
大久保の小さなライブハウスのステージ。空席の目立つ客席の暗闇に向かって、女の子が歌いかけている。余裕、とかじゃない。不安定ながら、とにかく一生懸命な歌声と、ぎこちなさの残る振り付け。
歌い終わると、客席に深く一礼して、彼女は袖から出てくる司会の男を待ち受ける。どうせ、きょうも同じことを聞かれて、ネタにされるのだ――「有名漫才師の娘って、どんな感じですか?」
いづみ=IZUMIさんは、漫才コンビ「おぼん・こぼん」の、こぼん師匠の娘だ。高校生のころに、おぼん師匠の娘・ちひろさんと女子高生お笑いコンビ「くれよん」を結成。しかし2年ほどでコンビ解消。「浅草娘演歌隊」なるグループに参加して、浅草のホールで歌ったり、大阪のステージで歌ったりしながらチャンスを待ち、おととし2007年、はじめて東京のライブハウスで単独ライブ、シングルCD『浅草は心の故郷』を発表した。
まだ、とても歌だけで生活していくことは無理だから、パスタ屋を2軒掛け持ちでバイトしながら、歌えるところならどこにでも足を運ぶ。厳しいのが当たり前の世界で、彼女もまた、ゴールの見えないコースを、必死に走っている。
よく間違えられるんですよね、おぼん・こぼんって、吉本でしょって。父もおぼん師匠も大阪出身ですけど、漫才をやるのに東京に出てきたので、スタートがこっちなんです。だからわたしも東京の生まれ育ち。そういえば父たちのデビューも、わたしの漫才師デビューも、同じ17歳でした。
いづみさんは1982年9月、こぼん師匠の次女として、東京都中野区に生まれた。2歳になったころ、一家で千葉県船橋市に引っ越し、以来現在に至るまで千葉県民だ。
子供のころは、学校の友達も「おぼん・こぼんって、だれ?」みたいな感じだったんです。ちょうどわたしが生まれたころぐらいがブームだったんで。でも、『お宅訪問』みたいな番組で、家族でテレビに出させてもらったりしてたので、小学生のころから、テレビは身近でしたねぇ。けっこう目立ちたがり屋だったんで、学校でも放映の日は「きょう、出るよ~!」みたいな(笑)。
おぼん・こぼんの芸は、ただの漫才ではなくて、タップや歌や踊りを取り混ぜた、バラエティ豊かなステージだった。自転車の空気入れで、ハーモニカを吹いてみたり。そういう父の姿を見て、いづみさんは小さいころから、なんとなく自分も同じ道に行くんだと思っていた。
幼稚園のころ、自分の夢を書くときがあって、わけもわからないまま「漫才師」って書いたのを、覚えてます。どんな仕事かなんて、理解してなかったと思うんですけど。小さいころからピアノとかバレエとか、習い事はいちおうさせられていて......。自分でやりたかったのは、そうじゃない。そのころ安達祐実がすごく人気で、ひとつ上だったんですが、彼女に憧れて、劇団に入りたい!って親に頼んだんです。でも、子役からやるのはダメだって言われ続けて。安達祐実みたいのは一握りで、たいてい子役上がりは大成しないんだからって。
児童劇団には親の反対で入れなかったいづみさんだが、中学に入った年、ちょうどできたばかりの演劇部に入部、第1期生として学生演劇にのめり込む。そして3年のとき、ついにお許しが出て、日本テレビが主宰するタレント養成所<タレントセンター>に通い始めた。
中学校の演劇部は、わたしたちが第1期生だったので、先輩も後輩もないですから、もう、やりたいほうだい。顧問の先生が、すごく熱い人だったんで、けっこう衝突したり。でも、すごくおもしろかった。ほかの学校の演劇部と共同で発表会とかもやるんですが、舞台で台詞忘れて、芝居が止まっちゃったり(笑)。でも、中学校最優秀演劇賞や、個人の演技賞ももらって。とにかく演劇が、楽しくて楽しくて、しょうがなかったんです。そういえば、同じ学年で、演劇部が一緒だったのが、倉木麻衣ちゃん! そのときは同じクラスじゃなかったんで、突っ込んだ話はしなかったんですが、あとであんなことになって、悔しいぞ!みたいな(笑)。
演劇にすっかりはまった少女は、声優に憧れるようにもなって、普通の高校に進学する気をすっかりなくすが、周囲の説得に負けるかたちで、日本芸術専門学校という、芸能の専門学校に進学する。
姉が声優に憧れてて、養成所に通ったりしていたので、それについていったりしているうちに、自分でも「勉強するなら、芸の勉強がしたい!」と思うようになって、高卒資格が取れる専門学校を自分で探して、申し込んだんです。
お姉ちゃんが普通の高校に行きたくないって言ったときも、周囲から説得されて、けっきょく普通の高校に進学したんですが、そのときにうちの親が山田康雄さんと交流が深くて、あのルパン3世の声で、「声優になるのにも、高校は出ておいたほうがいい」って、説得の電話がかかってきたりしたんですよ(笑)。

わたしが選んだのは日本芸術専門学校・芸術高等課程っていうところで、演技はもちろん、ダンス、日舞、殺陣、タップ、バレエ、あと楽器系もある。月、火、水が座学っていうんですが、国語、社会、英語の授業。理数系はないんです。木曜が音楽の日。音楽理論からボーカル、ピアノ、キーボード、ドラム、ギターの授業を受けて、金曜日は実技の日。ダンス、日舞、殺陣までやってました。でも、みんなバカばっかりで、明るいバカですが。だって英語の最初の授業が、I、my、me、mineから始まったんです。高校なのに!
そんな楽しい仲間との学校生活の中で、いづみさんは本格的に音楽に目覚め、バンド活動を始めたり、学校のほかにダンスのレッスンに通ったりするようになった。
授業で音楽理論習ったりすると、バンドやりたくなって、仲間とバンド組んでキーボードやったりとかしてました。高校生のころから、自分で作曲もやってましたし。友達の影響で、浅倉大介が好きで、コンピューターミュージックがやりたいと思って。それに芸能人もよく来るようなダンス・スタジオに、ダンスを習いに通って。ヒップホップ系じゃなくて、ジャズダンスですが。それで、レッスンが21時30分に終わって、家に帰ると23時。もう、バイトどころじゃなかったですね。
演劇に音楽にと、エネルギッシュに打ち込んでいたいづみさんに、思いがけない話が飛び込んできたのが、高校3年生の夏。父の相方・おぼんさんの娘と、ふたりでユニットを組んで漫才をやってみないかという誘いだった。
わたしも相方も9月生まれなので、ちょうど来月18になるよってときがデビューでした。それまで、親戚みたいな感じで、特別に家族ぐるみで親しくしていたわけではないんですけど。あちらのほうが高2のころぐらいから、芸能界でやっていきたいと言い出したと聞いて、漫才だったら協力できる、ということになったんです。
大丈夫かな......って不安もありましたが、でも、勢いがありましたから。やるぞって決めたら、なにも考えずに飛び込んでいけるような。父たちの漫才も、確かにお笑いはお笑いなんですけど、音楽もやるし、タップも踏むし、踊りも踊るし、いろいろやるので、漫才=しゃべくりってわけじゃなくて、すべてがつながる、っていうイメージで。
「くれよん」という名前でデビューしたのが17歳。デビュー公演を売ったの浅草木馬亭だったが、奇しくも、ネタを書いたのは山田康雄さんの息子。「やるのも2世、作家も2世、2世づくしで売り出そうってことで」、芸能メディアの注目を集めた「くれよん」は、いちじスポーツ紙などでずいぶん記事になった。
高2のときにやると決めて、デビューまで半年ほど準備期間がありましたが、わたしのほうは学校で演技の勉強してたけど、彼女はふつうの高校生だったんで、そういう勉強をしたことがない。ゼロからだったんで、とにかく大変だったです。バレエをずっとやってる子なんで、踊りはうまいんですが。
わたしもそのころはヘンに尖ってプライド持ってたんで、合わせるのが難しくて。キャラから言えば、わたしのほうがぜったいボケだと思うんですけど、あっちはさらに天然系のボケ・キャラなんですよ。ツッコミがうまくできない。だからいっしょにあたふたしてた感じでした。
学校は違うけど同じ年生まれで、よくネタでやってたのが、同じ9月生まれなんですよ、わたしたち。わたしが9月2日、相方が9月17日で、2週間しかちがわない。当時は漫才ブームで、お父さんたちは忙しくしてまして、なかなか休みの日がとれなかったんですけども、漫才で休みのときはふたり一緒ですから、休みの日は、ほかになんにもすることがなくて......こらっ、なに言ってるの! みたいな。10代の女の子なんですけど(笑)。
同じころデビューした若手漫才には、青木さやかや森三中がいる。「売れりゃ、なんでもできるんだから」と言われて、ほんとうは自分ひとりでやりたいことがほかにあったのに、我慢することがだんだんつらくなっていった。「こればっかりやってる感じじゃないな」という気持ちが、だんだんつのっていった。
売れればなんでもできるというのが、理解できなかったんです。いまならわかりますが。当時、いちばんわかりやすい目標がオセロで、バラエティやドラマもやってるのを見ていて、ああいうのがいいなと思ったり。
好きなことをやっているはずなのに、なんか「なにやってるんだろう」と、自分で悩み出したんですね。芸能界しか目標にしてなかったんで、そこを失ったらなにも無いし、好きなものを、なんでできなくなっちゃってるんだろうと、すごくあせりました、その時。
相方は、多分、与えられることをやることしか、できなかったと思うんです。いろいろふたりで話をして、どういうふうにしたいとか聞いても、たいてい、わからないと返ってくる。良くするにはどうしようとか、そういう会話ができなくなっちゃってた。向こうにも多分、伝わらないというジレンマはあったと思います。
向こうのほうが素直に動けてて、私のほうは頭でっかちで、考え込んでた部分があったかな。たとえばネタの練習をふたりでやっても、ただの口あわせになっちゃって、どうしたらおもしろくなるか、という会話ができない。2年ぐらい活動して、お父さんたちはこれから引っ張りあげようという時期になっていたようですが、わたしにはもう無理だと。だから解散に際しては、色々ありました。ちゃんと相手と話すのもできないでやめちゃったんで、相方とまた話ができるようになるまで、けっこう長い時間がかかりました。

2年間がんばったあげく、ユニットを解散したいづみさんは、「なにがやりたいのかわからない」、気持ちの整理がつかない状態に陥ってしまう。そこから立ち直るきっかけを与えてくれたのは、やはりお父さんだった。
やめて、しばらくバイトしてたんですが、劇団でお芝居はどうだと父に言われて、水森亜土さんの未来劇場に入れてもらったんです。1年ぐらいいさせてもらったんですが、なにもしないよりはいいだろう、ぐらいの気持ちで入っちゃったもんだから、けっきょく続かなくて。あそこのブラック・ユーモアは、20歳の女子にはぜんぜんわからなくて。
それで、あるときカラオケで、(山本リンダの)「ウララ~」を歌ってたんです。物真似とかテレビで見てて、「ウララ、ウララ」って走り回っているイメージがあったんで。それをなんとか真似して、カラオケでイエーッとかやってたら、劇団の演出を担当している、亜土さんの旦那さまに、それおもしろいって言われて。亜土さんが山本リンダさんの『どうにも止まらない』を歌うんだけれど、『狙い撃ち』と『どうにも~』の2曲、レビューで歌いなと言ってくれて、レビューに出たんです。それが、学校卒業以来、はじめての歌の舞台でした。
カラオケを水森亜土さんたちにおもしろがられた、というきっかけで、歌の世界に足を踏み入れたいづみさんは、未来劇場を離れたあと、「くれよん」時代に知り合った大阪在住の女の子に誘われ、「浅草娘演歌隊」に加入することになる。それまでポップス一辺倒だった彼女には、それが演歌の初体験でもあった。
未来劇場を辞めて、どうしようかと思いながらバイトしてたときに、誘われたんです。彼女は子供のころから大阪で、子役でがんばってた吉野悦世という子です。わたしたちがおぼん・こぼんと「親子漫才」みたいなコーナーを、瀬川瑛子さんの名古屋公演でやらせてもらったときに、彼女も役者で出ていて知り合って、それからも連絡取り続けてたんですね。それで、浅草で演歌のイベントやるから見に来ないかと誘われて、彼女がメンバーだった浅草むすめ演歌隊という3人組ユニットの、ひとりが辞めるから、代わりに入らないかと誘われて、「はい、やります!」って、勢いで言っちゃったんですね。だいたい2ヶ月に1回のペース、東洋館の向かいにあった大勝館の小ホールで、二日間公演で昼夜2回の4公演やってました。
演歌なんて歌ったことなかったんで、とりあえず「歌いやすい演歌ない?」ってお父さんに聞いて、カラオケいっしょに行って教わったりして。まず、劇場の人に歌ってほしいと言われた、香西かおりさんの『流恋草』を覚えて、お父さんに教えてもらったのは『石狩挽歌』でした。あとはテレサ・テンさんとか、杏里とか。
もう、衣装だって衣装が振袖2枚ドレス3枚くらい、大体一回に5着くらい使ってたんで、それだけでも大変。ステージが一回3時間ぐらいあったんで、その中で着替えるんです。しかも誘ってくれたのが大阪の子でしょ。前日に東京入りしてリハーサル、翌日が本番。だから前日に、曲が決まったりする。ひとりで6、7曲は歌わなくちゃならないし。チケットさばくのも大変だったし。公演が終わったあとは、死んだようになっちゃいましたが、あれを半年ぐらいやったこととで、そのあとソロでやっていくうえでの、すごいトレーニングになりました。
浅草むすめ演歌隊のイベントが終わったあと、いづみさんは演歌隊に誘ってくれた大阪の彼女にまた誘われて、今度は大阪で歌うようになった。小さいころから舞台に立ち、「通天閣の親指姫」とニックネームを持つ彼女に誘われて、舞台に合わせ土、日と大阪に通う生活が、23歳から26歳まで、3年ほども続くことになった。
歌で仕事したかったけど、東京ではどうしたらいいのか、わからなかったんです。CDもなかったので、かたちになるものがなんにもない。ただ他人の曲を歌ってるだけで。だから大阪に行って、たとえば地元に密着して、お祭りとかで歌わせてもらうような地道な営業のやりかたを彼女から学んで、すごく刺激になりました。月に1回くらい出させてもらってたんで、いつも3900円の夜行バスに乗って、通ってたんです。
大阪では誘われて歌えるようになったが、東京に帰ってくると、あいかわらず活動の場はほとんどない。オリジナル曲も、売るべきCDもない。そういう八方ふさがりの状態が長く続いたあと、おととしの2007年になってようやく、はじめてのCDを出す話が持ち上がった。曲は、浅草むすめ演歌隊のテーマ曲だった『浅草は心の故郷』だった。2007年、彼女は25歳になっていた。
むすめ演歌隊のころから歌の先生についてレッスンしだしたんですが、その関係で、東京駅八重洲口にあるライブハウスで、はじめて単独ライブをやることができたんです。そのころからミュージシャンの知り合いがけっこうできて、「とりあえず曲を作ってレコーディングすれば、お金をかけずに形にすることはできるんだよ」とか教えてもらったりしたんですが、とにかく具体的にどう行動すればいいのか、ぜんぜんわからない。レコード会社にも、プロダクションにも属してないので、どう売り込んでいったらいいのか、見当もつかない。そんなときに、『浅草は心の故郷』をレコーディングしないかと持ちかけられたんです。
発売元のレコード会社からお話をいただいて、作者の方にお会いして、まあいろいろ難しいこともあったんですが、ようやくという感じでかたちになりました。作者の方が制作費を出していただいて、こちらはそれを7掛けでレコード会社から買って、手売りで売る、ということです。
もう、びっくりの連続でした。まず、CDができたこと。ジャケットを見たら、「いづみ」じゃなくて、「いずみ」に字が間違えられてること。CDが出たら、レコード会社がキャンペーンとか組んでくれると思ってたら、ぜんぜんそんなことはなくて、自分で動かなきゃどうにもならないこと、そして自分のCDが出たあとに、ほかの歌手の方が同じ曲を浅草で歌って、やっぱりCDになって、そのひとの歌が通信カラオケに入っちゃってること!
それまで知らなかった、業界の複雑なシステムに翻弄されながら、いづみさんはいま、レコード会社の助けも、プロダクションもなく、ひとりでライブを企画し、声をかけてくれたイベントに参加し、1枚ずつCDを手売りして暮らしている。自分の名前がまちがって表記されているジャケットを、「これ、まちがってるんですけど、初回限定なんでレアです!」とかアピールしながら。自分で毎日更新しているブログを、唯一の情報発信源にして。

●ブログ「いづみの宴」:http://yaplog.jp/izumi-no-utage/
