[第10回] 合格

息子がくれた第2の人生。猛烈社長が演歌を選ぶまで
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♪コスモスの 花ゆれる日に
来し方の 人生を想う
人は誰でも 一期一会の
出会いと別れを くり返し
遙かなる 歳月の果てに
心おだやかな 笑顔さわやかな
ARA喜寿の年に たどり着く
ああ、、、 ARA喜寿バンザイ
ARA喜寿バンザイ

『ARA喜寿バンザイ』合格(作詞 玉利要)
 
昭和11(1936)年、薩摩半島の小さな町・吹上(現・日置市)生まれ。『合格』なる芸名で、すでに28年間にわたり作詞家兼歌手として活動を続けてきた。これまで作詞した曲がすでに2700余、歌手としてCDアルバム2枚、シングル6枚を発表するも、いまだ大ヒットには手が届かず。本人がCDジャケットに「自分は歌手のように上手には歌えないが、天命に従いベストを尽くした」と明記しているように、歌唱力はプロの足元に遠く及ばないまま。しかし喜寿まであと4年という73歳にして、毎日「心おだやかに、笑顔さわやかに」、元気いっぱい歌って、ときには踊って、聴くひと見るひとを元気づけ、勇気づける存在。それが玉利要(たまり・かなめ)=合格さんである。

日本一の長さを誇る吹上浜で有名な吹上に玉利要さんが生まれたころ、日本はすでに戦時体制一色に染まっていた。家業は紙漉き。お父さんは日本史の研究家でもあり、書き物をするときには「合格」というペンネームを使っていたという「田舎のインテリ」だった。玉利さんの芸名は、お父さんから受け継がれた「2代目」ということになる。
 

鹿児島は桜島がまんなかにありまして、右と左に別れますけど、吹上は枕崎や指宿がある薩摩半島。九十九里浜、鳥取砂丘と並ぶ日本三大砂丘で、それは白砂がきれい! あの、市川さんと増元さんが北朝鮮に拉致されたところでもあります。

うちは手漉きの和紙づくり、何代目かわからないけど、父が名人でした。戦後はやめちゃったんですが、小さいころ、よく(和紙の原料になる)ミツマタを粉々にするのを、よく手伝わされましたよ。
9歳のときが終戦でした。6月に沖縄が陥落して、次は吹上浜までのぼってくるだろうって、町じゅうで騒いで、みんな疎開したんですが、うちは家業のこともあって疎開しなかったんですね。それで父が、懐に鉈(ナタ)を忍ばせて、母は竹やりで、アメリカが上がってきたら、これでやるんだって。やれるわけがないのに。
よく父が言ってたんですけど、「もうすぐ(アメリカ軍が)上がってくるから、そのときはお前たちを殺して、みんな死ななきゃいかん。お前は薩摩の侍の息子じゃ、覚悟しとけ」って。夜、父と母に挟まれて川の字になって寝てるときに、真っ暗な中で、9歳の男の子が言われるんですよ。いまでも夜中に、ドキ、ドキってなって目が覚めることがあります。60年以上たってるのに。戦争の傷跡って、怖いですねぇ。

戦争を無事に生き延びて、地元の吹上高校に進んだ玉利青年が夢中になったのは、演劇だった。生徒数1000人からという大所帯のなかで、1年から3年まで、すべて主役を果たす校内のスター状態。学園祭を見に来た両親も涙ぐむ迫真の演技だったそうだが、玉利青年には演劇ともうひとつ、両親に言えない憧れがあった。当時、日本中で大流行していたマンドリンである。

楽器を弾きたい、という欲求が常にあって、それでマンドリンの、特に古賀政男に憧れましてね。でも両親には言わなかったんで、高校を卒業してから古賀政男に会いたい一心で、明治大学に進学したんですよ(古賀政男は明治大学でマンドリン倶楽部の創設メンバーだった)。両親は鹿児島で進学して、学校の先生になれって言ってたんですけどね。

昭和30年に鹿児島から2昼夜かけて列車で上京。駒込病院でインターンをしていた従兄弟を頼って東京に落ちつくとともに、日比谷の時事通信社でアルバイトも始める。

(昭和31年に)入学したその年に、古賀政男に会いに行きました。代々木上原の自宅まで。将来は作曲も、マンドリンもやりたいんです、って言ったら、そのときは時間がないけど、話は聞いてあげるからって言われて、そのあとしばらくしてから帝国ホテルに呼ばれたんです。
そこで、「僕はマンドリンをやりたいんです」って言ったんですが、ついでに「こんな詞も書いてるんです」って、『母ちゃんの海』という歌詞を見せたんですよ。カツオ漁船に乗って、枕崎を出て行ったまま帰ってこない船乗りをテーマにした曲なんですが、先生が「いいなぁ、これ」って言うから、なんとかしてくれるのかと思ったら、「マンドリンクラブね、あそこはいっぱい人がいて、楽器も持たせてくれないくらいだ。これだけ書けるんだから、君は詞を書きなさい」って言うんです。僕はそれを聞いて、がっかりしちゃったんですね。

すでに大御所だった古賀政男に作詞の道をすすめられて「がっかりした」玉利青年も少々変わり者だったのかもしれないが、「マンドリンを弾きたかったのに、なんであそこで詞なんか見せちゃったんだろう」と落胆した彼は、それ以来、授業に出席する意欲をなくし、図書館に入り浸っては、哲学書を読みふける毎日を送るようになった。

それでもなんとか4年間で商学部商学科を卒業した玉利さんは、鹿児島に帰ることも考えるが、「それだけ勉強して、鹿児島なんか帰ってくることない!」と父に一喝され、東京で就職することになる。入ったのは東映の映画を台湾に輸出する会社だった。

そこが映画でものすごく当てちゃって、僕も1年間、死にものぐるいで働いたんですが、会社が儲かりすぎちゃって、ゴルフ場まで作っちゃったんですよ。それで映画の仕事からゴルフに回されて、造成とキャディ管理。土方とキャディの世話じゃバカらしくなっちゃって、一緒にいた明治の先輩と独立して、会社を作ることにしたんです。27歳のときでした。彼が島根出身で、僕が鹿児島だから、鹿島通商と鹿島技研。建設とはなんの関係もないんですが。

自動車関係の工作機械を扱う事業で、ふたりとも経験ゼロから始めた冒険だったが、高度成長の波に乗って、業務はおもしろいように拡大、儲かってたまらない状態だった。

とにかく、こんなに儲けていいの、ってくらい儲けましたね。儲けすぎたんで栃木に土地を買って、工場を建てたんです。で、僕は働くの好きだから、社員が来る前に機械類を全部シンナーで清掃して、すぐに稼働できるようにしておく。従業員が嫌がる仕事なんで。それでもう、夜明けから起き出して、夜中までぶっ続けで仕事しては、ときには食事も忘れるくらい、ひとの2倍も3倍も働いて、そのまま工場のソファに寝泊まり。
もう社内結婚して、子供もいたんですが、月にいちどかそこらしか、家には帰らない。趣味もなんにもなくて、ただもう仕事だけ。長男は重度の障害を持って生まれてきて、5歳になってもしゃべれなかったんですが、それでも家のことは妻に任せっきり。それで当然だと思ってました。

そんな仕事だけの生活が16年のあいだ、続いた。そうしてある日、過労とシンナーの吸い込みすぎで、呼吸器をやられ、家に帰り着いたとたんに昏倒。呼吸ができなくなって、「救急車を呼んでくれ」と妻に告げたまま、玄関先で倒れ込んでしまったのだ。

救急車で病院に運ばれて、即入院。医者の診断は心不全だった。あやうく一命をとりとめたが、玉利さんはもう助からないと思った会社のほうでは、本人が入院している最中に役員を解任。「そんだけがんばって、みんなに儲けさせてきたのにねえ」と落胆し、同時に目が覚めた玉利さんは会社人生から、きっぱり足を洗う覚悟を決める。昭和54(1980)年、玉利さんが43歳のときだった。

病室で、妻に「もう会社には戻らないぞ」と言いましたら、どうかそうしてくださいと言われました。それでいろいろ考えましたが、いままでできなかった歌の道に行こうと思い、六本木にあった作詞教室に通うようになりました。ふと、思い出したんです。古賀政男に見せた、あの『母ちゃんの海』はどうしたっけって。
初級が6ヶ月に専科が6ヶ月、計1年間やりまして、それはいい勉強になりました。星野哲郎とか、中山大三郎とか、そういう大御所が教えてくれましてね。
その同じころですが、池袋の俳優プロダクションにも行きました。気休めみたいなもんですが、病気を忘れるためになにをしようと思ったら、中学高校の6年間、演劇やってたなと思い出して。時代劇にチョイ役でけっこう出たりしたんです。死人の役とかですが(笑)。でも鹿児島弁が抜けなくてね、1年ぐらいでやめちゃいました。

「重度の障害をいただいてきた」と玉利さんが言う息子さんは、いま43歳になるのだが、その息子さんが、玉利さんが病床にあるとき、夢の中に出てきて、しゃべれないはずの言葉をしゃべったのだという。「お父さん、遊びに行こうよ。釣りに行こうよ。鹿児島に連れてって!」と。それに、もしかしたら引き戻されて生き返ったのかもしれないと思った玉利さんは、作詞教室を卒業したあと、日本作詞家協会の会員として事務局を手伝いながら、夢の中ではじめて言葉を話した息子とのことを歌った詞を書いて、新聞に投書したところ、思いもかけず大きな反響を得たのだった。

夢を見たんだ 父さんは
おまえと  おしゃべり する夢だ
愛するひとが できたから
結婚したいと 言ったっけ
夢の中では おしゃべりで
おまえは 父さん 困らせた

夢を見たんだ 父さんは
おまえと 旅行を する夢だ
北海道の まんなかで
おまえは 迷子に なったっけ
夢の中での はしゃぎぶり
おまえは 父さん 困らせた

夢と知っても 父さんは
思わず バンザイ さけんだよ
たとえば それが 夢だって
おまえと おしゃべり できたもの
夢の中での 語らいに
思わず 父さん うれし泣き

同じころ、玉利さんにとってはもうひとり、転機となる人間との出会いがある。ちょうどその当時、新幹線建設に関わる反対運動の取材で、朝日新聞の記者が玉利さんを訪ねてきた(東北新幹線は1982年に大宮-盛岡間が開業)。話を重ねるうちに、こころうちとけた彼は、一冊の本を玉利さんに差し出す。『地獄のゴングが鳴った』と題されたその本は、冤罪事件として知られる「袴田事件」について、裁判の不当性を厳しく問う内容だった。

袴田事件は1966年、静岡県で発生した強盗殺人放火事件である。味噌製造会社の専務一家4人が殺害、自宅が放火された事件で、当時従業員だった元プロボクサーの袴田巌が強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕され、1980年に最高裁で死刑が確定した事件である(現在も弁護団が再審請求中、袴田巌はいまも70歳を越えて東京拘置所の獄中にある)。

『地獄のゴングが鳴った』の著者・高杉晋吾が、同じ埼玉の川越在住ということで、記者に連れて行かれて高杉氏に会った玉利さんは、袴田の無罪を確信、自分もなにかせねばという義憤に駆られ、『地獄のゴングが鳴った~~とらわれ人の唄』という詞を一気に書き上げる。

高杉さんがね、私のことを作詞家と紹介されたもんで、出版パーティのためになにか歌ができないかと言うんですよ。それで、『とらわれ人の唄』を書きまして、大石日出男という静岡出身の、これも元プロボクサーの歌手が歌うことになりました。当時は鹿島時代のカネがあったもんですから、私が「チャンピオン」というレーベルを立ち上げまして。300万円はかかりましたねえ、当時で。それで3000枚シングル盤を作ったのが、私のプロ作詞家としてのスタートでしょうか。

唄ってくれますか
とらわれ人の唄
薄暗い獄舎のすみで
泣いてる男の歌を
いつわりの 調べ書き
おぼえなき 罪かなし
なぐさめも いたわりも
欲しくは ないけれど
ただ ただ真実を 見つめてくれる
瞳が・・・瞳が 今は欲しい
唄ってくれますか
とらわれ人の唄を

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それでボクシング会場での発会式で歌って、すごくたくさん人が来て、ボクシング界もものすごく協力してくれたんですが、そのすぐあとに、歌った大石さんが突然死しちゃったんです(1986年死亡、享年45歳)。

1982年、46歳にして作詞家の道を歩みはじめた玉利さん。『とらわれ人の唄』に続く第2作は、地元埼玉を歌った『憧れの大宮/ハローさいたま』。作詞だけでなく、なんと歌も本人が担当した。

なみだ顔さえ 笑顔にかわる
憧れの大宮 あなたと歩く
いちど来たなら トリコになるわ
離れられない・・・
何処か似ている ふるさとの街

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「当時のシンガーソングライターみたいに、詞も曲もつくって、歌う。そういうのがやりたかったんです」という玉利さん。大金を費やし、それまでとはまるでちがう道を、ゼロから突き進む彼を、奥さんは「そんなの、相談なんてひと言もありません、全部、事後承諾ですから。細かいことはひとつも言いません、この人はすごく大きな人ですから」と言いつつ、サポートしてきた

この人(奥さん)はそのころ、すごく洒落た車に乗ってたんですよ。きらびやかな空色のカブトムシ、ワーゲンです。このへんで、そんな車に乗ってる人、いなかったですから。そのワーゲンの上にスピーカー乗っけて、車体にポスター貼って、埼玉中を走り回ってくれたんです。所沢球場まで行きましたよ。売れる、売れないじゃない、その心意気がうれしいじゃないですか。

作詞家・歌手の玉利要=合格として活動を始めつつ、玉利さんは1986年ごろから結婚式の司会業も手がけるようになった。

司会者を派遣する会社があるって教えられて、赤羽にある会社に行きまして、3ヶ月ぐらいトレーニングしてから、先輩について行くようになって。それから忙しかったですねえ。新郎新婦のところに1ヶ月前には打ち合わせに行って、まちがえないようにして、それから当日に顔合わせすると、金一封もらえる。
なんだか、私にすごく向いてたんですねえ。どんどん指名が入ってくるようになって、日取りがありますから、忙しいときは朝10時と1時と4時、一日に3組もやる。いままで15、6年間で2000組は、結婚式の司会してますから。歌手活動と司会業は「合格」の名前でやることにしてるんですが、おめでたい感じもしますしね。
そのうち、仲人役まで頼まれるようになって。できちゃった結婚とか、あるでしょ。そういうときに仲人がいないと、僕が行くんですよ。うちの奥さんじゃなくて、(派遣会社の)社長の奥さんを、これが私の女房ですと言って、ふたりで仲人つとめるんです。おととし、作詞家生活25周年の会を浅草ビューホテルでやらせてもらったんですが、そのときにいきなり、頭を坊主にしちゃいまして、それからは坊主頭で司会もできないだろうってことで、やってませんが。

自分の歌、他のプロ歌手のための歌、ときには平沢勝栄のような政治家や、ミッキー安川といった芸能人のための歌まで手がけてきた玉利さん。いまは、ときの政治を憂い、厳しく糾すメッセージを書きつけた厚紙のボードをからだにかけて、国会議事堂前などでメッセージをアピールしたり、毎年8月15日には硫黄島で戦死した兄の繁さんを供養するライブを、千鳥ヶ淵で行ったりするかたわら、ブログで頻繁に情報発信。さらには「合格さんの歌をナマで聴きたい」というファンのために、『ボランティア宅配便』なる活動を始めている。本人のブログにある紹介によれば、

ボランティア 「合格の独りミュージカル」宅配便が喜ばれている。
坊主頭になる前は結婚式の司会 2000組を担当した。
だから今でも いろんな人から 「会いたい」 と言って来る。
中学生になる子供の「いじめ」の相談が多い。最近「合格の独りミュージカル」を自宅で父母共々聞きたいので、来て欲しいと言う依頼も多い。

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万葉集 「防人」 をベースにした 「合格の独りミュージカル」は関東から九州に向かう少年防人を送り出す詩だから、すすり泣きが聞こえる。親子の情愛の深さが身にしみるのだ。それから新曲の「いじめSTOP」と進み、最期は明るく「長生きONDO」でトリとする。
20分20秒の出演時間。あとは万葉集の詩から幾つか...で幕!

この「独りミュージカル」をもって、合格さんはどこへでも行く。集会場にも行くし、個人のお宅にも、依頼があれば喜んで行く。「歌詞を1番だけ8曲歌えば20分間、2番までなら40分、3番まで歌えば60分と思ってください」と、システムも明快だ。

「私はね、百歳まで生きなきゃならないんですよ。障害をいただいた長男が寂しい思いをしないように、世話しなきゃならないから」という玉利さん。元気の秘訣は「朝晩2回、自分流の振りを入れて、『長生き音頭』をやる、それがすごくいいんです」。もともと薩摩男だから、焼酎を薄めないで飲んできた。「お祖父ちゃんも、80歳まで焼酎をお茶がわりにしてましたから」という酒飲みの家系だったが、最近は極力控えて、長寿をこころがけているそうだ。

「合格」さんとしてパフォーマンスする73歳。いでたちはちょっと異様だし、歌はうまくない。レッスンして、うまくなろうという気もない。そして歌いつづけ、CDを出しつづける本人に迷いはない。その純粋でポジティブな姿勢が、まわりを明るく照らす。

音楽というものは、ときにこんな魔法を使ったりもするのだ。

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ブログ:合格のつれづれ日記 http://samplebiog.blog.so-net.ne.jp/


●合格 CDディスコグラフィー

1991 神さま仏さま/栄光への道

1992 エイズ予防SONG/神さま仏さま

2001 帰ってきたらじお流し

アルバム 『桜島 噴歌橋』

知覧(特攻の町・哀悼の町)/ハローさいたま

2003 大西郷/或る男の詩

2003 徒然ナカ(薩摩女の涙)/ピエロの涙

2005 アルバム 『硫黄島・さつま路哀愁』

2007 いじめSTOPいじめは犯罪です/長生きONDO

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合格「いじめSTOP/長生きONDO」
試聴音源
1936年鹿児島県生まれ。高校卒業後上京、明治大学商学部に入学。卒業後は映画関連の会社に勤務後、同窓の先輩と起業し、寝食を忘れ業務に没頭する。1980年、病気を気に会社を退職、作詞家の道に。夢の中での障害者の息子との交流をテーマに歌をつくり、新聞に発表したところ、大きな反響を得る。その後作詞、作曲、歌手と精力的に活動を行い、CD発表、詞、曲の提供も多数。現在は「独りミュージカル」と題し、万葉集をベースとしたミュージカル仕立ての楽曲を歌い、各地をボランティアでまわっている。

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