年、青森県大鰐市生まれ。トラック運転手だった父の影響で、幼いころから津軽民謡や演歌に親しむ。中学校を卒業後、左官業、土方として働きながら、テレビのオーディション番組に応募する。地元に帰り、タクシー運転手として働いていた29歳のとき、筋ジストロフィーにかかる。病気と闘いながら、1998年にはキングレコードから「蟹船(かにぶね/こころ」でデビュー。2002年にはみちのくレコードから、「奥羽山脈」「じょんがら恋来い」を発表。現在は、青森県を中心に、老人ホームやスナックなどを巡業中。 ブログ:http://michiru113.exblog.jp/
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