二人で歩いた 由比ヶ浜
その手に乗せた さくら貝
遠い日の切なさ 連れて来る
今も変わらぬ 波の音・・・
あぁ青春が 暮れなずむ
鎌倉は鎌倉は 想い出の街
神奈川エリアのかなりの店で、発売から3年たった現在でもよく歌われて、通信カラオケの上位に入っているという『鎌倉残照』。歌うのは神奈川に根ざした演歌歌手、まつざき幸介さんだ。
横浜に生まれ育ち、中央大学商学部に進む。在学中の4年間、スナックでアルバイトをしながらカラオケで演歌の世界に親しむものの、卒業後は父の建築設計事務所に入社、働きまくりの10年間を過ごして30代後半になってから、ひょんなきっかけで歌のレッスンを始め、カラオケ大会荒らしを経てプロ歌手としてデビューする。
2006年に『SAKE/鎌倉残照』を本名の松崎英樹名義でリリースしたが、翌年には"まつざき幸介"に改名して、2008年に2枚目のシングルとなる『君すむ街/横浜ロンリー』を発表。現在は月間40~50本のキャンペーンやライブを、たったひとりでマネージメントし、キャリーバッグを引いて回り、CDを手売りして生計を立てつつ、専門学校で建築CADやデザイン、企画の講師もつとめる、異色のインディーズ・アーティストだ。
松崎さんは昭和39(1964)年、いまは都筑区になっている港北区川和町で生まれ、すぐに上大岡に越してきた。
『ブルーライト・ヨコハマ』とか、リンダさんの『こまっちゃうナ』とか聴いて歌ってた、ませた幼稚園児でしたねえ......歳がバレちゃいますが(笑)」。
お父さんは音楽とはまったく関係ない、太平住宅という住宅メーカーに勤務していたが、太平住宅といえば、歌謡界の一大パトロンだった創業者の中山幸市が、遠藤実を社長に据えてポケットマネーでミノルフォン・レコード(のちの徳間ジャパン)を立ち上げた、あの太平グループの不動産・住宅販売部門。「その関係なんでしょうか、父がむりやり買わされたレコードが、家にいっぱいあったんですよ」。ミノルフォンは演歌が中心だったので、「小学校1年生のときに、いちばん好きだったのがクールファイブでした」という、歌謡世界にどっぷり浸かった少年時代を、松崎少年は送ったのだった。
小学生で演歌、中学生になると「いとこの影響で」フォークに目覚め、かぐや姫やふきのとうにハマり、高校ではロックバンドに参加してドラムを叩くロック青年へと成長する。
ドラムって、ギターとかより少ないんで重宝がられて、高中正義さんのコピーみたいなのとか、フュージョン系とか、いろんなバンドに加わったりしてました。そういえば、いまエイベックスの松浦(勝人)社長さんも同い年のご近所で、しかもドラムを叩いてたので、高校時代にはちょっとやりとりがありましたね。彼は金沢高校という名門で、こちらは野庭高校という格下でしたが......でも、こっちは同級生に高島礼子さんがいましたよ!(笑)。
ちなみに高島さんはバトン部、松崎さんは音楽活動のかたわら陸上部で中距離の選手としても活躍。1500mや5000mというタフな種目を得意としていて、高島さんの応援を受けて走ったことも何度かあるという。「なぜか走るのがほんとに好きだったんですよ、いまでも時間があれば走ってます」というだけあって、高校生活から30年経ったいまも、からだはきっちり締まったままだ。
高校卒業後は、1浪したあと中央大学商学部に入学。キャンパスが八王子だったので、実家を離れて下宿生活を始める。そこでスナックのアルバイトを始めたのが、あとから考えれば人生の転機になった。
ほんとにたまたまなんですけど、下宿のそばの、定食屋さんの知り合いがスナックをやっていて、アルバイトを募集してるというんですね。それで、夜だったら授業と両立できるんじゃないかなとか、あまり深く考えずに始めちゃったんです。
日野市の平山にいまもある、サンゴットという豪快な名前の店なんですが、そこにけっきょく大学生活4年間と、あと研究生を1年間やっていたので、合計5年間、マスターに近いかたちで働いてました。サンゴットというのは、社長さんの名前に「神」という漢字が入ってるのと、とにかく"サン"という字が入ってればぜったい潰れないという法則があるらしくて(笑)、そうなったんですが、年配のお客さんが集まる店だったんで、みなさんにすごくかわいがってもらって、楽しくやりながら、懐メロを徹底的に覚えましたねぇ。
まだ通信じゃなくてレーザー・カラオケの時代でしたが、お客さんに「デュエットしましょ」とか言われたりして、教えられながら、いろんな曲を覚えていきました。それでド演歌に目覚めてしまって、一時は北島三郎さんとか、鳥羽一郎さんしか歌わない時期があったぐらいです。声質がぜんぜんちがうんで、たぶん合わないんですけど、自分ではなりきって歌ってるし、お客さんは「うまいねぇ」なんて誉めてくれるんで、毎晩もう、気持ちよくやってましたね。朝からの授業と、夜のスナックの両立は大変だったと思うけれど、いまになってみれば「ほんとにあの4年間が、いまの歌手生活にすごく活きてるというか、それがなかったら、こんなにうまくやっていけてないだろうと思うぐらいです」とまつざきさんは語る。
毎日のようにキャンペーンでお店を回ってるわけですが、歌手のスナック・キャンペーンというのは、一種の店員みたいなものですから。ホストじゃあないですけれど、そういう感覚で接していくと、お客さんはすごく喜んでくれます。歌を聴いてもらう前に、接待だと思うんですよね、まず。あんまりベタベタしちゃダメですが、お店の人にも、また来てもらいたいと思われるようにしないと。
「意外にちゃらんぽらんじゃなくて、決めたら真面目なんです!」というまつざきさんは、スナック稼業もこなしつつ、中央大学を無事に卒業。税理士事務所などで働きはじめるが、ときはバブル最盛期。建築設計事務所を開いていたお父さんから、忙しくてどうしようもないから手伝ってくれ、と言われて、横浜に帰ってきた。
それから建築の勉強を始めて、事務所で働きながら2級建築士の資格を取得。そのあいだは仕事に必死で、歌どころか飲みに行くことさえ、ほとんどなかったという。
スナックは楽しかったけど、この仕事をずーっとやってたら、やっぱりからだ壊すなあという思いもありました。お客さんにすすめられたら、飲んじゃいますし。そういうこともありますけど、とにかく20代半ばから35歳までの10年間ぐらいは、まったく歌ってなかったし、飲み屋さんにも行かず、パソコンと向かいあう毎日でした。お酒も、家で飲むくらいで。当時は、それがずーっと続くと思ってましたねえ。
まつざきさんが建築業界に入ったころがバブル全盛期だとすれば、それからずっと、バブル崩壊とともに業界でがんばってきたことになる。
もう、入ったとたんに下り坂、というタイミングでした。ただ、自分でもすごくいいなあと思うのは、建築だけじゃなくてなんでもそうなんですけど、いいときをぜんぜん知らないんですよ。建築バブルの恩恵にはあずかれなかったし、音楽もそう、いまはCDもあんまり売れないし、歌手として厳しい時代だと言われてますよね。でも、社会に出てからずーっとそうなんで、それが当たり前だと、こんなもんだと思って生きてきてるんで、正直なんとも思わないんですよ。
まつざきさんに転機が訪れたのは、35歳のときだった。自分のことを考えることもできないほど忙しい日々のなか、たまたま家の近所にカラオケボックスができたというので、歌いに行ってみたのがきっかけだった。
歌いに行ったのなんて、10年ぶりぐらいだったんです。家のそばにボックスができたというので、気分転換ぐらいの気持ちで行ってみたら、そこがちょっと変わったつくりの店で。ちゃんとボックスなんですけど、オープンっぽくて、歌ってると「ちょっといい?」とか言って他人が入ってきちゃうという(笑)、不思議な感じだったんです。そこで、「うまいねぇ」とか言ってくれたのがそこの社長さんで、彼女が「いちど習ってみなさい」と、歌の先生を紹介してくれたんです。
矢吹健さん、平浩二さんを育てた伊藤晴二さんという方で、かつて中村八大さん、いずみたくさん、とグループを組んでいたこともあるベテランです。いま70歳ぐらいの先生なんですが、ここはこういうふうに歌ったらいいよ、と教わってるうちに、ほんとに歌の世界の奥深さがわかってきて、おもしろくてたまらなくなっちゃったんですね。
いつもはカラオケ好きのおじさま・おばさまたちばかりを教えていた先生も、「キミ、もうちょっと若かったら、僕がプロにしたんだがなあ」とくやしがるようになって、まつざきさんは仕事の合間に各地のカラオケ大会に出場するようになった。
2000年から2005年までですね、カラオケ大会に出るようになって、最後の1年あたりは、年間50回は出ました。ほとんど毎週ですね。それで、その最後の50回ぐらいは、最低でも準優勝とかだったんです。
自分では優勝、準優勝とかじゃなくて、きょう納得できる歌い方ができたかどうかが大事なんですけど、まわりからは「準優勝で残念だったね」とか言われる。そうなると、だんだん大会に出るのがイヤになっちゃうんですよね。もう、大嫌いになっちゃいました。「出てよ」って頼まれると、断れないから出るんですけど。
それで、最後の記念に大きな大会に出ておしまいにしようと、新宿コマ劇場で開催された全国縦断カラオケフェスティバルというのに出場したら、そこでグランドチャンピオンになっちゃったんです。そういう大会というのは、プロの道を目指す若い人を採るのがふつうですから、僕みたいなのが優勝しちゃって、自分もですが、まわりもびっくりしました。
5年間のカラオケ大会めぐり。しかも平日は建築事務所で忙しい中、レッスンにも通う。それは肉体的にも厳しい日々だったろう。
大会では小金沢昇司さんとか山本譲二さんとか、若手の方の演歌を歌ってたんですが、先生に習う曲と、大会で歌う曲は、あえてぜんぜんちがうものにしてました。習う歌というのは、こういう歌はどういうふうに歌うんだろう、というのを教えてもらうもので、カラオケ大会で歌うのは、自分がほんとうに好きな歌。だいたい、それまでもずーっとひとりでやってきたし、人にものを習うのが大嫌いな性格なんで(笑)。
それで、忙しい中でレッスンに通ってると、歌いながら眠れるんですよ! 声は出てるんですけど、あきらかに寝てる。寝ながら歌ってて、サビの部分でガクンってなったり。先生は後ろ向いてピアノ弾いてるから見てませんが、おそらくわかってたと思うんです。
そんな苦労の果てに優勝したコマ劇場のカラオケ大会で、キング・レコードのプロデューサーに声をかけられたのが、2005年の12月。翌2006年の6月には、デビューCDをリリースという、あわただしい展開がまつざきさんを待っていた。
もう、カラオケ大会もやめよう、というぐらいの気持ちで出た大会でしたから、声をかけられてCDを作ることになったときにも、自分としては記念盤みたいな気持ちでした。
それで、自分が20代前半のころから、ずっと大好きだった歌が小田純平さんの『SAKE』だったので、それをぜひ歌わせてくださいとお願いして、入れてもらいました。カップリングの『鎌倉残照』は、地元のカラオケ大会で審査員をしていた先生に、書いていただいたオリジナル曲でした。
発売はキングですけれども、こういうのは自主制作みたいなもので、最初にプレスした4000枚を買い取り。それを10年くらいで手売りしていけばいいかな、というぐらいの気持ちでしたね。どうしてもこれで食っていくんだ、といううような歌の道に入ることは、正直言って考えてなかったです。それよりも、プロになったから、これでカラオケ大会に出なくていいんだ、とか思ってましたね。
CDリリースからしばらくは、建築の仕事も忙しく、プロモーションに動き回れるのは土、日曜ぐらい。それでもしだいに、地元のスナックや、いままで出場していたカラオケ大会からゲストにと、呼んでもらえるようになった。
アマチュアからそうやってデビューするとね、よく「妬み」というのを聞くんですよ。競いあってたカラオケ仲間からの、ね。地元出身の歌手って、あんまりいい話を聞かなかったりするんです。でも自分の場合は、大会に出ているほかの方たちより年齢が下だったんで、妬みはなくて、ずいぶんかわいがってもらいました。
ただ、いまは全国どこでもそうですが、夜のスナックが寂れてきちゃって、歌のキャンペーンも昼カラ(昼間のカラオケ喫茶)がメインになってるんですね。そうすると昼間の建築事務所の仕事ができない。それで、申し訳ないけどいまだけ、歌のほうに専念させてくれと実家のほうに頼んで、キャンペーンをメインに据えた生活が始まったんです。ちょうど、景気も悪くなったころで(笑)、僕がひとりいなくなっても、なんとか回る感じだったので。
でも、昼カラはお客さんが年配の方ですよね、平日の昼間に歌いに来られるんだから。そうすると、どうしても歌が若くならない。聴いてもらいたい、若い層にアピールできない。そのへんが、いまの演歌業界の問題かもしれませんねえ。
そうやって1年、2年と歌っているうちに、『鎌倉残照』が地元では知られるようになってきて、通信カラオケで全国の上位曲にランクされるようになった。地元でしか歌われていないのに、全国上位曲にになるということは、地元でかなりのへヴィ・ローテーションになっている、という証である。そんななか、ずっと憧れの存在で、「一時はほとんど追っかけでした」という『SAKE』の小田純平さんから、突然電話がかかってきた。
「『SAKE』を歌ってくれてありがとう、でもあれはけっきょくオレの歌だから、横浜をテーマにしたオリジナルを作ろうよ」と持ちかけてくれて、それで2枚目の『横浜ロンリー』と、『君すむ街』ができました。「まつざき幸介」と名前を替えたのも、そのときです。それまでは本名の松崎英樹だったんですが、ジャケット写真も含めてベタベタの演歌すぎ、もうちょっと柔らかくいこうよということで、小田さんの本名である利幸の「幸」をもらって、まつざき幸介になったんです。
2枚目のCDを発売したのが2008年2月。いまは「歌が9割、建築が1割」というキャンペーンの日々だ。
ふつうの歌手さんって、歌いながら客席を回って、CDいかが、カセットいかがですかって、やるじゃないですか。僕はそれが苦手で、やらないことにしてるんです。「持ってきてるんで、よかったらどうぞ」とまでは言いますけど、あとは、欲しいひとだったら、きっと買ってくれるだろうと。お付き合いで買うのって、けっきょく封も開けなかったりしますもんね。そうやって、ほんとに欲しいから買ってくれるひとがいるんで、通信カラオケのリクエストも集まってるんだと思います。
この連載でもたびたび書いているように、歌い手にとって通信カラオケに入るかどうかが、いまでは死活問題だ。自主制作に近い状態では、レコード会社が手配してくれることなどありえないから、歌手のほうが自分で努力して通信カラオケ会社と交渉することになる。
大手のレコード会社は、ほんとになんにもやってくれないですから。僕の場合もすごく苦労して、やっといまは4曲とも配信されるようになりました。ふつうは1曲30万円とかって相場があるようで、自分でお金をかける人も多いんですが、払いはじめるときりがない。苦労を重ねて、けっきょく1円もかけないで入れることができました。
いまはみなさん、カラオケで歌いやすい曲というのを求めるでしょ。作り手のほうも、そういうのしか作れなくなってる。僕はそれが悲しくて、「いい歌だったら、歌えるかどうかなんて関係ない、歌いたい人じゃなくて、聴きたい人という層がぜったいあるはずだ」と思って回ってきたんですが、ほとんどいないんですねえ。自分の感覚から言うと、100人にひとりぐらいです、聴きたい人というのは。歌うのが難しい曲だと、セールスがほんとに厳しい。プロの歌に酔うっていうのもいいと思うんですが。残念ですけどね。
月に40~50本のキャンペーンを入れているまつざきさん。収入から言うと、「8割が歌」だという。そのメインは、手売りによるCDセールスだ。
イベントに呼ばれることも多いんですが、出演料なんて1万円とか、なかったりすることもけっこうあるんです。企業さんのパーティとかだと、もっとたくさんいただけますが。 だから収入はCDを売るのが大きいです。1200円のCDを1枚売ると、儲けが3割、360円なんですね。それを月に400枚売れば、13万円。そのくらいがんばって売ってるんで、それが大きな収入源です。
いまやレコード会社は作るだけ、売るのは歌い手本人、そういう図式が定着してしまっているのだ。出版でいえば、出版社は本を印刷するだけで、あとはなんにもやらない。本屋にも送らない。著者が全部買い取って、自分で担いで売って回る、ということである。それなら出版社じゃなくて、印刷会社と同じなんじゃないだろうか。
悲しいけれど、本人が努力して、あるていど(売り上げが)動き出さないと、レコード会社は力添えしてくれません。だから僕の場合も手売りですが、1枚目の初回プレスが4000枚、2枚目が2000枚、でも両方とも再プレスが続いて、いまだに半分半分ぐらいの割合で売れてるんです。『SAKE/鎌倉残照』のほうは手売りで、たぶん8000枚ぐらい、今度の2枚目もすでに5000枚ぐらいは売りました。
売っているのはほとんど神奈川県です。それで、いま演歌って、2,3万枚売れたらヒットですよね。そういう意味では、横浜で動いてるだけで1万を超える枚数を売っていると、こうやってがんばってれば、なんとかなるかなって思ったりもしますね。
だってCDを売る前に、1枚1枚、包装を剥いて、サインをしてから売るんですよ。それを8000回。メジャーの方でも、あらかじめ書いておいたサインを渡すだけっていう人が、いっぱいいるじゃないですか。ぜんぜんオレのほうがすげえなぁというか、充実してるなあと思います。
不動産の仕事をしていた経験から、「身内に売りつけたりするのは、いちばんイヤなことだとわかってるんで」、地元でがんばってはいても、学校時代の友人などにはほとんど声をかけていないというまつざきさん。きょうも衣裳とCDを入れたカートを引いて、キャンペーンからキャンペーンへと歩き回り、歌いつづけている。もう、おなじみになった店。はじめて足を踏み入れる店。「いつ、歌う場所がぴたっとなくなっちゃうかわからないという不安が常にあって、なるべく予定を入れたくなっちゃうんです」と苦笑しながらも、その笑顔には暗さのカケラもない。
12月には新曲もできる予定。演歌っぽくなくて、「ノリがいい、ちょっと郷ひろみさんみたいな感じの曲」だそう。孤独な長距離ランナーのようなキャンペーン生活が、まだしばらくは続きそうだ。
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ライブスケジュール
2009年11月25日 ワンマンショー
上大岡ひまわりの郷
チケットについては、下のホームページのメールフォームより
直接お問い合わせください。
●まつざき幸介オフィシャルウェブサイト
http://kousuke.info/

