[第5回] おののこみち

子どものころの夢を胸に、小さなからだで今日も浅草をかけめぐる

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塵は積もっても 塚しかならぬ
地殻の変動で 山となる
耐えて忍んで 使命待つ
時を創って 時代(とき)を待つ
冬は必ず 春となる

 『冬は必ず春となる』 松井ジンゾー作詞

 身長150センチあるだろうか、細くて小さなからだに、祭りのように派手な装束をまとい、台の上に立って、やけにスケールの大きな歌を熱唱している。ここは亀戸の演歌専門レコード店・天声堂。歌っているのは浅草木馬亭を拠点に活動する演芸集団「お笑い浅草21世紀」(以降、「浅草21世紀」)の役者にして歌姫である、おののこみちさんだ。
 2002年に劇団に入ったこみちさんは、舞台ではもうベテランだが、歌手としてはこれがデビュー曲。『冬は必ず春となる』と、舞台でずっと歌ってきたカップリングの『筏流し』の2曲しか、持ち歌はない。CDを企画・制作したのも浅草21世紀。実質的には、劇団による自主制作である。毎月8日間、木馬亭での舞台にレギュラー出演し、空いた時間でレコードショップやカラオケ喫茶、スナックの営業に回る日々。小さなからだに、思いもかけないエネルギーが詰まっているのだ、この人は。

 おののこみちさんは鹿児島県に生まれた。いまは合併していちき串木野市になっている、小さな漁村だった。子供のころはマグロがたくさん獲れて、町は活気に満ちていたという。

私の父は大工でしたが、家が港のすぐ近くだったんです。大漁旗をはためかせながら、船が漁に出て行くときに、港で歌謡曲をバーッとかけるんですね。子供のころ、いつもそれを見ながら踊っては、まわりの大人からお菓子をもらってました。わたしの行為に人が報酬をくれる、それを母が怒らないっていう経験が、わたしの原点なんだと思います。怒られなかったから、いまがあるんでしょうね。島倉千代子さんや美空ひばりさんとか、大人の歌謡曲を口ずさみながら小学校から帰って、よく怒られてはいましたけど(笑)。家の中でも妹とふたりで、畳の縁に長尺の物差しを挟んでマイク代わりにして、こまどり姉妹ごっこや、ザ・ピーナッツごっこをやっていました。

 お母さんは芸事好き。小さいころからよその家に連れて行かれて、歌とか踊りを、見よう見まねでやらされていた。歌うことが子供のころから好きで、カラオケ大会に出たりもしたけれど、まさか歌手になろうなんて、思いもしなかった。歌が好きで、踊りが好きで、気持ちは活発だったが、実はからだが弱く、ずっと病気がちだったという。

実は子供のころ、内臓に欠陥があったんですよ。先天性の病気というか、生まれつきだったんで赤ちゃんのときから。胆嚢と胃をつないでいる管が人より細くて、老廃物や胆汁が溜まって発作が起きるんです。外からはわからないけど、運動できなかったですね。体育の授業なんかは、ほとんど見学です。運動会でもフォークダンスをやったくらいで。
高校3年生のときも、最後の夏休みなのに入院して。そういうので、もう駄目だと思って。ちょうど みんな就職を決めるころだったんですが、わたし、地元でいいですと。1学期のころは県外に出ると決めていたのに、2学期になったときに、先生やっぱりわたし、地元にいますって。ほんとは出たかったのに、思い切れなかったんですね、自分で駄目だと思っちゃって。親の庇護の下にいるほうを、選んじゃったんですね。

 地元に残る道を選んだこみちさんは、会社に就職してOL生活を始める。18歳だった。仕事は経理。1円でも計算が合わないと家に帰れず、イヤでイヤでしょうがない毎日。そうして21歳になったとき、職場で知り合った夫と結婚、子供ができたのを機に退職し、主婦生活に入る。家事と子育ての毎日。そんな生活が10年あまり続いたあと、夫の転勤で三重県名張市に引っ越して、地元のアマチュア劇団に出入りするようになって、こみちさんに転機が訪れた。

シェイクスピアをやったりするアマチュアの劇団で、週に1、2回稽古に通うようになって。役者になりたいとか、それまで決めてたわけじゃないんですが、いま思い返してみると、亡くなられた東山千栄子さんという女優さんは、30を過ぎてから『桜の園』という芝居で演じた役が当たって、ブレイクしたんですね。そのことを20代で知ってから、「わたしも30過ぎたら芝居やるんだ」と、おぼろげに思っていましたね。

 夫の転勤が終わって、いちどは鹿児島に帰り、1年ほど過ぎたとき、三重の明和町で大規模な野外劇が開催されることになり、そのオーディションがあることを知って、いてもたってもいられなくなる。『斎王夢語』と題されたその野外劇は、原作が萩尾望都、演出に大阪万博地方自治館ディレクターも務めた森田高并を起用し、出演者は全国各地からオーディションで選ばれた面々に町の有志を加え、スタッフ総勢900人で構成、たったひと夜の公演に3万人の観客を集めるという、大規模な催しだった。

大きい野外劇で、全国オーディションで三十何人採るということだったんです。やってみたいなと思って、受けてみました。それも年齢制限には引っかかってたんですが、何度も何度も手紙出していたので、役場の人が、この人すごい熱心なんですよと、参加させてくれたみたいです。  受からなかったら、芝居は諦めるつもりでいたんです。でも受かっちゃって、それで生活がぐちゃぐちゃになっちゃったんです。わたしがどうしても芝居やりたいって言っても、田舎ですからそんなこと、考えられませんよね。アマチュア劇団ならともかく、家を放り出して、そんなところで芝居してなんてね。
本番は1日だけだけど、準備期間が3ヶ月くらいありました。役場の野外劇担当するところに臨時で入れてもらって。そこの課長さんが、すごかったと思います。全然知らない、あんたどこのだれ、という人が突然来て。そしたら課長さんが心配してくれて,なんとかしようなあと言って上司と交渉してくれて、臨時職員になったんです。住むところまで役場で世話してもらって。  わたし、一生懸命になると、ほかのことはなんにも考えないんですよ。それまですご~く悩んだりするんですけど、決めるともう、ほかのことはどうでもいいと。あんた石橋を叩かず渡っちゃうって、よく言われます。渡る前にいっぱい叩いてるんですけれどね、決めるとまっすぐ行っちゃう。

 3ヶ月の稽古で全国からやってきた専門家や役者志願の人たちとつきあっているうちに、こみちさんの芝居熱は、ますます高まってきた。稽古の途中で末期ガンが発見された演出の森田さんからも、「あんた、なに悩んでるんだ、なんのためにここまで来たんだ、ほんとにやりたいなら、そんな迷ってたら一流にはなれないだろう!」と病床から叱咤激励された。野外劇が終わって、いちどは鹿児島に帰ったものの、やっぱり我慢できずに、ついに家を飛び出してしまう。

芝居がやりたくて、もめたすえに家を飛び出して三重に戻って、しばらく津に住んでたんです。充電期間ですね。生まれてはじめて、ひとりで生活して、平静に自分を見ることができました。母からは「そんな河原乞食みたいなこと!」と涙ながらに止められましたし、家を出るときには親子の縁を切られました。「親でもない、子でもない」っていう手紙が届いて。弟からも別に、姉弟の縁を切られたんですが、こないだ、そう言った弟がレコード店のキャンペーンに顔を出してくれましたし、母もいまはわたしのCDを同級生に売ってくれてます(笑)。

 津の会社でしばらく働いたあと、アマチュア劇団時代にこみちさんを見てくれた人から家を借りることができて、名張に引っ越し。それからパントマイムを習ってパフォーマーの仕事を始めたり、縁があって舞踏のグループにも入ったり。30代にして演劇ひとすじの人生が花ひらくことになった。

パントマイムを習いはじめたきっかけは、もっと内面から表現できるようになりたい、ということだったんです。思いがけずそこで「仕事してみる?」と声をかけられて、ピエロの仕事を始めたんです。お祭りとかスーパーのイベントとか。
マイムを先生について習って、そこで一緒にバルーンアートも習いました。仕事するならバルーンもできたほうがということで、じゃあ風船稽古してくださいってことになって、やっていたんですね。パーフォーマーの仕事って、けっこう食えるんですよ。ピエロさんのかっこうになって、「デイジー」という名前で「日本一のピエロになろう」と思ってました。
パントマイムをやりはじめて、なにかのイベントのときに、舞踏をやっている人と一緒になったんです。その人もマイムやるので、わたし踊ってみたいんですと言ったら、やってみますかと簡単に入れてくれて。それが「古舞族アルタイ」という、もともと北海道で結成されたんですが、94年から関西に拠点を移した暗黒舞踏集団でした。

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 最初の野外劇に参加したころから、「芝居をやるなら、いつかは東京にいかなくちゃ」と、こころの中ではずっと思いつづけ、でも踏ん切りがつかないまま5年あまり、関西で活動していたこみちさん。「もう、このままこっちにおればいいやん」という友人たちの言葉を振り切って、2001年の3月、ついに上京する。

意気込んで東京には来たんですが、芝居するアテもないので、いくつか劇団を訪ねてみたりもしたんですけど、年齢がいっていたので、すぐに芝居を始めることはできませんでした。それで、井の頭公園で「地べた公演」をやってたんです。宮沢賢治の作品などを、パントマイムと朗読を合わせた「マイム・アンド・ストーリー」で演じるっていう。
週末、ブルーシートを持って出かけていって、投げ銭をもらうようになりましたね。生活しなければならないので、ほかにもちんどん屋さんやパフォーマー、舞台の裏方仕事を並行して、なんとか3ヶ月ぐらい過ぎたころ、近所の図書館でいつもとは別の新聞をたまたま手に取ったら、「浅草21世紀」がビデオを作ったという記事が載っていたんです。

 偶然手に取った新聞が、こみちさんと浅草21世紀の出会いだった。妙に気になって、さっそく浅草に舞台を観に行って、終演後に座長にプロフィールを渡すものの、待てど暮らせど連絡なし。日々の暮らしに追われて、いつしかそのことも忘れ、1年あまりがたっていた。

2002年の10月ごろでしょうか、風邪をひいて、1週間ぐらい寝込んだことがありました。ベッドで何気なくラジオを聞いていたら、日本喜劇人協会の大村崑さんのインタビューをやっていて、それを聞いた瞬間、ハッと浅草21世紀のことを思い出したんです。寝込んでいたはずなのにガバッと起き出して、そのまままっすぐ、浅草に訪ねていきました。
木馬亭でおかみさんに尋ねたら、事務所の場所を教えてくださって。そのときのおかみさんの印象がすごくよくて、「この人といっしょにやりたい」と思ったんです。道に迷いながら事務所にたどり着いたら、たまたま座長がいて、私のことを覚えていてくれました。10月公演の直前だったので、公演中の呼び込みの手伝いを毎日やりました。
公演が終わったあと、座長から事務所に呼ばれて「ほんとにやるかい?」と聞かれました。いまはおかげさまで、お客さんが割とたくさん入りますけど、当時の昼の公演はお客さんが7、8人だったんです。でも、お客さんは少なくても、やっている人がすごく一生懸命に、手抜きせずやっている。そして指導役だった故・関敬六先生の「命あるかぎり、続けていきます」という挨拶に、すごく感動したことを座長に伝えたんです。
そうしたら座長は「来る者拒まず」の人なので、プロフィールの写真や経歴を見ながら話をしただけで、芸を見たりはいっさいせずに、11月の公演から出させていただくことになったんです。 パントマイムをやっていたころは本名をひらがな表記で「くすばえ みほ」としていましたが、座長から「呼びにくいなぁ」と言われて、知り合いの芸名をつけるのが上手な演劇関係者にメールをしたら、いくつか候補をあげてくれて、そのなかに「おののこみち」があったんですね。それで、おののこみちが誕生したわけなんです。

 2002年11月の初舞台では、かつらや着物の着付けもままならず、稽古が3日間しかなくて台詞もうまく覚えられず、お客さんから「忘れた! セリフ忘れた!」って声がかかったりして(笑)、それに座長が「一生懸命やってますんで、見てやってください」なんて返していたという。パントマイムと暗黒舞踏と浅草喜劇ではずいぶんテイストがちがうと思うのだが、「意外にすぐ溶けこんじゃって」、5年ほど前からは舞台で歌も披露するようになった。

舞台で最初に歌ったのは『河内おとこ節』でしょうか、幕間に歌わせてもらったんですね。そんなこんなしてるうちに、2年ほど前から、劇団でCDでも出してみるかって話が出てきて。システムを知ってる人がいなくて、はじめはうまくいかなかったんですが、そのころ入ってきた劇団の若手でひとり、自主制作CDの仕組みに詳しいのがいて、それでバタバタと進んだんですね。

 ただ、自分の気持ちより先に進んでいくCDの計画に、こみちさんは勇んで乗っかっていたわけでもなかったという。

まだ自分でGOができてなかった。自分の気持ちが行ってなかったんです。そういう状態だったんで、去年(2008年)の10月、苦しくて、とうとう倒れちゃったんです。

 大人になってから、ストレスが高じると喘息の発作に襲われるようになっていたこみちさん。何度も死にかけたぐらい激しい発作に苦しんできたが、CD計画が煮詰まっていたそのころも、「もう、からだがいっぱいいっぱいだって自分でわかって、胸がざわざわしてきて、やばいと思って自分で救急車呼んで、即入院です」。稽古が始まるぎりぎりまで病院にいて、それから必死の思いで舞台を務めて、年末には録音に向き合えるようになっていた。

『筏流し』は、もともと宝塚レビューで越路吹雪さんとかが歌った曲です。浅草21世紀では男性の踊り付きで歌っていまして、木馬亭のお客さんはみなさん、よく知っていて大好きな曲なんですね。CDを出すには2曲いるので、もう1曲を探しているうちに、座長のつながりで出会ったのが、『冬は必ず春になる』でした。演歌は恋の歌が多いですけど、座長いわく「こみちは人生の応援歌を歌うべき」ということで、このカップリングになりました。
当初は2月発売を予定していたので、12月に一度録ったんです。でも、曲をもらってすぐの録音よりも、1月公演で10日間歌って熟成された歌を、もう一度録り直したいと思いまして。座長もその違いを感じてくれていたので、3月に吹き込み直させてもらったんですね。

 けっきょく、デビューCDが発売されたのは5月8日のこと。記念イベントはもちろん浅草。「きょうみたいなインタビューの日にお化粧して歩いてると、こみっちゃん、お化粧してどうしたの~、なんて向かいの店のおばちゃんから声かけられちゃうんですよ」という、ものすごく地元密着型の歌手として、いまスタートしたばかりだ。
 この時代に昔ながらの(というか奇跡的に復活したといったほうが正しい)軽演劇の世界で生きていくだけでも大変なのに、演歌歌手にもなって二重に大変な毎日を送っているにちがいない、おののこみちさん。でも、本人に会ってみると、そんな苦労はまるで感じさせない、笑顔がまぶしいバイタリティのかたまりだ。
 歌手として立つステージはまだあまりないけれど、木馬亭に行けば、毎月8日間は歌って踊るこみちさんを確実に観ることができる。そういう"常打ちの小屋"を持つ歌手でいられる幸福。「ほんとにわたし、いい人にばかり巡りあって、助けられて、ラッキー・ガールなんですよ」と話してくれたが、そういう運を引き寄せるチカラがあるかどうか、それもこの世界で成功をつかむための、大事な資質ではないだろうか。

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おののこみちさんと「お笑い浅草21世紀」の公演予定はこちらからご覧ください。
「お笑い浅草21世紀」HP:http://asakusa21.com/liveschejule.html


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おののこみち「冬は必ず春となる」
試聴音源
鹿児島県生まれ。主婦生活を送っていた30代はじめにアマチュア劇団に入団、パントマイム、舞踏などの活動を経て、役者、歌手に。現在は演芸集団「お笑い浅草21世紀」に所属、浅草木馬亭を拠点にバラエティーショーなどの活動を行う。2009年には『冬は必ず春となる』でCDデビュー。 ブログ:「このみこのみち」http://asakusa21.com/blog/komichi.html
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