[第7回] 胡桃乃みちる

OLから演歌歌手へ。普通の女の子が歌う希望の歌

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どんなに長い夜も いつか朝が来る
幾年月も心の中 くり返すあなたの言葉
人生は悲しみを越えて 輝きを知る
愛をくれたあなたへ
この歌 届きますように

『優』 作詞曲/小田ちはる


郊外の小さな駅。線路沿いの暗い道を、自分の背の半分ぐらいはありそうなカート付きのスーツケースをがらがら引いて、ちいちゃな彼女が歩いていく。今夜もこれから、カラオケ好きが集まるスナックで、長いキャンペーンの時間が始まるのだ。
自分の曲を歌って、お客様とデュエットを何曲もやって、また自分の曲を歌って、終わったらカセットとプロマイドを持って客席を回る。1枚ずつその場でサインして、ぎゅっと握手して、それから物置みたいな小さな部屋で着替えて、またスーツケースを引いて家に帰る。
レコード会社もない、マネージャーも運転手も、事務員もいない。たったひとりで営業して、歌って、売り歩く。胡桃乃(ことの)みちるさんが、そんな歌手生活に入ってから、もうずいぶん長い時が流れた。

胡桃乃みちるさんは盆唄で有名な福島県相馬生まれ、ただすぐに埼玉県川口に移り、小学校から同じ埼玉県内の蓮田に引っ越してきた。いまも蓮田が地元である。
お父さんは建具職人、お母さんは大月みやこなど、ド演歌が大好きな「根っからの演歌好き」の主婦。とりたてて音楽的な環境でもない、ごくふつうの家庭だったが、物心つくころにはすでに地域の盆踊りでマイクを握って歌いまくる、大の歌好きの少女になっていた。

なんででしょう、いまではなにを歌ったかも覚えてないですし、母の好きだった演歌はちょっと敬遠していたし。昔の友だちに会うと、「どこでも歌ってたよねぇ」ってよく言われるんですけど、それくらい、学校でも道でも、いつでもどこでも、人に聞こえるぐらいの声で歌ってたみたいです、口ずさむとかいうレベルじゃなくて。

時代はピンクレディーとか松田聖子とか、それまでの"芸能人"とはちがった、子供が夢中になれるアイドルが一世を風靡し始めたころ。ただ、歌が好きな少女だった胡桃乃さんは、将来歌手になろうなんて、考えたこともなかった。

学校時代は歌と、まるで関係なかったです。むしろ部活に明け暮れてて。わたし、テニスやってたんです。硬式じゃなくて、軟式テニス。中学がけっこう強豪校だったんで、練習がものすごく厳しくて。背が小さいから後衛ばっかりだったんですけど、授業の前に朝練があって、終わると8時ごろまで夜練があって、土日も練習。元旦も練習で、休みは年に1日か2日だけ。からだが持たないから一日5食食べて、早弁もして。もう、はんぱじゃなく大変でした。

上級生がコートでポコンポコンと球を打ち合う。下級生は脇や後ろに並んで、ボール拾いに走ったり、「ナイショッ!」「ガンバ!」とか叫ぶのだが、そんなときでも胡桃乃さんは知らないうちに、歌っていたらしい。

なんかこう、打ちながらも、待ってるあいだも、歌ってたみたいなんです。なにを歌ったかは覚えてないんですが、先輩から「うるせー!」とか「黙ってろ!」とか怒られた記憶は、けっこうあるんです。怒られるぐらいだから、ずいぶん大きな声だったんでしょうねえ。そうとう変わり者ですよね(笑)。

中学ではテニス漬けだった胡桃乃さんだが、高校では「もっと楽な、仲良し系の部活でテニスやりながら」、ちょうどそのころ流行りだしたカラオケボックスに寄るようになった。部活のあと、一室1500円か2000円の料金を友だちと割り勘して、毎日のように歌いまくっていた。
英語の先生に憧れて、バレンタインに手作りクッキーを焼いたりしたころから(「大好きで憧れて、結婚して幼な妻!とか思ったんですけど、見事に玉砕でした」)、料理が好きになって、胡桃乃さんは短大の栄養科に進学、栄養士を目指すことになる。

わたし、一人っ子なんで、けっこう両親が厳しくて、高校のころも門限があったりして・・・9時半には帰ってこい、みたいな。バイトも9時で上がらせてもらえないと、「早く帰せ!」ってバイト先に電話がかかってきちゃうくらい。
だからいちどは家を出てみたかったというのもあります。2年間だけ、駄々こねてひとり暮らしして、好きほうだいやらせてもらって。でも卒業したらやっぱり実家に戻っちゃって、それで地元の保育園で栄養士の仕事を始めたんです。

短大に進学して、保育園で働くようになって。胡桃乃みちるさんはここまで、ほんとにふつうの人生を送ってきて、そうして20歳だった。

仕事は音楽とかけ離れてるんですけど、でも、やっぱり、なんか自分の中では歌がすごく好きで、ふだんから音楽を毎日聞いたりとかはしてたんですが、そのころからオーディションを受けてみたいなぁという気持ちが芽生えて・・・遅いんですよね。ふつうはみんな、早いうちから受けますよね。でも、オーディションに受かったら歌手になれるとか、そういうプロセスを全然知らなかったので。

なんにも知らない、20歳の栄養士の女の子。レッスンを受けることすら知らず、両親にも言えず、こっそりオーディションに応募しては「どこにも引っかからない」、その繰り返しだった。

シンガーソングライターさんだと別ですけど、ふつうのポップス系の歌手だと20代じゃもう、いっちゃてるというか、さすがにもうきついんだろうなとか思いながら、受けては落ちで。やっぱりちゃんと働かなきゃいけない、働いたほうがいいかもしれないと葛藤もある中で。
それで保育園を2年ほどやったあとに、会社に就職してOLになったんですが、そこがけっこう大きな会社だったんですね。ニューオータニのいちばん広い宴会場を貸し切って新年会とか、全社員が集まる機会があって、そのために社員バンドのメンバーを募集してたんです。そこでボーカルをやらせてもらえることになって、それで何百人という前で歌うという、初めての体験があって、それで病みつきになっちゃったんです。

中学、高校時代はバンドブームのただ中で、プリンセスプリンセスとかが大ヒットしていたころだったが、「わたし、自分からはなんにも言い出せないみたいな、積極性のない、恥ずかしがり屋だったんです」という胡桃乃さんは「バンドやろうぜ!」になることもなく、24歳にして初めて、人前で歌う快感に目覚めたのだった。

あの感覚は、いまでも忘れられないですねぇ。人前で歌うのが、こんなに楽しいことだったんだって、そのとき知って。すごい体験でした。舞台に出る前は怖いかなと思ったんですけど、それが怖くなかったんですよ。
でも仕事の合間ですから、練習もできないですし、年にいちどぐらいしか機会もないしで、もっと歌いたい!と思いながら働いているうちに、2年ほどして母がガンで倒れてしまって。それで会社を辞めて実家に帰ることになったんです。

 「末期ガンで余命一年」を宣告されて、胡桃乃さんにとっても、それまでとはまったくちがう生活が始まった。病院への送り迎え、実家の家事。「それまでなんにもしてこなかったから、ここで親孝行しとかなきゃ」と思ってがんばる毎日の中で、お母さんの友だちから、「歌が好きなら、趣味でカラオケ習ってみたら」と、地元の歌謡教室を紹介される。

そんなきっかけで、初めて歌を習うことになるんですけど、でも、その教室が演歌だったんですよ。私は歌は好きだけど、「え、演歌ですか」みたいな感じがあって。ほんとにもう、演歌の"え"の字も知らなかったので、歌いかたも全然わからない。コブシってなに?みたいな(笑)。だから最初は、歌えなくて恥ずかしかったですね、とにかく。

埼玉の、町の演歌教室である。生徒さんは、カラオケうまく歌えたらいいな、ぐらいの人たち。それも彼女よりずっと年配の50代、60代ばかり。そんな中で、先生もなにかちがうものを感じたのだろう、胡桃乃さんだけには「子リスが森の中でクルミ食べてるみたいな感じだね」ということで、レッスンに行った最初の日に、「森くるみ」という名前をつけてもらい、それが胡桃乃さんの最初の芸名になった。

自分ひとり若かったのもあるし、「本格的に習いたいんです」と言って入ったのもあるのかもしれないけど、とにかく先生にはすごく可愛がってもらったんです。ほかの生徒さんからやっかまれるぐらい。わたしは鈍感なんで、あんまり気にはなりませんでしたが。
それで3年ぐらいレッスンを続けて、先生がもともと作曲家だったんですが、人脈からコロムビアに話を持っていってくれて、デビューすることになったんです。まあコロンビアは、名前を借りただけで、内実は自主制作でしたけど。余命1年と言われた母が、頑張って3年も生きてくれて、亡くなってから半年ぐらい経ったころでした。

業界の仕組みはなんにも知らなくて、「いつか機会があったらデビューできるんだろうな」という程度の認識しかない女の子と、カラオケ教室で教えてはいても、若い歌手を本格的にプロデビューさせ、売っていく経験などなかった先生。『道の駅/くるみのゑびす顔』は2002年6月に発売される。それは、ふたりとも手探りでのデビューだった。

自主制作で、お金は先生が出してくれて、CDを売って返していくというかたちだったんですけど、事務所といってもカラオケのお教室でしょ。歌手の営業をする部門なんてないし、キャンペーンも、どうしていいかすらわからない。だから仕事がまったくなかったんです。デビューしてから2ヶ月で、仕事したのは1回だけ。でもCDは売らなきゃならない。もう、友だちに会えば「買ってぇ!」、前の会社の人にも「買ってぇ!」で、2年間かかってようやく最初にプレスした2000枚を売ることができました。

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住まいは実家があるにしても、そんな状態では生活が成り立たない。セブンイレブンのお総菜を作る工場で、「無菌状態ですっぽり、ほっかむりして、目だけ出してお総菜盛りつけしてました」。先生は「CD出したってだけで、ちょっと満足しちゃったのかも」という状態だったので、「こっちは人生かかってるのに、これじゃヤバい、展望がない!」と徐々に焦りの気持ちが芽生え、「ツテをたどって仕事の口を探してもらったり、地元の接骨院にポスターを貼らせてもらったり」と、ほんとに手探りで、少しずつ仕事を増やしていった。
デビューから2年経った2004年には、2枚目のシングルとなる『雨の鎌倉/あぁ青春海峡』を、今度はキングから発表する。

1枚目はもうヤミクモって感じだったんですが、2枚目もやっぱりだれも頼れる人がいなかったですから。自分で営業しなきゃと覚悟を決めて、よく歌手の人が店頭キャンペーンをやる演歌系のCD屋さんに、CDとポスターを持って行ってみたり。でも、女の子がひとりでそんなことしても、なんだこの子は、みたいな感じで、冷たい反応なんですよね。それで、けっこうめげたんですけど、でも歌はやめたくなかったんで、バイトいっぱい入れながら、営業に歩き回りました。

バイトのあいまに、たったひとりで衣裳とCDとカセットを持って、営業に歩く生活。気がつけば「森くるみ」になって、10年が経とうとしていた。

2枚目のシングルをずーっと売り続けて、それで10年間も教室にいて、そろそろ転機かなって思ったんです。教室やめたらひとりだし、次の新曲を出せる目処もないしで、歌が歌える環境じゃなくなっちゃうかもしれないなあ、ひとりでやっても変わらないかもしれないなあと、2,3年はすごく悩んだ末に、やっぱり後悔したくないと思って、決断したんです。10年間お世話になってましたから、先生はさみしがっていらっしゃいましたが・・・。

心機一転の気持ちを込めて、「森くるみ」さんは2008年に「胡桃乃みちる」さんになった。「くるみ」という名前には愛着があったし、その名前で覚えてくれているファンもたくさんいたので、字は残しておきたくて、漢字の「胡桃」を入れた新しい芸名を、今度は自分で考えた。
それまでのCDやカセットは、出資者が先生だったから、営業で手売りしても、売り上げは先生にまず返さなくてはならない。そこから何パーセントかもらうのが胡桃乃さんの収入になるわけだが、仕事は毎日あるわけじゃないし、何曲も歌ってもギャラはゼロ、「自分でCD売って、儲けにしてください」というケースがけっこうあるし、それでも1枚も売れないときだってある。「足代だけかかっちゃって、きょうはどうなるんだろう・・・とか思いながら回るんです」。
所属事務所(といってもカラオケ教室だったが)から独立し、芸名も新しくして、ゼロからの再出発。でも、新曲がない。名前が新しくなったのに、営業で売って歩けるのは前の名前の、それもCDを売り切ってしまったので、残ったカセットだけ。そんな苦しいスタートを強いられたのが、胡桃乃さんの2008年だった。

いまも胡桃乃さんは、バイトをしながら、歌を歌っている。この取材をさせてもらった直後の7月19日には、ようやく胡桃乃みちる名義の新曲『優/一夜の蝶』が発売された。歌う中で知り合ったシンガー・ソングライターが、曲を書きたいと申し出てくれて、資金はバイトで貯めたお金を注ぎ込んだ。スポンサーもパトロンもレコード会社のバックもない、今度はほんとうの自主制作だ。

どんなに長い夜も いつか朝が来る
幾年月も心の中 くり返すあなたの言葉

彼女にとって、これは亡くなったお母さんを歌った曲なのだろう。芸能の世界はあまりに大変だからと、闘病生活を送っていたお母さんは、胡桃乃さんのデビューに反対だったという。振り返ってみれば、たしかにお母さんの言うとおりだったが、でも、「いつか朝が来る」のもまた、たしかだ。
10年目にしてリスタートを果たした胡桃乃みちるさんは、きょうもスーツケースを引っ張って、歌える場所へと歩いていく。

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胡桃乃みちる「優~ゆう~」
試聴音源
福島県生まれ、埼玉県育ち。栄養士を経て企業でのOLに。母親の病気を機に退職。看病期間に歌の教室に通い始め、出会った歌の講師の紹介で2002年6月に森くるみとして『道の駅/くるみのゑびす顔』で歌手デビュー。2008年には独立を機に胡桃乃みちるに改名、2009年7月には『優~ゆう~』を発売。 ブログ:http://michiru113.exblog.jp/


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