[第3回] 千葉山貴公

日本初・IT演歌歌手・30歳 
3l.JPG

 いま東京都内で数少ない、店頭キャンペーンができるレコードCDショップのひとつ、演歌業界では知らぬもののない有名店である東十条のミュージックショップ・ダンを訪ねたときのこと。これまで何十年も業界を下支えしてきた社長さんのお話で印象的だったのは、「演歌歌手でうまくいくのにはね、最短距離で10年かかりますから」という、実感のこもった言葉だった。
 苦節ウン十年などという経歴が売り文句にならないほど、苦節が当たり前な業界で、何十年も歌いつづけている人はともかく、いまどきゼロから演歌歌手を目指す若者がけっこういるというのは、考えてみればすごいことだ。ロックバンドやヒップホップのユニットならいざしらず、失礼ながら上がつかえにつかえている演歌の世界に、いま飛び込んでいく、ほとんど無謀な挑戦。いちばん険しい山に、いちばん困難な登頂ルートをわざわざ選んで登ろうとする、そんなチャレンジャーの話を聞きたくて、千葉山貴公(ちばやま・たかひろ)さんに会いに行った。
 1978年11月13日生まれの千葉山さんは、まだ30歳の若手演歌歌手である。出身は横浜市戸塚区。昔もいまも演歌を目指す人々は、地方に生まれ育ち、テレビのノド自慢番組などを勝ち抜いて、プロへの階段を上がっていくのが常道だが、千葉山さんは東京郊外の生まれ育ち。演歌どころか音楽全般にたいして興味のないまま少年時代を送り、京都の大学に進んで中国文学を専攻。卒業、就職活動という時期を迎えて、はじめて演歌歌手を目指したという、異色のスタート地点から登場した歌手なのだ。

---- 千葉山さん、小さいころから歌好きってわけじゃなかったんですって。

そうなんですよ、むしろまったくといっていいくらい、歌ってなかったです。ちょっとCMソングを口ずさむとか、あと姉が歌番組が好きだったので、付き合って一緒に観るくらいで。

---- 時期的には、どんなのが流行ってたころですか。

小学校だと光GENJIとか。でも、僕はもともと音楽をまったく聴かなかったんです、興味なくて。初めて買ったCDが、「嘉門達夫の替え唄メドレー」ってぐらいですから。だからそのころは、まさか自分がこういうことをするようになるなんて、思ってもいなかったですねえ。

音楽に無縁の少年時代を過ごしてきた千葉山さんが、演歌というものに目覚めたのは、高校時代のことだった。たまたま手に取った新聞に連載されていた、歌謡ヒット曲の背景を探る記事に、無防備なこころが反応してしまったのだ。

当時、読売の日曜版に「この歌この歌手」という、ヒット曲が生まれた背景を解説するコラムが連載されていて、そこになんかこう、すごくこころに響く文章があって、それから、その歌を聴くようになって。いま思うと、文章がかなり上手だったってのもあるんですが。それから演歌の番組なんかも観るようになりました。最初、コラムで取り上げられていた人の歌を観たり聴いたりしてたんですけど、そのうちほかの歌も聴くようになった。
同世代の若者は演歌を毛嫌いしますけど、もともと音楽自体をぜんぜん聴いていなかったので、逆に自分はすっと受け入れられたんですね。それで、それからは演歌ばっかりしか聴かなくて。高校を卒業して、進学したのが京都の立命館大学だったんですが、大学の生協にあるCD屋さんでアルバイトしながら、勝手に演歌コーナーを設けたりしてました。

---- だってお客さん、学生しかいないでしょ。

そうですね。店内で演歌のCD流して、苦情がきたりしました(笑)。

それまで音楽に先入観がなかったのがさいわいして、いきなり演歌ファンになっていった千葉山さん。しかし聴くのと歌うのでは、立場がまるっきりちがう。ただのファンが、プロの歌手を目指すようになったのは、どんな心境の変化があったのだろう。

実は進路決めるときになって、人生1回しかないので、他の人がやらないことに挑戦してみたいなって思って。21とか22とかなんで、演歌始めるには遅いんですけど、でも、まだ間に合うかなって思ったんです。

---- 同級生の友達は就活とかやっていたわけでしょ。

僕もいちおう就職活動はしたんですけど、どこか心の中でひっかかるものがある中での就職活動は、うまくいかないじゃないですか。文学を勉強したんで出版社とかいいかな、歌に興味があったんで音楽業界もいいかなとか思ったんですが、やっぱり就職活動に全神経注ぎこんでやっている人にはかなわない。それで、僕がこんな気持ちで就職活動したら、他の人に失礼だって思って、そこでスパッと諦めたんですよ。

 

3s.JPG---- どれくらいやってから諦めたんですか。

2~3ヶ月くらいやったのかな。それから諦めて、タレント養成所みたいなところに通ったりしたんですけど、本格的な歌の勉強は全然できなかったんで、最初にホームページをつくったんです。

アマチュアとしての経験もない、もちろん業界とのコネもない。そういう中で千葉山さんが目をつけたのは、ちょうど一般に広まりはじめていたインターネットによる発信だった。

僕らは、就職活動なんかでも、ちょうどパソコンを最初に使いだした世代なんですね。入学したときには、専攻のクラスに60人いて、携帯電話はまだ5、6人しか持っていなかったんです。で、その翌年の新入生だと、クラスの半分くらいが持っていた。その翌年には、ほぼ全員が持っていたんです。ちょうど切り替わるときだったんですね。パソコンもそんな感じです。在学中に普及してきて、就職活動中にはかならず必要という状態になってた。
それで、これからの時代はこれだって思って、わざわざそのためにパソコンを買って、自分のホームページを作ったんです。「自分は歌手になりたいんです」ってPRするために。演歌って、ファンの年齢層が高めじゃないですか。だからその当時はまだ、演歌のホームページなんて、なかったんです。だから、わりと目立ったんですね。それで僕のページを見てくれた人が、いちばん最初に世話になった事務所に紹介してくれたのが、プロとして活動しはじめるきっかけです。

なんのトレーニングもない中でのスタートだから、当然、不安はあったはず。でも「どんなに才能があって歌がうまくても、埋もれていく人ってたくさんいる。最終的に大事なのは、やりたいって気持ちなんじゃないか」と思いこみ、紹介された事務所の扉を叩いた。その事務所は東京にあった。

そのとき僕は、東京に出てくるって決めてたわけじゃなくて。京都に4年間住んでいて、わりと居心地がよかったですし。だから京都にいて歌の勉強もしたい、みたいに軽く考えていたんです。そうしたら事務所の社長さんに「おととい来やがれ!」って、追い返されたんですよ。全然ダメだからサヨナラー、みたいな。
それで、追い返された帰り道の電車の中でいろいろ考えて、これは東京に住まなきゃダメだと思って。お正月の4日か5日だったんですけど、その足で不動産屋さんに行って部屋を探して、決めて、追い返された事務所に戻ったんです。それで「部屋を決めました」って言ったら、それじゃあうちで面倒見なきゃしょうがないか、ってことになったんです。

大学の同級生たちは「お前は大学院に進むんじゃなかったの?」と驚き、両親も「父親は気のすむまでやったらいいと言ってくれましたが、母親にはどうして?って反対されました」という中での、歌手修業スタート。しかし当然ながら、そう簡単にいくはずもなかった。

最初に入ったのがプロダクションというか、制作会社みたいなところだったんですけど、そこで歌の勉強させてもらいながら1年間くらい準備をして、2002年にデビュー曲(『はまなす哀歌/ふたたびの愛』Vap)を出しました。
もちろんアルバイトしながらです。牛丼の吉野家で働いてました、「並一丁!」とか言いながら。とりあえず飲食店だったら、食いっぱぐれないだろうなと思って。
だから毎日、3食牛丼です。しかも、ほんとは拘束時4時間に1食って決まってるらしいんですけど、8時間しか働いてないのに3食食べてたのを店長に見つかって、すごい怒られて、最悪でした(笑)。防犯カメラに写っていたらしいんです、3食食べてるところを。でも、お腹すくじゃないですか。しかも、並盛り1杯って決まってるんですよ。並盛りっていってもたくさん盛るんですが、ほんとは量も決まってるんで、多めに盛ると「千葉山くん、キミ量が多いよ」なんて言われたりして。

バイトの合間にカラオケボックスや公園で声出しの練習を重ねつつ、翌2003年には2枚目のシングル『恋しくて恋しくて夢にみて/はぐれ酒』を、事務所の自社レーベルから発売するが、その2、3日後に父親が亡くなってしまい、2年間の契約終了もあって事務所を退社。いちど実家に帰ることになる。それからはたったひとり、フリーで歌を歌い、CDをリリースする生活が始まった。

実家に戻らなくちゃならなくなって、自営業だったので母を手伝って仕事をしていたんです。そのころインターネットを通じて知り合った先輩の歌い手さんに、事務所を辞めたんなら、ちょっと来なよ、教えてあげるから、みたいな感じで手伝いをするようになりました。キャンペーンについていって前歌を歌わせてもらったり、音響の手伝いをしたりしながら、事務所にいたときにはわからなかった、仕事のことを教わって、4年間くらいずっと勉強しました。

それまではすべて事務所がやってくれていた、歌以外の交渉ごとから雑用まで、音楽業界にかかわるすべてのプロセスを、千葉山さんはこの時期に身をもって覚えることになる。

けっきょく事務所にいたときは、人間関係も仕事もなにもかも、事務所を通してのことなんで、自分は直接やりとりできないんです。でも、やっぱり自分という人間を見てもらって、お付き合いしてもらわないと。ファンの人だってほんとうは、歌い手を応援したいわけじゃないですか、事務所じゃなくて。だから演歌が売れなくなっている時代の中で、いつも自分は歌い手ですからって、かっこつけている場合じゃないんじゃないかなと。どんどん自分から飛び出して、積極的に人と関わりを持っていかないと、なにも残していけないんじゃないかなという気持ちになったんです。

金銭面ひとつとっても、ひとりになることで、事務所にいたときには見えなかった構造が、はじめてはっきり見えてきた。

音楽事務所に属していれば、制作にかかるお金は本来、事務所が負担するものですけれど、実際は自己負担しなきゃいけない部分がけっこうあって。そういうの、なんにも知らなかったから、自分がお金払ったのに、権利だけは事務所になっちゃうとか。たとえばポスター作ったから、お金払いなさいとか。今度このラジオ局で番組作るから、製作費負担しなさいとか。もちろん衣装も自前だし。だから1枚目は何百万か、かかってしまいました。家族にもちょっと負担かけちゃって。いま自主制作で出した3枚目は、いろいろわかったのでそこまでじゃないけど、それでも200万円ぐらいかかってます。

新米だからなのか、事務所の方針なのか、支払いは給料ではなく、ギャラ制。とても暮らしていけるような収入ではなかった。

仕事があればともかく、いきなり仕事なんかないでしょ。しかもギャラの25%しか、自分のところに入ってこないシステムだったんです。25%取られるんじゃなくて。だから1万円の仕事だったら、一日まるっきり拘束されて、2500円しかもらえない。それが3ヶ月後払いだったりするんです。
ちゃんとお金がもらえる仕事っていうのは、月に1本もないぐらいですし、僕はたまたま大学のOB会みたいなところに呼んでもらっていたんですが、それも言ってみれば僕のつながりで、僕が取ってきた仕事じゃないですか。それでも事務所が、お金を持っていっちゃうんです。

牛丼の並をちょっと大盛りにしたぐらいで罵倒されながら、必死に稼いだアルバイト代が、右から左へと消えていく日々。最初にプレスしたCD3000枚を買い取らされ、それを歌う場所で売り歩く。「歌える会があるから、参加費1万円払いなさい、そのかわり自分でCD10枚売れば、1万円儲かるだろ」とか言われて、だんだん業界のシステムに疑問がふくらんでいった。

だから完全にフリーの自分ひとりになって、僕はかえってやりやすくなった部分があります。演歌にはしっかりできあがった業界の枠組みがあって、ほんとはその演歌の枠組みみたいなものを取っぱらっていきたいんですが、その中にいないと歌手として認められない。だからキャンペーンとか先輩にならってこなしつつ、自分らしいやりかたを探そうとしてるんです。
自分ひとりということは、フットワークを軽く動けるのが武器のひとつかなと思ってます。戸塚近くの地元には、カラオケスナックがたぶん百軒近くあるんですが、ひとつひとつ顔を出して、こういうことやっているんですって挨拶してると、「じゃあ一曲歌ってみてよ」って言ってくれる人も出てきて。歌わせてもらって、そうやって一回お世話になった店は、定期的に顔を出すようになって。だから地元に行くと、だいたいのカラオケスナックには、僕のポスターが貼ってあります。

レコード会社にも事務所にも属さないインディーズ演歌歌手である千葉山貴公さんにとって、CDを売る場所はほとんどすべて「現場」だ。カラオケ喫茶、スナック、健康ランド、宴会場...。歌えるところならどこへでも出向いて、歌って、CDを手売りして歩いてきた。そして、2007年には、マイライフレコードから、3枚目となる『愛の嘘つき』を発売する。

やっぱり現場で歌って、そこに歌の好きな人がいれば、いちばんいいんです。そういう人たちにとっては、インディーズもメジャーも関係ないから。通信カラオケに入ってさえいれば、自分も歌えるわけです。歌を聴いてどうこうっていうより、自分が歌う目線なんです。ああいう歌なら私も歌いたいって。そんな感じで、口コミで少しずつ広がってますね。

現代演歌の奇妙な特徴のひとつが、ここにある。聴く歌ではなく、求められるのはなによりも「歌える歌」なのだ。したがってCDを出しただけでは、どうにもならない。通信カラオケにその楽曲が入らないと、曲として認知されないのだ。

僕の新曲は、200万円ぐらいで作りました。これ、ふつうの感覚では安いお金じゃないと思うんです。自分でも4年間、働いて貯めてたお金だし。ほかのジャンルの音楽をやっている人は、20万円ぐらいあればインディーズのCD1枚出せるんですよね。でも演歌っていうのは、CD出しただけじゃお話にならない。それがカラオケに入ってないと、まずキャンペーンで売れないんです。
カラオケに入るのは、なかなか大変です。僕は自分でやってきたので勉強できたのですが、いくつか方法があるんですね。たとえばかなりのお金を使って、入れてもらう方法。カラオケの機械を何百万円かで購入して、そのかわりに入れてもらう方法。それに、歌い手が持っている楽曲の権利、だれかがカラオケで歌えばいくばくかのお金が支払われる、その権利をカラオケ・メーカーに預けることで、かわりに曲を入れてもらう方法。いろんなやりかたがありますが、とにかくカラオケに入らないことには、どうしようもない。僕の『愛の嘘つき』も、入るまでけっこう時間がかかっちゃって、お客さんには「もうすぐ入りますから」って言い続けて、「なかなか入らないじゃない、嘘つき」なんて言われて(笑)。「『愛の嘘つき』だからいいんです」なんて返してました(笑)。

いま、おそらく日本全国のスナックで毎夜、もっともへヴィ・ローテーションで歌われている『愛のままで・・・』の秋元順子も、顔もわからないまま曲だけが有線で流れ、「この歌を歌っているのはだれだろう?」と問い合わせが殺到するようになって、ついに61歳で紅白初出場を果たすまでになったのは、ご存じのとおり。テレビ局と大手芸能プロダクションと広告代理店によって人為的に作り上げられる、テレビの歌番組よりも、はるかにリアリティのある"ヒット・チャート"が、いまはスナックやカラオケボックスの、リモコンの「履歴」に隠されているのだろう。
「演歌界初のIT歌手」と書かれたこともある千葉山貴公さんは、いまも自分の公式ウェブサイトで精力的な発信を続けている(http://www.geocities.jp/hamanasuaika/)。たとえばこの6月のスケジュールを覗いてみると、

 

6/6(土) 島知佳子の店・カラオケ大会 ゲスト出演 南公会堂 出演時間未定 チケット€1,500 
6/7(日) 貞ミュージック教室発表会 ゲスト出演 大船 ホテル好養 15:00頃出演
6/13(土)湘南泉会発表会 ゲスト出演 泉公会堂 11:00頃出演 観覧無料 
6/14(日)カラオケ発表会 ゲスト出演 厚木 12:00頃出演
  〃    沢田あきらソングプロデュース発表会 ゲスト出演 鎌倉芸術館
6/21(日)キャンペーン 弥生台 ラッキー 14:00~
6/24(水)ランティア訪問 都筑区 仲町台桜湯園2号館 15:00~
6/28(日)望月満ミニコンサート ゲスト出演 中田 ボネット 12:00~ 

 

ひとつひとつは小さなキャンペーンかもしれないけれど、こうしてフットワーク軽く歌い、歩き続けることしか、フリーの歌手にとって生きていく道はない。

新しいメディアというのはいつもそういうものだろうが、インターネットというメディアも、本質的には「持たざるものにも勝機を与える」平等で民主的な発信装置である。テレビの歌番組に取り上げられなくても、ウェブサイトを作ることはできる。そしてホームページは、それがテレビ局だろうが、ジャニーズ事務所やバーニングだろうが、インディーズ演歌歌手だろうが、権力の大きさで、見る側のモニターが大きくなったり小さくなったりするわけじゃない。

テレビ局や芸能プロがいくらカネを使って、売り出し中の歌手の曲をへヴィローテーションさせようとしたって、酔っぱらいオヤジがマイクを握りしめるカラオケスナックでは通用しない。知らない歌をだれかが歌う。聴いてると気持ちよくて、自分でもうまく歌えそうな気になる。そういう歌にリクエストが重なって、いつのまにかヒットになっている。
思えばまっとうなヒットのプロセスが、いまふたたび戻ってこようとしていて、千葉山さんのようなテレビ番組の外で活動する歌手たちが、ネットをひとつの武器として、新しいコミュニケーションの方法を探してもがいている。

演歌という古いスタイルの音楽が、いま生まれ変わろうとしているのかどうかはわからない。でも、演歌の歌い手と聴き手の関係はいま、確実に生まれ変わろうとしているだろう。



 

3ljaket.jpg
千葉山貴公「愛の嘘つき」
試聴音源
1978年神奈川県横浜市生まれ。立命館大学文学部で中国文学を専攻ののち、就職の道を選ばず卒業を前に演歌歌手を目指す。現在は都内・神奈川県を中心にライブ・キャンペーン活動を精力的に行い、若手演歌歌手として注目を集めている。最新CD『愛の嘘つき』では、道せぬ恋に苦しむ女性の心を情感たっぷりに歌い上げている。
トップに戻る