あの人は車をとめた
私は笑ってみせた
あの人はくちびる求め
私は黙ってうけた
いいのねこのまま別れても
自分の心に聞いてみた
あの人はため息ついた
私は黙って泣いた
幸せばかりが飛んでゆく
二人のドラマは終わったの
あの人はあしたへ向かう
私はきのうへもどる
『思い出』あずさ愛(作詞 岩城健治)
渡されたシングルCDは、久しぶりに見る縦長サイズのパッケージに、ノートパソコンには入らない8センチ・サイズの盤だった。めんどくさいなー、と思いながらプレイヤーにCDをセットして、「あの人は~~」と最初のフレーズが流れたとたん、思わず座りなおす。桂銀淑(ケイ・ウンスク)ばりのハスキー・ヴォイスと、全盛期の弘田三枝子を思わせるグルーヴ。素直な、というか引っかかりのない、カラオケで歌いやすい曲ばかりを聴かされる最近の演歌界にあって、久しぶりにザラリとした声のエネルギーに出会った気がした。こういう歌手が、こういう曲が、どうして話題にもならず、埋もれているのだろう。
あずさ愛さんは、秋田県秋田市生まれ。いまも秋田と東京を行き来しながら、地道な活動を続ける歌手である。
会社員の家に生まれ、「父がよく歌ってた青江三奈の『池袋の夜』と、みんなが集まれば歌う秋田音頭みたいな民謡、そういうのを聴きながら」育ちましたというあずささんは、しかし子供のころは人前で歌うなんて、とても考えられないという、人見知りの激しい少女だった。
中学生になったころ、物真似が得意になって、「だれだれが歌ってるの、ちょっと歌ってくれない」って、言われるようになったんです。藤圭子さん、ピンキーとキラーズ、男性だと西城秀樹とか郷ひろみとか。声に特徴ある人が、物真似しやすいんで・・・。えぇ、そのころから、オトナの声でした。当時はわからなかったんですけど、声帯にポリープがあったんです。それが5年くらい前に、もう手術しないとダメだということになって、いざ取ってみたら、声が澄むようになっちゃったんですが(笑)。
歌は好きだけど人見知り。クラブ活動も部員が3人しかいない器械体操を選んで、平均台や鉄棒にひとりで取り組んでいるのが好きだったという中学生。そんな静かな生活が一変したのが、高校に入ってまもなくのこと。物真似が得意なのを知っていた友達が、勝手に『スター誕生』に応募してしまったのだった。
秋田の予選会だけで、七百何十人も集まって。それで第1回の審査で50名選ばれるんですが、その中に入ったときは「えぇー、入ったぁ!」という感じで。その50名からさらに2週間分、14名残されたんですね。それに残ったんです。
そのとき、点数が割れたんですね。割れたら終わり、と思っていたら、コロムビアから引っ張られちゃった。歌いませんかということで、あのときなんていう先生だったかなぁ、有名な先生なんですけど、ピアノでレッスンされたんです。それで私が歌ったときに、ほかの生徒さんたちに向かって、「なんで、この人のように声が出ないんですか」って言われて。「あなたは、もうレッスンはいい」って言われたのが、記憶にあります。
七百何十人からそこまで行って、本人も驚いたし、まわりも驚いた。とんとん拍子で話が進み、デビューに向かって歯車が動き出したころ、しかしあずささんの中ではどうしようもない違和感がふくらんでいた。
実は桜田淳子が秋田出身なんですが、ああいうふうにすぐにテレビに出て「クッククック~」なんてできるって、簡単に考えてたんです。それが、始まってみたら、秋田や青森の、デパートの屋上とかで歌わされる。マネージャーも司会者も舞台の裏方さんもみんなおじさんだし。お客さんだって、ちょうど夏休みだと高校生や中学生とかが、ソフトクリーム舐めながら、だらだら見てるだけ。なんなの私、なにやってるの、バカみたいだって。夢に描いていたのとぜんぜんちがうって。テレビに出て、西城秀樹とか郷ひろみとかと同じになれると思ってたら、ぜんぜんそうじゃない。それで、いきなり歌うのやめちゃった。
もうデビュー曲の用意も進み、何人もの人間がそのために動いている、そのときになって、「ここまで来て、やめるなんて言えないよ!」と周囲からは諫められたが、「これから一生、歌は歌わないから、もうやめる」と、決意は変わらなかった。デビューのときは反対しなかった両親でさえ、「勝手にやる、勝手にやめる、そんな簡単な問題じゃない!」と怒ったが、それでも意志を貫いた。
そんなふうに(営業して)歩くのも、レッスンのうちだったんですね。でも、当時の私には意味がわからなかったし、「クッククック」のようにテレビに出られないことが、もう私は終わりだ、ちがう方向に流された、と思っちゃったんですねぇ。
そんな挫折を経験した少女を、しかしまわりは放っておかなかった。どんなにすすめられても、二度と歌うまいと思っていたのが、1年ぐらいたったころ、イベントに誘われて、つい舞台に立ってしまう。
それがね、秋田の県立体育館で大きなイベントがあったんです。そのときに、じゃあ大きなところだし、歌ってもいいかという感じで、軽い気持ちで歌ったんです。そしたら、うちにも来てもらえねぇか、こっちにも来てもらえねぇかと言われるようになって、じゃあ歌おうかという感じで歌ってたんです。そしたら、あるときロスプリモスの村上さんという方(村上章・現在秋田在住)が私の歌を聴いて、「いやぁ、いいなぁ、歌わない?」って言われて、『貴方の想い出』と『海猫の宿』という曲を作っていただいて、歌ったんですよ。もう、『スタ誕』から10年以上たってましたが。そしたら、また、ちょっと評判になって、それでも忙しく他県に動き回るのがイヤだった。イヤですもんねぇ。
秋田弁で言うと「ひやみこぐ」って言うの。わかりますか。標準語で言うとね、怠け者という意味なの。あんまり忙しく回りたくない、他県を回りたくない、でもちょっと歌を頼まれたら、市内の近くとか、そこらへんならいいかなと思って、やってたんです。だから村上さんが「山形のほうに仕事入ってますけど、行きませんか」と言うと、やっだなぁ。秋田県内でもちょっと遠かったり、大館? やっだなぁ・・・秋田市からすぐなのに(笑)。だからカセットテープができて、すぐに売り切れたんですけど、また作ろうとも思わなかった。売り上げ、全部飲んじゃったし(笑)。別にがんばって歌わなくてもいいや、と思ってましたから。
そうやってるうちに、また「歌わないか」っていうのが来たんですね。こんどは、「あなたの声だったら、男唄のが合う」って。男性の歌なんか、私こんなに女性っぽいんだから、合わないなぁと思ったんですけど、男性の歌でオリエントさんから出すことになって、歌わせていただきました。『北岬』って、男鹿半島で男性が振られる歌を。振られた本人が私ということで、男性になったつもりで歌わなくちゃいけない。でも、好きじゃないんですね。詞も好きじゃない、曲も好きじゃない、イメージも好きじゃない、ど演歌。とてもじゃないけど、どうしても好きになれないのね。
歌と自分が合わない、その思いを伝えにレコード会社に足を運び、社長さんと話をしていたとき、じゃあどういう歌がいいのかと聞かれて、「桂銀淑が歌うようなの、ああいう歌があればね」と言ったときに、「すっとそんな感じの曲がかかったんです、それが『思い出』でした」。
それは韓国人歌手が歌うように、すでにレコード会社のほうで用意されていた楽曲だったが、その歌手が歌うことなく帰国してしまったために、宙に浮いていた状態だった。「ちょっと聴いただけで、あぁ、これだと思ったんです」という一曲が、"ひやみこぐ"だった彼女を変えた。
自分の声が出るかぎり、歌っていきたいなと思わせてくれた曲でね。歌に欲を出すことができたということかな。全国を歩きたいとか、それまで思わなかったんですけど、この『思い出』は、みなさんの歌にしていただいて、歌っていただきたいと思いました。
とても大好きな男性と、一生いっしょにいたいという気持ちがあるんですけど、男性には新しい女性ができちゃうのね。女性ができて、あぁ、お前なんか嫌いだって、バーンと喧嘩して別れるんじゃなくて、ふとキスをしてみたり、好きだよって言われたり。そんなこと言われて泣いちゃうんですけど、男性はやはり去って行く。でもあなたの思い出だけで、私、一生いきてゆきますと、そういう感じの詞なんです。
スナックや健康ランドより、ホテルのラウンジが似合いそうな、オトナの恋唄。いろんなひとに聴いてもらいたいと、それまで億劫だった営業に積極的に歩くようになった。なかでも効果的だったのが、長距離フェリーのラウンジでの歌謡ライブだった。新日本フェリーの大型船の、船内の様子をテレビ番組で見た当時のマネージャーが、「1回断られても、10回は噛みつくんじゃないかな(笑)」という粘りで大阪本社に掛け合い、試験的にいちどやってみたところ、大好評。それからは札幌―舞鶴、敦賀―苫小牧の2路線で、数百名の乗客のために歌うキャンペーンが始まった。
1週間から、長いときは10日間ぐらいやるんですけど、あるとき乗務員で京都にお住まいの方が、CDを買ってくれたんですね。それで、そのCDを(大阪)北新地のママさんにあげたんですって。そしたらホステスさんたちが気に入ってくれたみたいで、レコード会社のほうから「なぜか大阪で『思い出』売れてるよ!」って電話が来たりして。こころを病んでる女性には、とくに響くらしいです。うれしかったですねえ。
いちどだけだったはずが、毎年ゴールデンウィークの恒例となって、今年で7年目。「売れたから、もうやめた、じゃなくて、ずーっとやってください」とフェリー会社に言われるまでになった。ふつうの営業だと交通費や滞在費など経費も問題になってくるけれど、「自分で動かなくても、黙って船に乗ってて、お客さんが出入りしてくださいますし、部屋も食事も用意してもらえますし、自分が走って歩かなくていいでしょ(笑)」という、考えてみれば最高の環境で、あずささんはいまも歌いつづけている。ほかに、そのフェリーで歌う機会を与えられた歌手はいない。あずさ愛の、ひとり舞台だ。そうして、その歌のおかげで、あこがれだった作詞家の三佳令二さんと出会うこともできた。
私、『思い出』で取材を受けたときに、「一生にいちどでいいから、桂銀淑の歌を作ってらっしゃる先生の歌を歌えたら、もう歌をやめていいくらいです!」という話を、よくしてたんです。そしたら、CDをお渡しすることができて、それからキャンペーンやディナーショーに来ていただいて、弘田三枝子の『人形の家』や、越路吹雪の『ラストダンスは私に』を歌ったのを、すごく気に入っていただけて。そのころ、三佳先生はハスキーな声の歌手を探していらっしゃったらしくて、私がお耳にかなったということなんですね。
もともと敏腕ディレクターとして越路吹雪、加山雄三、水原弘、そしてなによりも八代亜紀を育て、作詞家としても『釜山港へ帰れ』、『大田ブルース』など、韓国作品の訳詞を手がけ、韓国歌謡ブームのきっかけを生んだ、歌謡界の大御所・三佳令二氏。この3月10日(2009年)、原発不明ガンにより死去したばかりである。享年80だった。
先生の昔を知る人たちにお話を聞くと、ものすごく怖い方だったらしいんですが、私にはすごく優しい先生でした。怒られたこと、ないかもしれないぐらい。先生と出会って、ちょっとして声帯ポリープを取っちゃって、ハスキーだったのが澄んだ声になっちゃったんですけど(笑)、それでも気に入ってもらえて、けっきょく最後の弟子ということになりました。
2005年に出会い、翌年、三佳令二・作曲作詞で『冗談じゃないよ/心の旅路』を発表する。2年後である2008年には、第2弾の『お酒なら/愛の未来』を発売した。
先生からは、「この『お酒なら』で勝負に行くから、びっちり東京にいなさい、NHKのテレビ番組とかも決めて、やるぞっていうときに、突然に亡くなってしまって。計画狂っちゃいましたが、先生も悔しかったと思います。だって2月27日にお酒をごいっしょして、3月に入って、入院したと思ったら5日間で・・・。だから『お酒なら』が、先生の遺作なんです。
「あずさみたいな子って、見たことない。ウブだから、人に騙されちゃうんだよな」と生前、三佳さんによく、あずささんは言われたという。「小学生・中学生そのまんまの感覚なんです。いくらお金とかで騙されても、人を恨まないんですから」と、マネージャーさんも太鼓判を押す、ピュアな性格と生きざま。そのせいで、いままでずいぶん苦労もしてきた。
『スタ誕』からのデビューを取りやめたころ、あずささんはいちど結婚を経験している。としは20歳、相手の男性は22歳の「ままごとみたい、って言われる夫婦」だった。
デビューをやめて、でもまた歌ってくれないかと言われていた時期だったんですが、彼は私が歌うことに反対でした。私がひとに注目される・・・のがイヤだったし、専業主婦になってほしかったんでしょう。
でも、私は歌えないことがイヤだったわけじゃないんです。主婦業も好きだったんですけど・・・男のひとって、私の歌みたいに、他に女のひとつくっちゃって、ということあるでしょ。家にいて、夜、ちょっとタバコ買ってくるって出て行って、そのまま朝まで帰ってこない。朝になって、鼻歌うたって帰ってくる。浮気されてるのはわかってるんだけど、帰ってきてくれてありがとうって思っちゃう。
でも男のひとって、追えば追うほどね・・・逃げちゃうんだよね。女といっしょにいなくなって、蒸発しちゃったり。それで会社の社長やってて、従業員もいたのに、いちど会社潰したりして。戻ってくると、また会社つくって。女も、いっしょに蒸発したのとは別れて、別の女とできちゃって、という繰り返しで、最後には子供までできちゃって。それでとうとう、これは自分が身を引くべきだと思って、きっぱり別れました。
だから別れたときはいつも泣いてました。毎日泣いてました。「別れちゃった」と話すとバーっと泣いちゃうんで、友達にも話せなかったです。1年以上たってから、「実は別れちゃったんだ」と、理由も話せるようになりました。それくらい未練たらたらで、泣くだけ泣いて...とにかく1年は寂しくって悲しくって。夢にも見ましたから、勝手に夢に入ってくるなって。でも、それですっかり晴れたら、もうなんともなくなりました。
あずささんが30歳をちょっと過ぎたころ、そんなつらい別れがあって、同じころに秋田に『やすらぎ』と名づけた店を開いている。最初は「いままでちゃんと仕事に就いたことなかったけど、料理は好きだったから」、料理の充実したパブを開いて、店に立っていたが、『北岬』で再デビューしてからは昼のカラオケ、夜のスナックと、別々のママに店を任せるようになって、あずささん本人は歌に本腰を入れる日々になった。
「そんなことがあったから、『思い出』みたいな歌に入り込めるんでしょうね」と話してくれたあずささん。いまでも秋田にいるときは、気が向けば自分の店でマイクを握ることがある。「若いころはビールだったらワンケースは飲んでました。いまでは10本ぐらいですけど。仲間と飲むんですけど、そうなったら潰れるまで飲む。で、最後には頭がテーブルにつくまでに、もうイビキかいてますから!」という酒豪ぶりも、いまだ健在だ。
優しくて、純粋で、姉御肌で、そうして声は最高にエネルギッシュで。いま、その歌声をCDからじゃなく、ナマでお届けできないのが、残念でならない。
撮影協力:三ノ輪スナック・マツエ
●イベント情報
第4回 日韓交流福祉慈善歌謡祭 2009 in 秋田
会場 秋田市文化会館
日程 2009年11月23日(月・祝)
あずさ愛さんをはじめ、多数の歌手が出演されるイベントです。
詳細は会場に直接お問い合わせください。
秋田市山王七丁目3-1
TEL 018-865-1191
●「パブやすらぎ」について
あずさ愛さんがオーナーの「パブやすらぎ」は、秋田市内で営業中です。
秋田市南通築地4-13
TEL 018-832-7721
あずささんがお店に入るのは不定期です。事前にお電話でお問い合わせください。
