
<前回のあらすじ>
昭和20年1月12日、終戦間近の東京都葛飾区に生まれ育った黒岩安紀子さん。父は亀戸で鉄工所を営む優秀な職人だった。終戦後、一足先に釧路に新天地を求め渡った父を追って、安紀子さんと母も釧路に渡る。4歳のときだった。小学校5年で内地に戻り、東京の中学に入学した安紀子さんだったが、酒癖が悪く放浪癖のあった父親に愛想を尽かし、高校1年生で中退、母とふたり家を出て、繊維問屋の住み込みとして働くようになる。17歳の春だった。
20歳になるころ、繊維問屋を出て品川区に転居、安紀子さんは昼間は会社の電話交換手、夜はアルバイトで水商売の世界に入ることになる。昼夜掛け持ち、二足のわらじを履く生活がそれから10年あまり続くことになったが、そのなかで妻子ある男性との大恋愛を経験する。地位も人格もたいへん立派なひとだったが、援助はきっぱり断って、働きながらのお付き合いが5年も続いたあげく、結局は将来の展望が見えなくなって、別れを決意。安紀子さんは30歳になっていた。
最愛のひととの別れを乗り越え、母と娘ふたりで生きていく決心を固めた黒岩安紀子さん。生活を仕切り直そうと、ずっと勤めていた電話交換手を辞め、母も仕事にしていた英文タイピストを目指し、目黒のタイピスト学校に通い始める。学校は資格の取れるまで1年間、そのあいだの生計を立てるために、同じ目黒にある会社にアルバイトとして働くことになった。
忘れえぬひとと別れて、これからはもう、よその亭主に手を出すことはしまい!と固く誓ってですね、仕事も替えることにしたんですよ。それで目黒のタイピスト学校に通いながら、ホテルを経営している会社にアルバイトで働くようになったんですが、そこがレジャーホテル・ニュースという新聞を出すので、社長が女性記者に「この町内に団鬼六という作家がいるから、行って取材してこい」と、行かせたんです。それで帰ってきたから、「団鬼六って、なにそれ?」って聞いたら、こういうのやってると言ってSM写真を見せられて。でも、本人は優しい感じのひとだった、って言うんです。で、今度銀座に『鬼の館』という、マニアの人たちが集まるクラブを団鬼六監修というかたちで作るんで、オープニングに友達連れて遊びに来ないかって誘われたから、あんた来ないかって言われまして。それで、作家のひとなんて、いままで知らなかったので、おもしろそうだから行ってみましょうかって、行ったんです。
レジャーホテルとは、ラブホテルのこと。黒岩さんが勤めることになった会社は、ラブホテル経営のかたわら、業界誌も発行する会社だったから、当時SMの大家として世に知られはじめた団鬼六さんを取り上げるのは、自然な流れだったろう。ちなみにその会社のオーナーは里見燿三氏。あの目黒エンペラーを作った、日本のラブホテル史に残る重要人物である。
それがたしか、5月のことでしたね。パーティに行って、団鬼六と隣同士になって、「あんただれ、ここになにしに来たの?」って聞くから、こういうわけでって説明して。そしたら、どこに住んでるんだって言うから、西小山ですって言ったら、「ふーん、目黒から近いね、いま秘書探してるんだけど、いちど遊びに来ないか」って。あのひと、だれでも誘うんですけど(笑)。でも、それで「遊びに行っていいんですか?」「いいよ、掃除してくれよ」みたいな感じで、花持って遊びに行ったんですね。それがきっかけで、ここまで入り込んでしまいました(笑)。ああ、またよその亭主と、こういうことになってしまったかと。
団鬼六さんにはその当時、すでに奥様とふたりの子供がいた。兄が小学校6年、妹が3年生。団さんは奥様と別居中で、本宅には団さんひとり、近くのマンションに奥様とふたりの子供が暮らすという状態だった。
そのころ、ご夫婦がちょっと疎遠で別々に暮らしてたんですが、奥様もブティックとかいろいろ仕事をされていて、家にいないことが多いので、しょっちゅう子供たちが(団さんの暮らす)家に来て、わたしがご飯を食べさせたり、4人で一家団欒やってたんです。
(団)先生と知りあって、そのうち家に帰るのもめんどくさいしってことで、住み込みになっちゃって。子供たちも泊まりに来るし、仕事の仲間や編集者たちもたくさん来るしで、私がねえやみたいなかたちで、なし崩しに泊まることになって、そんなことになってしまったんですね。やっぱり主人の生活態度は、ふつうじゃないわけですよ。それを欠点と見るべきか、長所と見るべきか、なんですけど。奥様は20年間尽くされてきたけれど、それが欠点に見えてきちゃったんでしょうねぇ。
それで、別居してはいるけれど、奥様のほうはできればもういちど、復活したいと思ったようで。先生も「何回も同じことがあった末のことだから、どうせまたダメだと思うけど、子供の顔を立てて、もういちど(妻と)同居することにしようと思う」って言うから、「それはもう、当然ですから、そうしてください」って、私は(団さんの)家を出たんですよ。そうして、紹介してくれる人がいて、テレビ神奈川の傘下の会社に就職したんです。31歳のときに入って、38で結婚するまで、けっきょく8年ほどもいました。
黒岩さんが入社したのは、テレビ神奈川傘下で、もともと神戸に本社を置く、地方のUHF局を数局運営する会社だった。横浜の所長格で入社した黒岩さんは、しかし管理職として、いきなり組合との闘争に巻き込まれることになった。
放送関係っていうのは、組合運動がすごく盛んなところで、テレビ神奈川は総評系だったんですが、私が入った社員30人ほどの会社でも、たいへんだったんです。組合員のひとりが起こした不祥事がきっかけで、ストライキとかが始まって、テレビなので心臓部は休むわけにいかないけれど、夕方5時になるとピーとか笛吹きやがってね、言葉は悪いけど。それで赤い旗振って、いままでやってた仕事をバンと投げ出すんですよ。管理職ったって私たちふたりしかいなかったですから、もう何日徹夜したことか。いままで徹夜なんて、したこともなかったのに。それでご飯も食べられなくなって、体重40キロを切っちゃって。人の上に立つ仕事なんて、もともと向いてないんですが、尻尾巻いて辞めるのもイヤだとがんばってるうちに8年近くたっちゃって。そのときに、レコードの話が舞い込んできたんです。

流行歌がまだカラオケではなく、有線放送から広まっていた時代のこと。あるとき黒岩さんのもとに、曲としてはできているものの、歌い手を探している『網走の女(ひと)』という歌の話が伝わってきた。仕事に悩んでいた黒岩さんは、それなら私が歌います!と手を挙げてしまう。
♪北の最果て 流氷の海の~~、という感じの歌ですが、もともと『奥飛騨慕情』の竜鉄也さん用の曲だったのが、事情があってお蔵入りしていたようなんです。それで、だれかやるひといないでしょうか、というのを漏れ聞いて、私がやりますと言ったんですよね。少しは嫁入り資金も貯めてるし、でももう、嫁に行ける希望もないし、組合と揉めるのもうんざりということで、いちかばちか、これに使っちゃうほうがいいやと思ってね。だからもう、会社の人間には、「私はもともと小さいころから歌が好きだったので、こういう機会が巡ってきたから、もうこれでやっていく。だから送別会もいらない、アバヨ」といって、辞めちゃったんです。それでレコードを出して、網走の流氷祭りとかにキャンペーンしに行くので、30年ぶりに釧路にも寄れました。もう涙、涙でしたねえ。
テレビ制作会社の管理職を経て、ついに歌手になった黒岩安紀子さん。しかし会社で働いていた8年間のあいだも、団鬼六さんとの関係はまったく切れたわけではなかった。
(団さんの)家を出て就職したわけですが、そのあいだもたまには会ったりするし、先生の取り巻きたちが「宮本さん(黒岩さんの旧姓)呼んで飲もう、飲もう」という話になることもあったり。そんなふうにして時が過ぎて、私がレコード出して、といっても自主制作盤ですけど、しばらくしたら、突然ある事件が起きて、団さんが奥様と別れることになったんです。
もう、太陽が西から出たってそんなことあり得ない、とまで思ってましたから、まさに青天の霹靂でした。でもそういうとき、女ってのは「待ってました」とは言えないの。悔しいじゃない。それで「ああ、そう、いいんじゃない、だれかほかのいいひと探して、後添えにもらったら?」とか、言っちゃったんですよ。
そんな、かわいらしく拗ねる黒岩さんと、団さんの仲を取り持ったのが、団さんのお母さまだった。
その方は、うちの母と同じ明治36年生まれで、香取幸枝という芸名の元女優、松竹の映画にも出たし、岡田嘉子一座に入っていて、しかも直木三十五の弟子になって文学を志したこともあるという、素晴らしい女性でした。
そのお母さんに私は、愛人時代からよくかわいがってもらって、ふたりとも同じ日蓮宗だとわかって、お寺詣りに出かけたり、遠くに旅行したりしてたんですね。それで、そんなことになって、お母さまが乗り出してきた--「黒岩家を救えるのは、あなたしかいないのよ!」って。私の好きなフレーズなんですねえ(笑)。
それでも1年ぐらいは、「私はそんなつもりで付き合ってきたんじゃない、これからレコードでやっていくんだから」とか抵抗していたんですが、「まあまあ安紀子さん、そんな意地を張らないで、レコードは結婚してもできるからね」とか言われて。それでとうとう、結婚することになったんです。でも主人にはちゃんと言いましたよ、「あんたに惚れて来たんじゃない、お母さんが素晴らしい方だから来たんだ」ってね。
昭和59年、黒岩安紀子さんは39歳にして、団鬼六夫人に収まることになった。そのとき団鬼六さんは53歳、二度目の結婚だった(団鬼六=本名は黒岩幸彦)。
レコード・デビューといっても自主制作だったから、お皿を作ってもらっただけのこと。それに子供たちもいましたから、まず家庭の維持というか、子育てにがんばらなきゃならないと思ってるうちにね、結婚してから2年ほどしてからでしょうか、落ちついたところでふたりで旅行に行く機会があって、それで思いもかけず、私に子供ができちゃったんですよ。
そのとき、私も41になってました。すでに黒岩の家も、跡取りの息子と娘がいますから、つくろうとして行為に及んだわけではないんですけれど、まあ、ひょいとそういう気になった時に、できちゃったわけです。いやあ、私も非常にびっくりいたしましたですね。主人には「俺はもういらない」なんて言われてましたし、私もほんとにそうだと思ってたんです。でも、できちゃったから産ましてちょうだいって言ったら、「そんなの同じ小説二度書くみたいで、俺はいらねえ」とか言うから、むっとしましたけれど、「ええ、構いません。実家の方が(跡継ぎが)絶えてるので、実家の跡取りにするべく産みますから」って言い返して。産んだあとで四の五の言われるのなら出てやれ、と思ってましたけど。まあ、産んだらやっぱり孫みたいな歳ですから。55で産まれた子供ですから、孫みたいに可愛がってくれたので、しめしめと(笑)。
昭和61年、41歳で長男を授かった黒岩さんは、団さんと前妻との子供ふたりをあわせた家庭の切り盛りに専念するようになる。そうして上の子ふたりが成人を迎え、長男が中学校に入学し、ひと段落というころ、「団鬼六の妻」としてテレビ出演する機会が増えてきた。ワイドショーへのゲスト出演、『知らばかプラス』(フジテレビ系列)ではレギュラーも務めたりしているうちに、「なにかやりたいことないかなーって番組の関係者と話したりしているうちに、ああそうだ、また歌をやってみたいなと思いはじめて。そうしたら、あれよあれよというまにコロンビアに話が行っちゃって、レコードができちゃったんです」。
昭和57年に自主制作盤を出して以来の2枚目にして実質的なデビュー、それが平成11年にリリースされたCDシングル『乳房/知らぬは亭主ばかりなり』だった。
詞を書いているMURASAKIというのは、実は花井紫さんという女優さんで、そのマネージャーがもともと谷ナオミのマネージャーだったので、昔からよく知ってたんですね。それで彼が動いてくれて、レコード会社のほうも「テレビにも出てるし、団鬼六の奥さんだから売れるんじゃないか」とか思ったんでしょうね、異色の歌手としてデビューして、当時はけっこう取材が来ましたね。
♪私を花に たとえるならば
薄紅 燃える 夕顔の花
闇夜に命を 授けられ
あなたの為に 身をひらく
もっと・・・ 愛の証しが欲しいなら
この乳房 切り裂いて
あなたに見せて あげましょか
激烈な愛の情念を歌う『乳房』、そして
♪お金も指輪も 欲しいけど
小指をかんで じらすよな
甘くて切ない 恋もよし
浮気ごころは 蜜の味・・・ サテ
と軽妙に流す『知らぬは亭主ばかりなり』。どちらも、酸いも甘いも噛み分けた、オトナの女性ならではの世界観である。平成14年にはコロンビアからの2枚目となる『京都絵すがた/深川恋ごよみ』を発表。その間に日舞のための曲などもリリースしているが、特筆すべきは平成16年にキングより発売された『知覧の母/母は老いても』だろう。昭和20年、終戦の年に生まれた黒岩安紀子さんにとって、終戦後60年にあたる平成17年は、特別に思い入れのある年になるはずだった。そのためになにかやりたいと思っていたところに出会ったのが、『知覧特別攻撃隊』と題された、特攻隊員の写真、遺書、日記、手紙を収めた書簡集だった。

終戦の年に生まれたということは、私自身とても意義のあるときに生んでもらったと思って。たくさんの犠牲によって得た平和と幸せを一身に浴びて、この60年きたわけですね。ですから、なにかこう、それに見合うようなものをやりたいと常々思っていたときに、ちょうど、平成16年の9月くらいに知り合いの方から、知覧特別攻撃隊の書簡集をいただいたんです。
「安紀子ちゃん、こんなのを歌にしてくれたらいいね」、「あぁ、それじゃあぜひ!」というようなぐあいで、すぐに知覧に飛びまして。それで関係者の方々にもお話をいろいろしまして、平成17年1月発売、戦後60周年記念曲ということになりました。それからずっと、いまでも毎年5月3日に知覧で行われる慰霊祭には、かならず参列しています。
カップリングは『母は老いても』という曲ですが、こちらは昭和20年の東京大空襲を扱っています。3月10日の未明の爆撃で、東京の下町では10万人からの人間が犠牲になったのですが、そのなかに墨田電話局で、最後まで通信器を耳から離さずに、電話回線を死守しながら焼け死んでいった28人の娘さんたちがいたんです。いま、まあ問題はあっても、これだけ平和で豊かな国になれたのは、そういう方々の貴い犠牲の上に成り立っているのだろうと。それで、なにかしたくって、CDを出してから、靖国神社やほかの護国神社でも、この『知覧の母/母は老いても』の2曲に『岸壁の母』と『九段の母』を加えた4曲と語りを入れて、奉納歌謡をやらせていただいてきました。
平成19年には一転して『夢二憂愁/ああ忍ぶ川/浅草振袖さん』という粋歌を集めた3曲入りCDを発売。「私には『知覧』の部と、『夢二』の部とあるんですよね」とご本人が言うとおり、主婦としての日常のかたわら、多彩な活動に取り組む毎日である。
(歌手として)始めたころは、右も左もわかりませんでしたが、いまはなるべくいろんなところに食いつくようにしてますね。でも、プロダクションもマネージャーもなしですから、全部自分でやるの、大変ですよ。家では「すいません」とか低姿勢にしてますけど、外へ出たら、ふだんでも着物ですから、もう着物のままで大きな荷物持って、階段駆け上がるんですよ。
だから体力も必要だし、お金も必要、はっきり言って。年金、駆使してますから! 歌いに行ったって、何十万ももらえるわけではないでしょ。ボランティアで、交通費すら出ないことだってしょっちゅうあるし。でも、そんな経費出してくれるところ待ってたら、いつまでたっても私みたいのに声なんて、かからないから。
それでも歌いつづけること。それを黒岩さんは、「自己満足なんです」と笑う。
ひとのためじゃなくて、結局は自分が楽しいからなんでしょうねえ。主人が言うのは当を得てまして、「お前の幸せは、俺の不幸だ」って。いつも私は、「あの団鬼六先生の奥様」と前置詞がつくわけですよ。だから私の究極の望みは、「ああ、あのひとさ、歌手の黒岩安紀子の夫だってさ」と主人が言われること。この文言が聞きたい! それでね、私が稼いだお金の、札束で主人のホッペタをペンペンってはたいてね、「これで遊んでらっしゃい」ってね、言いたいねぇ。
演歌は、好きな人たちがどんどん高齢で死んじゃってるし、大体において世の中が幸せで豊かだと、演歌はいらないんです。言葉は悪いけど、小便臭い路地裏から流れて来るのが演歌なんですよ。ところが、そういう時代じゃないですから。みんな裕福になっちゃってて。自分の家に有線放送引いてあります、自分でリクエストしますから自分の歌をかけてください、って時代でしょ。いろんな歌が聞こえてくるけど、全部、前世紀の言葉。「追いかけて、港へ追って行って」なんて、そんなのないでしょ、いまは。『愛染かつら』だって、あの時代だから成り立つんで。ホームへ高石かつ枝が駆け上がったら、浩三さんが大阪行きの列車で行っちゃって。すぐ追いかければいいでしょ、携帯に電話かければいいんじゃないって。だからいまのひとに言っても、身も蓋もないけど、ただね、ほんのひとにぎり、そういう心情をわかる方たちが残ってますから、それは日本人のこころとして、やっぱり必要なものだと思うんですよね。
ただ、いまはね、お金さえあれば、レコードなんてだれでも出せるでしょ。歌手ですと言えば、自己申告で歌手になってしまうわけ。それに、うまい人はいっぱいいるんです。ただその中で天才と、天才は運勢も持って来てますから、世の中を捉まえる運勢があればこそ、第一線に入れる。だって私は、うまかないけど、へたじゃない、へたじゃないけど、うまかないという部類ですから。ふつうのひとのカラオケ、聞いてご覧なさい、ただうまいひとなんて、ごまんといるでしょ。だけど第一線に行けるひとは、そのうえで時代を捉まえる運勢があるんですね。で、たとえ運が来たって、うまくなきゃあ上がっていけないし。そうやって、すべてのものがうまくかみあわさったときに、四次元の世界に入れるんですよ。
「うまかないけど、へたじゃない、へたじゃないけど、うまかない」黒岩安紀子さんは、あくまでも自分のペースで歌いつづける。戦後65周年になる来年(平成21)には、『黒岩安紀子と行く知覧慰霊の旅』を企画中。20名以上の参加者を集めて、特攻隊の基地があった知覧の地で慰霊祭を執りおこなう予定だ。また黒岩さんの歌謡ショーは、昭島市の健康ランド・スパ昭島でも定期的に開催されている。


