[第14回] 大和たける

津軽の"氷川きよし"は、病と闘いながら歌の道を極める

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今日という日が 二度ないように
後にゃ戻れぬ 夫婦丸
長い人生 これから先は
命重ねる 契り船

『契り船』 大和たける・歌

 喫茶店のテーブルを挟んで、目の前にふたりが座っている。大和たけるさんと、藤原りかさん。自身の歌そのままに手を取りあって演歌の道を歩みつづけるふたりは、青森をベースに活動する歌手であり、パートナーでもある。
 大和たける(本名・木村誠)さんは昭和46年3月11日、津軽平野の南端に位置する青森県平川町(現・平川市)に生まれた。トラック運転手だったお父さんは大の演歌好き。小学生のころから、年に似合わぬオトナの歌に親しみ、地元のカラオケ大会やスナックでノドを披露しては、オヒネリをもらうほどの歌上手だった。
 中学校時代には剣道に打ち込むが、どうにもからだの具合が悪く、病院で診断を受けたところ、重い腎臓疾患が発覚。高校を卒業するころから、透析治療を始めなくてはならなくなった。
 病気のおかげで土地を離れることもできず、昼間フルタイムで働くこともできないまま、トラック運転手、駐車場勤務、運転代行など、夜できる仕事を転々とするようになったが、ひょんなことから歌謡大会の仕事を手伝うようになり、そこで知りあった藤原りかさんに歌の才能を再発見されて、30歳を過ぎたころ歌手デビュー。2004(平成16)年には初のCDシングル『男の宝/浪花の女』を発表、2006(平成18)年には第2弾CDシングル『契り船(ちぎりぶね)/茨人生(いばらみち)』を出す。現在にいたるまで、どこのプロダクションにも、レコード会社に属することもなく、藤原さんとたったふたりで、車に音響設備も積んで、地元の青森をベースに東北を歌い歩く生活を続けている。

もともと両親ともに演歌が好きだったんですが、特に父親がもう、バカがつくくらいの演歌好きだったんですね。とにかく朝、起きたら演歌。ずっとトラック運転手をやってたんですが、運転中ももちろん演歌。それで乗せてもらってるうちに自然と覚えたりして、小学校3年生ぐらいから歌うようになりました。まだ子供の声だから、キーが女の歌しか歌えなくて、木村友衛さんの『浪花節だよ人生は』とか、神野美伽さんの『男船』とか、歌ってた記憶があります。

「自分で言うのもなんですけど、ちゃんとコブシ回して歌ってましたね」という、小学生にして本格的な演歌節をマスターしていた天才肌だったが、実は人前で歌うのは「ほんとにイヤだった」。お父さんは歌上手な息子を自慢したくて、スナックに連れて行ったりするのだが、知らないオトナばかりが酔っぱらってる席で歌うのが、イヤでイヤでしょうがない。地元のカラオケ大会に出場して、「舞台に出ると"お花が上がる"(オヒネリがもらえる)のは楽しかった」けれど、けっきょく気持ちが歌から離れていって、中学いっぱいぐらいでぷっつり、歌をやめてしまう。
 歌のかわりに誠少年のこころをとらえたのは、剣道だった。

オヤジは自分のことを、歌手にしたいと思ってたみたいなんですけどね、そのうち諦めちゃいました。それで、実は生まれつき片方の腎臓が機能しなかったみたいなんですけど、剣道で無理しすぎたみたいで、いずれは透析しなきゃダメだよと言われまして。高校に入ってから、長く検査入院したりして、最初のうちは透析ってなんなのかも、わからなかったんですけど。できればドナーを探して、移植したいとずっと思ってましたが、そう簡単に見つからないし、検査でうまく合っても、かならずしも適合するとはかぎらない。両親からも「片方あげる」と言われましたが、オヤジはもう歳だし、おふくろは血液型が違うしってことで、けっきょくもう、18年間も透析やってますから。

高校を卒業しても、昼間は透析に通わなくてはならないので、必然的に仕事は夜になる。小さいころから乗せてもらって大好きだったトラックの運転、弘前の繁華街で駐車場の管理、それに運転代行など、クルマ関係の仕事をしながら20代の生活を送ることになった。

30歳になるかならないかぐらいまで、駐車場や代行をやってたんですが、ちょうど氷川きよしがぐーっと人気ではじめたころでした。『箱根半次郎』のB面に『花の渡り鳥』という曲があるんですが、これを聴いたときに、いい歌だなーって思って。そのへんをずっと自分で聴いたり、カラオケで歌ったりはしてたんですね。

そんなとき、秋田からすごくうまい演歌歌手が来るらしい、と演歌好きのお父さんが聞きつけ、大和さんを連れて見にいったのが、藤原さんとの出会い、そして歌の道へと大和さんを引き戻すきっかけになった。

[藤原りかさん]わたしはそのころ、水沢リカという名前で、自分で歌ったり司会する仕事のかたわら、山川大介さんという歌手のマネージャーをやってたんですね。山川さんというのは、東京ではそれほど知られていないかもしれないけど、秋田を中心として東北地方では演歌の第一人者っていわれるくらい有名で、ステージやると、お花(オヒネリ)もものすごくつくんです。そこで彼(大和さん)と知りあったんですが、音響設備に詳しいとわかって、そのあと秋田でイベントがあるときに来てもらったんですよ。
昔から趣味はクルマと機械いじりで、子供のころに親が買ったステレオをカラオケ機に改造してたぐらいなんですが、彼女が秋田のいろんな場所を回るカラオケ大会の司会をやることになって、そのときは鮎川ゆきさんという八代亜紀の物真似ショーがゲストイベントであったんですが、音響をやる人がいなかったんで、頼まれてついてまわったんですね。 それで音響の調整をするのに、マイクで歌を歌わなきゃならないじゃないですか。てきとうに歌ってたら、「歌合わせできるから、本気で歌って!」って言われて、それを主宰者のひとが聴いていて「きょうからシロウトじゃなくてプロってことで、2,3曲歌ってくれよ」と頼まれまして。
[藤原りかさん]あのころはこのひと、知らない曲でも2,3回聴くと、ちゃんと3コーラスまで歌詞を暗記できちゃったし、歌はうまいしで、びっくりしましたね。それで鮎川さんや山川さんにも可愛がられるようになって、本人も歌でいこうかなと思いはじめたようです。

鮎川ゆきさんや山川大介さんのショーで前歌を歌ったり、音響を担当したりしながら、ひょんなきっかけで大和たけるさんの歌手生活がスタートした。いまから7,8年前のことだった。

山川(大介)さんというのはね、舞台も完璧主義で、ちゃんと自分で音響(設備)持ってる。ショーの場所の音が悪かったら、「音響さん、もういいよ」って、自分の機械をセットしちゃう。音が悪くちゃ、テープも売れないし、花も上がらないでしょ。山川さんぐらい、テープ売って、花上がるひと、見たことなかったっすもん。すごい田舎で、じいちゃんばあちゃんばかりを集めてやるんですが、テープと花で、もう数える指が疲れるぐらいの札束。そういうの見ていて、自分も憧れたんですね!
大和さんの故郷は青森だが、歌を始めたころは秋田を中心に回っていたという。「東北にもいろいろあって、いちばん演歌が好きなお客さんが多いのが秋田。その次が青森で、岩手は民謡が強くて、演歌はちょっとむずかしい。お客さんのノリも難しくて、秋田がいちばん歌いやすい」そうだ。 デビューといっても、特に先生についてボイストレーニングを受けたわけでもない。いきなりステージにポンと出されて、衣装もない、オリジナル曲もないという状態で、氷川きよしのナンバーを中心に歌って、「オバサマたちからは"津軽の氷川きよし"なんて呼ばれました(笑)」。売るべきCDもカセットテープもない。でも、歌えば意外にオヒネリが集まる。はじめのうちは駐車場や代行の仕事と掛け持ちでやっていたが、「あのね、夜代行に行ってさ、いくら稼いでるの? 1曲か2曲歌うだけで、時給にしたらいくらよ? 自分の体調を見ながら、やれるときに集中して、短時間で稼ぐようにしたほうがいいんじゃないの?って説得して、夜の仕事を辞めるように説得したんです」(藤原さん)。

「歌手といったって、どんな仕事かなにもわからない、とにかくCDやテープ出せばカネかかるんだろうなってぐらいの意識しかなかった」という大和たけるさん。歌手になって1,2年は氷川きよしなどのヒット曲を中心に歌っていたが、2003(平成15)年ごろになって、オリジナルを出そうという話が持ち上がる。世話になっていた山川大介さんが、自分の持ち歌、なんでもいいから歌って、安く出して稼げばいいじゃないかと言ってくれたのだ。そうして選んだ歌を吹き込んで、テープを作って、いざ売ろうとしたところ、作曲家に話が通っていないことが判明! 大和さん、山川さん、作曲家のあいだでの行き違いがあったためだが、結局デビュー曲の『男の宝/浪花の女』は2004(平成16)年、テープを1000本ほど作って売って、制作資金を回収したところでお蔵入りになってしまった。

そんなことがあって、山川さんとはうまくいかなくなっちゃったんですけど、それから秋田で作曲をしている、あさぎり英夫さんという先生と知りあいまして、「とりあえず自分の歌が欲しいんです、なんか作ってくださいっちゅうことで」、2曲作ってもらったんです。

それが翌2005(平成17)年に発表することになった第2弾、『契り船/茨人生』だった。

最初に曲をいただいたときはね、正直言って、自分のイメージにぜんぜん合わなかったんですよ。こっちは氷川くんみたいな明るい曲が欲しかったんですが、できてきたのはなんだか年配のおじいちゃんが歌うみたいな感じで。歌い方も先生が指示するのが、自分とは合わない感じで......。だから4年経ったいまは、CDとはぜんぜんちがう歌い方をしてますね。ジャケット写真も、ほんとは評判悪かったんですよ。真っ赤な背景で、はだかの上半身に革ジャン羽織ったりして。もう亡くなっちゃった、弘前で写真館をやっていた、地元ではカリスマ的な写真家の方にお願いしたんですが。自分では、もっとぼかした感じの風景とかがよかったんですけど......(笑)。

ともかくも自主制作で無事に発売となった『契り船』のあと、2007年には次の新曲の話が進み、今度はきちんと予算もかけて作ろうとなり、スポンサーも見つかったのだが、「とんとん拍子で曲ができて、1週間後に音録りって段階になって、スポンサーが降りちゃって」頓挫。自分が熱くなって、どんどん先に行っちゃったのがいけなかったんですと当時を振り返るが、「制作費が600万かかる。それだけのカネ、自分では出せないですよねえ」。なので現在は『契り船』を歌いつづけながら、音響の仕事に「ずいぶん生活、助けられてます」という状態だ。
 

いろんなところで歌うでしょ、音響屋さんって、かならずしも歌手にそんな合わせてはくれないんですよ。歌い手のいいところを引き出してあげよう、って音響屋さんは、なかなかいない。だって自分みたいに、歌って音も出すという音響屋は、いないですからね。歌わなくちゃ、歌いやすい音って、わからないもん。かといって、こっちも新人ですから、なんか言っても、生意気だって怒られるのが目に見えてますんで。それで、そんな思いするんだったら、自分で持ったほうがいいと思って。だからいつもスピーカーとミキサー、クルマに積んで回ってます。それならどこ行ってもすぐに歌えますし。お祭りだろうがスナックだろうが、どこでセッティングしても、歌いづらいって言われたことないですからね。

「機材の高い安いじゃなくて、音に対する耳の問題なんですよ。機械ってのは、なるべくシンプルな組み合わせがよくて、いらないものいろいろ入れちゃうと、かえっていい音出ないんです」と教えてくれた大和さん。考えてみれば、どこの組織にも属すことなく、自分で作品をつくり、自分のクルマにサウンドシステムを乗せて、呼ばれればどこへでも行って歌い、CDやテープを売る。これほどシンプルで、混じりけのないスタイルがあるだろうか。
 シンプルなシステムの機械からいい音が生まれるように、作り手と聴き手のあいだに、なるべくよけいなものを入れないこと。それがいい音楽をいい音楽のまま世に出す、ひとつの解決法なのかもしれない。

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大和たける「契り船」
試聴音源
1971年青森県平川町(現・平川市)生まれ。トラック運転手だった父親の影響で、地元のカラオケ大会に出場するなど幼いころから演歌に親しむ。高校を卒業後、トラック運転手、運転代行などの仕事を転々としていたとき、父とともに見に行った地元のカラオケ大会で、歌手の水沢リカ(現在は藤沢りか)と出会い、歌の道に進むことを決意。2007年に、『契り船/男の宝』でCDデビュー。現在は東北を中心に活動中。高校生のときに腎臓病を患い、透析をしながらの歌手生活をおくる。
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