[第12回] 黒岩安紀子-前編

官能小説家の妻にして、戦争を語り続ける演歌歌手

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初秋の靖国神社。カラオケにあわせて、能舞台で歌い踊る女性がいる。絣のもんぺ姿、腰には日の丸を差して、「空をつくよな大鳥居 こんな立派なおやしろに 神とまつられもったいなさよ 母は泣けますうれしさに......」と、『九段の母』を熱唱しながら、仰ぎ見る靖国の青空。舞台前に並んだ椅子で、みじろぎもせずその姿に見入るお年寄りの団体、いぶかしげに通り過ぎる観光客......。官能小説の大家・団鬼六の夫人にして演歌歌手・黒岩安紀子さんの、もうひとつの姿だ。

終戦の年、昭和20年に生まれた黒岩さんは、自分の生を戦争と切り離して考えることができずに、いままで生きてきた。生まれたのがあと1年、半年早かったら、いったいどうなっていたのだろう。いまの平和な日本を自分たちは享受してなんの疑問も持たないが、その陰で流された血を、犠牲になった命を、どれだけ顧みたことがあるだろうか。

いたたまれぬ思いから、彼女はみずから歌を作り、特攻隊基地のあった知覧を訪れたり、東京大空襲で犠牲になった人々の遺族を訪ね歩き、靖国神社で歌を奉納するなど、さまざまな活動をたったひとりで続けている。いっぽうで、竹久夢二の耽美世界を描く『夢二憂愁』(2008年)や、「男と女の人生は 狐と狸の化かし合い......」(『知らぬは亭主ばかりなり』1999年)のようなコミカルな曲も歌いながら。

その歌の世界も、自身の生きてきた道も、さまざまに陰影に富む、そんな人生を、彼女は歩んできたのである。


黒岩安紀子さんは昭和20年1月12日、東京都葛飾区、菖蒲園で有名な堀切に住んでいた両親の元に誕生した。終戦直前のこと、出産直前に母親の友人宅がある千葉県市川に避難して、そこで生まれたあと、葛飾に戻って終戦直後の時代を生き延び、4歳のときに北海道の釧路に渡って、小学校5年生までを過ごしている。

わたくし、本籍はいまも葛飾にあるんですが、もともと亀戸で鉄工所をやっていた父が、終戦でダメになったので、一旗揚げたいと釧路に渡って、しばらくしてから母とわたしを呼び寄せたんです。葛飾時代の記憶はひとつもないんですけど、北海道に渡る連絡船で、頭からDDTを撒かれて、真っ白になったのを覚えてます。いまのひとはわからないでしょうけど、そのころはお米の通帳が身分証明書がわり。それがないと宿屋にも泊まれない、そんな時代でした。それも、自分でお米を持っていって、それを宿で炊いてもらうんですから。東京から釧路まで、丸1日半かかりましたね。

まだ、ひなびた港町だった釧路に渡った安紀子さんは、母の勧めでバレエ、合唱団、日本舞踊など、乏しい家計の中で、さまざまな習い事に通う、勉強熱心な少女だった。

母は明治35年生まれなんですが、もともと英語が達者で、高島屋の貿易部で、英文タイプを打ってました。当時の英文タイピストといったら、重役クラスの給料を取っていたというんですが、高島屋の前後にも外国商社の東京支店とか、満州の製鉄会社で働いたり、なかなか志が高くて、しかも東京下谷の生まれですから、ちゃきちゃきの江戸っ子だったんです。
昭和24年の釧路というのは、馬橇が市内を走っているような、ほんとに最果ての町というような、寂れた町でした。母はもともと東京ですし、父は岩手ですけど若いときに東京に出てきてますから、釧路の寒さにからだがついていかなくて、大変でした。父は肺炎になって、生死の境までいったことがあるくらい。母の看病で一命を取り留めたんですが、まあ釧路には哀しい思い出しかないですねえ。

昭和31年、小学校5年生の夏に内地に戻った一家は、まず横浜、それから東京に戻り、安紀子さんは法政大学の付属中学・高校に進学する。

父親は非常に腕のいい旋盤工だったんですが......はっきり言って、性格破綻者でした。お金を持つと、どっかに行っちゃって、いつ帰ってくるかもわからないんですよ。放浪癖なんですかね。
釧路のころは、それでも行くところもないんで大丈夫だったんですが、東京に帰ってきてからは、知り合いもたくさんいるし、世の中も落ちついてきたので、またぞろ虫が出てきまして。 お金を持つと、いなくなる。いなくなるだけならまだしも、お酒を飲むと酒乱なんで、母がいつも殴られてました。それを見てたんで、わたしはいつか殺してやろうと思ってました。
父親がお酒飲み出すと、寝てる隙に母とふたりで、酒が醒めるまで、よく映画館に行ってたりしました。だからわたしは、一刻も早く学校を出て、なんとか母と一緒に独立しようと、そればっかり考えてましたね。それで、ゆくゆくは大学に入って学校の先生になる、なんて父親も、わたしも望んでいたんですが、法政の付属校はお嬢さん学校で、ちょっと授業料も高くって。いまみたいに銀行振り込みじゃなくて、現金を窓口に行くわけですから、母がパートタイムなんかで稼いだお金を持っていくのが辛くって。それで、高校1年すぎたころから、もういいだろうと思って、2年になる前に自主退学したんです。
母が信仰していたお寺さんの紹介で、(日本橋)横山町の繊維問屋さんに、母娘で住み込みで働くことになりました。父親がいないあいだにずらかってやるということで、バタバタでね。とにかくあっちはいちどお金持ったら、半月や20日は帰ってこないんですから。腕がいいんで、どこに行っても仕事はあるんですね。で、帰ってきても、こっちが文句言ったら、殴るだけ。
母はもともと、そういう教養あるひとでしたが、父親と一緒になる前の若いころ、満州で知り合った軍人さんとの大恋愛があったんですね。そのかたが大尉さんで、「士官だから身元調べがあったりして、そう簡単に結婚できない。そのうち戦況が悪化してきたころ、そのかたが満州の奥地に特務機関で入るから、もう連絡はできない。この戦争はもう負けると思うけれども、自分は軍人だから仕方がない。あなたは僕のことを諦めて、良い人を見つけて幸せになってくれ」という手紙を残して、奥地に入っていったんです。母はよく、そのひとの話を聞かせてくれていたので、わたしも子供ごころに、「なんとかそのひとを見つけ出して、お母さんと一緒になってもらおう」と思ってました。
戦後になって、そのひとの消息はわからないし、母は寝たきりの父親を抱えていたりしたもので、結婚したんです。父親はその当時、鉄工所を経営して羽振り良かったんですが、酒癖が悪すぎて、前の奥さんが逃げちゃってたんですね。それを、仲人するひとがあって、一緒になったんですけどね。

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母の辛い日常を黙って見ていることができず、高校を中退した安紀子さんと、お母さんとの平和な暮らしが、ようやく始まった。昭和37年、安紀子さんが17歳のときのことだった。

母はね、もちろん(退学を)止めましたよ、「高校だけは出てちょうだい、わたしが我慢すればいいんだから」って。でも、「いや、わたしのほうが我慢できない、黙ってて酒飲んで、こんなふうに寝てたら、殺しちゃうかもしれないから、もう出ましょう」と言って、ふたりで出たんです。
横山町の繊維問屋に住み込むことになって、わたしは電話交換手になりました。昔の映画に出てくるような、あのコードを抜いたり挿したりしてつなぐ、あれですよ。母はわたしの学校を辞めさせたことをずっと悔いてましたが、わたしはそんなこと思ったことないし、いままで学歴で損したことはいちどもない。ちゃんと義務教育を受けさせてもらったんだし、卑下することはひとつもないと、言ってきました。
それで18のときに電報が来まして。あの当時は電報って、電話で来たんですよ。電話口でリンゴの"り"、大阪の"お"とか、符丁で伝えるんです。それが、父親の叔母さんからで、「ノリオシンダレンラクコウ」って。父親は、仙台に鉄工所やってる叔父さんがいたんですが、そこで脳溢血かなんかで倒れたんです。お墓は東京のに入れたいので、納骨に来てくれないかと言うんですね。母に相談したら、「あんたのお父さんだから、行くなら行きなさい、あたしは行かないから」って。それで途中まで行ってみたんですけど、ずいぶん迷って、けっきょく行かなかった。でもそのあと、何度かお墓参りに行ったときに、命日とかお彼岸なんですが、いつもすれちがうひとがいて。そのとき声はかけられなかったんですが、そのひとが実は腹違いのお兄さんだったんです。前にテレビに出ていたときに、(ご対面番組で)探してもらって再会できましたが、彼も10歳のころに父親に捨てられて、だからそれまでわたしも知らなかった。そんなこともありましたね。

繊維問屋に住み込んで3年目、安紀子さんは職を替え、お母さんとふたり暮らしを始める。20歳になったばかりだった。

母はわたしを41歳で産んでいて、実はわたしも41歳で初めての子供を授かるんですから不思議なものですが、とにかく20になったころ、60を過ぎた母がちょっと具合が悪くなりまして。それにあまり待遇もよくなかったのが、世間を知るうちにわかってきまして。それでもう、わたしが外に出て、ひとりで働いて母の面倒を見ることにして、品川区のほうに引っ越したんです。
ちょうど東京オリンピックのころで、景気がいい時代でした。昼間は別の会社の電話交換手をやって、夜はアルバイト。最初は喫茶店だったんですが、だんだん給料のいいところに移っていくと、水商売になって。でも、わたし物怖じしないので、接客業は向いてるというか、夜の世界は嫌いじゃなかったですね。だから、引く手あまたでしたよ。銀座、赤坂......そのころに、頼まれてちょっと歌ったこともありました。
昼夜かけもち、二足のわらじをけっきょく30歳まで履いたわけですが、楽しかったですねえ。母が家のことはやってくれるし、お弁当も作ってくれるので、わたしは家に帰ってぱーっと寝るだけ。「夜だけじゃなくて、ちゃんとしたところに昼間お勤めして、夜はアルバイトにしておきなさい」と母から言われていたので、夜の水商売に較べたら大した給料じゃないけども、昼間の電話交換手をちゃんと続けて、身分証明書をもらって。
そういえば『エンサイクロペディア・ブリタニカ』って百科事典あったでしょ。あれの訪問販売もしたことありました。あの当時で三十何万円かしたけど、みんな読めもしないのに、見栄で買うのね。そういう経験をいろいろしたことが、わたしの人格形成にずいぶん役立ちました。それにいくら稼いでも、母という歯止めがおりましたから。「こうやって生活させていただいてるんだから、あだやおろそかでお給料もらってはいけません、ちゃんと働くように」って、いつも言われる。そういう真面目なひとでした。

どんなに忙しくても、それは若さで乗り切れる。昼夜、充実した日々を送っていた20代の安紀子さんだが、実は大きな悩みも抱えていた。

主人(団鬼六氏)と知り合うのが30歳のときですが、その5年ほど前から、いまでも忘れえぬひととの恋愛があったんです。わたしより20歳も上で、たいへん地位のあるかたでしたが、もちろん家庭を持っているかたでした。
外資系の会社のかたで、英語はペラペラだし、ダンスもうまいし、いろんなところに連れてっていただいて、ほんとに素晴らしいひとでした。でもわたしは、そういうかただからといって、援助してもらうのは大嫌いなので、洋服1枚買ってもらわなかった。ノドから手が出るくらい、お金は欲しかったけど、それを言っちゃおしまいでしょ。だからわたしはお付きあいしながらも、あいかわらず昼夜、働いてましたね。
でもね、そうやって5年ぐらいたってくると、自分にもわがままとか、迷いが出てくるのね。「あぁ、こうしてたって一緒になれるわけでもないし」とか思い出して、気がつくと、そのひとの家のまわりをうろうろしてるわけ。あっちは立派な家に、暖かい灯りがついてるのに、こっちは6畳ひと間の間借りでしょ。こっちも若いから、石投げてやろうとか思っちゃって。それで、こんなことじゃいけないときっぱり決意して、言ったんです......「わたし、こうしていると、だんだんわがままになって、あなたに無理な要求をしはじめそうな自分が怖い、だから別れましょう」って。

別れよう、と切り出されたら男のほうはどうすることもできないが、「それなら、なにか困ったことがあったら、なんでも言ってきなさい」と言われて、安紀子さんがお願いしたのが、お母さんが以前に大恋愛したまま消息不明になった相手を探し出してもらうことだった。

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そのかたはたいへんに力のあるひとでしたから、いろいろ聞いてもらったら、わりと簡単に探し出せちゃったんですよ。それで、相手は男のひとだから、どんな家庭を持ってるかもわからないので、まずわたしが長い手紙を書いたんです、「覚えてらっしゃいますか、わたしは30年前のこういうことの......娘で」って。
そうしたら、わたしが勤めていた会社宛に返信が来ました......わたしがその当人です、娘さんが僕のことを探してくれていると知って、びっくりしました。(終戦後)2年ぐらいしてから復員したのですが、もう精神的に虚脱状態で、(お母さんも)もう結婚したかもしれないしと思い、そのままになってしまいました。いまは大阪で結婚、就職して、嘱託として働きながら、寝たきりになっている妻の介護に明け暮れてます。そんなに誇れる暮らしをしているわけでもないから、あなたには会いたいが、お母さんには黙っていてほしいのです。
そう言われて、わたしは大阪まで会いに行きました。当時すでに60歳をこえていましたが、「(お母さんは)あなたのような娘さんを持てて、ほんとに幸せだ。大事にしてあげてください」と、とても喜んでくれて。それでしばらく文通していたんです。
ところがねえ、人生は松竹新喜劇のようにはいかないのよね。奥さまがそんな状態なら、亡くなったあとで、母とふたりで小さなタバコ屋でもやってもらって、3人で暮らしていけたらとか考えて、一生懸命働いてたんです。それで、3年くらい過ぎたときに突然、そのかたから電話がきたんですね。しばらく連絡とってなかったので、どうされたかなと思っていた矢先でした。「おじさま、どうされたんでしょうか。お電話でどうなさったんですか?」って聞いたんです。そしたら、奥さまが亡くなったのかと思ったら、「実は、お母さんから手紙をもらった」って。
それでこちらもびっくりして、母に「お母さん、手紙書いたの、どうして?」って聞いたら、「お前の机にあったから......」って言うんですね。たぶん不用意に出しっぱなしにしておいたのを見つけたんでしょう。わたしに黙ったまま手紙を出したんですね。それで、「母と話してくださいますか」と電話口で聞いたら、「うん、いいです」と言うので、母に受話器を渡して、しばらく話していたあと、「わかりました、どうぞお元気で」と言って、母が受話器を置いたんです。
電話が終わったあと、母がわたしに「安紀子、あのかたを探したんだね」って言うので、「うん、こうこうでお母さんには言わないでくれというから、黙ってたの。なんておっしゃってたの?」と聞くと、「安紀子さんは立派な娘さんだし、あなたも元気で良かった。でも僕は家内の介護でいま手一杯で、あなたたち親子のいろいろなことに応えることができないから、もう今後は連絡しないでほしい」って言われたって。それを聞いて、わたしはお母さんに、手をついて謝りました。お母さんの美しい思い出を、わたしが壊したんですよ。
思い出のままにしていたら、よかったんです。現実というものは哀しいものでね、わたしが探し出したために、もう連絡しないでくれと言われちゃった。そんな言い方しなくても、とも思いましたけど、人間はやはり変わるものですし。大変喜んでいただけはしたけれど、松竹新喜劇みたいに「わーっ」て抱き合うことにはならなかった。わたしは親孝行だと思ってしたけれども、結果としてお母さんの思い出を壊してしまった、ほんとに申し訳ないって。

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そうしたら母は、「わかったよ安紀子、父親がもっと普通のひとだったらよかったけど、あんなだったから、つい若いお前にそんなことを言ってしまって、かえってこちらこそ悪かった。でも、これでわたしの思いもきっぱりついたから」って言って、それから死ぬまで、あのかたのお話はひとことも口に出しませんでした。
そういえば、そのかたに大阪で会ってからのことなんですが、母がへんなこと言い出したんですよ。そのころわたしたちは武蔵小山に住んでいたんですが、母が「あのかたが夢に出てきてね」って言うんです。「武蔵小山商店街のあたりに来るから、待っていれば会える」って。わたしはすでに大阪で会ってるから、そんなわけないと思って、なんかあったのと聞いたら、霊感がしたって。それで、しょうがないから武蔵小山商店街で、朝の9時から夜6時まで、交代でじぃーっと待ってましたね。
もう(大阪に戻ったと)知ってるとは言えないから、「写真持ってるし、見たらわかるから、お母さん、なにか食べといでよ、それらしいひと見かけたら教えるから」って。いい娘だと思いません?(笑) いま思うと馬鹿くさいし、ほんとに何度言おうかと思いましたよ、「実はお母さん、あのひと大阪に戻ったから、ここにいても会えるわけないの」って。でもね、そこをこらえて、そのあと(母が)死ぬまでそれは言いませんでしたよ。だからね、思い出は、思い出のままでとっておいたほうがいいってことね。こちらの思いは、相手の思いとは違いますし。よく、ご対面番組で、出てこないひともいるでしょ。そういうことを、わたしもあれで思い知りましたね......。

すでに波瀾万丈の人生、しかしまだ30歳! 怒濤の黒岩安紀子物語は、次回後編に続く。こころして待て!

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黒岩安紀子「夢二憂愁」
試聴音源
1945年東京生まれ。4歳で釧路に移り住み、10歳で帰郷。高校中退後、電話交換手、キャバレー、クラブなどでの接客業、テレビ局勤務など様々な仕事を経験。1999年、日本コロムビアより「乳房/知らぬは亭主ばかりなり」を自主製作で発表したのを皮切りに、歌手活動をはじめ、日本調の歌を中心にCDを発表。終戦の年に生まれたことで「戦争を語り継ぐ」者としての使命を感じ、知覧の特攻隊員の息子を持つ母の気持ちを歌った「知覧の母」を2004年に発表。知覧や靖国神社で精力的にステージを行うなどの活動を行っている。小説家・団鬼六の妻でもある。
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