月に頼る。
十月某日 曇
今夜は、中秋の名月だったことを、パジャマに着替えてから気づく。
あたたかな夜である。
パジャマのまま外に出て、植え込みの間に身を隠し、月をさがす。
ない。
周囲の家の植え込みから植え込みへと、忍者のごとく飛んで身を隠しつつ、さがし続ける。
でも、月はみつからない。
五分ほどさがしたが結局夜空のどこにも月はみつからなかったので、家に戻る。
寝しなに、お手洗いの窓を小さく開けたら、そこに月が。
塀と塀の間の狭い隙間をぬってとても見えにくい角度の上空に、月はまるまると輝いていた。

十月某日 晴
コロナが始まってから初めてのオンライン飲み会。
「もうオンライン飲み会はやりつくして、すっかり飽きた」という知人がほとんどである中、ようやく学生時代の友人からの誘いがあったのである。
「すっかり飽きた」と語る人たちは、もちろん誰もわたしをオンライン飲み会には誘ってくれなかった。
友人たちに感謝しつつ、中秋の名月がお手洗いの小さな窓からしか見えなかった話などを、モニターの画面越しにする。
「で、オンライン飲み会って何回くらいした?」
中秋の名月の話を枕にし、恨みがましい感じをかもし出さないよう注意しながら、聞いてみる。
「三回」
「十回以上かな」
「昨日もオンラインお茶会した」
との答えに、顔がこわばらないよう限りなく集中しながら、
「中秋の名月はきれいだったよ」
と、一つ覚えのように、月に頼った話題を語り続ける。
十月某日 曇
何か気が晴れないので(友だちが少ないあるいはほとんど皆無という事実に向き合った時の、いつもの気鬱)、発作的にネットで生筋子を注文した、その生筋子が、宅配便で届く。
筋をばらし、掃除をし、いくらの状態になったものを、薄い塩水に漬ける。
集中を要する作業が、晴れない気持ちをしずめてくれる。
山ほどの塩いくらを作りおえ、満足。
このように、気の晴れないことを、生筋子や、マグロのかたまりや、近所の猫を呪うことで解決してきた自分の人生をふりかえり、しばしぼんやり。
どう考えても、そのような物質的あるいは他罰的な解決を選んできた自分が、極楽に行ける気がしない。
夕飯に、これでもかというくらいのいくらを盛ったどんぶり飯を食べる。勢いがつき、極楽がなんぼのもんじゃ、とつぶやきながら、就寝。

十月某日 雨
フォンデュを食べている人を眺めつつ、祭から帰ってこない幼い弟を心配しつつ、この前オンライン飲み会をおこなった友だちの一人と同じ寝台に横たわっているという、多視点的な夢をみる。
ちなみに、横たわっている寝台は、ふつうの寝台の半分の幅の簡易ベッドで、友だちとわたしは、頭と足が互いに反対になるように寝ている。
その、横たわっている自分と友だちを、もう一人のわたしが、お手洗いの窓越しの上空から、見ている。
目覚めてから、フォンデュのつくりかたを検索する。「フォンデュでコロナは感染するか」という記事がトップにあり、じっくりと読む。注意深くふるまえば、フォンデュで感染は、しないもよう。