東京日記

川上弘美 絵 門馬則雄
第211回

リスボンの夜。

九月某日 晴

 リスボンにいる。

 生まれてはじめてのリスボンである。

 昨日までは、仕事でパリにいた。仕事が終わってからリスボンに移動し、ロンドンに住んでいる友人と現地リスボンで集合。という計画である。

 パリとロンドンから合流。

 という、今までの人生にはまったくなかった「グローバル」な響きに、おののく。

 おののきながら、現地のスターバックスで待ち合わせ。

 スターバックスは不得手なのだが、直近では二年前に吉祥寺のスターバックスで予習しているので(『東京日記5 赤いゾンビ、青いゾンビ。』117頁参照)、大丈夫のはずだ。メニューはポルトガル語で書いてあるから、すらすら注文はできないけれど、どうせ日本語で書いてあってもすらすら注文できないのだから、かまわない。

 じきに友人が来る。リスボンだねえ。感極まって言うと、リスボンだよほんとに、と、友人も答えてくれる。

211a.gif

 

九月某日 晴

 リスボンは暑い。でも、東京だって今年は猛暑だったのだと、リスボンに対抗心を燃やす。

 バス停で隣あったおねえさんに話しかけられる。

 ――どこから来ました?

 ――パリから来ました。ロンドンから来ました。東京から来ました。

 二人しかいないのに、全部で三か所の町の名前を言い、おねえさんにいぶかしまれる。

 ――暑いですね。

――そうですね、年々リスボンは暑くなります、今年の夏の最高気温は42度でした。

――えと、東京の最高は、37度でした。

 帰って天気予報を見たら、今日のリスボンは37度。東京、まったくリスボンにかなわず。

 

九月某日 晴

 リスボン滞在四日め。滞在しているのは、アパート形式の部屋。朝起きて洗濯をし、その間にシャワーを浴び、部屋を出て午前中散歩をし、持参のお弁当(サンドイッチと果物)を食べ、さらに散歩をしてから市場で買い物をして帰り、夕飯のしたくをして部屋で食べて飲む。

 という、「散歩」を「仕事」に置き換えれば、東京とほとんど違わない生活を毎日している。

 リスボンだよね、ここ。

 友人に聞いてみる。

 うん、リスボンだよ、物価も安いし、暑いし。

 と、答えがくる。

 たしかに、物価は非常に安い。昨日も、市場で二ユーロのブレスレットを買った。言葉が通じなかったのだけれど、おじさんが指で「二」の形をつくるので、「二十?」「二百?」と聞き返したら、無言で「二」の形を強調したので、掛け値なしの二ユーロだとわかったのだった。ちなみに、ワインは一本三ユーロ、蛸はまるごと一匹で十二ユーロ、はまぐり一キロは五ユーロ。

211b.gif

 

九月某日 晴

 いよいよリスボン滞在も、明日まで。

 最後の夜なので、連絡船に乗って対岸まで行き、魚介のお店で魚介をたらふく食べる。

 えび、かに、たこ、いか、かめのて、などを茹でたものを、二人無言で食べつづける。今日も暑い日で、昼間の気温は36度だったのだけれど、茹でた魚介類をひたすら食べているうちに、どんどん体が冷えてくる。冷えたまま、ふたたび連絡船に乗ってリスボン市街まで帰る。

船からおりたところで、見て、と、友人が言うので、さしだされたてのひらを見たら、えびのひげが、ティッシュの上に、そっとのせてある。ひげはピンクで、長い。

長いね。小さな声で言うと、長いよね、と、友人も小さな声で答える。ひげ、日本のえびのひげと、同じ感じだね。うん、ロンドンのえびのひげも、こんな感じ。

地下鉄に乗り、駅を出たところの広場でベンチに座り、街角で歌っているおじさんたちの歌声を聞き、坂道をのぼって部屋へと帰る。明日はロンドンだね。友人に言う。うん、そっちも明日は東京だね。友人も答える。えびのひげ、大切にしてね。いや、あれ、歩いてるうちに、こなごなになっちゃった。そか。そだよ。

リスボンの夜が、更けてゆく。おじさんたちの歌が、遠くから聞こえてくる。体は、まだまだ冷えたままだ。

  • 第212回  チャーリイとの日々。
  • 第211回  リスボンの夜。
  • 第210回  おそるべき真実。
  • 第209回  ひとすじの赤。
  • 第208回  禁忌と欲望。
  • 第207回  五月病のいろいろ。
  • 第206回  「ステキ」排斥。
  • 第205回  近ごろの若者。
  • 第204回  微小なカエル。
  • 第203回  てのひらサイズ。
著者略歴

川上弘美(かわかみ・ひろみ)

作家。1958年、東京生まれ。著書に、『センセイの鞄』『ニシノユキヒコの恋と冒険』『七夜物語』『猫を拾いに』ほか多数。「東京日記」シリーズは、『卵一個ぶんのお祝い。』『ほかに踊りを知らない。』『ナマズの幸運。』『不良になりました。』ほか、最新刊『赤いゾンビ、青いゾンビ』も好評発売中。

平凡社

Copyright (c) 2008 Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo All rights reserved.