【第20回・最終回】(承前)
その来客を迎えるために、由巳は椅子から立ち上がった。
来客は、由巳には予想もしない人物だった。
「有沼さん」
有沼郁子が立っていたのだ。たった今、電話で話したばかりだというのに。
郁子は、ジーンズ姿だった。手には大きめのショッピングバッグを持っている。
「こんにちは。本当に中野さん一人だったのね」
裕美が自宅のマンション前で郁子と会ったときの正体のわからない不安、それと同質のものを、今の由巳も感じていた。いったい何の用事だというのだろう。林専務はいないと伝えたはずなのに。
郁子は笑顔だった。しかし、いつもの笑顔とは少し違う。引き攣ったような笑いなのだ。彼女の頬がぴくぴくと動いている。
ひょっとして......と由巳は思う。電話は林専務がいるかどうかを知ることが目的ではなかったのではないか。由巳が事務所に一人っきりでいるかどうかを確認することが目的だったのでは......。
郁子は、つかつかと由巳に近付いてきた。立ち止まり、ショッピングバッグに手を入れる。
その手が出てきたとき、由巳は自分の目が信じられなかった。
郁子の手には庖丁が握られていた。
そして由巳を睨んだ。笑顔は消え、恐ろしい形相に変化していた。
とっさに何が起こっているのか、由巳は事態がのみこめなかった。そしてさまざまな考えが一斉に押し寄せてきた。
――自分は殺されようとしている。
裕美も、郁子に殺されたのだろうか。
きっと、そうだ。
しかし、何故?
何故と尋ねようにも、悲鳴をあげるどころか、声も出ない。息もできない。
やっと息ができたと思ったときに、声が出た。
「有沼さん! どうしたんです。やめて下さい」
自分の声がからからに嗄(かす)れていることが、由巳にはわかった。
郁子は答えない。庖丁をかまえたままゆっくり近付いてくる。
「私がいったい何をしたというんです」
「私が間違っていた」そう呟くように郁子は言った。
「えっ?」
よく意味がわからない。
「何が...間違っていたというのですか」
「あなたを最初に見たとき、あなたなら大丈夫だと思った。あなたなら洋平にぴったりだと思った。でも、ちがった。あなたは、やはり洋平の世話ができるような女じゃない。私に内緒で、勝手に彼の家に行くし。洋平のことを何もわかってないくせに。そんなあなたを洋平に紹介したのが間違いだった」
だから、自分を殺そうというのか。どうしてそういう話になるのか。おかしいじゃないかと、由巳は思う。
誰か来て。私を助けて。叫んだら、郁子はすぐに飛びかかってきて斬りつけるだろう。
どうすればいい? とにかく時間を稼ぐことだ。
何でもいい。とにかく話すことだ。
「田村さんのことですか。だったら、私はもう田村さんに会いません。それでは許してもらえないのですか」
「駄目よ。洋平はもう、あなたに心を奪われてしまっている。もう引き返せないわ。一番いいのは、あなたがこの世からいなくなることしかないの。私が間違っていた」
由巳は、瞬時にすべてを理解した。郁子は洋平のことが好きで好きでたまらないのだ。本当は郁子自身が洋平に愛される存在になりたかったにちがいない。それは、ずっと昔から、そうだったのだ。二人が幼い頃から。しかし、それは実現することができなかった。だからこそ、その愛情は歪んだ形で現われてしまったのだ。洋平を見守る母親のような愛情へと変化させ、彼女が理想と考える洋平の伴侶像を勝手に作りあげたのだ。その理想像に近い女性を発見したら洋平に紹介し、その後で少しでもその理想とのブレを感じたら、たちまち憎悪へと変わる。紹介した女性を排除しようと動くのだ。おぞましいほどの、悲しい激情と言えばいいのか......。あまりにも短絡的な手段を選ぶことが信じがたい......。
郁子が、庖丁を持ったまま、ぐいと一歩を踏み出す。
「わかりました。田村さんの奥さんも、有沼さんが殺したんですね」と由巳が叫んだ。
一瞬、郁子の動きが止まった。郁子の目が泳いだように見えた。だが、臆した様子はない。代わりに、庖丁を持つ右手を腰にあてた。そのまま突っこんでくる気だな、と由巳は思った。
逃げられない。
そのとき、ドアが大きな音をたてて開いた。
人だ。黒い影が外からの逆光の中に浮かぶ。
「助けてください」
その影に由巳は呼びかけた。
影が駆け寄ってくる。太い声が響いた。
「何をしているんだ! 有沼!」
その声の主が誰か、由巳にははっきりとわかった。郁子が振り返る。
田村洋平だった。
明らかに、郁子は動揺したようだ。
「洋平、どうしてここにいるの?」
「馬鹿な真似をやめろ。庖丁を置くんだ」
「洋平。出ていって。あなたのためよ。この女も、洋平のためにならないのよ」
「この女も......って。どういう意味だ? まさか......」
一瞬ひるんだ郁子が、うめくように呟いた。
「あの女......裕美さんも、あなたには相応しくなかったのよ」
「裕美も君がやったというのか?」
「仕方ないでしょ。洋平には相応しくないんだから」
郁子の目は吊り上がっていた。彼女には、正常な判断力が、かけらも残っていないようだ。洋平の問いには何も答えず、郁子は由巳に向きなおった。
狂っている......そう恐怖の中で由巳は思った。
郁子が両手で庖丁の柄を掴んだ。そのまま由巳に近付き、振りかぶる。
「やめろっ」と洋平が叫ぶ。
由巳は身がすくんで動くこともできない。全身がガクガクと震えるだけだ。
刺される。そう感じたとき、由巳の身体に何かが覆いかぶさるのがわかった。同時に衝撃が走る。
刺された。
いや、違う!
「洋平! なんで!」と郁子のヒステリックな声がした。由巳の身体を覆っていたのは、洋平だった。
由巳が見たとき、郁子は庖丁を持っていなかった。代わりに彼女の両手は、血で真っ赤に染まっていた。
洋平が、ゆっくりと由巳の前で崩れ落ちる。その左胸から庖丁が落ちるのが見えた。あわてて由巳は、洋平の身体を両手で支えた。そのときは、恐怖よりも、洋平を助けなければならないという思いが優先していた。
「洋平さん。洋平! しっかりして。気をしっかり持って」
洋平が閉じかけていた目を開いた。驚いたように。信じられないように。
「...中野さん...あなたは...もしかしたら裕美、裕美なのか」
「そう。私を殺したのも彼女。それを感じたから電話したんです」
「ぼくは守れたはずだった。裕美を......。あのとき、家に帰れば」
ああ、と郁子の悲鳴が聞こえる。思わぬ展開に、パニックを起こしていた。
「そう。洋平は私を守ってくれた。大丈夫。気をしっかり持って。助かるから」
「裕美を守れたんだ。裕美を...あのとき...」
そのとき、事務所へまた誰かが入ってきた。
「誰か。来て下さい」
駆けつけたのは、社長でも林専務でもなく、二人の男だった。
一人は見知らぬ若い屈強そうな男。もう一人は小肥りでハンチング帽をかぶっていた。あのタツノという男だ。
タツノは状況を見るなり、細い目をカッと見開き、若い男に叫んだ。
「遅かったか。ヤマガタ君。大至急、救急車を呼んでくれ」
若い男はタツノの部下のようだ。
タツノは駆けよって、有沼郁子の右手を掴み、太い声で言った。
「有沼郁子。傷害の現行犯で逮捕する」
由巳の頭の中で、自分の声にならない声が駆けめぐる。タツノという男は、警察の人だったのか。郁子の名前を知っているというのは、ずっと尾行していたということ? 刑事なら、どうしてもっと早く駆けつけてくれなかったの?
遠くからサイレンの音が近付いている。洋平の肩を強く抱き締めて「死んじゃだめ、死んじゃだめ」と由巳は叫び続ける。その声はとても自分のものとは思えない。遠くで、誰かが呪文を唱えているかのようだ。
腕に震動を感じた。洋平が痙攣を起こしているのだ。
由巳は、必死で洋平の名前を呼んだ。しかし、その叫びは彼女自身の耳にも聞こえない。目の前の光景に奥行きがなくなり、ゆっくりと走馬灯のように回りだしたかに思えた。
この感覚は......。
移った。
暗転して、自分がタカタ企画の事務所ではないところにいるのがわかる。
見慣れた部屋。
自分が、裕美に戻ったのだとわかった。見慣れた部屋、見慣れた光景。その中に異物が見える。
有沼郁子が立っている。しかも笑っている。
考える余裕はなかった。一刻も早く逃げなければ、郁子に殺される。
説得しようとしても無駄なのだ。彼女は狂っているのだから。
裕美は、反射的に踵を返した。そのまま、部屋を飛び出す。廊下に置かれていた掃除機にはげしく躓いた。痛みが走ったが、立ち止まるどころではない。背後を振り向く余裕さえなかったが、確かに郁子が追ってきていることは、物音と尋常ではない気配でわかる。
想像したのは、由巳が見た庖丁を握り締め吊りあがった目の郁子の姿だ。あんなものを二度と見たくない。
幼い頃から、誰かに追いかけられる夢をいく度となく見てきた。何に追いかけられていたのか。悪人。化物。
夢の中の状況とまるで同じだ。夢では、もう少しで追いつかれそうになる。そして、恐怖が頂点に達したときに目が醒める。
しかし、これは違う。醒める夢などではない。あくまで、これが裕美にとっての現実なのだ。
玄関から飛び出した。
階段へと向かう。
走りながら思いだしていた。このまま追いつかれて、郁子に階段から突き落されてしまうのか......。
それが裕美の運命なのだ。結果的には、由巳が洋平から聞かされた裕美の最期となんら変わることはない。
ということは、人の決められた運命は、どうあがいても変えることはできないということなのか。
走りながら、あたりを見回す。人の気配はない。やはり、目撃者も存在しないという事実も変わらない。
階段を駆け下りる。次の階への踊り場で走る速度が落ちた。そのとき、裕美の身体全体が回転したような気がした。左腕を郁子に掴まれ、バランスを失ったからだ。
転落した遺体......ということは、このまま突き落とされるのか......。
そういうことだったのか。
やはり、運命は変えることはできなかった。
すべての望みから見放されたのか......。
薄れゆく意識の中で、一瞬、裕美はそう思う。
両足が宙に浮かんだ。そのとき、身体が前のめりになり......落ちる......。
激しく咳が出た。急速に視界が戻ってくる。
助かった。殺されなかった......。
裕美は、目の前の光景が信じられなかった。
洋平が、有沼郁子の身体を裕美から引き離していたのだ。
奇跡が起った。夫が...洋平が...約束を守って駆けつけてくれたのだ。こんなことって。
有沼郁子は洋平に羽交い締めされたまま、ヒステリックに叫び続けている。
そこに、二人の男が駆け寄ってくるのが見えた。
男の一人は、タツノ。そしてもう一人は、タツノからヤマガタと呼ばれた若い男だ。そのまま裕美は意識を失っていった。
エピローグ
意識が戻り、裕美は自分が運命の時間から無事に生き延びることができたということを知った。
きわどい瞬間に裕美は救われたのだ。洋平があと数秒でも、あの階段の踊り場にたどり着けなかったら、裕美は突き落とされていただろうと聞かされた。
有沼郁子は、すべてを取り調べで話したそうだ。その日、最初から裕美を殺害するつもりで田村の家を訪ねたのだと。
タツノは、熊本県警の刑事だった。
実は、有沼郁子は二件の未解決の事件と何らかの関わりがあるのではないかという嫌疑でマークされていたということを、その龍野刑事に聞かされた。一件は、洋平と有沼郁子の小学校の同級生で、家族から失踪届けが出されている行方不明事件。もう一つは、郁子の知り合いのOLの不審死事件。裕美が郁子に洋平を紹介される前のことらしい。洋平はそのOLの存在は知らなかったが、郁子は洋平に彼女をやはり紹介しようとしていた。
そして、龍野刑事が有沼郁子の監視、尾行を重ねることで、自然と裕美の行動範囲とダブる結果になったようだ。由巳が顔を覚えなければ、裕美には龍野刑事の存在は目に止まらなかったかもしれないのだ。
郁子の動機は、洋平への愛情だということだった。中学生の頃、洋平のことが好きになり、一度、洋平に告白したこともあったらしい。だが、洋平は郁子のことを異性として意識していたわけではない。結果的に洋平はその告白を気にも留めなかった。それから、郁子の洋平への愛情はゆがんだ形に変貌していったのだ。まるで母親のような視点から注がれ、それも過激で過剰な愛情として......。
意識をとりもどした裕美が、まず気がかりだったのは、洋平のことだ。洋平は郁子に刺された......確か洋平は由巳の身代わりになったのではないか......。
「大丈夫か」と案じる洋平に、裕美は何度もうなずきながら言った。
「あなたこそ、何ともないのね? ほんとうに......」と洋平の手を握った。
朝から、必ず早く帰宅してくれと裕美は洋平に頼み、約束もしてくれたが、本当にそれが実現して自分を救ってくれるとは......。
「ほんとうに......約束通り、早く帰って来てくれたのね。ありがとう」
「約束を思い出したんだよ」少しはにかむように洋平は言った。「実は、裕美が早く帰ってきてほしいと言ったこと、夕方まで忘れていたんだ。すると、急に胸の辺りに猛烈な痛みが走った。何故、そんなに胸が痛んだのか、わからない。ただ、そのとき、裕美のことを思いだした。はっきりと心に焼きつけられるように、裕美のことが見えたんだ。そしてね、間に合う、今なら間に合う、無性にそう思ったんだ。あれが、ムシの知らせというんだろうな」
その洋平の言葉に裕美は思う。それは、洋平が未来の自分からの知らせを受けることができたということなのではないかと。
おそらく洋平は裕美を失ったとき、どれだけ自分が裕美を必要としていたのかを知ったのだ。そして郁子に胸を刺され、生死を分ける瞬間を迎えたからこそ、過去の自分に知らせることができたのではないか。何故とか、どうしてといった、具体的なものではなく、裕美を救いたいという強い衝動だけが、時を遡る力になったのではないか。刺された胸の痛みとともに......。
きっと、そうだ。
あのときのことを何度も思い返す裕美のなかで、洋平への愛おしさが深まっていった。
あれから、裕美が目覚めても中野由巳になっているという転移現象は起こらない。
あの現象は、殺されそうになった裕美の心が瞬間的に生みだした妄想だったのかもしれないとまで考える。
いや、確かに未来の中野由巳の心と、自分は繋がっていたのだ。
どうして、そんなことが起こったというのか......。
裕美は、その理由をいろいろと想像してみた。生死の境で、意識が危機を防ぐために時を超えたのだ、とか、思考があまりに由巳と似ていたから時間を隔てていても共鳴しあったのだ、とか。あるいは日常で感じていたストレスがあのような現象をもたらしたのだ、とか......。
しかし、どれが間違いで、どれが正解なのか、今となってはわかるはずもない。
ただ一つ言えるのは、その現象のおかげで、裕美は命びろいしたということなのだ。
裕美は生きている。そして有沼郁子は逮捕され、その罪をどのようにして償うのかの判決を待っているところだ。これから時の流れの中では、いくつもの大きな変化が生じることを裕美は予感していた。
裕美は、今では由巳の気楽な独身生活を羨ましいと思うことはない。洋平も大切な何かに突然気づいてくれたような気がする。
これから裕美は、洋平と亜美と穏かな生活を続けていくことになるだろう。
中野由巳は有沼郁子と出会うこともなく、郁子が由巳のことを洋平に紹介することもないだろう。
少しずつ......。
少しずつ、裕美は自分が中野由巳でもあったという記憶を失っていく。
中野由巳の未来で起こったことは、裕美の未来では発生しない未来なのだ。発生しない未来の記憶など、裕美の心の中に存在しなくなるのは当然のことだ。
数年が経過した。
ある日の夕方、田村裕美は、夫の洋平、娘の亜美とともに上通町を訪れていた。洋平の高校時代の友人がレストランをオープンするという案内状をもらったのだ。家族三人で外食するというのは、久しぶりにことでもあった。
亜美は、このイベントが本当に楽しみのようで、洋平の腕にぶら下がり、そのままスキップを踏んだりしている。
だが、案内状の地図がわかりにくいのか、洋平は何度か立ち止る。
「地図では確かにこの辺のはずなんだがな。タバコ屋から入った横丁を抜けたあたりだから」
裕美も店の名前を確認して、周囲を見回した。そして懐かしい気持ちになる。
――ここは来たことがある。
裕美は、そう思った。通ったことはない場所なのに。
既視感(デジャヴ)というんだっけ。いや、確かに一度、ここに足を運んでいる。いつのことだったかは思い出せないが。
そして左のビルが......何故か気になった。何故気になるのか、理由はわからないままだ。
そのビルから、若い女性がファイルケースを持って出てきた。首から吊した名札に「中野由巳」と記されているのだが、裕美にはその文字は小さすぎて読むことができない。
二人はすれ違う。
それは一瞬の邂逅だった。
「ママ! お店、わかったって。こっちだよ。早く入ろう」
亜美にそう呼びかけられて、裕美は我に返った。亜美が手を振っている。
もう一度、裕美は何か気になるものを感じて確認するように振り返った。しかし、その若い女性の姿は、すでに裕美の視界からは消えていた。
(了)




