日本でも話題になったのでご存じの方も多いことと思うが、パリでは今年から「公式に」女が市の許可なしにズボンを履いてもよいことになったそうだ。なんとこれを禁止する法令が、実際にはなんの強制力もすでになかったとはいえ、214年も存続していたとはびっくり。
なんでこんな法律ができたのか、それを知ってうーむと唸り、さらにずっと気になっていた、フランスにおける別のドレスコードの案件を思い出した。ムスリムの女性が学校でスカーフをかぶることはまかりならん、というあれである。
サン・キュロット(sans-culotte)というのがキュロットを履かない、という意味だということを、中高の世界史で習ったんだか習わなかったんだか、よく覚えていない。キュロット、すなわち膝下できゅっと締めた短い丈のズボンが、中世から19世紀初めまでヨーロッパの上流階級の男の衣装として用いられたこと、貴族やかれらの真似をするブルジョワ階級のように絹のキュロットを履かない、ということがフランス革命当時、急進派の下層労働者たちを象徴するファッションとして注目された、ということも、ほとんど忘れてしまっていた。
いまキュロットというと、主に女性用の、左右の足が別の筒に収まるようになった、つまりズボンの構造をもってはいるけれど、裾幅が広くて比較的丈が短く、スカートに似たシルエットになる履きものを指すことがほとんどだろう。ちょうどわたしがフランス革命の話を習っていた頃、キュロットは女の子の服として大量に市場に出回っていた。教科書のキュロットとお店のキュロットを結びつけるものは、ほとんどなにもないように見えた。
あのとき、フランス革命の頃に長ズボンを履きたがる女がどうやらいたらしいこと、しかし革命を支持した男たちは、女が自分たちの真似をすることをけしからんと考え、それを禁止したことを教えてくれていたら、机の下に隠した剣豪小説から目をちょっと上げ、授業に耳を傾けたのではないかと思う。1799年11月、フランス共和国の首都で「男の服」を着たい女は、市当局に公式の許可をもらわなくてはならない、という法令が定められた。18世紀末のパリでは、「自由・平等・博愛」の精神を女のズボンにまで適用するのは行き過ぎ、と考えられたわけである。
ズボン問題を議論した革命政府は、同じ頃、別のことにも頭を悩ませていた。仏領アンティーユ諸島すなわちカリブ海のフランス植民地のなかでも、サトウキビ栽培で本国に多大な富をもたらしていたサン・ドマングで、奴隷反乱がつづいていたのだ。先頭に立っていたのは解放された元奴隷の男、フランソワ=ドミニク・トゥサン・ルヴェルチュール。彼は共和国フランスの理念に共感していたので、独立を望んだわけでなく、アフリカの血を引く植民地住民の共和国内における権利と平等を願い、専横的な植民地白人のみならず、植民地を虎視眈々と狙ってくるイギリスやスペインとも戦って陣地を広げていたのだが、結局ナポレオン率いるフランス軍に欺かれて拘束され本国へ移送となり、獄中で病に倒れた。「自由・平等・博愛」を黒人にまで適用するのは行き過ぎ、と共和国政府は考えたわけである。トゥサン・ルヴェルチュールなき後は彼の盟友ジャン・ジャック・デサリーヌが中心となって、サン・ドマング独立への闘争がつづいた。1804年、アフリカ系住民による初の近代共和国ハイチが誕生した。
フランス革命が掲げた自由・平等・博愛の理想が普遍的なものではなかった、すくなくとも黒人とズボン女が対象外だったことは確かだ。世界というのは端っこのほうから眺めたほうがよく見える。強国が派手に掲げる崇高な建前の後ろで、実際、なにを考えているのかは、あまり目立たない小さな国や弱い立場にあるグループにどんな態度で接しているのかを見ればわかる。
さて、女のズボン禁止令は19世紀にはすでに時代遅れになっていたらしい。二度の改正で、女性でも「自転車のハンドルあるいは馬の手綱を持っているときはパンタロンを履いてもよろしい」と改定された。ジョルジュ・サンドはグレイ・ゾーンだったということか。その後はなし崩し、だったのだろう。2010年に「みどりの党」がこの法令をいいかげん無効にすべきだと主張したとき、パリ市はこんな「司法の遺物」を取り除くために尽力するのは「時間の無駄」と反対したそうだ。そんな議論こそ無駄だろう、と考えたのはわたしだけではなかったようで、2013年になってこの法令は公式にフランスの法律から削除された。法令を「博物館もの」と一蹴したフランス女性権利相ナジャット・ヴァロー=ベルカセム氏がパンツ姿で歩く写真が、数多くのウェブサイトに登場した(France 24: International News 24/7, 2013年2月4日など)。
男女の服装の別というのは、多くの変遷を経ながら、いまもかなりはっきりと存在している。ただ、時代や文化によってその別の内容は大きく異なる。幕末に遣欧使節団としてやってきた日本人男性を見たヨーロッパ人たちが、袴がスカートのようだというので、これは服装からして女ではないかと思ったという話は有名だ。
女がズボン/パンツを履くのは普通のことになっている現代の日本だが、その逆の、異性装としてではなく男性の衣服としてスカートを履く男はというと、いまのところごく少数しかいない。この自己規制、女のズボン禁止同様に、いいかげんやめてよいのではと思う。男なら両足はぴったり覆って、と考えるのは、もともと寒いところで家畜を追ったり獲物を狩っていた連中の発想だ。ぴったりパンツは暑いところでは不快そのものである。
フィジーで青いワイシャツを着た警察官の男性が、下はラップスカート状のものをつけているのを見たとき、これはいいな、とうれしくなった。猛暑には風通しのいいスカートがよい。南太平洋の多くの島々において、男性がこうした格好をしているのはごく普通である。日本でも夏の浴衣や着流しはあたりまえの格好だったのに、それらはお祭りぐらいでしか見かけなくなり、いまやどんなに暑くても大人の男は長ズボンを履くのが普通と考える人がほとんどになってしまっている。クールビズなどといって売り出される服も、たいして涼しそうではない。フィジー式にシャツとラップスカートにしたらいいのに。
天候ではなく宗教文化上の理由から、女は外出時に顔を覆うようスカーフやヴェールを、あるいはさらに体全体を覆うようなマント状の布をかぶるべきだと考える人々が、イスラム文化圏には多い。乾燥して暑い気候では案外あれが実用的、という声もありますが。
フランスの人口の5~10パーセント(CIA Factbook ほか参照、統計により差がある)はイスラム教徒である。これは少数派とはいえかなりの数、政治家にとってもけっして無視できない数だ。アフリカ北西部の旧フランス領からの、いわゆるマグレブ移民がその大半を占める。
1989年、パリ郊外に住むそうした移民の子どもたち、モロッコ系とチュニジア系の女の子三人が、学校でスカーフを着用していることが問題視され、退学処分を受けた。いわゆる「スカーフ事件」である。彼女たちの態度は教育現場での政教分離を重視するフランス共和国の基本理念に反するという人々と、異文化尊重の立場から処分を不当とみなす人々の間で論争が巻き起こった。ここで伊東俊彦氏(相模女子大学)の「フランスの公立学校における「スカーフ事件」について」を紹介しながら、この論争のことをちょっと考えてみよう(『応用倫理・哲学論集』3号、東京大学文学部哲学研究室、2007)。
19世紀末から20世紀初頭、フランス政府が公立学校の非宗教性(ライシテ)を法的に確立させたのは、いまだつよい影響力をもっていたカトリックの勢力を国政から排除することが主な目的であった、という。しかしこの特定の歴史文化的文脈を超えて、「ライシテの原理」を宗教色のない教育という以上に、どんな宗教的信念からも離れ「普遍的なもの」に向かう場所として学校を位置づける、そういう解釈が、ムスリムの生徒が学校でスカーフを着用することをよしとしない考えにつながる。
だけど、とわたしは考えこむ。「普遍的なもの」ってなんだろう。伊東氏もいっているとおり、問題は「中立性」の意味だ。学校は特定の地域社会に存在し、特定の人々が運営していく施設だ、公立であろうと、私立であろうと。個々の現場に即してみれば、まったく透明な普遍、偏らない絶対の中立などというものが、そこで可能なはずがない。ムスリム文化に関心のある先生も、まるで冷淡な先生もいる。それが現実である。
女性が家父長制の下で従属的存在とされる不自由を象徴するものとして、スカーフに反対するひともいる。女性の地位向上、社会進出、就労を推奨する西洋近代の発想に対し、女性の役割はもっぱら家庭にあるとするムスリムの考え方を体現するスカーフ着用そのものが、つまりはイスラム教文化の内の女性蔑視が、問題であるというのだ。
でも、とまた考える。ある文化に育ったひとが、自分の環境やライフスタイルを変えたいと思うか、思わないかは、外部の影響をさまざまに受けつつも、結局はその文化の内側にいる人々の決断だ。ヒジャーブ(覆いもの全般)がどの程度まで義務化されているか、どこをどれだけ覆うべきなのか、色や柄は、といったディテールに関する規制は、時代や地域、階級等によって異なるようだ。しかし元来これが身分の高い女性たちを公衆の目から隠す慣習から出た衣装であったこと、日本にも同様の発想があった(たとえば御簾の奥からものをいう貴人の女性)ことを考えると、布をまとい姿を隠していることは女性の従属性と地位の低さを示す、とヨーロッパ人は頭から決めてかかっているのでは、と思わずにはいられない(村松耕光「ムスリム女性のパルダ擁護論」および藤元優子「イランのヒジャーブと女性」、武田佐知子編『着衣する身体と女性の周縁化』思文閣出版、2012年)。別の文化にはいつだって、その文化なりの理由づけがある。
「共和国におけるライシテの原理適用についての委員会」のスタジ委員長による「スタジレポート」は、ムスリム女性たちの現状について、抑圧や暴力、性差別の実態を詳述している。
たまたま女である人間として、自分の身にもし女であるという理由で恒常的に抑圧や暴力、ひどい性差別を受ける状況が生じたら、わたしはまずそれから逃れる手段を考えると思う。しかしなにが抑圧であるかという判断の基準は、それぞれに異なる。欧米近代文化において年齢差別や性差別とみなされるある種の状況(たとえば女性の結婚が16歳という若い年齢で認められること、家事労働や老齢者介護への男性の協力度がいわゆる先進諸国中目立って低いこと、男女別の就労者の平均給与と管理職者の割合における明白な男女差、その他いろいろ)は、日本において常識的と考えられたり、美徳とみなされつづけている。男尊女卑はいまだ日本の文化だ、いいとか、わるいとかではなく、それが事実だとわたしは思う。
忘れてはならないのは、文化は固定したものではなく、つねに変化するもので、その変化は選ぶことも操作することも可能だということ。だから大切なのは選択肢が開かれていること、ある文化の内側にいる人が不当と考える項目を変更するよう働きかけたり、他の文化のやりかたを採用できる状況を確保すること、ということだ。スカーフをつけたいか、つけたくないか、選ぶのは政府ではなく、当の本人でなくてはならないとわたしは思う。その選択は、たぶん普遍的原理にもとづいたものでは、ない。近くにいるひとにひっぱられたり、プロパガンダやステレオタイプを鵜呑みにしたり、妥協や揺らぎを含んだ現実的なもので、変わったり、戻ったりもするだろう。透明で普遍的で完全にフェアな場所であることなど不可能だが、ある程度納得がいくまで右往左往できる余地があること、できるかぎり排他的でないこと。学校に可能かつ必要な「中立性」とは、そうしたものではないだろうか。
「差異の権利」すなわち異文化の尊重は、「差異」から自由でいるというオプションが前提とならなくてはならない、つまりムスリムの女性はスカーフ着用を選ばないと自分で決める自由がなくてはならないのに、それを許されていない、それが問題だ、という考えには、賛同する。しかし、実際一部地域に移民人口が集中し、そうした地域の学校はゲットー化している現状を見て、排他的・閉鎖的コミュニティがフランスに存在している、これはだめだ、公教育が崩壊する、そうしたコミュニティこそ変わらなくてはだめだ、という議論には、微妙なすりかえが潜んでいる気もするのだ。その排他性は、政治や経済への不満のはけ口を移民に見出し、かれらを異質なものとして囲いこみつづける受け入れ社会の側から生じたものである、ということも、併せて考えなくてはならないはずである。
最近イギリスの作家ジャッキー・ケイの自伝『赤い土埃の道』(Red Dust Road, 2010)を読み返し、両側から引っ張られるひとの抱えるストレスを考えた。ケイは生まれてすぐ養子に出された。彼女にとってかけがえのない家族となった養父母は、スコットランド人。でも彼女の肌はコーヒー色をしている。彼女を産んだ女性の恋人が、ナイジェリア人の学生だったからだ。
学校でのいじめやからかい、先生の偏見、初めて知らない大人に浴びせられた差別的なことば、それらすべてに敢然と向き合い、戦いをバックアップしてくれた養父母の存在にもかかわらず、自分と同じ肌色の人々、アフリカの父へのケイの憧憬は消えなかった。
インターネットの検索で、拍子抜けするほど簡単に植物学者の父親を見つけ出し、彼に会うことができたケイは、自分のことを秘密にしておきたがる父親の態度に苦しむ。ナイジェリア側の血縁者に彼女は会いたいと思う。もう一方の側の自分に出会いたいのだ。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェらナイジェリアの友人たちの助言や手助けに励まされ(アディーチェの素敵な小説はくぼたのぞみさんの翻訳で読むことができる)、穴だらけの道、パンク、賄賂をせびりつづける警察、マシンガンを抱えたガードマンらを乗り越えて、十数時間の悪戦苦闘の後、彼女は父の故郷の村にやってくる。車を降りて裸足で、赤い土埃の道にケイは降り立つ。
多くのひとには荒涼として見えるだろうその道の、足裏に感じる暖かさ、色彩に感じる安らぎ、開放感と高揚感で、彼女は胸がいっぱいになる。そのあとで「白人さん」扱いされる市場の経験に打ちのめされてしまうのだけれど。イギリスでは黒んぼ扱いされて、ここでは白んぼ扱いされて。でも彼女はあきらめない。とうとう異母弟に会うことができたケイは、自分にそっくりな彼の顔、笑い声を見出し、自分を即座に姉として受け入れてくれた彼のことばを帰国後、何度となく思い出す。長い緊張と願いとあきらめの繰り返しのあとで出現した「海に洗われた小石のように、光り、輝く」ことばを。
中立性を保つべき公立学校で宗教的帰属を「誇示」している、とスカーフの少女たちを否定する人々は、実際にスカーフをつけて学校にくる彼女らが二つの文化の間で毎日どのような和解作業を行なって暮らしているのか、想像しているのだろうか。彼女たちは伝統的なムスリム女性のモデルと、フランス社会が要求する自由で自立した個人という二つの要求の「板ばさみ」にある、と伊東氏は指摘する。スカーフさえかぶればムスリム地区のご近所でわるい娘だと噂されずに外へ出て行けるという現実と折り合いをつけ、同時にフランスで生まれ育っても常時「異なるもの」として指さされ差別されつづける現状にスカーフを旗印に抵抗する、そんな二重戦略が、彼女たちのスカーフ着用の背後に見える。
だとすれば、スカーフは脱いだりつけたりこそすれ、捨てる必要などないはずだ。ムスリムであり、祖父母や父母と故郷の記憶を間接的にしろ分かち合いながらも、間違いなく現代フランス人である彼女らは、どちらの自分も捨てないでいい。ケイと同じように。アフリカ系アメリカ人の詩人オードリ・ロードが彼女に請けあったように、どちらかがどちらかを排除する必要なんてないのだ。選ぶ必要はない。どちらの文化も、思想も、空気も、ともに彼女らの一部なのだから。
サルコジ政権下で、スカーフ禁止はさらに強化されたように見える。2011年に施行された法律では、学校だけでなく公共の場所でのブルカ(体全体を覆う外出着)の着用が全面的に禁止された。同様の禁止令はフランスだけでなく、ベルギー、オランダなどにも広がり、スペインも検討中だという。
女のズボン禁止令は、200年後、意味のない古ぼけた紙切れとなり棄てられた。ムスリム女性のスカーフやブルカ禁止令は、一定の時間を経た後、どんな風に変質してわたしたちの目に映るだろう。5年? 10年? 50年? わからない。でも200年ではないと思う。フランスの修辞法が示す透明な普遍性を、いまを生きる多くの人は信仰していないと思うから。いまのフランスの原理は疑いもなくいまのフランスの色をしている。必要な時間を経れば、それは他の色をとりこんで変色し、姿を変える、さもなければ消え去るだろう。





