東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第234回

新手の地獄。

八月某日 晴
 新型コロナのため、この夏はクーラーをつけっぱなしにせず、窓をよく開けて換気をしている。いきおい、今まであまり聞いていなかった外の音を、よく聞くようになっている。
 先々週のはじめには、今年はじめてのニイニイゼミの声を聞いた。
 その数日後には、今年はじめてのカナカナ。
 今日は今年はじめてのツクツクホウシ。
 梅雨が長かったせいか、いつもは鳴き始めの開始がもっとばらばらなのに、いっせいにいくつかの種類のセミが鳴き始めている。
 午後には、近所のどこからか、男性の歌声。リズムも音程も非常に不安定な「ルビーの指環」につづいて、「ボヘミアン・ラプソディ(らしき曲)」。
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八月某日 晴
 午後にまた、近所の男性の歌声。
 リズムも音程も昨日よりさらに不安定な「ルビーの指環」につづいて、「舟唄」「What's Going On(たぶん)」、「誰も寝てはならぬ(おそらく)」、最後に「およげ!たいやきくん」を、かなり朗々と。

八月某日 晴
 午後にまた、近所の男性の歌声。
「ルビーの指環」と、次には女性も一緒に声をそろえて歌っている「HandClap(たぶんおそらく)」を、長々と。
どうやら踊ってもいるらしく、かすかな振動音も聞こえてくる。
 ともかく始まりは「ルビーの指環」であり、その歌声が始まると、近所のセミはほぼすべて鳴くのをやめるという強力な歌声なのであった。

八月某日 晴
 知人が、メールで「地獄の19分トレーニング」という動画を教えてくれる。
 地獄、という言葉に怖気づいて、いったん見始めた画面を、すぐさま閉じる。
 午後、原稿が進まないでいる合間に、ついまた「地獄の19分トレーニング」の動画を開いてしまう。
 そのうえ、つい一緒に「トレーニング」を始めてしまう。
 しかし、最初の一分半で脱落する。
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八月某日 晴
「地獄の19分トレーニング」のことを、違う知人にメールしたら、トレーニング関係の動画を十本、メールで教えてくれる。
「地獄」関係が三本、「楽」と銘打ってあるものが六本、そして最後は「HandClap」三分バージョン。
 それぞれのさわりをほんの少しおこなってみたが、すべて「地獄」である。
 新型コロナ感染が始まって以来、日本にはこのような新手の「地獄」がたくさん出現したのかと思うと、感慨無量。

  • 第235回  青魚の懸案。
  • 第234回  新手の地獄。
  • 第233回  じゃがりこ期。
  • 第232回  コロシアム建造。
  • 第231回  活発な生物界。
  • 第230回  幸福物質。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)

作家。1958年、東京生まれ。著書に、『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『七夜物語』『猫を拾いに』ほか多数。「東京日記」シリーズは、『卵一個ぶんのお祝い。』『ほかに踊りを知らない。』『ナマズの幸運。』『不良になりました。』ほか、最新刊『赤いゾンビ、青いゾンビ』も好評発売中。

平凡社

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