北九州市戸畑に生まれたのが1936(昭和11)年、製鉄の街・八幡に育って、歌手デビューしたのが1955(昭和30)年。今年で音楽生活54年目、現在72歳にしてバリバリ現役のダンディな男性歌手、それがケニー池田さんだ。太平洋戦争のさなかに少年時代を送り、高校を中退して鉄工所で働く。寂しさから通いはじめた教会で賛美歌と出会い、八幡市民合唱団を率いるうちに八幡製鉄所のハワイアン・バンドで歌うようになる。そのころ、NHKののど自慢に九州代表として出場。灰田勝彦の兄、灰田有紀彦(=晴彦)のハワイアン・バンド、モアナ・グリー・クラブのヴォーカルにと誘われて、19歳で上京。プロの道を歩み出した。
それからいくつものハワイアン・バンドを渡り歩いたあと、歌声喫茶風の合唱グループやラテン・コーラスバンドに所属、1965年にソロ・シンガーとして独立する。ハワイアン、合唱、ラテン、そして歌謡曲へというその軌跡は、戦後日本のポピュラー・ミュージックの変遷とそのまま重なっている。
1970年には『はりまや橋ブルース』で初めて作曲を手がけ、それからは自作曲を歌うことも多くなった。『5丁目の女』、『対馬の女』、『湯の町物語』など、ご当地ソングを数多く手がけながら、地元ラジオ局の番組にも積極的に出演。2006年には音楽生活50周年を記念して、ハワイアンバンド時代の先輩であるジェームス三木の詞による『ふるさとの山は夢ン中』をリリース。「僕はね、いつまで歌えるか、自分の声量、音質をどこまで保てるかに挑戦していこうと思っているんですよ」と言いつつ、現在もキャンペーンに飛び回る日々である。
---- ケニーさんは九州のご出身ですよね。
そう、北九州ですね。1936年9月4日生まれ、72歳になりました。
---- そのころは、まだ戦争時代ですよね。
はい。僕が小学生くらいのときに、B-29が長崎に原爆を落としてるでしょ。あれ、ほんとうは八幡製鉄所に落とすつもりだったんだと思うんですよね。でも曇ってて位置がわからないから、長崎のほうに行っちゃったらしいんですよ。
曇りのおかげで助かったのだったが、戦中から戦後へ、その少年時代はけっして平坦な道のりではなかった。
僕はおふくろを、4つのときに亡くしてるんです。数えで4つ、3歳だから、記憶がない。おふくろの顔がわからないんです。親父は戦争に行って、結核になって帰されて。それで小さいころは、父方のおばあちゃんがずっと僕の面倒を見てくれた。
そしたらある日、高校1年の2学期になる前くらいに、親戚のおじさんから電話があって、おばあちゃんも歳だから、元気なうちにこっち(岩手県釜石市)に来てくれって言われて。でも、おばあちゃんは、僕と一緒じゃないといやだと言う。お母さんがわりに育ててくれた人だから、高校にも入ったばかりで悩んだけど、学校は好きじゃなかったし、高校を辞めて釜石に行ったんですよ。それで、おじさんの仕事を手伝うようになった。鉄工関係の工場です。初めて仕事をしたときに、機械にバーっと巻き込まれて、指をはさまれて中指の先をなくしちゃいました。
八幡時代は柔道に熱中、音楽は「♪伊豆の山々 月あわく〜〜って、あれなんでしたっけ(『湯の町エレジー』)、それとか『かえり船』をラジオで覚えて歌ってました」という程度だったが、釜石時代に意外なかたちで音楽が生活に入ってくる。
釜石に行ったけど寂しいからカトリックの教会に通ってるうちに、合唱団をつくって指導してくれないかって頼まれたんです。賛美歌弾いてくれって言われて、レッスンの前日に、神父さんに明日のレッスンはなにやりますかって聞いて、その曲を覚えたり(笑)。それでオルガンを弾いたりしてるうちに、おばあちゃんが亡くなって。それで釜石から戸畑に戻りました。
北九州に戻った池田青年は、友人のつてを頼って溶接工場で働きながら、今度はハワイアン・ミュージックの世界に足を突っ込むようになる。戦前に日本に入ってきて学生を中心に広まり、戦時中は敵性音楽として禁止されていたハワイアンは、戦後になってジャズとともに一世を風靡、一大ブームを迎えていた。
働くだけじゃなくて音楽もやりたくて、八幡製鉄所のハワイアン・バンドに入って歌ってたんですよ。そこのバンドマスターが、大橋(節夫 ---- ハニー・アイランダースを率い、灰田兄弟とともに日本のハワイアン・ブームの立役者だった)さんを八幡に招待して、歌を見てもらったりしてました。同じころ、NHKのど自慢の九州代表として、東京大会に伊藤久男の『恋を呼ぶ歌』で出場したんだけど、「カーン(鐘一つ)」でね。悔しくて本格的に歌の勉強を始めてたんですが、大橋さんは僕がのど自慢に出たことも知っていたようで、手紙をもらったんです。灰田有紀彦さんのバンド(灰田有紀彦とモアナ・グリー・クラブ)に欠員が出て、メンバーを募集しているから、裸一貫で来いって。
1955(昭和30年)5月、19歳の春だった。初めて東京の土を踏んだ池田青年は、いきなりプロの世界に放り込まれる。
最初は銀座8丁目の店で、着いた当日から演奏しました。給料が月に1万円で、家賃を3000円引かれて。それから大阪ミナミの「ナンバ一番」というジャズ喫茶に移りました。そこには藤山寛美さん、エノケン(榎本健一)さん、森光子さん、丸山明宏(現・美輪明宏)さんとかも来てましたねえ。
そのあと東京に戻ったんですが、実際はバンドについていけなくて辛くて、入って3ヵ月くらいして、自分から辞めたんですけど、クビになったようなもんです。
それからは東京で知り合ったハワイアン・バンドに呼ばれたり、亀戸の「キャバレー・ヤナギ」で、準専属歌手みたいなかたちで歌謡曲を歌ってましたね。お金がなくて苦しいときでした。バンドのマスターが、仲介のマネージャーにギャラを持ち逃げされたことがあって。そのとき30円か40円くらいしかなくてね、知り合いだった横浜の「クラブ・レインボウ」の専属バンドマスターに電話して「お金がない、この電話が切れたらもう終わりだ」って泣きついたら、「すぐにタクシー拾って、横浜のレインボウって言えばわかるから、来い」って言われて、飛んでいきました。そこで、当座の小遣いをもらって衣装やら揃えて働かせてもらってたんですが、そこで大塚龍男さんのバンドから、「歌い手が辞めたから、うちに来ないか」って誘われたんです。
こういう事情でこの店で世話になって義理もありますからって、そのときは断ったんですが、バンドマスターのほうから「いま大塚龍男とパーム・セレナーダスは、日本のハワイアンではトップクラス、絶対に君のためになるから入ったほうがいい」って言われたんです。それでも「それはできません」って、いちおう断るふり(笑)をしたんですが、「そんなことはいいから、君がよくなればいいから行きなさい」って言われて、移ったんです。
横浜の、東洋一のサパークラブって言われてた「ブルースカイ」を拠点として、進駐軍やジャズ喫茶で2年半ぐらい演奏しました。当時、戸畑時代からの親友で、同じく音楽を志してたやつが、同じクラブで皿洗いとして働いてて、僕が歌っていると、自分も歌いたそうな顔で、寂しそうにカーテンの陰から覗いてるんですよ。僕もかわいそうで耐えきれなくなって、僕がバンド組むときには一緒にやろうって誘ったんですね。
そうしてパーム・セレナーダスのあと、その友人たちとハワイアン・コーラスバンドを組んで、都内のジャズ喫茶やキャバレーを回ったり、横浜のクラブで専属バンドになったりしてました。
1955(昭和30)年、新宿に誕生した「カチューシャ」、「灯(ともしび)」をきっかけに、当時はまた歌声喫茶が大流行した時期でもあった。ハワイアンにどっぷり浸かっていた池田さんのもとにも、ちがうジャンルからのオファーが舞い込むようになった。
当時は歌声喫茶の全盛期で、『古き菩提樹』とかが街中で聞こえてきたりしてね。ビクター(日本ビクター)でドイツの歌のレコードを制作していて、歌えるグループがいないから、挑戦してみないかって誘われて、メンバー3人でビクターのスタジオに行って歌ったんです。それで『ドイツ青春の歌』を出したんですが、そのときバンド名を、ブルー・エコーズとつけました。そのときの担当で、美人ディレクターとして有名だった武田京子さんに誘われて、ロシア民謡を歌う「三浦洸一の東京バラライカ」にバックコーラスとして参加したんです。
そのあとラテングループのトリオ・ロス・パンチョスが初めて来日して、すごいブームになったんですが、僕をあわせて4人でクラウンズ・フォーというラテン・コーラスバンドとしてデビューしたんですが、バンドマスターと合わなくて、給料もよくなかったので、1年半くらいでレコードを出さないままに辞めちゃいましたね。それで1965年に、ソロシンガーとして独立するんです。
30歳になる直前、気力・体力ともに充実していたケニー池田さんは、それから歌謡曲歌手として、全国を営業で駆けまわるようになった。1965(昭和40)年といえばベトナムでは戦争が激化し、日本ではいざなぎ景気が始まり、エレキギター・ブームが起こって日劇ウェスタン・カーニバルが超満員の少年少女を熱狂させ、オトナのためには『11PM』の放送が開始された年である。
おもにムード歌謡や演歌を歌ってましたね。そのころはナイトクラブやキャバレーを、精力的に回ってたんです。沖縄以外のすべての都道府県に行きましたよ。自分で電話をかけて仕事を取ってたんですけど、この時代はどこのキャバレーに電話をかけても、「ケニーです」と言えばみんな知ってて、「あっ、じゃあ、いついつから(スケジュールを)おさえといてくれ」って言われてね。多いときだと1カ月に45ステージってこともあって、だいたい30ステージはやってました。マネージャーをつけて、夜はキャバレーで2ステージ、深夜はサパークラブを4〜5軒かけもちして。地方に行っても、かけもちでやってましたから。
当時はキャバレーの全盛期で、室蘭や網走にもキャバレーがあって、歌いに行きましたねえ。高知の「キャバレーABC」では1週間公演をやって、1週間毎日来てくれたお客さんもいましたね。あまりに多忙で、声がうまく出ない日もあったけど、「声が出ませんが......」と断ってステージに立って、それでもギャラをもらうことができました。お店に信用があったんですね。ある店では、ヒット曲がないから、ギャラはビッグ待遇ではないけれど、扱いはビッグにすると言われたり(笑)。
そのころからずーっと、きれぎれではあるものの、長く見てくれてるファンが全国にいるんですよ。最近、健康ランドでショーをやったときに、「むかし銀座の喫茶店で見たよ」、と声をかけてくれた人もいました。「むかしキャバレーでやっていたケニー池田さんですか?」と言われることも、けっこうあります。
旅から旅へ、そして詰め込めるだけステージを詰め込むハード・スケジュールに追われる日々。しかしハワイアン育ちの洒落たムードと、甘いヴォイス。銀のスパンコールを散りばめたスーツに、もみあげと口ひげ。ダンディな色気を漂わせるケニーさんは、行く先々で女性にモテモテだった。
ハワイアンの時代から、主なファン層は女性ですねえ。キャバレー時代はファンからの誘いも特に多くて、"千人斬り"とまで言われたんですが、自分から誘うことはなかったですよ。ぜんぶ向こうからです(笑)。
1970年には初めて作曲を試みた『はりまや橋ブルース』が発売される。有線放送会社の社長が書いた歌詞に曲をつけた、高知のご当地ソングだった。それからは77年に名古屋のレコード会社・ホメロスから『5丁目の女』、91年に別府のご当地ソング『湯の町物語』(キングレコード)など多数のご当地ソングを歌い、特に「高知と別府に行くと、お帰りなさいって言われるんです」というほど、地元とのお付き合いが深まっていく。
「歌一本でやってきて、食えないこともあったけど、辞めようと思ったことはいちどもない」まま、2006年には音楽生活50周年の節目として、けじめをつける意味で『ふるさとの山は夢ン中』を発表。「♪腕白坊主のこの俺は 叱られいつも立たされて 窓の向こうの お前を見ていたよ......」と歌われるこの曲は、ハワイアン・バンド時代に、横浜の「ブルースカイ」で歌っていたころの先輩である、ジェームス三木作詞、作曲と歌唱がケニー池田で、富士山にかたちの似たふるさとの小さな山、帆柱山を題材につくられた曲である。彼は、別府や高知のご当地ソングを出しているのに、自分の故郷の歌を発表したことがなかった。そのことをジェームス三木氏に相談すると、よし、それならば、と詞を書いてもらうことができた。しかし、制作費が足りず発表の機会がなかったが、その後親族の協力により、歌手生活50周年を迎えた年にCDとして発売することができた。「この歌はね、ふるさとを離れてがんばってる人に、ふるさとを思い出して、元気を出してもらいたいと思ってつくったんですよ。巣鴨のレコード店でキャンペーンをやったんですけど、歌ってたら露天商のおばあさんが、ふるさとを思い出して泣いてましたよ」。 現在も『ふるさと・・』のためにキャンペーン活動を続けるケニー池田さん。「僕は50年間営業中心の生活をしてました」と言い切るその音楽人生は、並大抵の苦労ではなかったろう。
歌手といっても、歌を教えたりしてレッスン料で暮らしてる人も多いでしょ。僕も50歳を過ぎたあたりで、レッスンの仕事をやりたくて、淡谷(のり子)先生に相談してみたことがあるんですけど、「バカ言うんじゃないの! 私たちはいつまでたっても歌に挑戦するのが人生よ。だから私は絶対弟子を取らない」って言われたんです。
そうやって積み重ねた芸歴が、歌の教室も店もやらずに自分の歌一本で生きることを可能にした。
やっぱりここまで続けてこられたのは女房のおかげ、あいつがいたからやってこられたんです。自分は器用貧乏だけど、生き方にブレはないです。いまの若い人はすぐクスリに走ったりするけど、僕の場合は女遊びはしたけど、そんなことは絶対しなかった。同じようにスタートしても、みんなどこかで落ちていきましたからね。
いまレコードは売れないから、売るためにはお金を使わなきゃなんないのに、レコード会社はお金を出さない。有名な歌手でもレコードを出せなくなってるんですよ。昔はどんな人でも3年か4年に1枚は出せてたのに、いまは全然。有名な人でも300万円とか400万円とか用意しなくちゃ、レコードを出せない時代です。
僕はあきらめないでやってきたから、芸歴のおかげでお金を出さずにレコードを出せた。レッスンをやったり、店をやったりしないで、これだけでやってこられたんです。そんな人、ほかにはなかなかいないですよ。
「これからも声が続くかぎり歌いつづけたい、それだけです」と締めくくってくれたケニーさん。5月30日には久しぶりの公演が船堀の東京健康ランドで予定されている(公演は無事終了)。歌ひとすじに、と口で言うのはたやすいけれど、自分のノドだけを頼りに半世紀を越えた音楽人生の、そのステージを、その生きざまの迫力をぜひ、ナマで味わってほしい。
●TOPIC!
2009年8月16日(日)に、東京健康ランドにて、ケニー池田&ハワイアンショーが行われました。
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フラダンサーたちをしたがえて、堂々歌いあげるケニーさん。
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イベント情報は今後も更新していきますので、乞うご期待!
●TOPIC!
4月13日発売の「週刊女性」(主婦と生活社)にて、ケニー池田さんのインタビュー記事が掲載されました。芸能レポーター石川敏男さんの連載「敏ちゃんの発掘!隠れた大スター」のページです。



