
大阪府と県境を接する、奈良盆地の小さな町。川沿いの桜並木が、春ともなれば川面を一面のピンクにかえる穏やかな環境で、春風うららさんは平成元年から暮らしている。
生まれも育ちも大阪ミナミ。大阪寿司屋の娘に生まれて、なに不自由ない少女時代を送ったが、なにより歌が好きで、親に隠れてレッスンに通ううち、地元のグランドキャバレーで歌うように。当然ながら猛反対だった実家を飛び出し、大阪のプロダクションに所属。スーツケースに衣裳と譜面を詰めて、営業やキャンペーンに走り回る生活が始まった。
昭和55(1980)年には『おてんば旅からす』でレコード・デビュー。ちょうどそのころ、松竹の舞台でやっていた、チャンバラ・コントの代役を務めたのがきっかけで、松竹芸能に属することになり、花月などの劇場で仕事するには「歌だけでなく、なにかプラスアルファを」と考えて、浪曲を参考に「ものがたり演歌」なるスタイルを編み出した。
歌謡浪曲というのはそれまでもあったけれど、浪曲の部分を歌に替えて、台詞と歌をあわせた独自のパフォーマンスを、試行錯誤しながら作っていった。1曲の長さが15分から18分あまり。最初は『無法松の一生』や『岸壁の母』など、よく知られた題材をもとにしていたが、しだいにオリジナルの楽曲を増やしていく。
昭和58(1983)年にものがたり演歌の第一弾『王将みだれ駒』をカセットで全国発売したのを皮切りに、『梅川忠兵衛』、『花の牛若』、『虹の橋』など、じっくり時間をかけてレパートリーを増やしてきた。
「 ものがたり演歌 」 そんな言葉が今や、東に西に広がっています
ものがたり演歌 」 とは歌謡浪曲では有りません。物語を演歌で綴ったもの。
私はこの様に説明してます。演歌と演歌の間にセリフが入っていますがその人物は
声色では演じておりません。あくまでも、その物語のム−ド作りを主に考えています
厚みの有る音が会場を圧倒し照明の数々、ドライアイスが舞台を包み観客を魅了する。
魅せて、聞かせて、感動を呼ぶ! そんな舞台を演じているのが、「ものがたり演歌」の春風うららです。ご期待ください。
春風さんの公式ウェブサイトには、こんな説明が載っている。「歌だけ歌ってるんなら、若くて、いい着物着てればいいけど、歳とったらそうはいかないでしょ。浪曲だったら70,80代の人がたくさんいてはるし、そういう歳になってもできるものが、やりたいんです」という彼女は、ものがたり演歌の世界に賭けて、もう25年を超えた。
もういまさら、カラオケでふつうに歌えるような曲には興味ありません、と言い切る春風うららさん。その真価は、舞台でこそ発揮される。公式サイトではその、年齢をまったく感じさせないエネルギッシュなパフォーマンスを動画で体験できるので、ぜひアクセスしてみていただきたい。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/urara12/
春風うららさんは、かつて難波新地と呼ばれた、大阪一の繁華街に生まれた。実家は大阪寿司の店だった。
わたしはね、生まれも育ちも難波なんです。商売人の娘ですね。だから歌をやることに関しては、賛成やなかった。というより、はっきり反対でしたね。そんなことさすの、嫌だったと思いますけどね。まあ、反対押し切ってやったもんで、自分独りでやってきましたね。 小さいころから、歌は好きでした。ちょうど、美空ひばりさんの曲がなんかがテレビやラジオでよく流れてましたね。私が稽古したのは、『あんこ椿は恋の花』のころの都はるみさんとかね。
歌がなにより好きだった少女は、お小遣いを貯めては親に秘密で歌のレッスンに通うようになっていた。
中学校2年のころからですか、基礎からきっちり、個人レッスンを受けるようになったんです。ちょうどね、歌謡学校が難波にあったんですよ。そこは先生がひとりずつ時間を決めて、個人レッスンやってるところで。学校の帰りに行ってたから、親は知らないと思いますよ。ぜんぜん言ってなかったですから。
最初はただ、ただ歌いたいなあ、うまくなりたいなあ、という単純な動機でレッスンに通い始めたのが、2,3年たつころになると、なんとか歌の道で生きていきたいなぁと考えるようになった。春風さんが、高校を卒業するころだった。
ほんとに趣味で行ってたんですけど、だんだんやっぱり、今度は人前で歌いたくなって。あの時代は、私が18のころですが、もう水商売、キャバレーと言うんですか、あういうのが全盛だったですね。難波や千日前に、マンモスキャバレーがばんばんあって。近所には富士という大きなキャバレーがあったんですよ。スイングバンドで20人近くのとタンゴバンド、バイオリンとかあんなのが入ったバンドと、バンドさんがふたつあって、時間交代でやってたんですが、たまたまスイングバンドで歌ってらっしゃる専属歌手の方を知ってたんで、バンドさんに紹介していただいてね。半年ぐらいかな、お手伝いしながら歌わせてもらったんです。 バンドさんの演奏レパートリーがありますね、それの知ってるのを歌わせていただいて、半年間くらいやってたらね、キャバレー富士から専属歌手の募集があったんですよ。出てみないかと言われたら、30人のうちで2人か3人しか採らないんですよね。一回出てみたらと言われて、そのときは私服で歌ったんですが、通っちゃったんです。
そのとき歌った曲は、西田佐知子の『東京ブルース』だった。
家の近所でしたから、キャバレー富士に出たときに(家に)ばれちゃって。もう反対されて反対されて、とりあえず私も独りでやっていく、親はいっさい関知しない、やりたかったら勝手にやれということで、家を出たんですよ。それで独りで生活しはじめることになりました。ちょうど、父親がそのころ病気で亡くなりましてね。それで母親は、なおさら反対で。それでまあ、家出まして、そこから歌の生活が始まりましたね。そのころは、やめと言われたら死ねと言われるのと同じくらいに、歌に入り込んでましたね。
それでキャバレー富士で何ヶ月か専属で歌ったあと、大阪のプロダクションに入って、大阪を中心に全国のキャバレーをショーで回るようになりました。もう、休みが無いくらい、北海道から九州からね、ずっと回りました。ひとりでね、譜面持って衣装持って、夜行列車に乗って、行き先と旅館の名前と、店の名前を書いた紙と切符もらって、それでずぅーっと行ってましたわ、重たい荷物下げて。
だいたい1ステージ5曲歌うでしょ。持ってるのは10曲くらい。でも(楽器ごとに)パートがちがうんですからね、ナインピースだったら90枚の譜面を持って歩くんです。それで衣装はツー・ポーズでしょ(舞台のあいだに衣装替えすること)。それで着物、着てますからねぇ。振り袖着てましたから、それだけの着物持って。そんなんで何年ぐらい回ったかな......やっぱり7・8年はやりましたね。
譜面作るのに、あのころで1曲1万円ぐらいするんです、フルメンバー分で。ほんでそれを10曲作ってもらって、そいで今度は衣装が要りますやろ。そんなん全部プロダクションで出してくれませんから、もちろん借金ですよ。ほんとに仕事たくさんありましたから、とりあえず1年で借金返しましたけど。
18歳で歌いはじめ、キャバレーを回る生活がそろそろ10年目になろうとする27歳のころ、レコード・デビューの話が持ち上がった。それが初めてのレコードになる『おてんば旅がらす』だった(トリオ・レコード)。
ある日、東京のプロダクションから電話がかかって来ましてね、「こういう曲があるんだけど、歌ってみませんか」って。それで一回やってみようかなと思って、『おてんば旅がらす』と『うら町ぐらし』の2曲で出したんです。
ほんで『おてんば旅がらす』という歌は、どっちか言うたらテンポの速いエイトビートの利いた演歌だったんですね。だから着物じゃなくて、髪の毛もアフロの感じの(かつら)をかぶって、衣装もパンツルックで、ブーツ履いて、そんな格好でした。それまではずっと着物だったんですけど。 レコード出してからは、今度は(キャバレーの)営業じゃなくて、キャンペーン。それはもう、夜の8時くらいから夜中の2時、3時までね、ずぅっと何軒も何軒もキャンペーンに行って。 レコードはもちろん、はけますけどもねぇ。そんで有線に挨拶に行って、有線に流してもらっても、なかなか売れるものとちがいます。
ほんで今度は生活していかなければなりませんでしょ。キャンペーンしてたら生活費がぜんぜん入ってこないから、ほなら続かなくなってきます。これだったらあかんから、営業もやっていかなあかんということで、また同じキャバレーで回ってたら、ギャランティの問題になってきてね。やっぱり値段も安いし。同じ大阪でやるんやったら、やっぱりどっか劇場形式の所に出たいなあという希望がありまして。そいで「ものがたり演歌」というのを作って、こんどは松竹に入ったんですよ。
キャバレーやスナックから、舞台へ。それは若い歌手にとって、大きな転換点になった。
松竹芸能に入ったきっかけは、もう亡くなってしまったんですが、東映やあっちこっちの殺陣をやってた先生が知り合いにおりまして。その方が、女の子ひとりと、男の子ふたりか3人が殺陣でぱっと絡んでという、20分ぐらいのコント形式みたいなのを、やってはったんですね。 それをやってはった、芯になる女の子が辞めちゃったんですよ。で、急遽私のほうに来たんです、「悪いけど助けてもらえへんか」ということで。ちょうど28ぐらいだったかな。舞台が道頓堀の角座であって、新世界の新花月であって、神戸の松竹座であって、ちょうど1ヶ月回ったんです。いやぁ、同じ出るんだったら、こういうのに出たいなあと。でも劇場に出るんだったら、歌だけでは無理なんです。やっぱり色物の寄席の劇場でしょ。けど、浪曲の人だったら出れるわけです。 かといって、ちょっとやそっとで浪曲はできないし、そいでまぁ考えて。どんなんいいんかなぁ、どいうのがえいのかなぁって。
そのころ、天津羽衣さんとか双葉百合子さんなんかが、歌謡浪曲というのをやってはりましたわね。『お吉物語』とかね。あ、こういうので浪曲の部分を、演歌にすればいいんだと。で、台詞があって、浪曲の部分を歌にこしらえてみたらということで、『無法松の一生』とか『岸壁の母』とか、そういうものを題材にだいたい13分か15分くらいまでにおさめて。ほんでBGMをあっちこっちで探して来てはね、歌の流れをBGMに合わせるようにと作って。それをひとつテープに作ってもらって、松竹に持っていったんです、こういうのをやりたいんですけどと言うて。 それ聞いてて、「おもしろいやないか、それやったら劇場にも通用するな」ということで、初めてひとりで、「ものがたり演歌」として新世界の新花月の舞台に上がったんです。それがきっかけなんです。
春風さんに浪曲の素養があったわけではないが、キャバレー回りの時代に、三波春夫の『俵星玄蕃』や木村友衛(『浪花節だよ人生は』)の『花の牛若』とかを聞いて覚えていたのが、ずいぶん役に立った。
劇場の舞台での、持ち時間は20分ぐらい。まずは1曲か2曲歌って、それから15分ぐらいにまとめたものがたり演歌。そんな構成で1年ぐらい舞台経験を積むうちに、最初のオリジナル『王将みだれ駒』が完成した。
「ものがたり」と平仮名で書くのにこだわったんですけど、それは浪曲とはぜんぜん中味がちがうんですよ、というのをはっきりさせたかったんですね。 浪曲の世界というのは、これまた非常に上下関係の厳しいところで。だから浪曲の、だれだれさんの流れじゃないんです、とわかってもらわないと。それで、だれもやってないことだから、新世界の花月に出されたんです。 あそこはとにかく、いちばんペーペーが出てくる劇場なんですね。漫才でもそこで2年くらいやって、それでよかったのをピックアップして神戸松竹に送ったり,角座に出したりするんですから。そこで3ヶ月目に、私が大トリになっちゃったんです。
新世界というたら下町ですから、どっちかと言うと労働のおっちゃんばっかりやからね、口コミが凄いんですよ。それでお客さんがわーと入ってくるんですよ。だから若手の漫才の子らは、出るのがイヤ。ヤジが飛ぶからね。「早よ止め」とか、「ええかげんえぇぞう」とかね。私も初めてだから、心配ですわね、なんか言われるとちがうかなぁとか思って出たら、ワーっと受けたんです。 もうあの、新世界のあの舞台に上がったら、あとはほんとうに、どの舞台でも上がれますね。だってもうね、鉢巻きして、ニッカボッカ履いて酒の一升瓶とかワンカップ持って、入ってきはるようなお客さんばっかりですからね。女の人なんて、いない。おっちゃんばかりですよ。だからよっぽど性根入れてやらないとね。
よく言われたのは、あのころの看板さんだと、ミスハワイさんとかね。もちろんオオトリで、たまに出はるんです。そやからいうて、あの方が出たからというてね、お客さんは入らない。あそこは特殊なところなんですよ。だから、喜んでいいいのかわからないけど、新花月だけは、うららちゃんにかなわんなあ、まかしとかなしゃあないなあ、て言われるくらいでね。新世界の中では人気がありました。
中ではね、酔っぱらってぐじゅぐじゅ言うてたら「静かにせい!」とか、言うてくれますもん、お客さんが。そんなの、前の漫才師さんがやってるときと、お客さんの態度がぜんぜんちがうから。おしまいには、うしろから雪駄持って、頭バシーンとどついたりね。で、どつかれて、うしろ見たら暗いでしょ。知らん顔してるから、だれがやったかわからへんで。そんなすごい劇場でしたわ。 ものがたり演歌に入ったら、絶対に途中でやめることできませんからね。その前に3曲ぐらい、歌をやるんですが。その時に(舞台の)前で喧嘩したり。だから私が歌の途中で仲裁に入って、「おっちゃん、頼むからもう止めといて」とか言いながら歌って。「頼むから喧嘩せんで聞いてね」とか言ってね。そうかと思ったら。「うらら、ええぞ!」って、バンと一升瓶舞台に置いてくれたり。差し入れですわ。バラ銭ばあーっとばらまいたり。祝儀くれはるんですよ。あんなとこのおっちゃん、1000円ちゅうたら大変なんですよ。それをね、1000円、2000円とくれはるんです。よそに、そんな雰囲気のとこありませんもの。そんな劇場に、10年から出てたんですからねえ。
そんなふうに舞台になじんでいった春風さん。新世界での人気を受けて、ぐっとランクアップした角座にも進出することになったが、異例のスピード出世は、古参芸人からの反感を買うことにもなった。
3ヶ月で大トリになって、ほんですぐ角座の舞台に上がって。それかて一本二本三本目じゃなくて、四本目からでしょう。だから反感はきつかったです。そりゃあ、裏ではすごかったですよ。 そりゃあ考えたら、私より古い人ばっかりだからね、漫才の方にしても、浪曲の方にしても、私より若い人いなかったですから。(自分が)28や29のころですから。まあ、気は使いましたわね。舞台に立ったら、やっぱり自分やから関係ない、板の上は後輩も先輩もありませんから。でも下りたときは、やっぱりね。気ぃ使います、下駄箱の位置からね。 出る順番に、下駄箱の位置ってあるんです。それが、古い方が私より下だったとかいう場合が、多々あるんですよね。そしたら、それを会社に言いに行く、「なんでうららちゃんより、わしらの方が下やねん」と。本人には言わないんですよ。
けど松竹の演芸部長がうちを買うてくれてたからね、30分40分も時間いただいて、ものがたり演歌入れてお芝居やったりとか、お芝居挟んでショーやったりとかをやらしていただいてね。そういうこと、ほんとうにまれなことだったもんですから。それはその、極端な言いかたをしたら、「これからの演芸場は、(昔ながらの芸だけじゃなくて)、そういうふうにやらんかったらあかんようになるかもわからん、だからこういうものは、どうしてもいるんや」ということで、会社自体がバックアップしてくれました。

それと、もうひとつよかったのは、あの建物は松竹の建物で、松竹の演芸部がやってますから、照明さんなんかも全部松竹の方で。それで照明さんなんかにしてみたら、漫才はなにもすることないわけよ。ところが、うち行ってやってると「ピンスポットでああしたらどう、こうしたらどう」っていうことで、どんどん照明のプログラムを作ってですね。やってくれた。もちろん、照明と音楽と演者と、この3つがパチッと合って、初めてよい、ものができるわけなんですよね。 ずーっとそんなんでやって来たもんやから、反感も多かったと思いますわ。 それがだんだん、毎月10日間ずつ新世界新花月と角座、もう神戸の松竹座はなくなってましたから、10日間ずつ割って(出演させて)いただくようになりました。もう、それが18年くらいもやりましたか、ずっと出てましたね。
18歳のころからキャバレーで、酔っぱらい客に芸を揉まれて、ものがたり演歌をやるようになってからは、浪曲や漫才の大御所といっしょの舞台でまた芸を揉まれて。そうやってだんだんと、春風さんは芸能用語で「看板を上げる」=トリや、トリに近い出番を確保できるようになっていった。
芸で納得してもらえんかったら、しょうがないですから。お客さんを納得させて、その結果、「良かったよ」という声が、支配人さんとか会社に入りますやんか。たとえば9本の寄席の中の一本で、先輩の中に入って、これでもかこれでもかとやってきてますからね。ほんでボチボチ、看板上がって来ましたもん。それだけやってもね、先輩で中トリも取れれない方が、たくさんいますからねぇ。
「ものがたり演歌」は春風さんと、20代のころからずっといっしょのマネージャーである鍛治さんのふたりによって、生み出されてきた。
台詞はオリジナルでこしらえて、それに既成の音楽を聞きながら、それをバックに取り入れて。それでたとえば、三波春夫さんの『俵星玄蕃』でも18分あるんですが、ふつうの演歌みたいに、音入れっぱなしでずっと行くんとちがうんですわ。 台詞があって、ポンとイントロが入っていって、そのイントロにかぶせてずっと盛り上がり、そこで歌に入ると。ほんで、すっと終わってから台詞が入ったときにBGMがパッと流れる。劇場なんかだと、拍手が来ればそんだけ間が延びてくるわけですから、タイミングが難しいわけですわね。早くても歌いにくいし、遅くても歌いにくいし。10日間やってながら、「今日うまいこといったな」というのは、1日昼夜2回ですが、それで1回あるかないかですね。
マネージャーの鍛治さんによれば、「この人よりギャラ高い人なんていなかったんです」というぐらい、キャバレー回り当時の春風さんのギャランティは高かったらしい。
それにもかかわらず、お金がないとはなんでやねんと話聞いたら、行き帰り全部タクシーですわ。着物が2枚と譜面ですね、これを入れて、こんなごついトランクで電車乗って行かれへんと。そこへもってきて、着てる衣装がその時分から、百万単位の衣装で。だから大阪のプロダクションでは、「着物ではうららちゃんに敵う歌手おらへん」と。いまならマンションの2軒くらい建ったんじゃないですか。(鍛治さんのお話)
春風さんのウェブサイトには、<うらら衣装アラカルト>と題されたページがあって、過去にうららさんが着た、美しい衣装の数々がアルバムになっている。
あの時分はテレビがあり,舞台があり、劇場形式の営業があり、それぞれやる場所がちがうんで、衣装を替えていかんと。柄もね。ホテルの仕事なんかやったら、(お客さんが)目の前でしょ。舞台だったら、お客さんから少々離れて見栄えのするやつでしょ。またちがう雰囲気の柄、持ってかなあかん。女のひとって、いっぱいうるさいですから、着ているものに。 女性のお客さんだと、歌ってるときに、(春風さんの着物の)袖をこないして、触って持ち上げますもん。ぱっと持ってね、「あらこれ正絹やわ」って。化繊か絹かを見てる、そういうひともいてますよ。そうやってやって来たから、お金もいりますよ。全部、自前ですもんね。だから1年間12回出ますね、舞台に。その12回で、同じ着物着たことないです。それで私の場合、10日間着たら、次は1年後しか着ないですから。多すぎて、タンスにも入らなくなってくるんですよ。だから、かわいがってる後輩の子に、何十枚と上げたりしてましたね。
昭和57(1982)年に「ものがたり演歌」を始めて、いつのまにか30年近くの年月がたった。そのあいだ、東京の国立劇場や浅草演芸場にも請われて出演するようになり、レコード会社からのオファーに応じてシングルを発売したり、自分でも自主制作で新曲を発表するようになった。
キャンペーンをしてみれば、東京のほうがぜんぜんたくさん、セールスに結びつくんです。ものがたり演歌かて、東京で通用するかなと思って心配したんですけどね、最初。でも、1ヶ月に1回、2回東京に行ってたら、それだけでも大変なんです。 国立劇場でも、こちらの予想以上にものすごい受けたんです。劇場側から、東京に来たらどうなんです、とまでお話をいただいたんですけど......。大阪に長いこと居てるから、やっぱり行くまでの勇気がなかったですね。行ってたら、変わってましたでしょうねぇ。 東京だったら、いろんなとこから集まってるでしょう。だから東京行ったほうがよかったかって、いま考えたら後悔してね。だけど、やっぱり大阪で生まれて、大阪で育った中でやってきたから、東京で行くというのはなかなか......悩んだけど、行けませんでしたね。「東京がなんぼのもんじゃ」という気も、ちょっとはあったし。

昭和が平成になって、春風さんが居を奈良に移したころ、時代はすでにカラオケ全盛になっていた。どこへ言っても、聴くより歌いたいというひとが多くなって、歌わせるのではなく聴かせる「ものがたり演歌」は、だんだんキャンペーンの機会も少なくなっていく。
舞台の合間にね、10分休憩があるんです。そのときに私とマネージャーとぼうやと、3人で色紙とカセット持って、わーっと走って売るんですよ。1本2千円なのが、50本売れる時代でしたから。
歌手生活やってきたなかで、だれもやっていない、自分だけのものを持っているという気持ちが強いんだと思います。だれも真似のできないものを、私がやっているというね。それで突っ張ってやってきましたから、いまさらカラオケブームやからといって、年齢もそこそこいっているし、柄じゃないんです。 機械にカセット、ポンと入れて、音出したらえぇというもんとちがいますからね。カラオケ喫茶では、ちょっとできない。それにカラオケ喫茶はいま、数が増えすぎて、お店がキャンペーンをいやがるようになってきてるし。だからいま仕事やってるのは、敬老会とか、そういう感じのイベントですね、年金友の会とか。
いま、春風うららさんの歌を聴こうと思ったら、公式ウェブサイトからメールでアクセスして、カセットテープを購入するしかない。それも、すでに在庫は限られているという。これだけの芸歴を持つ歌手だから、もちろんレコード会社からのオファーも過去に何度もあったが、春風さんの目はむしろ、別の方向に向いているようだ。
いまのレコード会社はね、ほんとに歌手を育てようという気がないんですよ。ただもう商売で、カラオケにどんどん配信するためだけに、どんどん新曲出してく。カラオケで流れたら、作曲と作詞のひとにはJASRACからお金が入ってきますわね。でも、歌手には入らないんです。 それでもレコード会社は儲かるから、そういう商売をやってるだけで。昔みたいに美空ひばりさん、都はるみさんを育てたディレクターみたいな方が、この歌手を売るにはどの曲が良いのや、この歌はだれがよいのやと考える、そんなのはいま、ないでしょう。

うちのは、ただの演歌とはちがいます。最低16分から18分は要りますというと、どの会社も「それはちょっと......ふつうのにしてくれませんか」と言うわけですよ。だから、いまはむしろ、そういう制約がない、ネット配信がいいかなと思って、いろいろ交渉してる段階なんです。
1曲の録音時間がふつうの歌の何倍もあり、バックトラックも打ち込みではなく、「大きなスタジオを借りて、(ミュージシャン)27人いっぺんに入れて、だーんと音を出して、一発録り」という、昔ながらのスタイル。だから1曲の制作に、300万円ぐらいの費用がかかるという。
舞台は舞台で、音響や衣装はもちろん、多量のドライアイスまで持ち込んで、凝りに凝った舞台を演出する。「そういうやりかたが、自分には合ってるんだと思いますし。舞台が終わってから、ああやったなっていう気持ちが、ぜんぜんちがいますから」という春風さんだが、それだけのステージを、年齢による衰えをカバーしながらつとめあげるには、そうとうの体力と精神力が必要なはずだ。
神経はすごい、つかいますよ。だって長い時間、お客さんをぐーっとひっぱらないかん。ふつうの歌だったら、ワンコーラス歌って、間奏がありますけど、こっちは休みがないんですもん。歌終わったら台詞でしょ、台詞終わったらまた歌でしょ。
泣きの部分なんかでもね、息を止めているところがあります。息を吸ってしまうと、そこで感情が逃げるんです。ここで息したいなと思ってても、息を吸った瞬間に、かーっとなっていたのが、すっと薄れるんです。だから泣きのところなんか、ここの台詞のとこまでは絶対、息を止めて、とそれくらいの気持ちでやりますね。
人間って感情の激しいところがありますから、なんぼやってても、なかなかノリがちがうときって、やっぱりありますもん。のってるときなんて、勝手に涙がバーッと出てきますしね。それをお客さんも見て、泣いてくれはる。
こういうレベルのアーティストを、いまのレコード会社が扱えないという現実。それをただ悲観するのではなく、地方をベースに地道なコンサート活動を続けながら、インターネットという新しい媒体に活路を見いだしていこうというベテランの、ラディカルな意志のスタイル。
日本の音楽業界を支えているのは東京の商売人たちだろうが、日本の、ほんとうの「うた」を支えているのは、春風うららさんのような歌手なのかもしれない。
●春風うらら「着物写真館」

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