[第2回] 大門信也

歌手兼トラック運転手・64歳
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 何で俺だけ 次から次と
 苦労が続くと 泣くのは止しな
 天は見ている おまえの涙
 いつか実がなる 報いがあるさ
 千に一つの 無駄もない
 苦労は茄子の 花となる・・・・

いまから10年前、55才で歌手デビューしたときの持ち歌、『苦労は茄子の花となる』を持っ
て、営業生活はや10年。ただいま64才にして、歌手兼世田谷区のゴミ収集トラック運転手と
して生きる、大門信也さんである。
茨城県の潮来に、大門さんは昭和19(1944)年に生まれた。中学を卒業後、すぐに上京、住み込みの電気工事屋を皮切りに、ちり紙交換、果物の移動販売、車の解体、タクシー運転手、そしてゴミ収集と職を転々、それだけで一大ドラマになりそうな人生を送りながら、ひょんなきっかけでカラオケにハマり、55才にして歌手デビュー。同じように歌が好きな仲間を集めて歌の会を作り、老人ホームを回っては「歌いながらおじいちゃん、おばあちゃんと握手するのが、なにより好き」という、エネルギーに満ちあふれた64才の熟年歌手である。

---- 大門さん、お生まれは潮来でしたっけ、風光明媚で、いいとこですよね。

そう、昭和19年9月16日生まれ、もうすぐ65才ですから。昭和35年に東京出てきたからね、それからでも、もう50年近いね。

---- とてもそのお歳には見えない、若々しいですねえ。

そりゃ、髪を染めてますから。ほんとは真っ白なの。半月か20日にいっぺん、行ってますから。

---- そうなんですか......でも昭和19年っていったら、もろに戦争中ですよね。なにか覚えてることとか、ありますか。

はい、小学校四・五年生のころは。当時、『おんな船頭歌』っていう、三橋美智也さん主演の映画(昭和31/1956年制作)。あの撮影風景を先生が二日間見学させてくれて。そういう先生だったんですよ。

当時の潮来はまだ田舎らしい田舎で、「川でサカナ捕ったり、ニワトリ飼ったりっていう生活」。しかし大門少年の家は、「親父が行商からなにから全部やって、苦労して自分ら兄弟を育ててくれました」という、ぎりぎりの生活だった。

親父は苦労しまして、闇米担いで東京と潮来を往復したりして。その背中を見ながら育ったワケなんですが、その行き帰りの汽車の中で気学の勉強をしてまして、50才過ぎてから運勢鑑定士になったんです。 名前の画数で判定するんですが、だんだんすごくなってきて、もう字を書かなくなっちゃった。たとえば佐藤だと「佐」は7画だから「7」、「藤」は18画だから「18」とか。そこ まで行くと、もうついていけなくなっちゃいましたねえ。でも親父はいま97になりますが、まだ元気で鑑定やってますよ。

そういう父の元から一刻も早く独立すべく、大門少年は中学を卒業して5日目に、単身東京へとやってくる。集団就職が盛んになる以前の時代とはいえ、地元の中学でもほとんどは高校へと進学していたが、「わたしはひとりで行くぞ!って、米と布団担いで来たんです」。電気工事屋の住み込みとなり、15才にして世間の荒波に飛び込むことになった。
2年ほど働いて基礎的な技術を身につけたあと、いくつか店を替わりながら、レベルアップ
。「そうなると、休みも給料も増えて、遊びも覚えますよねえ」(笑)。ただ大門青年の「遊び」とは、当時大流行していたアイススケートで、「とにかく休みは後楽園か新宿のリンクに行って、4~5時間ひたすら滑る、そんなふうに一日中やってました。女の子にモテるとか、そういう器量はありませんでしたから」と謙遜するが、そのスケートで出会った女性と、結婚も果たしている。

仕事に、遊びに、順風満帆な青年時代を謳歌していた大門さんだが、24才のある日、突然のアクシデントに見舞われる。

たしかホンダのN360ですか、あれの配線をやってたんですけど、車体を持ち上げたときに腰をボキッとやって、椎間板ヘルニアになっちゃったんです。そのとき母ちゃんは子供を産んだばっかりだったんですが、思いのほかひどくって、治るまで1年半ぐらい休まなきゃならなかったんです。
  いまなら立派な労災だが、払われたのはほんのわずかな見舞金。仕事も辞めざるを得ず、「そのときに、信じられるのは自分だけだって、思ったんですねえ」。偶然、奥さんのお兄さんが浪越徳治郎の弟子という指圧師で、ようやく腰を治してもらい、「しょうがないから食べるために、ちり紙交換を始めたんです」。

当時、世に出たてのちり紙交換業は、「はじめのうちは、とにかくクルマ動かせばカネになるってぐらい、とんとん拍子でした」。最初は20日間しか車検のないボロ車を買って、その20日間のあいだに車検費用をちり紙交換で稼ぎ出し、ほどなく新車購入。都内が競争過多になると、伊豆下田や館山まで足をのばしていたが、ドルショックで紙の値段が暴落してしまう。

こりゃダメだと思って、電気工事のときにアセチレンガスの免許取ってたから、鉄屑だろ、それでただの鉄屑じゃおもしろくないから、クルマの解体だろってわけで、解体業やってたんですが、今度は鉄屑相場が暴落、どうにもならなくなって、夜逃げしちゃったんですね。

川崎でやっていた解体業を捨て、東京に出てきた大門さんは「すぐに二種免許取りに行って」、タクシー会社に就職する。

でも、タクシーはいくらもやらなかったんですよ。そのころはわたし、そう見えたんですかねえ、目つきが悪いとか口のききかたがダメだとか因縁つけられて、刃物出されて、事件になったんです。命は助かったけど、それに見習いから本採用になったら、歩合制で給料も下がっちゃったし、イヤになって、今度は果物を軽トラックに載せて売る引き売り、あれを始めたんです。

山梨まで桃を仕入れに行って売ったり、築地で仕入れた乾物を売ったり、いろいろしていたが、「そのころコンビニができてきて、これは世の中かわるぞーって、なんとかしなきゃいかんなと思ったんです」。それで区のゴミ処理施設に出入りするトラックを派遣する会社に入り、「いくつか移りましたけど、世田谷区の一般ゴミや粗大ゴミを扱うようになって、トータルで20年やってきました」という、いまではベテラン運転手だ。

---- それじゃゴミ処理車の運転手をやっていたころに、歌の世界に入ったってことなんですか。

そうですよ、運転手のころ、一時は「一生、清掃車の運転手で終わってたまるか」って、居酒屋を開業したこともあるんですが、きつくて身体を悪くしちゃって、またすぐ運転手に戻って。そのころに友達から誘われて、山梨のほうのカラオケ発表会で、エントリーしたけど入院しちゃって出れなくなったやつの代役で、舞台に立ったんですよ」。

いままでは「飲めば歌う」という程度だった大門さん。しかし「いきなり500人の観客の前に立ったのに、不思議とあがらなかった」という舞台度胸を認めた作曲家の先生に、「お前は磨けば光るものがある」と言われる(そのとき歌ったのは渥美二郎の『面影みれん』)。

引き売りも露天商もやって、ステージ度胸が自然についちゃってたんでしょうねえ、と当時を思い出すが、そのとき先生に見せられたのが、デビュー曲となった『苦労は茄子の花になる』だった。

---- それまで歌のレッスンしてきたわけじゃないですよね、不安はなかったんですか?

そんなの、なんにもない! オタマジャクシも読めなかったですけど、まあ、やってダメなら、戻ればいいだけだし。物事、失敗しようがなにしようが、やって損はないんですよ。わたしは「もし」とか「たら」っていう言葉が大嫌いだから、まず行動する。ダメなら戻る、簡単だもん。

デビュー・カセット(CDですらなく)のA面が『苦労は茄子の花となる』で、B面は『潮来路の女(ひと)』。世に出すには「クルマ1台ぶんぐらいのカネがかかりました」というが、そのころ大門さんは妻子と別れ、「ひとりで勝手に生きてたから、だからできたんですよ」。
 道楽ってわけじゃないけれど、「家庭があったら、ぜったいできてないと思う」と大門さんは断言する。

わたしね、もう孫もふたりいるんですが、まだ会えてないんです。でも今度、新曲を出したら、会いに行きます。自由気ままに生きてきて、子供にはなにも残してやれなかったし、寂しい思いもさせたろう。子供もわたしのことは理解しないと思うけど、でもまっすぐ生きてる、そういう生きざまを見せてやれれば、それでいいから。孫たちに、「ああ、おじいちゃんって、すごかったんだな」って言われたら、それでもういいと思ってるんです。
「指も全部ついてるでしょ、からだに絵もしょってないでしょ、まわりに迷惑だけはかけたくないですから」と、たったひとりでがんばってきた大門さん。しかし歌手デビューしてからは、歌うことで知り合った同志たちと歌の会を結成して、老人ホームを回るようになった。

ほら、NHKの番組とかでね、歌手の方が観客と握手するでしょ。あれを自分もやろうと思ったんですね。最初はもう、震えちゃって、とてもできない。でも、3年ぐらいしたら、おじいちゃんおばあちゃんが、わたしの歌を知らないで亡くなったおふくろと重なってきて、それから自然にできるようになったのね。  「こんにちわ、みなさん、しばらく」って、初めてでもいいから言うんですよ。それで最初は『リンゴの唄』とか『北国の春』とか、そういうのを、模造紙に歌詞を書いたのを張って、いっしょに歌う。そうするとみんな気分が盛り上がるので、それから自分の歌をうたって、握手して回るんです。

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年に何度か通う、高井戸の老人ホームで慰問をするという大門さんに、ついていかせてもらった。キャスターのついた移動式ベッドに寝たきりのお年寄りたちに囲まれながら、小学校の先生みたいに優しく声をかけつつ、ほんとにひとりずつ、大門さんはゆっくり握手をして回っている。ほかのひとが歌うときは、司会に、機械の操作に、忙しく舞台裏で走り回って、汗びっしょりになっている。
いつもは朝4時半に起きて、6時には出社。「自分の顔を洗うように、会社のクルマだけどピカピカに磨いて、それから作業に出る」。運転中には欠かさず歌の練習。夕方帰宅したら、自曲のカセットをダビングしたりして、「時間がいくらあっても足りない」。それで休みの日は「そのために生きてるようなもんですよ」というほど打ち込んでいる、ボランティアの慰問活動。
 『茄子の花...』の題名は、「茄子の花と親の意見は、千に一つも仇はない」という諺から来ている。「茄子の花に無駄がないように(ナスの花はほとんどが実をつける)、親の意^見には無駄なものなどひとつもない」という意味そのままに、いつか報われることを信じて苦労を重ね、それを苦労とも思わない、涼しい顔の大門さん。「うぬぼれで歌やってるわけじゃないけど、カネ残せないからさ、作品を残さないと」と笑うバイタリティは、いったいどこから生まれてくるのだろう。

あのね、物事、躊躇しちゃ、ダメなんですよ。まずは行動。これはチャンスだってときは、まず動く。女神っていうのは、後ろ髪をつかむんじゃない。前髪をつかむんだ。過ぎちゃったら、もうつかめないんだから。

ちなみに大門さんの本名、大堀錦男さんの総画数は37画。お父さんの鑑定によれば、「これは大器晩成型、50才過ぎないと芽が出ない」そうだ。
いま、大門さんが女神に前髪をつかまれているかどうかは、わからない。でも、きょうも清掃車のハンドルを握りながら、たったひとり、だれに聴いてもらえなくても、歌をうたいつづける男がいる。そんなクルマが、自分の街を走っている。そう思うだけで、僕はなんだか、無性にうれしい。


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大門信也「苦労は茄子の花になる」
試聴音源
茨城県潮来市生まれ。中学卒業後すぐに上京、様々な職業を経て、現在は都内で粗大ゴミ回収の運転業に携わる傍ら、歌手活動を行う。都内を中心に、老人ホームの慰問活動に飛び回っている。本曲「苦労は茄子の花となる」は、若くして亡くなった母親と尊敬する父親へ向けた一曲。 ビクターエンターテインメント株式会社より2000年発売。カセットのみ。B面「潮来路の女(ひと)」は故郷・潮来を舞台とした、切ない恋をテーマとした一曲。
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